45 乙女たち
僕が『精霊の風』のパーティハウスへと来てから一月と少しが経った。レット君はまだ帰ってこない。
まあ、海まで向かったのならまだ少しかかるだろう。彼が何日向こうに滞在するかもわからないし。
最初は早く帰って来てほしいと思っていたが、最近ではこの屋敷での暮らしも悪くないと思える。
ここでは僕は何もする必要がないのだ。【結晶迷宮】の一件以来、そもそも屋敷の敷地から出てすらいない。
身の回りの事は全て――恋人であるエルがやってくれていた。何のために僕は『精霊の風』に居るのかわからないが、彼女は満足そうなので良しとしよう。
エルは僕には勿体無い彼女だ。ランクAの採掘者であり、容姿端麗で性格も良く、家事も万能だ。最近では将来の為に僕らの子供の服まで作っているらしい。唯一の欠点といえば、僕の人形がずらりと並んだ部屋だが、そこにある大きなクローゼットには着々と子供服が増えていっている。
僕は完全にエルのヒモと化していた。だが、申し訳なく思う反面、あまりにも居心地が良いから困る。彼女も幸せそうだし。
エルと出会ったのは魔導学園に入学してすぐの頃だ。当時調子に乗っていた僕は、そのせいでミーナに酷い目に遭わされそうになってしまった。
自業自得でしかないのだが、そんなどうしようもない僕を救ってくれたのが、エルである。
この一件で仲良くなった僕らは、学園でよく一緒に過ごしていた。学園を卒業した後、関わる機会はなくなってしまっていたが、一月ほど前に再会し、僕はレット君が居ない間の穴埋めとして彼女のパーティに加わった。
そしてエルの秘めた想いを伝えられ、僕らは交際する事となったのだ。
実は一目惚れだったと言われた時は心底驚いたが、同時に嬉しかった。僕はもしかしたら、学園時代から彼女の事を特別に感じていたのかもしれない。
本来僕のような人間とは到底釣り合わない高嶺の花であるエルは、今僕に寄りかかり幸せそうな顔をしている。
「ほら、ノイル。あーん」
無邪気な笑顔で、彼女はお手製のクッキーを僕へと差し出した。僕がそれを食べると、エルは満足そうに腕をぎゅっと抱き締めてくる。
普段の凛々しい彼女からは想像もできない乙女なその姿を、僕はとても可愛らしいと思った。
今僕らは、屋敷の庭に設けられた池で折りたたみ式の椅子に座り、釣りを楽しんでいた。
ここはエルが精霊の力を使い、僕の為に作ってくれた釣り堀だ。
釣具から何まで全てエルが揃えてくれた。
そのおかげで僕は毎日退屈する事もなく過ごせている。
僕はとても果報者だ。エルはとにかく僕の為に尽くしてくれていた。本気でヒモである。
誰もが羨むのではないかという何一つ不自由のない生活。
けれど――
「どうしたんだい? 美味しくなかったかな……?」
「あ、いや、そういうわけじゃないよ」
考え事をしながら釣り糸の先を眺めていると、エルがとても不安げな顔で僕を上目遣いに見つめてきた。慌てて彼女の頭を撫で、安心させる。
エルはすぐに微笑み、甘えるように頭を僕の手へとすりすりと押し付けてきた。
幸せだ。とても幸せな時間だ。
僕は本気で『白の道標』を辞めて、エルと共に生きようとさえ考えている。
だというのに、この――僅かな違和感は一体何なのだろうか。
釣り堀を見ていると、いつも感じてしまう。
僕は昔、こうして誰かと一緒に釣り堀で過ごしていた気がしてならない。それはエルとはまた別の人物だ。けれど、僕は学園に入るまではほとんど妹と過ごしていたし、学園に入ってからはエルと頻繁に一緒にいた。卒業してからは『白の道標』で――――あれ? そもそも『白の道標』ってなんだっけ……?
「ノイル」
名前を呼ばれ、僕ははっと意識を戻す。見ると、エルがやや頬を染め、僕の手を両手で包むように握っていた。
「その、今日こそ……ボクの部屋に来てくれないかな……?」
彼女は照れくさそうに、小さな声で僕の顔色を窺いながら訊ねてくる。これはつまり、そういう事だろう。僕だってそれくらいはわかる。
頬を染め、上目遣いのエルは今すぐ抱きしめてしまいたいほど魅力的だ。
それに、女性にここまで言わせてしまって断る理由はない。断る理由はないはずなのだが――
「……ごめんエル」
気づけば、僕はそう言ってしまっていた。何故だかは自分でもわからない。わからないが、先程の違和感といい、どうしても何かが引っ掛かってしまうのだ。
何かが違う。何かが間違っている気がする。小さなしこりのように、どうしても気になる。
「そう、か……うん、まあ構わない。キミがその気になるまで、ボクは待ち続けるよ」
エルはそう言って健気に笑うが、明らかに無理をした笑顔だ。落胆を隠せていない。
その表情に胸が締め付けられるような感覚を覚える。
けれど、それでも僕は彼女の期待に応えられない。
そうして、もう何度目かのエルからのお誘いを断った僕は、空を見上げた。
綺麗な青空。心地の良い天気だ。
だけど何故だろう。僕は、その空が酷く遠くに感じてしまう。
空が遠いのは当たり前だ。当たり前なのだが……釣り堀と空、この二つはもっと近くにあったはずだ――と、僕は意味のわからない事を考えてしまうのだった。
◇
「あんた、今日もただエルといちゃついてただけなの?」
「うーん……」
日課の訓練を済ませ、お風呂から上がったばかりのミーナが、髪を梳きつつ、じとっとこちらを睨みながらそう言った。
僕は畳にだらっと寝そべりながら彼女に気の抜けた返事をする。
夜はミーナの部屋で過ごす決まりとなっている。これは過去にひと悶着あった僕らの仲を深めるためのルールであり、今ではマブダチと言っても過言ではない程の関係になった。
マブダチ相手に遠慮はしない。僕は全力でだらけている。ごろごろと無意味に転がったりするが、やはりもやもやとした気持ちは晴れない。
「はぁ……もう少ししゃきっとしなさいよ」
ミーナは起き上がりもしない僕を見て、呆れたようにそう言うが、本気で注意しているわけでもない。もう僕がどんな人間かなどわかっているのだ。流石マブダチである。
彼女とここまで打ち解けることができたのは、僕がミーナとの勝負に奇跡的に勝利したからだ。それで僕を認めてくれたのだが、あれがなければどうなっていた事か。
一戦交えなければならない程に険悪だったのだ。負けていた時の事を考えると怖い。勝てて本当に良かったと思う。
だけど――あれ?
そもそもどうして僕はミーナと戦う事になったんだっけ?
「ミーナ、僕たちが戦った理由って何だったっけ?」
お気に入りの巨大クッションへとダイブして、ぎゅっと抱きしめたミーナに訊いてみる。
何故だかどうにも思い出せない。
彼女はクッションから顔を上げ、こちらをじとっと睨んだ。
「思い出させないでよ……あんたが大浴場に居たからでしょ」
「いや、だとしたら僕はただ殴られる事を選択するはずなんだよ」
「そんなこと真剣に言われても……」
僕は無駄な争いを好まない。面倒だし怖いからだ。それにあの件はどちらが悪いというわけでもないが、被害者はどちらかといえばミーナである。
たとえミーナが怒って喧嘩をふっかけてきたとしても、僕ならそれに応じず、頬を差し出すはずだ。
いや、どうだろう……脱兎もびっくりの逃走劇を始めるかもしれない。仕方ない事とはいえ、痛いの嫌だし。ミーナのパンチ受けたら死ぬかもしれないし。
まあとにかく、わざわざ戦うなんて事はしない。それだけは自信を持って言える。なんとも情けないが、情けなさには自信がある。
だとしたら何故戦った?
何故思い出せない?
上体を起こした僕に真顔でそう言われ、ミーナは若干引いていた。
「でも確かに。あんたならそうするわね……」
しかし、すぐに納得いったように頷くと、考え込むように顎に手を当てた。流石マブダチだ。僕の事をよくわかっている。
「そうなんだよ。何かおかしい……」
「誰かいたような……物凄くムカつく奴が……」
二人で頭を悩ませていると、ミーナがぽつりと呟いた。彼女はせっかく梳いた頭を両手でわしゃわしゃと掻く。
「ああもう! 思い出せない! 何これどうなってるの!?」
「……気づかない内に、何かされてる……?」
僕一人ならば記憶違いや勘違いで済む話だ。けれど、ミーナも同様に違和感を覚えているのならば、話は変わってくる。背筋に悪寒が奔った。
ミーナが飛び起きる。
「はぁ!? いつから? 誰によ?」
「いや、それがわかれば苦労はしないんだけど……確証もないし……」
「ッ……ごめん、そうね……でも、何かおかしいのだけは確かよ」
「うん……そういえばミーナって、最近屋敷の外に出た?」
ふと思い、ミーナに訊ねてみると、彼女は愕然とした様子で目を見開いた。
「…………出てないわ、一度も。それをおかしいとも思ってなかった……」
そうなのだ。
僕も今の今まで疑問にも思っていなかったが、よくよく考えてみれば一月程も屋敷から出ないなどおかしい。僕だけならともかくミーナもだ。訓練は欠かさずにやっていたようだが、逆に言えばそれだけしかやっていない。
ランクSを目標とする彼女が、採掘者としての仕事を一月もの間行っていなかった。ミーナだけではない、エルもずっと僕の傍にいたし、ソフィも屋敷からは出ていないはずだ。クライスさんは……あれ?
そもそもクライスさんがずっと屋敷に居るのはおかしいのではないか?
『精霊の風』の男性メンバーは、屋敷に寝泊まりしていないはずだ。けれど、彼はこの一月の間、夜だろうが屋敷をうろうろしており、出会うたびに爽やかにハグを求めてきた。
特に疑問にも思わず受け流していたが――
「こんこんこん、こんこんこん」
考え込んでいると、部屋の外から平坦な声が聞こえてくる。
ミーナが慌てたように扉へと駆け寄った。
「ソフィ、悪いけど今はマッサージは――」
「ご都合が悪かったでしょうか?」
「そうね……丁度いいわ。ソフィも来て」
部屋へと招かれたソフィは、一礼すると僕らの顔を見て、首を傾げる。
「何か深刻な問題でしょうか?」
「いや、どうだろう……わからない」
「ソフィ、最近何かおかしな事はなかった?」
唇に手を当てて、ソフィは考え込むように目を閉じる。
「……特には……何か、おかしな事が起こっているのですか?」
そして、再び目を開くとそう訊ねた。
「うん、気づかない内に、何かされてるみたいなんだ」
「記憶を弄られた……いえ、催眠かしら……とにかく、あたしもノイルも普通の状態じゃなくなってる。ソフィは大丈夫?」
「…………わかりません」
「そうよね……とにかく、まずはエルに知らせないと。ちょっと待ってて」
そう言うと、ミーナは衝立の向こうへと行き、すぐに戻って来た。先程の部屋着から、普段の服装へと素早く着替えた彼女は、ブーツを履き、部屋の入り口に立つ。
「お待たせ、行きましょう」
僕は頷いて、靴を履くと部屋から出る。最後にソフィが扉を閉め、僕らがエルの部屋へと向かおうとした時だった。
「ぁ……?」
ぐにゃり、と突然視界が歪み、意識が遠のく。何が起こったのか理解出来ずに、僕はそのまま絨毯の上に倒れ込んでしまった。霞む視界に、同じ様に倒れているミーナの姿が映る。
いったい……なに……が……。
薄れゆく意識の中、視界の端には見慣れたメイド服が翻っていた。
◇
フィオナ・メーベルは、その身に激しい怒りを湛えて、『精霊の風』のパーティハウスを睨みつけていた。
腸が煮えくり返りそうな程の激墳で表情が歪むが、その顔は重厚なゴーグルで隠されている。唯一窺える口元から一筋の血が滴り落ちた。
「さて、それではやるとするかのぅ」
彼女の隣に立つ、純白の美女、ミリス・アルバルマがにやりと口角を吊り上げた。
その手には、一振りの粗野な刀、『神具』――『神殺刀』が握られている。
『神殺刀』は『神具』を破壊する『神具』である。使用する為には一月程力を溜める必要がある上、一度使えば壊れてしまう代物だとフィオナは聞いているが、そんなことはどうでもよかった。というより、一月もかかる事に強い苛立ちを感じた。
「はぁ……やっぱりノイルには私がついてないとダメなんだから」
ミリスの隣に立つのは、微笑むノエル・シアルサだ。
優しく愛おしげな口調と、蕩けるような笑みとは裏腹に、その瞳には光が宿っていない。
この一月の間に、彼女が魔装を発現させ、マナコントロールが飛躍的に上達したことをフィオナは知っているが、そんな事はどうでもよかった。というより、ノエルの魔装に強い苛立ちを感じた。
フィオナは一言も発さない。気が狂いそうなほどの憤怒は、逆に彼女を静まり返らせていた。
ミリスが両手で『神殺刀』を振り上げ、神速で振り下ろす。『神殺刀』が粉々に砕け散り、それと同時に屋敷を包む視認出来ぬ結界も消滅した。
もはや、彼女たちを阻むものは何もない。
「ノイルを迎えに行くのじゃ」
その声と共に、『白の道標』の乙女たちは、正面から『精霊の風』のパーティハウスへと踏み込んだ。