155 傍観者たち
『獅子の寝床』の店内で、ガルフ・コーディアスはカウンターに突っ伏しているノイル・アーレンスを見ながら「またか」と思っていた。
ノイルの周囲の空気はどんよりと淀み、陰鬱なオーラを全身から放っている。
以前にもこんな事があったが、その時よりも更に酷い状態だろう。
あの時はまだぶつぶつとうわ言のように蠟燭がどうのと呟き続けていたが、今回は言葉すら発していない。ただただ黙したまま、カウンターに顔を伏せていた。
ガルフがグラスにウィスキーを注いで目の前に差し出すと、彼は僅かに顔を上げ、濁った瞳でグラスを手に取り一気に飲み干す。
そして、再び元の体勢へと戻った。店に入ってきてから延々これの繰り返しだ。
不気味な呟きをしないだけガルフにとってはまだマシだが、この男は大丈夫なのだろうか。
ガルフは無言でグラスを回収し、新しいものを用意してから一つ息を吐き出した。
「で、あいつは何を悩んでんだ?」
そして、ノイルから数席空けた位置で談笑していたレット・クライスター、クライス・ティアルエに訊ねる。
「女だ」
「片腕を失くしたことより女か……」
即答したレットに、ガルフは呆れたように眉を顰める。
わかっていたことではあるが、やはりノイルがこれ程までに酒に溺れている理由は、女性関係らしい。
【湖の神域】を攻略して店を訪れた彼を見た時は大層心配したものだが、本人にとってはそんな事よりも周りの女性陣との関係の方が大問題のようだ。
相変わらず、大物なのか小物なのか……よくわからねぇ奴だ……。
ガルフは一度ノイルを見やる。すると、彼はふらりと顔を上げて、店の壁に飾られている色紙へと視線を向けた。
「…………ガルフさん、あれは……?」
「『狂犬』さんのサインだ」
「……………………」
ガルフが少し得意気になって答えると、幽鬼のような表情をノイルは向ける。
「…………その、眼帯は?」
「もらったんだ」
「……………………」
ガルフが右眼に付けた眼帯を、ノイルは何の感情も籠もっていないような瞳で見つめていた。
「実はな、この店舗は昔『狂犬』さん達の行きつけの店だったらしくてよ。お前たちが採掘跡に行ってる間、何度か来たんだよ」
「………………へぇ」
「色々と、話も聞かせてもらった」
「………………この店燃やしません?」
「お前は何を言ってんだ」
へらりと力のない笑みを浮かべたノイルは、塞ぎこむように再び顔を伏せた。
完全に沈黙した彼を見ながら、ガルフはここ数日の事を思い返す。
グレイ・アーレンスとその仲間たち――『曲芸団』が『獅子の寝床』を訪れていた際に、ガルフは彼らの関係性や思い出話を聞いた。当然全てではないだろうが師匠――ナクリ・キャラットとグレイの仲なども既に知っている。しかしそれはガルフの口から語るべきことではない。
奇妙な縁もあったもんだな。
ガルフはふっと微笑むと、店の奥から毛布を取り出してノイルの肩にかけ、レット達の前へと戻った。
「ダチが自分の親父のサイン貰って真似してたら、きっちぃぞ……」
レットがノイルに同情するかのようにガルフに目を細めてそう訴える。当然ガルフもそんな事はわかっていたので、直ぐに眼帯を外す。右眼に嵌めていたのは、単なる冗談のつもりだったのだ。
元より眼帯はサインの隣に飾る予定だった。
「いや、飾るのもきちぃぞ……」
しかしサインの隣の壁へと眼帯をかけたガルフに、レットは呆れたような瞳を向けていた。飾ってはいけない理由はガルフには理解出来ない。ファンとはそういうものだからだ。
戻ってきたガルフにレットはもはや何も言わず、空のグラスを差し出す。
ガルフはそこに炎酒を注ぎながら訊ねた。
「それで? あいつはまた誰かに惚れられでもしたのか?」
「んミーナ! だねぇ」
「!?」
「ちょ、零すなよ……あとは、『創造者』だな」
「!?」
「だあ! だから零すなって」
歯を輝かせたクライスとレットの返答に続け様に動揺して、ガルフは注いでいた炎酒をレットの手にかける。彼は顔を顰めて酒まみれになった手を服へと擦りつけた。
ガルフは恐々としながら、震える手でレットへとタオルを取り出して渡す。
「…………何がどうなったら、そんな事になんだ」
よりにもよって、また厄介な二人を。
特に、仲が良さげだった『黒猫』はともかく、あのクセしかない『創造者』にまで好かれるなど、一体何をしたらそうなるのだ。
いや、ノイルの周りにはクセのある女性しか居ないわけだが。
「知らねぇよ、ノイルんだからとしか言えねぇ」
「んミーナは、なるべくしてなった、という感じだけれどねぇ。『創造者』に関しては、俺も驚いたよ」
「いやいや俺はミーナ姉ぇにもびびったぜ。いつの間にか完全に惚れてる顔してたからなぁ。ミーナ姉ぇもあんな顔すんだな」
「んナッハッハッハッ! んミーナに聞かれたら殺されそうだねぇ!」
「言わねぇでくれよ絶対! つーかわかりやすすぎるミーナ姉ぇが悪いんだって!」
呆然としながら、ガルフは二人の話を聞いていた。
「……今、何人だ?」
「んあ? あー……」
ガルフに問われたレットが片手を開き一本ずつ指を折っていき、再び二本開いた。
「七人、か?」
「ひとまずマイフレンドの中に居る存在は含めずに、だとそうなるねぇ」
「あーそっかそっか。そっちは人数まではわからねぇからなぁ」
「…………そりゃ、悩むわな」
それだけの人数にただ好かれるだけならば、贅沢な悩みだといえるだろう。しかしレットもクライスもそれ以上の女性に言い寄られる程にモテるが、苦悩はしていない。
問題は、ノイルの場合好意を抱かれた相手が特殊すぎることだ。立場や能力を置いておいても、重い。とにかく重い。愛情が深すぎる。どいつもこいつも、とにかく重すぎる。
単純にノイルが誰かを愛したとして、彼と結ばれなかった者達がどんな行動に出るかわからない。ただ言えるのは、彼が誰かと結ばれようが、彼女たちの想いは変わらずそのままだろうという事だ。絶対に諦めないという確信がガルフにはある。
おそらく既に多少以上の自覚があるからこそこうなっているノイル・アーレンスは――彼女たちの一生の責任を背負わされているのだ。
自業自得の面も多々あるはずだが、それは一種の呪いだ。
愛という名の重すぎる呪い。
ガルフには解呪法など皆目検討もつかない。
というより無理だ。そんなものは存在しない。
しかもどんどんと進行していくタイプの呪いであり、時間が経つほど状況は悪化する。
術者達の能力が高すぎるため、全てを放り出して逃げ出す事も叶わない。
現にノイルは既に何度も逃亡を図り、その度失敗していると聞いている。
…………そもそもこいつは、何でそんな状態で日常を送れるんだ……?
ガルフは軽い畏敬の念を酔い潰れている男に抱いてしまった。
一つ選択を間違えれば取り返しがつかないような地雷原を、本能なのか何なのか気づかないまま歩いて全て回避しつつ、更に地雷の多い方向に進みながら、時折そうだと知らずに爆弾を拾っている。
普通ならとっくに破綻しているような状況を悪化させ続けているのに、何故か破綻しない。
女性の扱いが特段上手いわけでもないのは見た通り。
考えれば考えるほど意味がわからない。何だこの男は、改めて考えてみるとどんな思考回路と精神力だ。
蛙の子は蛙だというが、『狂犬』という傑物の子はどこを目指し何になろうというのか。
ガルフは一度瞑目し、一つ息を吐きだす。
まあ……出来る範囲でサポートしてやるか……。
そしてノイルへと憐憫の眼差しを向けながら、可能な限りは友の助けになろうと考えるのだった。
◇
『炭火亭』の調理場で、店主は店内の空気が凍りついたのを感じていた。
それと同時に、この店一番の元気な従業員が調理場へと戻ってくる。
「始まったか」
「はい」
「報告を聞こう」
二人は作業をしながらささやき声で短く会話を交わす。店主は振り返り、従業員達に告げた。
「少し任せる」
「へへ……ボーナスは弾んでくださいよ」
従業員達は汗を流しながらもにやりと笑い。口々に店主へと声をかける。それに応えながら、彼は調理場に併設されている休憩室へと入った。
臨時収入により防音設備を整えた部屋だ。
「ふぅ……」
彼の後に続いて休憩室に入った女性従業員が、後ろ手で扉を閉じ一つ息を吐き出した。
店主は振り返り彼女と向き合う。
「ヒモ失踪事件並の緊張感だな。何があった?」
「……キャットが、ヒモと寝た、と皆に宣言しました」
「……何だと? まさかそんな……それは悪手だろ」
二人が誰について話しているのかは言うまでもない。本日も『炭火亭』に訪れた『精霊の風』と『白の道標』の女性陣達についてである。
念の為に『炭火亭』の従業員は皆、彼女達の事をコードネームで呼んでいた。
一度は出禁にするべきか悩んだ程の相手だが、冷静に考えてみれば特に悪い事はしていないし、むしろどちらかといえばマナーもよく金払いも良い。
迷惑を被る事もあれど、その際には必ず迷惑料として大金を渡してくれる。
以前『炭火亭』を貸し切りにした時も、無理矢理にではなく事前に礼儀正しく予約をし、提示した以上の料金を気前良く払ってくれた。
別段店主は経営や生活に困窮しているわけではないが、蓄えはいくらあってもいい。
いつも頑張ってくれている従業員達にも臨時ボーナスを渡す事ができる上、そうする事で士気も上がる。
加えて、彼は当然その事を公表するつもりなど微塵もないが、あの『精霊の風』がお忍びで訪れる店という響きも魅力的だ。
言ってみれば、上客なのだ。
それも大層な上客。
問題は現在のように、店内の空気を死にそうな程に最悪にする事が度々ある点だが、人間には慣れというものがある。
確かに店主は最初は生まれてきた事を後悔する程に恐怖した。しかし彼女達は絶対にあのやる気が一切感じられず、締まりのない表情と死んだ目でへらへらと笑うノイルと呼ばれている男――コードネーム、ヒモが気に入っている『炭火亭』に危害を加える事はないだろう。
その確信があれば、自分達に直接殺気が向けられる事がなければ、何とか耐える事ができる程には店主の心は強くなっていた。
従業員達も、彼女達が来店した時点で精鋭以外は帰らせている。一度は阿鼻叫喚の地獄絵図となった事もあるが、もう弱音を吐く者は居ない。
「店長、一つ提案なんですけど、ヒモのコードネームをクズに変えませんか?」
かつて白目を向き、泡を吹いて失神した彼女も今ではこの通りだ。
店主は不快そうに眉を顰めている彼女へとゆっくりと首を振った。
「却下だ。彼女達にバレたら俺達は殺される。ヒモがギリギリのラインだ」
そもそも、『炭火亭』の面々はあの男の仔細を知らない。ヒモでも充分に失礼かもしれないが、流石にクズは言い過ぎだろう。
ヒモならばまだ彼女達に喜ばれる可能性もある。
「でも! あの男やっぱりクズですよ! クズクズクズ! 女の敵です! とうとう手を出しやがった!」
「お、落ち着け落ち着け」
地団駄を踏んで声を荒げる彼女を、店主は慌てて落ち着かせる。防音ではあるが、万が一外に漏れたら事だ。肝を冷やした彼はまだ荒い息を吐き出している彼女を見て嘆息する。
元気が良いのは美点だが、少々感情的になり過ぎるきらいがあった。
「……とりあえず、寝たってのはマジなのか?」
今やヒモを巡る彼女達の生の愛憎劇は、『炭火亭』従業員達の間で名物になっている。傍から観ているだけならば下手な演劇よりも遥かに面白い上、登場人物も一流過ぎる程に一流だ。
というより、こんな人間模様は人生で二度と拝めないだろう。彼らが盛り上がってしまうのも仕方のない話だった。
店主の前に居る彼女も、進んで注文を取りに行ったり、彼女達のテーブルを担当して聞き耳を立ててくる。そして、おそらくは誰よりも感情移入していた。
野次馬根性甚だしいが、面白いと気づいてしまったのだから仕方ない。これも迷惑料の内だと思ってもらおう。
しかし、今回のヒモの行動はどうにも腑に落ちないと店主は考えていた。
特定の相手とのみ一線を越えたのは、これまで上手いこと美女達を侍らせていた男にしては少々浅慮だ。大きくバランスが崩れてしまえば困るのは自分だろうに。
断片的な情報しか得られない『炭火亭』の面々にとって、ノイル(ヒモ)の印象はあまり良くないものだった。
昔から一度も自分で支払いをしたことがなく、どんどんと周りに女性を増やし続ける彼は、特に女性従業員達から酷評を受けている。
温厚で気の弱そうな振りをして、言葉巧みに女性を取り込み、貢がせ弄んでいるちょっと顔がいいだけのゴミ。
へらへらとした笑顔の裏でニタニタと笑ってやがるクソ野郎。
ヒモの評価は地に堕ちていた。
しかしヒモが美女に好かれるのは、よほど立ち回りが上手いからのはずだ。
だとしたら禍根を残すような下策に出るだろうか。一時の欲望に負けたのだろうか。
「……最後までは、やらなかったそうですけど……」
「それは――」
「身体を弄ぶだけ弄んであとはポイしたんですよ! 自分の立場が悪くならないように! 最後までやらなきゃセーフ的な考えで色々やらせたに決まってます!」
「なるほど」
ヒモは謂れのない誤解を受け続けていた。
頷いた店主は、更に訊ねる。
「周りの反応は?」
「バストは怒り心頭、カントリーは笑顔で口端から血を流し、シスターワンは掴みかかろうとしたのをシスターツーに止められてました。あと、シスターツーはやっぱり誰かとイヤリングで話してもいるみたいです。それでホワイトは……」
「ホワイトは?」
「――チーズを、炙ってました」
「炙ってた、か」
ホワイトの事だけは本当によくわからないが、『炭火亭』のチーズとワインの組み合わせをいたく気に入っている事だけは確かだ。
そんな事は置いておき、店主は本命の事を訊ねる。
「……スピリットとメイドガールは?」
キャットの爆弾発言で最も気になるのがこの二人の反応だ。仲間である彼女達は、キャットに対して複雑な心境となるのは間違いない。メイドガールはスピリットを慕い支持しているし、スピリットは言うまでもなくヒモに想いを寄せている。
友情と愛情。絆と恋。
彼女達の心情は一体どのようなものなのか。
関係は拗れ、複雑に絡まり合った想いは、どこに行き着くのか。
本人達には申し訳ないという思いも当然あるが、やはり面白い。ここから先は見逃し厳禁だろう。
「メイドガールは、相変わらず考えが読めません。スピリットは…………目を閉じてただ黙って聞いていました」
「薄々勘づいていた?」
「多分」
「……これ以上の偵察は?」
「危険というか無理です。もう近づける状態じゃないですよ」
「だよなぁ……」
「ただ」
「ただ?」
「皆を振り回して苦しめているクズは死ぬべきかと」
「怖いって君」
店主は目の前で、これ以上ない程の憎しみを込めているであろう瞳をギラつかせる女性従業員の事が不安になってきた。
だが、『炭火亭』は絶対に余計な干渉はしないと決めている。傍観者としての立場を逸すればクビだ。その取り決めがある限りは大丈夫のはずたが、彼女の溜まったフラストレーションを解消する為に、今度何処かに連れて行ってやろう。
「あのクズ、全員にスライム美容液をプレゼントしたらしいですよ」
「また高価な物を……ギャンブルで一山当てでもしたか?」
「どうせギャンブルに使ったのも彼女達のお金ですよ」
「まあ……それでも恋は盲目というし、突然のプレゼントは効果的だろうな」
「全部計算尽くですよ。そういう所が本当にクズ。大体、全員に同じ物なんていくら高価でも適当すぎません?」
「誰か一人を特別扱いできないからなぁ」
「やっぱりプレゼントっていうのはちゃんとその人の為だけに選んだものじゃないと。……スライム美容液はちょっと欲しいけど」
ボーナスも弾んでやるか。
店主はそんな事を考えながら、やや私見の混じり過ぎた彼女の報告を聞く。
そして、これからもそっと、お得意様達の物語を楽しませてもらおうと思うのだった。
 




