79 命の口付け
酷い――。
倒れているノイルは、あまりに凄惨な姿だった。身体の各所からは多量の血を流し、酷たらしい痣だらけとなっている。
片腕と片脚はあらぬ方向に折れ曲がり、まるで乱暴に投げ捨てられた人形のようだ。
一体どれ程痛めつけられたのか、意識は――息はあるのか。
何故彼がこんな目に遭わなければいけないのか――全て自分のせいだ。
「私が……私のせいで……」
自分が外に出たいと願ったから。それが間違いだったのだ。彼一人だけでも逃げてもらうべきだった。神天聖国や自分の生い立ちなど話さず、ただ彼の脱出を手伝うだけで良かったのだ。
そうすれば、ノイルだけならば、無事に帰すことができたかもしれない。
けれど、聞いて欲しかった。救って欲しかった。初めて出会った普通の人と――一緒に居るのがどうしようもなく楽しかった。
神天聖国の――神子のいざこざに巻き込まれたのだと知っても、それでも優しく伸ばされたあの手の温かさに、縋ってしまった。
その結果が、これだ。
彼女の責任ではない。たとえテセアが『浮遊都市』からの脱出を望まなかったとしても、ノイルだけを逃がす事を考えたとしても、それは不可能だっただろう。
むしろ彼女が脱出を願い、行動したからこそ、後一歩の所まで辿り着けた。誰もテセアを責める事などしない。当然、ノイル自身も。
しかし、テセア自身は強い自責の念に駆られていた。
頭を撫でてくれた手が無惨に折れ曲がり、優しげな笑みを向けてくれた顔は血にまみれ床に伏せられている。
ノイルの現状は、彼女の心を打ち砕くには充分に過ぎた。
恐々とした面持ちで、テセアは僅かな希望に縋り《解析》を発動させる。
「生き、てる……」
その事実が、彼女にとってどれ程大きな事だったか。
ノイルには、まだ辛うじて息があった。
「ッ……!」
テセアの身体は自然に動いた。
今ならばまだ救える。彼を助けることができる。
信者の中には治癒の魔法を扱える者も存在する。誰でもいい。誰でもいいから、ノイルを治療してもらうのだ。
「あぁ……でも、こ、こんな……こんなの……」
ノイルへと駆け寄り、血溜まりで汚れる事も厭わず傍へと寄り添った彼女は、しかし彼に触れる事はできなかった。
《解析》から読み取れるノイルの状態は――全身の打撲、裂傷、火傷、何箇所もの骨折、中には骨が砕け散っている所もある。内臓の損傷も酷い。無事である部分などない。
半死半生、下手に動かす事もできなかった。
しかし事態は一刻を争う上、このまま置いていく事などできない。
「どう、したら……ど、どうしよう……あぁ……酷い……だめ……ノイル……あ、ぁ……助けなきゃ……助けるのぉ!」
テセアは酷く取り乱す。半狂乱に――パニックへと陥り、嗚咽を零し、ただ子供のように声を上げた。
無理もないだろう。
自責、悔恨、悲しみ、恐怖、絶望、焦燥、様々な負の感情が彼女の精神を掻き乱す。
常人なら耐え難い程の特殊な環境に置かれたにもかかわらず、それでも心が折れていなかったテセアだが、彼女はまだ若く外の世界に触れることもなかった為、精神の成熟は遅れている。
人の成長に必要なのは、人との繋がりだ。
まともな人間関係など築けるはずもかったテセアの心は、一人孤独と苦痛、理不尽な境遇に抗う強さを持っていたが、反面酷く脆く崩れやすい。
心を閉ざしてしまっていれば、諦めてしまっていれば、これ程のショックは受けなかったかもしれない。
しかしテセアは狂った環境に居ながらも、人であろうとした。母からのメッセージを受け取り、神天聖国――アイゾンの道具であろうとせず、強く生きようとしたのだ。
心を殺さず、諦めることもせず、毎日を過ごした。
そんな痛ましいとすら言える努力が、皮肉にも今彼女の心を制御できぬ程に乱す。
初めての仲間――信頼できる相手の悲痛な姿は、テセアから冷静な判断を奪い取る。
「はっ、はっ、はっ……」
過呼吸に陥りそうな程に呼吸は乱れ、瞳からは涙が滔々と流れた。どうすることもできず、ただいやいやと、幼子のように頭を振る。
パニックのあまり、目の前が暗くなり、意識すら遠くなり始めた時だった。
「………………ぁ」
「……え」
僅かな、微かな――殆ど音にすらなっていない程の声が、テセアの耳に届く。
ノイルの折れていない方の腕が僅かに持ち上げられ、彼女は目を見開いた。
「…………に……」
震える指先がある一点を指す。
「……げ…………」
そこは、アリスの乗った小型飛空艇が脱出した、外への出口だった。
ノイルの手が、再び力なく落ちる。
ああ……彼は、彼はこんな状態でも、まだ私を――逃がそうとしていた。
責めるでも、助けてくれと頼むわけでもなく、ただ、逃げろと。
この状態で置いていかれれば、間違いなく自分は命を落とすというのに。
おかしい、狂っている。そんなのは絶対に間違っている。あなたはただ巻き込まれただけなのだ。平穏に生きられたかもしれない人生を奪われ、理不尽に傷つけられ、命すらも失いかけている。
それでもまだ――自分を救おうと、してくれるのか。
ありがとう、と彼は言っていた。
巻き込まれたのだと知って、ありがとう、と。
『封魂珠』や妹との出逢いが、彼に何を齎したのかはわからない。もしかしたら、良い変化を与えたのかもしれない。
けれど、それも命を落としてしまえば終わりなのだ。
なのに――
「しっかり、しなきゃ……」
テセアは一度、自分の頬を両手で思い切り叩いた。
混乱は消えていた。
おかしな人だ。本当におかしな人だ。まともじゃない。絶対に変だ。誰だって痛いのも苦しいのも嫌で、死ぬのは恐ろしいはずだ。
事情があるとはいえ、出会ってそれ程経っていない人のために傷ついて、死の淵に立たされてなお、自分以外を優先するなど絶対におかしい。
そして、こんなにも優しい人が命を奪われるなど――おかしいにも程がある。
彼は生きなければならない。ここで、その生を終わらせていいような人間ではない。
決意と共に、テセアは自分にできる事を模索する。
そうして、一つの結論に辿り着いた。
それは新たな魔装を発現させること。傷を癒やし、命を繋ぐ――そんな魔装を今この場で生み出すこと。
だが、魔装は決して自由に能力を生み出せるわけではない。
だから――テセアは祈った。
お願いします。この人を助けられる力を、と。
それは、神を信じていなかったテセアの初めての心からの祈りだった。
しかしその真摯で誠実な祈りは――
「おや、お目覚めでしたか、神子様」
独善的でエゴの塊のような信仰心を持つ男の声で、遮られた。
テセアの身体に緊張が奔り、身が強張る。
愕然とした面持ちで、彼女は振り返った。
「アイゾン……あなたどうして……」
部屋へと入って来たのは一体の機械兵。
だが――《解析》を通して映るその機体には、アイゾンの魂が入り込んでいた。
アイゾンはノイルを背に庇うように構えたテセアへと、悠然と歩み寄りながら両手を広げる。
「ああ、五代目様はご存知ではなかったですね。私はその昔、『分魂珠』という『神具』を使用させていただき、魂をいくつかに分けたのですよ」
「そんな、ことが……」
「可能だったのです! いやはや流石はリュメルヘルク様がお創りになられた至高の『神具』。残念なことに一度で消失してしまいましたが……その際に私は魂の一つを肉の身体に、それ以外をこの素晴らしき器へと移したのです!」
アイゾンの魂がまともな状態ではなかった最たる理由を、テセアはたった今知ることとなった。
「どうして、そんなことを……」
「保険、ですな。万が一リュメルヘルク様の一番の理解者である私の身に何かがあれば、その偉大なる神意を紐解く存在など、おりませんから。絶対に何があろうと滅びぬ身体が必要だったのです。しかしそれと同時に人としての身も、神子様との子を残すためには必須でした。そこで、魂を分割したのですよ」
「……私に、教えなかったのは?」
「はて、必要のない情報でしょう? お教えする意味がありません」
アイゾンはテセアの前で立ち止まり、当然かのようにそう言った。
これまでテセアが実際に見た事のあった機械兵は一体のみだ。それにはアイゾンの魂など宿ってはいなかった。
知っていれば対処ができたかもしれない。
しかしこの男は、《解析》に必要なこと以外は、一切テセアに教えてはいなかったのだ。
やはりアイゾンにとって、自分以外は所詮は道具でしかないのだと、テセアは改めて思い知らされ、同時に激しい憎悪が心を焼いた。
「しかし……神子様、何故その男の傍に? もしやまだ洗脳が完全に解けてはいないのでしょうか?」
「……洗脳?」
テセアにはアイゾンの言葉の意味がまるで理解できない。できるはずがなかった。
「ああ、そこの下賤な男に、神子様は洗脳されていたのですよ。私へと刃を突き立て、あろうことかこの神域から逃げ出そうとしておりました。おかげで私は肉の身体と魂を失ってしまいましたが……神子様がご無事で何よりです」
「……は?」
この男は、一体何を言っているのだ。
何もかもを、自分の都合の良いように解釈している。テセアは言いようのない悍けを感じた。
しかしそれならば、まだ言い逃れはできる。そういうことにしてしまえば、アイゾンはこの場で自分に危害を加えることはないだろう。
自分だけならば、切り抜けられる――
「……私は、洗脳なんてされてない」
しかし、テセアは真っ直ぐにアイゾンを睨みつけ、そう言った。
ノイルを見捨てるなど、ありえない。
「おお、それは重畳」
アイゾンは決意を込めたテセアの言葉を再び都合良く解釈したのか、彼女の言葉の意味を、まるで理解していなかった。
「ならば、そこからお離れください。その下衆は救いようのない大罪人ですが、肉体は上物です。この素晴らしき身体でも腹立たしい事に中々に粘られましてな。おまけにどういうわけか、その身にリュメルヘルク様のお力を宿している。どうせ下賤な手を用いたのでしょうが……私がその身体を貰い受ける事で、神もお喜びになることでしょう」
べらべらと、無機質な声でアイゾンは続ける。
「肉の身体はやはり必要ですからな。ぎりぎりで生かしておきました。死なれるとすぐに身体が使えなくなりますので、魂は肉体が生きている内に移さねば。今から信者の元に連れて行き、損傷を修復させるつもりです。そうですな……神子様もそろそろ子を宿すには問題ない頃でしょう。私がその男の肉体を手に入れ次第、新たな神子様を誕生させる儀式に取り掛かりましょうか。リュメルヘルク様のお力を宿した身体ならば、次の神子様は素晴らしき力をお持ちになる筈です。実に、楽しみですね」
テセアには、表情などない機械兵の顔が、酷く醜く醜悪に歪んでいるように見えた。
吐き気を堪え、テセアは頭を振ると、再びアイゾンを睨みつける。
「違う、私は最初から洗脳なんてされてないって言ったの! 私は私の意志で、ここから逃げ出そうとしたの! あんたみたいなクソ野郎に、ノイルは渡さない!!」
両手を広げ、テセアはアイゾンの前に立つ。
一歩も引くことなく、機械兵の無機質な顔を見上げ、はっきりと自分の意志を示す。
「神子様……やはりまだ洗脳が解けてはいないようですね。あまり困らせないで下さい。今は少し立て込んでいるのです。愚かな侵入者がおりましてな……まあ私が既に処理はしているでしょうが」
侵入者という言葉が、気にはなった。
しかし今はこの男からノイルを守り抜く事が先決だ。
彼には絶対に触れさせはしない。
ノイルを庇い、挑むように視線を向けるテセアをアイゾンは少しの間じっと見ていたが、やがて疲れたような声を発した。
「ふむ……自由を与え過ぎるとこういった時に面倒だな。やはり不要な部位は切り落とす必要がある、か」
そして、まるで駄々っ子を諭すようにテセアへと声をかける。
「こうなっては仕方ありません。神子様、四肢を落とさせていただきます。なに、大丈夫ですよ。手足がなくとも、神子としての役割は果たせますので」
テセアの背に、ゾッと冷たいものが走り抜けた。力が抜け、足が竦み、身体が震えそうになる。それでも彼女は気丈にも逃げ出したりはしなかった。
テセアへと、ゆっくりとアイゾンの――機械兵の腕が伸ばされる。
「ッ……!」
「……な」
彼女が悔しさと怒りに歯を噛み締め、目を閉じようとした瞬間だった。
機械兵の顔に、小さな瓶のような物が飛び、小規模な爆発を起こす。当然アイゾンは何の痛痒も感じてはいないが――テセアは驚き振り返った。
「……る、な……」
「ノイル……?」
未だ倒れたままのノイルが、しかしそれでも焦点の定まらない瞳でアイゾンを睨みつけている。
「……しあ、ら……に……さ……わ……るな……」
テセアの瞳から涙が溢れた。
彼はもう、思考も意識も判然とはしていない。
テセアの事すらも、はっきりと認識できてはいなかった。
それでも、動く事さえままならない筈なのに、まだアイゾンへと立ち向かおうとしている。
もういい。もういいよ。
そう言ってあげたい。
けれど、そんなことはできない。
彼はまだ戦おうとしているのに、何故そんな事が言えるだろうか。
どうして自分が先に諦める事ができるだろうか。
無茶でも無謀でもいい。ノイルを守るために、自分も命を懸けるのだ。
テセアは、機械兵へと鋭い視線を向けた。
その、瞬間だった――
「ああああああああああああああああああッ!!!!」
獣の如き咆哮を上げ、巨大な漆黒の鎧がアイゾンを横合いから殴り飛ばす。
機械兵よりも一回り程大きいそれに凄まじい勢いで吹き飛ばされたアイゾンは、球体状の小型飛空艇の一つを突き抜け、そのまま壁に叩きつけられた。
目を見開くテセアの前に突如現れた漆黒の大鎧は、一瞬の間も置かず吹き飛んだアイゾンへと追撃をかける。
「ああッ! うあああああッ!! あああああああああああッ!!!!」
狂乱したかのような――想像を絶する憤怒をぶつけるかの如き叫びを上げながら、壁に押し付つけ、何度も何度も、その拳で殴りつける。
「……調子に乗るなよ、冒涜者めがぁッ!!」
しかし次の瞬間には、機械兵の掌から鋭い光線のような物が発射され、押さえつけていた漆黒の鎧の片腕を切り飛ばした。
しかし恐ろしいのは、その威力ではない。
あれ程の攻撃を受け、殆ど傷がついていない頑強さだ。
「がああああああああああああッ!!」
「ぬぅッ!?」
腕を飛ばされた漆黒の鎧は、しかしそれを意に介した様子もなく、咆哮と共に機械兵の頭を壁に押し込むように蹴りを放った。
全く止まらない。まるで怒り狂った獣のような戦い方だ。
「ノイル……」
「えっ?」
嵐のような戦いを呆然と眺めていたテセアは、ふいにすぐ側から聞こえた声に驚きふりかえる。
すると、そこにはいつの間にか明るい茶色の髪の女性が居た。
倒れたノイルへと手を伸ばす彼女を、テセアは焦り止める。
「待って! 動かしちゃダメ!!」
「…………大丈夫」
しかし、女性は慈しむように優しく彼の体を仰向けにすると、頭を自らの膝に乗せた。
「私がね、ノイルのことは一番わかってるの」
「え……?」
「ノイルはね、私を置いて死んだりしないんだ。だからね、大丈夫」
彼女は穏やかに微笑むと、側に置かれた荷物から不思議な輝きを放つ親指程の小瓶を取り出し、栓を開ける。
淡いようで、鮮烈なような――そんな矛盾した光を放つ液体。それは、間違いなく『神具』。
《解析》から読み取れる情報は、飲んだ者の傷を癒やす『神具』であるということ。
テセアの中に、強い希望が生まれた。
「さあ、起きて。今度は私がちゃんと傍にいるからね、ノイル」
ノエル・シアルサという女性は、愛おしげな口調でそう言うと、小瓶を満たす液体を自らの口に含み――ノイルへと優しく口づけた。