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228 一流

 

 グレイ・アーレンスは緑と土の匂いを感じながら、ゆっくりと目を開けた。


「ああ、良かった! グレイさん」


 同時に、眉を歪めたミント・キャラットの顔が視界に入る。そして、自分が何故眠っていたのかを思い出し、勢い良く身体を起こした。


「ッ……」


「すみません、まだ治癒が完璧じゃないんです。……酷い状態でしたから」


 身体に奔った痛みに僅かに眉を顰めたグレイの肩をミントが支える。


「……今日は何日だ?」


「わかりません。私が自己治癒で目を覚ましてから、少なくとも一日は経ってますけど……」


 彼は周囲を確認しながら、ミントに問いかける。どうやら現在地は『魔王』と遭遇した場所と殆ど同じらしく、平原にぽつんと立つ木の下にグレイ達は居た。傍にはナクリも寝かされている。


救いの杖(ヒーリングロッド)》の効果により一人目覚めたミントが運んだのだろう。そして治癒を施していた。状況を理解すると同時に、グレイの中に焦燥が湧き上がってくる。


 ミントの《救いの杖》は触れているだけでも効果があるが、それは僅かなもので治癒の速度は遅い。彼女が意識を取り戻す程に回復するまで、それなりの時間がかかっただろう。そして、目覚めてから自分とナクリの治癒に一日使ったのだとすれば、『魔王』に敗れてから既に数日は経過している。


「なーくんはまだ目を覚ましません。身体は問題ないはずなのに……」


 グレイは思い切り歯を噛み締めた。


「『隠匿都市(ハイディング)』からの助けがなかったということは……多分、『魔王』の手に落ちんだと思います」


 数日の時があってもこの場に様子を確認に戻らなかったのならば、そういうことなのだろう。

 ネレスを操っているのならば容易だったはずだ。そうでなくとも、『魔王』は『隠匿都市』をあろうことか母親のものだと言い、コントロールを一時的に奪っていた様子だった。


 落ち着け……。


 ここで感情のままに取り乱しても、どうにもならない。火急の事態に陥った時ほど冷静さを失ってはならない。

 グレイは大きく息を吐き、必死に心を落ち着かせる。


「よく……俺達は無事だったな」


 そして、ぽつりと声を漏らした。


 ミントが目覚めるまで無防備だったにもかかわらず、獣や魔物に襲われる事もなかったのは幸い、いや不自然と言ってもいい。今生きていられる事が、彼には不思議だった。


「それは……ロゥリィさんが」


「ん?」


 ミントが神妙な表情で呟き、グレイが視線を向けると彼女は懐から何かを取り出す。


「そいつは……」


 それは、彼が愛用していたロゥリィお手製のライターだった。今までは傷一つ付かず劣化する事もなかったはずのライターは、酷く色褪せ今にも砕けそうな程にひび割れている。


 ミントの手から慎重にライターを受け取り、グレイはじっとそれを見つめた。


「私が目を覚ました時、そのライターから噴出された炎が、私達を包んでいたんです。まるで……守ってくれてるみたいに」


「……ったく、本当にお節介な婆さんだな……」


 んな機能をつけろなんて、頼んだ覚えはねぇぞ。


 グレイの手のひらの上で、ライターにはピシリと大きな亀裂が入り、砕け光の粒子となって消える。


 ――ありがとよ。


 ぐっと拳を握った彼は、身体の痛みを無視して立ち上がった。


「俺は友剣の国に行く」


「私も行きます。でも、なーくんが……」


 グレイは《狂戦士(バーサーカー)》を発動させ、ナクリに歩み寄り小脇に抱える。


「……さっさと目ぇ覚ませよ馬鹿」


 そして、そう呟くと不安げな表情を浮かべているミントへと向き直った。


「近くまでは連れて行くしかねぇ、ミントも来い」


「すみません」


 一度頭を下げ近づいた彼女も、彼はナクリと同様に抱える。少々不格好ではあるが、ミントが走るよりもグレイが運んだ方がずっと速い。


「最速で飛ばすぞ。ミントは治癒を続けてくれ」


「はい」


「よし」


 頷いた彼女を見たグレイは、地を蹴り自身の持てる最高速度で友剣の国を目指すのだった。







 宙空へと跳んだアリスが、眼下に向けていくつもの小さなガラス玉のようなものをばら撒く。


「『小悪魔の悪戯(リトルデビルキッス)』」


 彼女の声とともに、ガラス玉の中に居たデフォルメされた小さなアリスが飛び出した。


『クヒヒ!』


 指先程のサイズの人形達は、笑い声を上げながら宙空で弾丸のように加速し、地上の敵目掛けて突撃する。そして、一斉に紺碧の光を放ち爆発した。


 どうだ……?


 着地したアリスは、砂塵が巻き上がった前方を睨みつける。砂煙が徐々に消え――そこからは肉の塊が現れ、彼女は忌々しげに眉を歪めた。


「マッスルガード、か、い、じょ」


 その声と共に肉の塊は一斉に動き、絡め合っていた身体を解くと主の周りに整列する。

 先程までまるで肉塊と化し、ヤヒエイを守っていたのはぴちっとした面積の少ないパンツだけを身に着けた筋肉質の男たちであった。


 浅黒い肌に、顔には白い歯を見せつけるような微動だにしない不気味な笑みを浮かべ、各々がポージングを取っているそれは、ヤヒエイの魔導具――『愛の奴隷たち(ラブリーボーイズ)』だ。


 あまりの趣味の悪さにアリスはもう何度目かの吐き気を覚えるが、その性能は脅威的であった。


 一体一体が恐るべきパワーと耐久力を持つ自動人形(オートマタ)である『愛の奴隷たち』相手に、彼女の手持ちの魔導具は全て防がれている。


「レッツゴーボーイズ!」


「クソがッ!!」


 アリスは一斉に機械的な動きで向かってきた『愛の奴隷たち』に悪態を吐くと、先程と同じような小さな玉を宙に思い切り放った。


 それは瞬く間に膨らみ、舌を出したアリスの風船となる。


『愛の奴隷たち』の拳が振り下ろされアリスに触れた瞬間、彼女と風船の位置が入れ替わった。そして、叩き込まれた拳により風船が破裂すると、爆風が起こり中からは幾本もの『命喰い(ライフィート)』が飛び出し、『愛の奴隷たち』を吹き飛ばしながら突き刺さる。


高嶺の花アンタッチャブルアリス』によって緊急脱出した彼女は、宙空で眼下の様子を観察しながら小さく舌打ちした。


 やっぱり意味ねぇか。


『命喰い』はあくまでも生物の命を断つ為のものだ。自動人形達が相手ではその効果を発揮できない。平然と起き上がり体勢を整えた『愛の奴隷たち』に突き刺さった紺碧のナイフは、殆ど何の意味も成さず消失した。


 あの野郎は――


「もう、またそれぇ?」


「がッ!!」


 地上に視線を走らせていたアリスの背後から突如声が響き、ヤヒエイがそこに現れ両手を組んだ拳を彼女の背に振り下ろした。何一つ洗練されていない不格好な一撃だが、アリスは凄まじい勢いで地に叩き落される。


 地面に激突する寸前に、彼女は痛みに顔を顰めながらも胸元から、小さな玉を取り出して自身の下へと放った。


 辛うじて間に合ったそれが、地面と接触すると同時に膨らみアリスの顔を模した大きなクッションとなる。


「ぐふ……!」


天使の抱擁(セーフティアリス)』により激突の勢いを殺した彼女は、それでも受けたダメージにふらつきながら立ち上がった。


 気に入らねぇ……。


 そして、口端の血を拭いながら、再び『愛の奴隷たち』に囲まれたヤヒエイを睨みつける。


 アリスは戦闘を続ける内に、この男の創人族としての腕前を下方修正していた。確かにヤヒエイの魔導具は脅威的だ。『愛の奴隷たち』も、身体を透明化させるらしい『禁断の愛(シークレットラブ)』とやらもその性能は極めて高い。


 だが、それは決してヤヒエイの腕が優れているわけではなく、使用したマナストーンが規格外のものだからに過ぎない事に、彼女はとうに気づいていた。


 おそらくは、『魔王』からランクS採掘跡のマナストーンを潤沢に供給されたのだろう。


 もったいねぇ使い方しやがって。


 自分ならば、ヤヒエイのものなどとは比較にならない魔導具を創造できる。

『愛の奴隷たち』のパワーや耐久力は凄まじいものだが、ヤヒエイの好みの男を模したのだろうそれは、全員が同じ容姿にもかかわらず、微妙に造形にも性能にもばらつきがあった。加えて、彼を守るか敵を攻撃するかの単純な動きしかできない稚拙さ。

『禁断の愛』もそうだ。姿を消せるとは言っても、何か激しい動作をする度にヤヒエイを視認できるようになる不完全さ。


 三流が。


 ヤヒエイの創人族としての実力は、アリスからすればその一言に尽きた。


 そんな男が最高のマナストーンを使い放題だったことも、あろうことか自身と同じく自動人形を得意としているらしい事も、アリスはいたく気に入らなかった。


 そして最も彼女の神経を逆撫でるのは、ヤヒエイが自身の創造した魔導具ではなく、『魔王』に与えられた力を何よりも奮っている点だ。


 ヤヒエイの両耳には、紫の石が嵌まった漆黒のイヤリングが輝いている。その力により、先程からこの男は《月光》の影響もこれ幸いとばかりに、アリスへと圧倒的な力で稚拙な肉弾戦を仕掛けてきていた。


 だというのに、この男は自身が優れているからこそ、これだけの事が出来るのだと言わんばかりに振る舞っている。


 自身のものではなく、他人の創った道具に頼った戦い方など、創人族の風上にも置けない。

 ロゥリィを侮辱された事に加え、この男の行いはどれもアリスを酷く苛立たせる。


 とはいえ――


「面倒くさいわねぇ。一体いつまで醜く逃げ回る気よぉ」


 もはや彼女の手持ちの魔導具は底を尽きかけていた。


 アリスはミリスの『収納函(ストレージボックス)』と同じように、『乙女の秘密アリスちゃんズポケット』という、中に多くの物を収納できる小さなポケットを常に持ち歩いている。

 何処にでも貼り付ける事が可能なそれを、胸元の服の内側に潜ませているのだ。


 しかし『乙女の秘密』は『収納函』よりも容量が少なく、あまり大きな物は入れられないという制限がある。せいぜい、しまえる最大サイズはノイルの為に創った義手より少し大きな物程度だ。だからこそ、アリスは比較的小型の魔導具かつ、それを『小は大を兼ねる(サプライズボール)』という小さなガラス玉のような魔導具に更に詰める事で、スペースを節約し、多くの魔導具を持ち歩けるようにしていた。


 だが、それでも当然数には限りがある。


 今残っている魔導具は、起死回生を狙う事が出来る一本の『命喰い』を含めても、数えるまでもない。


 加えて体力もダメージも、既に限界に近いところまで来ている。

 今の彼女に余裕など何処にもなかった。


「あんまり汗かきたくないのよねぇ」


 対して、ヤヒエイはダメージを一つも負っていないどころか疲れた様子すらない。今も、睨みつけるアリスなど何ら脅威ではないとばかりに、手鏡で化粧をチェックしている。


 ……悪ぃな、クソダーリン。そっちにはいけそうにねぇわ。


 彼女は大きく息を吐き出し、一つの覚悟を決めた。

 どちらにしろ、もはやノイルの場所には辿り着けそうにない。ならばこの男だけは何があろうとぶち殺す。


 そう決断したアリスは、『乙女の秘密』から二つの小さな玉を取り出し両手に乗せた。


「ならとっとと終わらせてやるよ」


 二つの玉からは手のひらサイズのデフォルメされたアリスとノイルが飛び出す。アリスはウェディングドレスを、ノイルはタキシードを身に着けていた。二人の手と手を紺碧の光を放つ糸が繋ぐ。


「『おしどり夫婦(ベストパートナー)』」


「やあねぇ、まーた気色の悪い魔導具」


 彼女の新たな魔導具を見たヤヒエイは、顔を顰めて身体を震わせると、両腕で身体を抱く。彼の態度にアリスは殊更に憤慨する事はなかった。もうとっくに、この男への怒りは振り切れている。


『おしどり夫婦』は同時に彼女の手からぴょんと飛び降りると、地を蹴り跳ねるようにしてヤヒエイへと向かった。


「はいはいマッスルガードマッスルガード」


 ヤヒエイは面倒くさそうに『愛の奴隷たち』へと指示を出し、魔導具の大男たちは彼を身体を組み合わせて包み込む。


「ド素人が」


 それを見たアリスは、小さくそう吐き捨てた。


 ヤヒエイは何処までも未熟な男だ。アリスの攻撃に対しては、常にこの防御方法しか用いない。死線など潜った事はなく、戦闘経験も浅いのだろう。圧倒的有利な立場でありながら、魔導具の足りていない自分を未だ仕留めきれていないのがいい証明だ。


 それでも頭がキレ、センスがあればワンパターンな動きはせずに、相手の動きに合わせ対処法も変えてきただろうが、この男にはそのどちらもない。


 強すぎる自己愛を持ち、傷どころか汚れる事すら厭うヤヒエイが敵の攻撃に対して取る行動は、最も安全に身を守る事ができ、破られる事など微塵も想像していない驕りに満ちたこの防御方法だけだ。


『おしどり夫婦』が筋肉の塊の周囲を跳ね回り、互いの手から伸びた紺碧の糸をぐるぐるとまたたく間に巻きつけ、雁字搦めにする。


 元より、『おしどり夫婦』はその強き絆を持って敵を拘束する魔導具だ。


 肉の壁に籠もらず、その動きをしっかりと見ていればヤヒエイも直ぐに気づくことが出来ただろう。


 アリスは胸元から、ズルリともう一つ魔導具を取り出した。『銀碧神装』の片腕にも見えるしかしどこか歪なそれは、出力を求めすぎたあまり、甚大な威力を誇るが制御不可となり、使用者へかかる負荷も『銀碧神装』とは比較にならない失敗作であった。


 こいつを使っちまったら……最悪死ぬだろうが――


 そう思いながら名も無き捨て身の切り札を右腕に装着し、彼女は肉の塊を睨みつける。


「まあてめぇ如きには失敗作がお似合いだ」


 そして、腰を落とし右腕を振り上げた。今にも弾けそうな程に紺碧の光が腕から溢れ出し、ガタガタと激しく震える。

 既に奔り始めた焼かれ刺されるような右腕の激痛に歯を噛み締め耐えながら、アリスは地を蹴った。


「死ねやゲロカスがぁああああああああッ!!」


 怒声を張り上げ、彼女は跳躍すると、肉の塊の頂点へと右拳を叩きつける。


「〈秩序無き暴威(ケイオティックローグ)〉!!」


 瞬間、紺碧の極光が爆発した。

 それはまたたく間に周囲一体に広がり、倒壊した建物も、瓦礫も、何もかもを呑み込み、粉々に砕き塵と化し消滅させていく。

 当然、その無差別な破壊の極みを直接ぶつけられたヤヒエイの立つ地面は大きく抉れ陥没し、『愛の奴隷たち』も溶けるように砕け塵と化していく。


「ひ……」


 そして、空いた肉の壁の隙間からヤヒエイの恐怖に満ちた見開かれた瞳が覗いた瞬間だった。


「か!? ふ……」


 アリスの口から大量の血液が吐き出される。


 な……まだ……。


 後ほんの僅か一秒でも保てば――アリスがそう思った瞬間、右腕の外装は粉々に砕け散り、彼女の右腕の至るところから血が噴き出す。破壊の光が集束するように縮まり、弾けた。


 その余波で、アリスは吹き飛び地面を転がる。


 ちぃ……やっぱ……失敗作……か。


 起き上がろうとし、彼女は身体が全く言う事を聞かないことに気づく。


 やべぇな……クソ……。


 ズタズタに裂け骨と肉を露出し、血を垂れ流し煙を上げる自身の右腕を、伏したままどこか他人事のように眺めながら、アリスはぼんやりとそう思った。


 痛みはない。

 既に彼女の身体の状態は、痛みを感じられる段階ではなかった。


 ……わらわれるな……ば、ばぁ……に……。


 半ば更地と化した周囲を、頭を抱えながら呆然としたように見回していたヤヒエイが、次第にその顔を怒りに歪める。


「あ、ああッ!! ああああああッ!! クソガキがあッ!! 俺の完璧な魔導具をッ!! ハーレムをッ!! 自分が何したのかわかってんのかテメェッ!!」


 そして、狂乱したかのように怒声を張り上げると、瀕死のアリスへと肩を怒らせ歩き出した。


「あれを創るのにどれだけの時間がかかったと思ってんだァッ!! テメェのゴミみてぇな魔導具とは価値が違うんだぞッ!! あアッ!? 何勝手に死にかけてんだコラッ!! 俺の怒りが収まるまで付き合えやクソガキィッ!!!!」


 彼女の身体を、頭を、ヤヒエイは喚き散らしながら何度も何度も踏み付ける。しかし、アリスはもはや何も感じず――ただ一点だけを見つめていた。


 掠れた視界の中――そこにはっきりと見えるロゥリィの姿を。


 ――情けないねぇ。アタシゃ恥ずかしいよ。こんなド三流に負けちまう奴が弟子だなんて。顔から火が出ちまいそうだ。


 そこには確かに、往年のようにガラの悪い笑みを自分へと向ける、ロゥリィが立っていた。


 腕を組み、心底馬鹿にするかのように――かつていつもそうしていたように。


 ――何やってんだい? こんなババァにここまで言われて、まだ寝てるつもりかい?


 うるせぇ……クソババァ……身体が動かねぇんだよ。


 ――ハッ、言い訳すんじゃないよ。世界一が聞いて呆れるねぇ。


 うる、せぇ……助けろや……。


 ――嫌だね。アタシはもうくたばってんだ。自分で何とかしな。甘えてんじゃないよ、気持ち悪い。


 ハッ……くたばってもクソのままかよ。


 ――クヒヒ、出来るだろう? アンタなら。なんと言ったって――このアタシが育てたんだよ。


 ……魔導具が、もう無ぇ。


 ――無いなら創りゃいい。前に言ったろう。一流の創人族なら


 時と場所、状況を選ばずに魔導具を創り出せる。


 ――憶えてんじゃないか。アタシは出来たが、アンタはどうだい?


 ……なあ、ババァ……。


 ――甘えるなって言っただろう。こっちにはねぇ、まだアンタの居場所なんかないんだよ。せっかくガキから解放されて、アタシは一人の時間を謳歌してんだ。来ても追い返してやるよ。


 ………………。


 ――アンタみたいなのでも結婚出来たんだ。もったいない事すんじゃないよバカ。


 ……知ってんだな。


 ――そりゃまあ、暇潰しに見てるからねぇ。


 ……ハッ、そうかよ。


 ――ああ、だからみっともない姿を見せてんじゃないよ――アリス(・・・)


 最後に口の端を吊り上げ彼女の名を呼ぶと、ロゥリィの姿はアリスの視界からふっと消えた。


 死ぬ間際の幻覚だったのか何なのか、アリスにはわからない。しかし、そんな事はどうでもよかった。


「……ゴミを、掃除した……だけだろうが」


 ぴくり、とアリスの蚊の鳴くような声での挑発に、彼女を踏みつけていたヤヒエイの足が止まる。


「ああ? おい? 何つったコラ?」


 しゃがみ込み、アリスの首を掴んで持ち上げ視線を合わせ、ヤヒエイは恫喝するかのような声とギラつく瞳で問い掛けた。


「……き、しょく、わりぃ、ごみだろ、あんなもん……」


 しかし彼女は口の端を吊り上げると、更にヤヒエイを嘲る。


「ぶ……!」


「何だって?」


 ヤヒエイがアリスの頬を殴りつけ、再度訊ねた。


「……く、くひ、ひ……」


「何だって訊いてんだよクソガキがぁッ!!」


 微かな笑い声を上げた彼女に、ヤヒエイが顔を真っ赤にし血管を浮かび上がらせ、至近距離で怒声をぶつける。


「――ゲロ未満のゴミだ。バーカ」


 痙攣している左手を持ち上げ、中指を立てて舌を出し、アリスはヤヒエイへと答えを返す。そして、その顔へと赤い液体を唾と共に吐きかけた。びちゃりと鼻の頭にそれを浴びたヤヒエイは、直ぐ様拳を振りかぶり――彼女から手を離す。


「あ……? なん……アアアアアアアアアッ!! い、いてぇッ!! 俺の、俺の顔がアアアアアアアアアッ!!」


 発狂したように声を上げ、ヤヒエイは両手で顔を押さえる。指の隙間から覗くその顔は――強酸を浴びたかのようにどろどろと溶けていた。鼻が落ち、骨が露出し、皮膚が爛れていく。

 アリスが『浮遊都市(ファーマメント)』の時と同様に、体内に仕込んでいたマナストーンを用いて創造した――『感激死(アリススピット)』によって。


 ヤヒエイには想像も及ばない境地だろう。体内での、それもこれ程短時間での魔導具の創造など。

 彼でなくとも、創人族なら誰もが馬鹿げているとしか言えない。しかし、それができるからこそ、ロゥリィからその名を継ぎ、アリスはこう名乗るのだ。


創造者(クリエイター)』――と。


 ヤヒエイの敗因は、自身と彼女の間にどれ程の腕前の差があるのかすら理解できず、自分を一流だと、世界一だと思い込んでいた点だろう。


 そして本物との格の違いを理解する前に――


「があああああああッ!! てててててめぇなにを――」


 トスっと、苦しみ悶え発狂するヤヒエイの足に紺碧のナイフが刺された。


「は? あ? ぎ、ぎいアアアアアアアアアッ!!!!」


 ヤヒエイが白目を剥いて絶叫する。足の甲に刺さった『命喰い』が、その命を貪るように体内を抉り心臓に突き進む。


「脚をもげば、助かるかもしれねぇぜ」


 地に倒れながらも、アリスは『命喰い』の柄から手を離さず馬鹿にした口調でそう言った。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!! ビギアアアアエアアエエエアッ!!!!」


「ま、てめぇにゃ、無理だろうけどな」


 たとえそうすれば可能性があるとわかっていても、自己愛の塊であるこの男に、自身の脚を自らもぐ事などできようはずがない。もはや彼女の声などヤヒエイには届いてすらいなかった。


「へひゅっ」


 そして――暴れ狂い、涙と涎を垂らしのたうち回っていたヤヒエイの目が更に見開かれ、息と共に潰れたカエルの如き声を発し、かくりと糸の切れた人形のように動かなくなる。

『命喰い』が、心臓に達したのだろう。


「さいご、まで……きしょく……わりぃ……やつ、だな……」


 それを確認したアリスは、ぽつりと声を漏らし、目を閉じた。


 ああ……そういや……。


 薄れゆく意識の中、彼女はふとある事を思い出す。


 あのクソおんな、の……ゆいごん……わすれちまったな……。


 しかし即座にどうでもよくなり、別の事にあまりにも鈍い頭を使う。ここからどうするか。この身体でどうやって生き延びるか考えようとし――できなかった。

 今のアリスには、思考する事すら不可能だった。


 ただ、ふと頭に浮かんだ影響なのか、彼女は無意識の内に、その言葉を呟く。


「あい、してるぜ……クソ、だーりん……」


 そして、アリスの意識は闇に落ちるのだった。

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