154 三度目の正直
「ふむ……」
採掘者協会の最上階。
執務室兼、私室であるそこで、ヴェイオン・ライアートはソファに腰掛け、顎に手を当てた。
大きな窓際に置かれたアンティーク調の執務机の上には様々な書類が山積みとなっており、彼の代わりにサラ・レルエがそこで書類の整理を行いながら、時折ヴェイオンに睨めつけるような視線を向けている。
観葉植物に申し訳程度の調度品が飾られた部屋は、実用的、という言葉がしっくりくる様相だ。
ヴェイオンはテーブルを挟んだ対面のソファに腰掛けている誰もが見惚れるであろう美女、エルシャン・ファルシードへと目を向けた。
瞳を閉じ、美麗に優雅に、共されたハーブティーを味わっている彼女の隣には、無表情でじっと彼を見ているソフィ・シャルミルが姿勢を正して座っている。
「つまり……【湖の神域】についての情報は、公表するべきじゃねぇと?」
「ああ」
ヴェイオンに問われ、エルシャンはカップを静かに置いて頷いた。
「下手に公表し、挑戦する者が現れるのは危険だ。あの場所はボクも含め今の採掘者の手に負えるような所ではない。それにボクらが【湖の神域】に踏み入ったという事実は、やはり伏せておきたいところだ。踏込もうという者が居れば、その者達だけに伝えるのは構わないけれどね」
「……だが、お前らはこうして無事に戻ってきたじゃねぇか」
「無事……? それは違う。ボクらは多大な犠牲を払ったと言ったはずだ。何を聞いていたんだ……? ヴェイオン」
ピシリ、とカップに罅が入る程の怒気がエルシャンから放たれ、室内の空気は途端に冷え込んだ。
何事かといった様子で、サラが慌てたように眼鏡を上げながらヴェイオン達を見る。
「悪い、ノイル・アーレンスか……」
平時からは想像できない程に感情を顕にした彼女に、ヴェイオンは冷や汗を流しながらも気圧されないよう、平静を装い腕を組む。
「……こちらこそすまない。少々感情的になってしまった。だが、言った通り彼とミリスが居なければ【湖の神域】の攻略はあり得なかった。ボクは実質何もしていないんだ。ノイルが片腕を失ったというのにね……自身の無力さを思い知らされたよ……」
エルシャンはふっと怒気を収め、自嘲気味な薄い笑みを浮かべる。
「ルートの内一つはそもそもミリスの独壇場で情報は無いに等しい。もう一方は――ソフィ」
「はい、お伝えした通り、ソフィ達はだ……ノイル様の片腕を犠牲に、辛くも突破する事が出来ましたが……もう一度やれと言われても不可能でしょう。それぞれが死力を尽くし、実力以上の力を発揮し、何より奇跡が重なったからこそ最深部へと辿り着く事ができただけに過ぎません。そして、ミーナ様とアリス様の両名を奮い立たせ導き、その奇跡を起こしたのがだ……ノイル様です」
「瀕死に陥ったノイルを救ったのもミリスだ。ボクではなく……ね。わかるだろう? この二人の存在が、どれ程大きいものだったのか」
瞳に昏い輝きを帯びたエルシャンの姿は、これまでヴェイオンが見た事がないものだった。
彼女程の人間が、自虐的になるほどに自身の力不足を思い知らされる状況など想像するのも難しい。しかし、エルシャンの言葉に嘘偽りが無いことだけははっきりと理解できた。
ヴェイオンは思わず笑ってしまう。
「採掘者でもねぇ二人が居なければ、お話にすらならなかったと。そう言いてぇのか」
「……採掘者でもない、か。それは、どうなんだろうね」
「あん?」
そんな彼に、エルシャンは意味深な言葉を返した。
「ヴェイオン、キミはミリス・アルバルマを何者だと思う?」
問われ、ヴェイオンは純白の魔人族の事を思い返す。『狂犬』の息子であるノイル・アーレンスも話を聞いた限りでは突出した存在であるようだが、ミリス・アルバルマはもはやそういう次元の話ではない。
殆ど――いや、全て一人で【湖の神域】の守護獣を何もさせずに打倒したのだという。
到底信じられる事ではないが、それが事実なのだとしたら、規格外という言葉にすら収まりきらないだろう。
一体、何者なのか。
「かつて、ランクS採掘跡を物ともせず、遊び半分で攻略した存在とキミは面識があるんだろう?」
考え込んでいたヴェイオンは、エルシャンに訊ねられ勢い良く顔を上げた。
「おい、まさかお前は……」
確かに彼女ならば、それぐらいの事はやってのけるだろう。しかし、あまりにもヴェイオンの知っている彼女とはかけ離れている。
容姿も雰囲気も、何もかもが違う。
お主は相変わらずじゃのぅ――。
だが、彼の頭にはあの時ミリスに言われた事が浮かんだ。まるで、昔の自分を知っていたかのようなあの言葉が。
ヴェイオンはあまりにも荒唐無稽な話に、けれど否定し切れない可能性に、頭を抱える。
「いやいやちょっと待て……ありえねぇぞ……同一人物、だとでも言うつもりか……?」
「あくまでも、ボクがそう思っているだけだけれどね」
ミリス・アルバルマが、クイン・ルージョンだと――?
「…………だとして、どうやって……いや、方法はどうでもいいか……何故姿や名前を変えた?」
「彼女にとってはむしろクイン・ルージョンが仮の姿だったんだろう。採掘者を辞めたのは……飽きたから、という理由がしっくりくるかな」
肩を竦めながらエルシャンにそう言われ、ヴェイオンは唖然と口を開いてしまう。
飽きたからなどというふざけた理由で、史上初のランクS採掘者としての地位や栄光を手放したというのか。
「ミリスはその手の事には興味がないんだよ。いや、無くなったのかな。ランクS採掘者としての立場は、思ったよりも窮屈で退屈だったのかもしれない」
表情から考えている事を察したのか、エルシャンは彼にそう言った。
酷い困惑に苛まれながらも、ヴェイオンは何とか言葉を絞り出す。
「だから……捨てたってのか」
「おそらくはね」
「それで……今は……寂れたなんでも屋の、店主、だと……?」
何だその生き方は。
無茶苦茶にも程がある。
あまりにも馬鹿げた生き方だ。
人騒がせで、自由が過ぎる。
「けれど、幸せそうだ」
ふざけるな、という言葉を、エルシャンの声で彼は飲み込んだ。
代わりに深く嘆息すると胸ポケットから煙草を取り出して火を灯す。
何時も持ち歩いているバインダーに猛烈な勢いで何かを書き込んでいたサラが、咎めるような視線をヴェイオンに向けたが、彼は意に介さず紫煙を吐き出した。
「また隠し事が増えたじゃねぇか」
ぼやいたヴェイオンに、エルシャンがくすりと微笑む。
「何もしないのかい?」
「藪はつつかねえ主義なんだ」
「まあこれは、所詮ボクの戯言に過ぎないしね」
「ああ、だから俺に報告の義務はねぇ」
「また私も巻き添えですか……」
サラが諦めたように肩を落とし、バインダーをしまうと書類の整理を再開した。
「まあお前らの言い分はわかった。今回の件は公表はしねぇ。だが偉業を成し遂げた事には変わりねぇのに、よく『創造者』が承諾したもんだな。あいつならむしろ、鼻高々に尾ひれをつけて吹聴して回りそうなもんだが」
「アリスは……名誉など比較にならない程に価値のあるものを得られたんだろう。とても満足そうだったよ」
「……そうか」
ヴェイオンは笑みを浮かべる。
アリス・ヘルサイトは抱えていた問題を無事に乗り越える事が出来たのだろう。二十年ぶりに再開したグレイ・アーレンスから語られた真実は、彼女にとって過酷なものだとヴェイオンは考えていたが、どうやら心配事は一つ消えたようだ。
グレイの方からもやり残した仕事は終えたと報告を受けている。
ロゥリィ・ヘルサイトを巡る一件は無事に片がついた。危ない橋を渡った割にヴェイオン自身は得られるものなど何もなかったが、悪い事ばかりではない。
もっとも、そう考えるのは今回の立役者の一人であり、片腕を失ったノイル・アーレンスに悪い気もするが、『狂犬』の息子ならば気にもしないだろう。
しかし……初めて顔を合わせた時の印象はあまり良くないものだったが、やはりあの男の息子は面白い人間らしい。
出来る事ならば採掘者にスカウトしたいところだ。能力も、人間性も申し分ない。
だがヴェイオンはそれ程愚かな真似はしない。
『絶対者』のお気に入りに手を出すような馬鹿ではなかった。
とはいえ、『精霊王』や『創造者』が彼を巡りこれからも何かやらかしかねない。『沈黙の猫』の娘である『黒猫』も気になるところだ。そちらは娘よりも父親の方が問題だろうが。
なんにせよ、ノイルという男の動向には目を光らせておく必要があるだろう。
まったく、この面倒くささは間違いなく『狂犬』の血を継いでいる。
それは毎度面倒事に巻き込まれている彼にしてみれば理不尽な結論だったかもしれないが、ヴェイオンはそう思いつつも、どこか充足感を味わいながら紫煙を吐き出すのだった。
◇
「たのもーッ!! たのもーッ!!」
今日の僕はハードスケジュールだ。
アリスちゃんが無事課題を乗り越えたのを見届けた僕は、『精霊の風』のパーティハウスへと赴いた。
泣き疲れた彼女が眠るまで、手を握る事を要求されたのですっかり遅くなってしまったが、もう一つ早々にやらなければならない事が残っている。
夕陽に照らされながら、僕は屋敷の門前で少々声を張り上げていた。これから行う事には気合が必要なのだ。
あのミーナ・キャラットと――喧嘩をするのだから。
目立ってしまっているが、外套を深く被っているので頭のおかしい人間程度にしか思われないだろう。関わりたくない存在に、人は近づかないものだ。
…………正直、もういいんじゃないかなとも思っている。もう僕怒ってないんだよね。ミーナも最後の方は態度も普通だったんだよね。何か悩み無くなってたような気がするんだよね。
やる必要あるのかな、これ。
僕がただただ痛い目に遭うだけな気しかしないよ。
しかしあそこまで言った手前、引くに引けなくなってしまっている。もうここまで来たら勢いで乗り切るしかない。
どうせ負けるだけだろうが、それで仲直り出来るならやってやる。
「遅れてすいません!! さあ果たし合いだ!! ミーナ・キャラット!!」
僕は折れそうになっている心を奮い立たせる為、更に声を張り上げた。
今から殴られる恐怖を必死に誤魔化していた。
それにこれは作戦なのだ。
なんかこう……いい感じの気合いで相手を萎縮させる的なそう……あれだ。
先手を取るのだ。
「出てこいやぁッ!!」
「やっかましいわよッ!!」
「ひっ……すいません」
玄関からツカツカと歩いてきたミーナに怒鳴られ、僕は作戦の失敗を悟り、凄まれて怖かったので謝った。
冷静に考えなくとも、所詮張りボテの気合いなどミーナに通じるわけがない。
「はぁ……入りなさい」
「あ、はい」
心底呆れたような息を吐いて門を開けた彼女に促され、僕はすごすごと屋敷の敷地内に入る。
もう帰りたかった。
「行くわよ」
「あ、はい」
しかし言われるがままに僕は歩き出したミーナの後に続く。エルとソフィは今日は採掘者協会に【湖の神域】の報告へと行っている。レット君とクライスさんもオフなので屋敷にはいない。
元より二人切りで決着を着けるつもりだったとはいえ、助けが期待できないというのは何とも心細い。
まあ、僕には〈店長召喚〉という最終手段が残されているので何とかなるはずだ。
内心びくびくしながら屋敷に入り、そのまま歩いて階段を下り、地下の訓練場へと入る。
「ん?」
それと同時に、僕は首を傾げた。
訓練場の壁際に、何かがある。
何だろうあれ……ぬいぐるみに、シーツを被せてあるのかな。何か、親近感を覚える顔が描いてあるけど。
「ミーナ、あれは……?」
訊ねると、ミーナは僕からふいと顔を逸らした。
「…………練習、してたから」
なるほど。
つまりあれはサンドバッグという事か。
どうりで僕の顔に似ている。
ははっ、始まる前からヘビィな精神攻撃を打ってくるじゃないか。胃に響くぜ。
おしっこちびりそう。
「………………そう、なんだ」
「…………うん」
僕はシーツを被せられたぬいぐるみから視線を逸らした。あれを見ていると恐怖に心を支配されてしまう。サンドバッグを用いて練習していたのなら、ミーナは中々に仕上がっているのだろう。
まずい、彼女ももう怒っていないのでは? などと思っていたが、考えが甘かったようだ。
完全にキレてるよ。ボコボコにする気だよ僕を。
「…………ミーナ、僕らが喧嘩をするのは、これで三度目だね」
「……そう、ね」
なんとかならないものだろうか。僕は心理作戦に出る。
「もう、いいんじゃないかな?」
今一勝一敗でちょうどいいし、もう辞めない?
情けなくも僅かな期待を抱いてミーナに訴えかける。喧嘩とか止めよう。仲直りしよう。
「ええ……もういいわ。これで最後よ」
今回で殺すって事かな?
だめだ、ミーナは殺る気満々だ。
何やら決意を込めたような瞳で拳を握りそう言った彼女を見て、僕は絶望した。
「ほら、やるわよ」
「あ、はい」
どうする事も出来ず、僕とミーナは訓練場の中央辺りで距離を置いて向き合う。深紫の瞳が、逃さないとばかりにこちらを射抜いていた。
こうなったら、やるしかない。
僕は外套を勢い良く脱ぎ捨てた。
「ミーナ」
「何?」
「僕は――寝不足なんだ」
まずは精神攻撃。
体調の悪さをアピールして、手加減を誘う。慈悲を求める。
「…………」
「星湖祭だったからね、朝まで店長に付き合わされて――」
「へぇ?」
「ひぇ」
突然、ミーナから可視化出来そうな程の怒気が放たれた気がした。
どうやら僕は何か間違えたらしい。彼女の攻撃力が上がった気がする。
しかしそれは一瞬の事で、直ぐに肌を突き刺すような空気は霧散した。
「…………もう黙ってて、始めるわよ」
「あ、はい」
ちくしょう失敗だ。精神攻撃は何故か逆効果だった。僕は冷や汗を流しながら頷く他なかった。
一つ息を吐き、覚悟を決め、クールに微笑む。
いいだろうミーナ・キャラット。
三回戦目を始めよう。
君の拳が届くのが速いか、僕の〈店長召喚〉が速いか――勝負だ。
「…………」
「…………」
合図はなかった。
しばしの沈黙を挟み、ミーナが一歩踏み出す。
――《黒爪》を発動させずに。
想定外の行動に困惑する。
一体、何のつもりだろうか。
彼女はただ無防備に僕へと歩み寄り、拳一つ分程の距離で立ち止まる。
警戒する僕の前でミーナは一度顔を伏せ、再び見つめ――口を開いた。
「――好き」
「………………………………は?」
「あんたが、好きよ」
その真っ直ぐな精神攻撃は――あまりにも強烈だった。
思考が停止し、呆然と馬鹿みたいに口を開ける僕に、ミーナは抱きつき脚をかける。
押し倒されたのだと気づいたのは、彼女が耳元で再度その言葉を囁いた時だった。
「……大好き」
瞬間、僕は彼女に唇を塞がれ、目を見開く。
閉じた瞼に長い睫毛、垂れた艶のある黒髪が頬をくすぐり、爽やかな甘い香りは鼻腔をくすぐる。熱く柔らかな感触に、一瞬で頬が熱を持った。触れ合う唇から、全身に熱が広がって心臓がうるさくなり始める。
触れ合わせるだけの子供のような、けれど疑いようのない感情が乗せられたキス――。
そっと、ミーナは唇を離す。
「み、ミーナ、ちょっと――ん!?」
何か言わなければと、口を動かそうとすると再び彼女は僕へと口付ける。
何度も何度も、余計な事は言うなとばかりに、ミーナは唇を重ねてきた。
「…………」
「………………迷惑でも」
喋る事を諦め、口を閉ざすとミーナは殆ど唇が触れ合う距離でぽつりと呟く。
近すぎて、互いの顔ははっきりと見えず、真っ赤に染まった頬と潤んだ深紫の瞳を、僕はただふわふわとした頭で見ていた。
「…………裏切りだとしても」
甘く、けれど芯のある囁き。
「……どうしようもないくらい」
重なった全身から伝わる熱く早い鼓動。
「あんたが好き」
それは唐突で、一方的で、けれど――これ以上ない程の真っ直ぐな告白だった。
「自分の気持ちに、もう嘘はつかないわ」
笑みを浮かべた彼女の瞳から、一滴の涙が僕の頬へと零れ落ちる。
「大好きよ、ノイル」
そして、もう一度ミーナは僕へと口付けた。
もはやそんな事はどうでもいいが、ぼんやりとこう思ってしまう。
三回戦目は、やはり僕の負けなのだろう、と。
彼女との関係をどうするのか直ぐに答えは出せないが、ミーナの気持ちは――深く心に刻まれたから。
何も出来ず、何も言えず。
理解の追いつかない頭と心で、僕はただ呆然と触れ合う唇の感触と想いを感じていた。




