1.新領主様
新しい領主様が来るらしい。
エーデンベルク領はここ数日そんな話題で持ちきりだった。
ここ数年病床に臥せっていた領主ヨーゼフが先日とうとうこの世を去り、その妻であるローゼは葬儀が終わるやさっさと故郷に帰ってしまった。ずっと不仲だったのは領民全員が知っているが、10年以上連れ添った夫が死んだというのに悲しげな様子すら見せず、それどころか晴れ晴れとした顔で去っていったローゼに対していい感情を持つ者は誰一人いなかった。
とはいえ、ヨーゼフとローゼの間に子供がいないことは領民にとっては不安材料だった。後継者がいないエーデンベルク領は今後一体どうなってしまうのかと皆不安に思っていたのだ。一子供が生まれず後継者のいなくなった領地は、普通であれば他の領地の領主一族の次男や三男が運営を引き継ぐ。が、こんな水晶ランクの領地を治めたがるような人などいないだろう。良くて中央政府からの領主派遣、悪くて近隣領地への吸収合併。その二つしか未来予想図が見えなかった。
そんな矢先に飛び込んできたのが前述の話題である。一体どんな人が来るのかと領民たちはざわついていた。
「なんでも、ヨーゼフ様が王都で作った子供らしいわよ」
「え、ってことは15歳くらい? ヨーゼフ様が王都に行ってたのってそれくらい前でしょう?」
「そんな子供にエーデンベルクの運営なんてできるのかしらねぇ」
「王都育ちだから教養はあるんでしょうけど……」
母たちが井戸端会議をしているのを横目に、ネイ・モリエンテスはせっせと畑の草むしりをしていた。そんな話をする暇があったら手伝ってよ、と思いながら。
(みんながそんなんだからエーデンベルクはいつまでも水晶ランクなのよ……)
ネイが物心ついた頃から、エーデンベルク亮はずっと水晶ランクの領地だった。両親や近所の大人たちはみんなそれを領主一族――エーデンベルク家の手腕のせいにしているが、ネイはどうしてもそうだとは思えなかった。
確かに先代ヨーゼフの運営手腕はお世辞にもいいとは言えなかった。だがそれにしても、みんなやる気がないのだ。すべて領主のせいにするばかりで、仕事を頑張って領地の繁栄に貢献しようという気概がない。たとえ領地運営が下手でも、領民が頑張ればまだランク向上の可能性もあるのに。この状況に胡坐をかいている大人たちを見るにつけ、ネイは「あんな大人にはなりたくない」とつくづく思うのだった。
カランカラン、と鐘の音がした。エーデンベルク領の入り口である正門に設置されている鐘の音だ。
普段は閉じている正門は、外部から誰かが入ってくるときと内部から誰かが出かけるときのみ開く。そもそも領民はほとんどエーデンベルク領から出ないし、こんな辺境の最底辺領地にわざわざ足を運ぶような人間も稀だ。要するにほとんど開かない。だからこそ、滅多に鳴らない鐘の音が聞こえたことに領民たちは何事かとそちらに顔を向けた。
「カルロスさんが帰ってきたぞー!」
門番が声を張り上げる。領民たちが仕事を放り投げて一気に門のほうへと駆けて行った。平々凡々な何も変わり映えのない生活を送る領民たちにとって、これは物珍しい大きな刺激だ。とはいえ、ネイも気になるものは気になる。母たちに続いて駆けだした。
エーデンベルク家の筆頭執事であるカルロスはヨーゼフの葬儀を済ませるとすぐに新領主を迎えに王都へと出立していた。そして、新領主を連れて戻るという知らせが先日届いていた。
つまり、今門から入ってきた馬車にはカルロスと新領主が乗っている。それがみんな分かっているからこうして群がっているというわけだ。
「おい、新領主様が見えるか?」
「いや、カーテンがかかってて見えねえなぁ」
「ちょっとあんたたちどいてよ、邪魔で見えないのよ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら馬車に並行して走る領民たち。男たちが前のほうにいるせいで女性陣には馬車の装飾部分しか見えない。ネイも同じである。
やがて馬車はエーデンベルク領最奥部にある領主の屋敷の前で止まる。馬車の扉が開き、先に出てきたのはカルロスだ。
「お手を」
うやうやしく馬車の中へと手を差し伸べるカルロス。領民たちが固唾を飲んで見守る中、白い手がカルロスの手を取った。そのままゆっくりと降りてくる新しい領主を見て、領民たちはざわめいた。
馬車から降りてきたのは、華奢な身体つきの少女だった。
ヨーゼフと同じ青い瞳を眩しげに細め、おそらく母譲りであろう赤みがかった髪を鬱陶しげに後ろにかきあげる。背は150センチそこそこだろう。
「え、女の子……?」
隣に立っていた兄がぼそっと呟いたのがネイの耳に届く。兄は声が大きい質だから、少女にも聞こえているだろう。少女が困ったような表情を浮かべた。
「……歓迎されてないかあ」
複雑そうな顔で呟く少女。そう思ってしまうのも無理はない。
領民たちは皆、新領主は男だとばかり思っていたのだ。一般的にどこの領地も領主の座は男子が継いでいるし、エーデンベルク領も同様だった。ところが蓋を開けてみればやってきたのはまだ10代半ばの少女。歓迎していないというよりも予想外の事実に混乱しているのだが、それは少女のあずかり知らないことだろう。
「皆驚いているだけです。ヨーゼフ様は王都にお子がいることを公にはしていなかったものですから」
カルロスがそうフォローを入れているが、あまり意味はないだろう。少女は何とも言えない顔で小さく頷いていた。
「あ、あの!」
思わずネイは声を上げていた。領民たちの視線が一斉に集まって一瞬身体がこわばるが、声を上げた以上言わなければ。
「お名前を……お名前を教えてください、領主様」
このエーデンベルク領には自分と同世代の少女はほとんどいない。そもそもの人口が少ないし、ネイが生まれた頃はちょうど不作が続いていてどこの家も子供を作る余裕がなかったのだ。それに加えて数少ない同世代も年上も男子ばかり。幼い頃のネイの遊び相手はもっぱら同世代男子と少し年の離れた男子たちだった。だから、同性の同世代が増えたことが純粋に嬉しかったのだ。
「――リーゼロッテ。リーゼロッテ・エーデンベルク」
少女は――リーゼロッテはやや照れたようにそう返してくれる。凛としたソプラノボイスに、ネイは嬉しくなって自分も名乗った。
「わ、私はネイ……ネイ・モリエンテスです! よろしくお願いします、リーゼロッテ様」
不思議な高揚感があった。この人が何かを変えてくれる、そんな予感がした。
リーゼロッテとネイ。
それが、将来エーデンベルク領を担う少女たちの邂逅だった。