39 やってない
軽くシャワーを浴びて汗を流したミーナ・キャラットは、広い屋敷の中を足取り重く歩いていた。向かっているのは現在フィオナ・メーベルが眠っている部屋である。その表情は彼女の心同様曇り模様だ。
ミーナの心が晴れないのは、先程の一戦でノイル・アーレンスに敗北したことが原因ではない。いや、それも間接的な要因ではあるが、彼に敗れたのは自分の未熟さ故だとミーナは重々承知している。
油断していた。
楽に倒せる相手だと侮っていた。
次にやれば必ず自分が勝利する。
しかし、そんなものは全て言い訳にしかならない。
あの時、確かにノイルは自分を上回っていた。それだけが厳然たる事実だ。
だからこそ、ミーナは大浴場の一件で思うところがあったとしても、負けを認め、彼を認めたのだ。
悔しさは確かに感じるが、逆に言えばそれだけだ。それ以上の余計な負の感情は湧いてこない。
では何故ミーナの心は晴れないのか。
それは、ノイルを認めたことにより、彼らの屋敷への滞在を許可せざるを得なくなってしまったからだ。
あの勝負についてとやかく言うつもりは毛頭ないが、それとこれとは話が別である。
百歩譲ってこの屋敷で寝泊まりすることには目を瞑ろう。屋敷は広い、自分の部屋に近づかないのであればぎりぎりだが許容できる。それに、過去の一件と大浴場の一件で印象は最悪だったが、案外悪い男ではなさそうだ。
喧嘩をふっかけてきておいて悪くないと言われた時は、煽られているように感じてしまったが、冷静に思い返してみると、ノイルは常にミーナに対して申し訳なさそうにしていたし、ちゃんと謝罪もしてくれていた。
自分は被害者だと主張する事もできたし、それは間違いではないにもかかわらずだ。
大浴場では、出来るだけ自分の身体を見ないようにしてくれていたのも憶えている。
一見すると目つきやへらへらとした笑みのせいでふざけた人間に見えるが、意外とまともなのかもしれない。
「それに……恋人のために頑張れるやつみたいだしね」
ミーナは目的の部屋の前に辿り着き、ぽつりとそう呟いた。
ノイルが突然自分に勝負を持ちかけたのは、今この部屋で眠る大切な彼女の為だったのだろうということを、ミーナは今ではなんとなくだが理解していた。
もっとも、ノイルは半分以上は自分の為に戦ったのであり、フィオナは恋人ではないがミーナはそんな事を知る由もない。その理解の仕方は間違いではないが、決して正解とはいえないだろう。
しかし、そう勘違いしているからこそミーナの気分は沈むのだ。これからフィオナに謝罪しなければならない事を考えると、どうにも気が重かった。
喧嘩をふっかけて来たのは彼女のほうだが、ノイルの恋人であったのならあの怒りようも理解出来なくはない。
事故とはいえあの様な接し方をノイルとしてしまったのだ。不快に思って当然だろう。自分だって同じ状況になれば激しい怒りを感じるはずだ。相手は居ないが、そのくらいは容易に想像できる。
しかも、あの時は頭に血が登っていた為に、彼女の前でノイルを侮辱するような発言をしてしまった。その点については、ちゃんと謝らなければいけない。謝らなければいけないのだが……
「はぁ……」
一度罵倒し合った相手だ。頭は冷えたが、あまり気が進まない。自分が悪いのはわかっているつもりだが、それでも気に食わない相手でもある。どうも苦手なタイプだ。全くわかり合える気がしないし、彼女は自分の事を許すつもりはないかもしれない。
それに何より、何より、だ。
「何なのよあの胸……」
その一点が、ミーナは何よりも気に入らなかった。
あれほどの美人であるにも加えて、あの胸だ。あれは一体何だ。一体どうしたらあんな風になるのだ。
ずるい、卑怯だ、反則だ。
まるで自分を馬鹿にしているようではないか。
それはミーナの勝手な被害意識でしかないのだが、とにかく気に食わなかった。絶対に相容れない存在だと感じていた。
「少しくらい分けろっつーの……」
ついつい言葉遣いが乱暴になる。気づけばミーナは壁に拳を当てていた。そして俯き、ぶつぶつと何やら呪詛のような言葉を吐く。
「どうして! どうして先輩とあの女を二人っきりにしたんですか!」
と、この世の理不尽を恨んでいたミーナの耳に突然怒声が聞こえ、彼女ははっと顔を上げた。自分は一体何をしていたのか。頭をぶんぶんと振る。
「何か問題が?」
「大ありです! ああ、もう!」
部屋の中からはそんな会話が聞こえ、次にこちらへと向かってくる気配を感じ、ミーナは慌てて少し扉から距離を取る。
それと同時に扉が勢い良く開かれ、中からは必死の形相を浮かべた空色の髪の女が現れた。
動きと共に弾むその胸部に、ミーナはひくりと頬を引き攣らせる。
「メス猫、邪魔です」
「……ッ」
扉の前に立つミーナに開口一番浴びせられた言葉に、彼女はさらに頬を引き攣らせ、額には青筋が浮かんだ。
そのままミーナを押し退けて駆け出そうとする無駄に胸のでかい女の肩を、彼女は微笑みながら掴んだ。
「ちょっと……待ちなさい」
「離しなさいメス猫!」
しかし、フィオナはミーナの言葉に耳を貸す気は無いらしく、切羽詰まったような顔でそう吐き捨てる。だが、ミーナの手から逃れる事は出来ない。肉弾戦に特化した半獣人に力比べで勝つのは至難の業である。
「チッ……! 忌々しいですね!!」
「なん……! 何なのよあんたは! 人がせっかく謝ろうと……」
「そんな事はどうでもいいから手を離してください! 今あなたごときに構っている暇なんて無いんです!」
「はぁ!? ごとき!?」
いよいよミーナの表情は険しくなる。人が気が進まないながらも謝罪に来てやったというのに、その態度は一体何だというのか。あまりにも失礼ではないか。やはりこの女とは相容れない。
ミーナはもはや湧き上がってくる怒りを抑えられなくなっていた。元々気に食わない相手なのだ。それに、彼女は気の長いほうではなかった。
「何急いでるのか知らないけど、その態度はないでしょうが!」
「このままだと、先輩が危険なんです!」
「訳わかんないのよ! それにあいつにはエルがついて――」
「チッ! これだからメス猫は……! 脳が小さ過ぎます!」
「あんた……! 終いには本気で殴るわよ!?」
ぎゃあぎゃあと、二人は揉み合いながら言い争う。そうしている内に、部屋の中からはソフィが現れ、ぽつりと呟く。
「仲がよろしいのですね」
「どこがよ(ですか)!!」
フィオナとミーナの二人が揃って声を上げ、ソフィは不思議そうに首を傾げた。
そして、埒が明かないとばかりに、フィオナが声を張り上げる。
「その二人が一線を越えると言っているんです!!」
「は……?」
それまで頭に血が登り過ぎていたミーナは、その言葉でまるで冷水を勢い良く浴びせられたかのように、一気に怒りが冷める。
目の前で真剣な顔をしている女が何を言っているのかわからなかった。
エルとノイルが……何?
「そ、そんな事あるわけないでしょ」
あまりにありえない。笑えもしない冗談だ。
大体エルからその手の話など聞いたこともないし、興味があるとも思えない。彼女は恋愛だとかそんな俗っぽいものに興味などないのだ。長い付き合いだからわかる。
しかも相手があの男?
確かに見てくれだけはそこまで悪くないかもしれないが、到底エルシャンとは釣り合わない。仮にノイルがエルシャンに迫ったとして、彼女は相手にしないだろう。
第一、彼はあんたの恋人でしょうが。
「いいえ、あの女は確実に先輩を襲います。手段も選ばず先輩を籠絡しようとするはずです。本来なら先輩はあの女狐ごときに惑わされる事などないでしょうが、催淫効果のある薬を使うはずです。私ならそうします。飲み物に混ぜて」
しかし、目の前の女は至極真面目な顔をしてそんなおかしな事を宣う。色々とツッコミどころはあるが、とりあえずエルシャンからなどもっとありえない話だと言うのに。
「え、エルはそんなこと……」
「あの女は、学園に居た頃からずっと先輩を視ていました」
「それは……エルは優しいから……きっと心配してただけで……」
「心配していただけの人が、寮の部屋まで毎晩覗きに来ますか?」
問われ、ミーナは言葉を失くしてしまう。
エルがそんなことをしていたなんて知らなかった。嘘であって欲しかった。だが、目の前の女に嘘を吐いている様子は無い。というより、何故この女はそんな事を知っているのだ。その場に居たのか。ノイルは少なくとも二人に覗かれ続けていたというのか。何だその状況は。
「それに、確かあの女は人に触られるのが好きじゃない。とか言っていましたね? まあ森人族なら普通ですが」
「そ、そうよ……エルは他人に無闇に触れられるのは嫌がるわ。あたしは……大丈夫だけど……」
「そんな女が、自分から手を繋ぎ、あまつさえ先輩の汗を自らの手で拭おうとするなんて、おかしいですよね? 私が止めなければ、あの女はこっそりと汗を舐めていましたよ?」
「な、なめっ……嘘でしょ……」
そんなエルは想像したくもなかった。ミーナの中の彼女は、いつだって悠然としていて格好良く美しい。欠点などまるで見当たらない。憧れの女性で親友なのだ。
汗を舐めるなど……変態ではないか。
「ソフィさん、二階の一番奥は誰の部屋ですか?」
動揺を隠せないミーナを尻目に、フィオナはソフィに訊ね、彼女は何を考えているのかわからない平坦な声で無表情に答えた。
「マスターの寝室です」
「今、二人はそこにいます。私は先輩の位置を特定できる魔装を扱えますから、わかるんです」
ミーナは愕然とする。その訳のわからない魔装にではない。ノイルがエルシャンの部屋に居るという事実にだ。
エルシャンの部屋は彼女以外誰も入れない。エルシャンが頑なに拒むからだ。例外として、屋敷の管理をしているソフィだけは入室を許可されてはいるが、部屋の中の事を語るのは禁止されている。
ミーナも入った事はない。気になって一度頼んでみたが、やんわりと拒否された。
そんな森人族の、エルシャンのプライベートルームに、ノイルはあっさりと招かれた。部屋の中で一体何が行われているのか……たった今聞いた話から、嫌でも想像してしまう。
「理解できたのなら、この手を離してください」
理解などしたくない。出来るわけがない。
「……か、仮に……万が一……エルが本当に――」
「本当です。離してください」
「ッ……だとしても! ノイルはあんたの恋人でしょうが!」
先程自分と戦った男は恋人を大切にするはずだ。エルシャンとそんな関係にはならない。
ミーナが嫌な想像を必死に否定するためにそう叫ぶと、フィオナは一瞬目を見開き、そしてにこやかな笑みを浮かべた。
「ええ、その通りです。だから手を離してください」
「嫌よ! 恋人を信じなさいよ! やってないわよ!」
やってない。絶対に二人はやっていない。
もはやミーナはそう信じるしかなかった。
信じたかった。この手を離したくなかった。もし離してしまえばこの女は様子を見に行ってしまう。そうしたら、何が行われていたのか白日の下に晒されてしまうだろう。
そう、知らなければ良いのだ。もし二人が致していたとしても、それを知らなければ致していないのと同じだ。
「先輩の事はもちろん信じています。ただ、あの女狐が薬を使うはずです。さっきも言ったでしょう?」
「え、きゃあ!」
「思ったより可愛らしい声も出すんですね」
現実から逃避するように目を閉じていたミーナは、突然浮遊感を覚え思わず声を上げてしまう。
閉じた目を開くと、足は屋敷の廊下から離れ、身体は宙に浮いていた。
見れば、目の前の女からは一対の銀の翼が生え、その顔には重厚感のあるゴーグルが装着されている。
「な……」
「もう面倒ですから、あなたも一緒に連れていきます」
「ちょ……!」
慌ててミーナが掴んでいた肩を離そうとすると、逆に手首を掴まれてしまった。そして、彼女が何か言う隙も、やる暇もなく、ぐん、と腕が引かれる。
手首を掴んだフィオナが一気に加速したのだ。ソフィは無表情で一礼して二人を見送っていた。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさい!」
「待ちません。もうこれ以上無駄な時間は使えませんから」
「あ、あたしは置いていってよ!」
「戦闘になったら止めるのに協力してもらいます。あなたの友人の暴挙なんですから」
「い、嫌よ! そんなエルを見るのは嫌ぁあああああああああああ!!」
広々とした屋敷内を高速で飛ぶフィオナに腕を引かれながら、ミーナは友の淫らな姿を想像して、悲鳴を上げるのだった。