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131 約束


「ああ、エル」


「何だい?」


 話しを終え、エルの部屋を退出しようとしたところで扉に手をかけたまま僕は振り返る。

 すると彼女は目と鼻の先に立っていて心底驚いたが、もうそれを指摘するのも面倒なので僕は内心の動揺を抑えて、綺麗な微笑を湛えているその整った顔を見ながら伝えておくべき事を口にした。


「気のせいかもしれないけど、ミーナの様子が少しおかしいように見えたんだ」


 吐息が触れ合う程の距離にある美しい翡翠の瞳を、エルは僅かに伏せる。


「そうだね……ボクも同じ事を思っていたよ。……もしかすると、彼女は……いや、今はよそう」


 そう呟いた彼女は、再び真っ直ぐに僕を見た。


「その点については問題ないだろう。ミーナはプロだ。たとえ悩みがあろうと、私情によってヘマをしたりはしない。だから今はそっとしておいてあげてくれないかな? 彼女は弱くない。いずれ……話してくれるだろう」


 エルの瞳が一瞬ふっと憂いを帯びた気がした。

 やはり、彼女は僕よりもはっきりとミーナの異変に気づいていたらしい。おそらくだが、その理由もエルなりに把握しているのだろう。


 こちらも思い当たる節があるかと言われれば当然ある。先日の一件だ。

 僕も未だミーナと普通に接する事ができている自信はない。しかし、あの件は彼女自身になかったことにしようと言われた。僕もそうするべきだとは思うが、かといって簡単に忘れられるものでもないだろう。

 でも、僕への態度が極端におかしいというわけでもないんだよな……。


 自意識過剰というやつだろうか。

 今ミーナの様子が少し妙なのは、あの一件とは関係ないのかもしれない。


「……わかった。そうするよ」


 今は、エルの言う通りにしよう。

 彼女の方が、ずっとミーナの事を知っているはずだから。

 頷くとエルは微笑んで――僕の首に腕を回してきた。


「まったく……キミは困った旦那様だ」


「旦那ではないです」


 そして、耳元でそう囁いてきたので、僕は彼女の腕をほど……解けねぇ。解けねぇ何これ。

 全然力が込められてる感じはしないのに、解けねぇ。手品かな?


 すっかり油断していた。今夜はおかしな空気になることはないと高を括っていた。

 その結果がこれですよ。


 しかし、僕の焦りはどうやら杞憂だったらしく、エルは一度耳元でくすりと笑うと、離れてくれた。離れ際に頬に何か温かく柔らかなものが触れたのはきっと気のせいだろう。


「ふふ、それじゃあおやすみノイル」


「……うん、おやすみ」


 唇に指を当てて可愛らしく微笑むエルと挨拶を交わし、僕は彼女の部屋を後にした。

 そして、ぼんやりと頬に手を当て、一つ息を吐き出し、どうしたものかと頭を悩ませながら廊下を歩くのだった。







 あてがわれた部屋のベッドの上で、仰向けになりぼうっと天井を見つめる。


「まーちゃんに見捨てられるかもしれない……」


 今も『白の道標(ホワイトロード)』で僕を待っているであろう彼女の事を思い浮かべながら、ぽつりと呟く。いや、もしかしたら既に見離されているのかもしれない。客観的に見て、これ程だらしない男がいるだろうか。僕はいつの間にか、本気でクズの道を歩んでいたのではないだろうか。


 いくら優しい彼女でも、こんな男をいつまでも好きではいてくれないだろう。というか、何だろうこの状況。何がどうなってこうなった。


 世の中には、責任という言葉がある。

 僕の最も嫌いな言葉である。


 今それが、僕に全力疾走で向かってきている。

 脱兎も崇め奉る僕の逃げ足でも、もはや無視できない速度になりつつあった。


「よし」


 だから僕は、更に全力で無視することにした。舐めてもらっては困る。僕はこういう男だ。


 いや今は目の前により重大な問題が聳え立っているからね。

 【湖の神域(アリアサンクチュアリ)】の攻略のため、もう今夜は何も考えずに寝るとしよう。

 ああでもその前に、テセアと少し話をしなければならない。


 そう思い、ベッドから身を起こした時だった。

 ノックの音が部屋に響く。


 ふむ……普通のノック、か。

 店長とレット君はノックなし遠慮なしで部屋に入ってくるし、ソフィは何故か口で言う。

 クライスさんのノックはもっと無駄にリズミカルだ。エルとミーナは普通だが、エルは先程話をしてきたばかりだし、ミーナが訪ねてくるとは思えない。

 そうなると、今この屋敷に居る人間で考えられるのは――


「テセアかな? ちょうど良かった。入って」


「……すごい。何でわかったの?」


 僕が相手が何か言うよりも早く声をかけると、テセアが扉の隙間からひょっこりと感心したように顔を覗かせた。

 間違えていたらだいぶ恥ずかしかったが、僕はクールな笑顔で部屋に入ってくる彼女を迎える。


「ちょっとした、推理ってやつ、かな」


 そして、そんな大層なものではないが、クールに指で額を叩きながらそう言っておいた。何故こんな事をしているのかは自分でもよくわからない。

 ただ思ったよりテセアが理想的なリアクションをしてくれたので、楽しくなってしまっただけだと思う。僕はもしかしたら疲れているのかもしれない。


「ふぅん、よくわかんないけど、変な時のお兄ちゃんだ」


 グサッときた。

 にこにこしているテセアに悪意はないのだろうが、グサッときた。

 悪意がないからグサッときた。テセアすら既に僕に変な所があるのは当然だと認識しているらしい。何故そうなってしまったのか見当もつかない。この世は不思議だ。


 若干落ち込んだが、表情には出さないように僕はクールにベッドに座り直した。

 そして改めてテセアと向き合う。彼女は先日購入したばかりの白地に黒い水玉模様の寝間着(パジャマ)を着ている。これはシアラとお揃いで買った物で、シアラの方は黒地に白の水玉模様だ。


 部屋から持ってきたのか、枕を抱いているのがまた愛らしい。

 こんなに可愛い子が僕の妹とか、僕は一体どんな徳を積んだんだ。


 そう思い、はっと我に返り顔に手を当てた。

 気づかぬ内に父さんとほぼ同じ思考をしている。もしかしたら僕は疲れているのかもしれない。


 正気に戻るんだノイル・アーレンス。あんなおっさんになっていいのか。いいわけがないだろう。想像するだけで悍しい。

 あの人は反面教師にこそすれど、同類になってはいけない存在だ。クールだ。クールになるんだノイル・アーレンス。お前とあの人は違う。


「ちがうぞ……僕はまともだ……ちがうんだ……変なおっさんになってはいけない……」


「おーい、戻ってきてー」


 顔に手を当てたまま自分に言い聞かせていると、テセアが隣に腰かけ、肩を揺すってきた。

 それで正気を取り戻せた僕は、ゆっくりと顔から手を離し、テセアにクールな笑みを向ける。


「大丈夫だよテセア。僕はまともだ」


「多分ね、まともな人はそんな事言わないよ。いい加減戻ってきて? アリスの事で話があるの」


 苦笑を浮かべるテセアに、軽く頬を抓まれ、今度こそ僕は目を覚ました。しかし、面白かったのかテセアはそのままぐにぐにと僕の顔を片手で弄る。仕方ないので、そのまま彼女に問いかけた。


「ひゃひぃすのほほ?」


「あ、ごめんごめん」


 はっとした様子でテセアは手を離してくれたので、僕は改めて訊ねる。


「アリスのこと?」


「うん、様子がおかしかったでしょ? だから私、かなりしつこく訊いてみたの。どうしたのかって。そうしたら、理由をやっと教えてくれたんだけど……」


 テセアって胆力凄くない? 

 あの普段から近づく者皆傷つける勢いのアリスちゃんから無理矢理訊き出したの? しかも今の鬼気迫る彼女から? 胆力凄くない?


 僕なら絶対無理だよ。

 まあ、アリスちゃんも理由を話せるくらいには、テセアに心を開いているということだろうけど。


 会議の時のテセアの事を考えると、シンプルに嫌だな、二人がマブダチになるの。

 何か近所のちょっとやんちゃなお兄さん達に、純朴な子が懐いてしまったような危うさを感じてしまうよ。お兄ちゃん心配。


 まあ、とりあえずその辺りは置いておくとしよう。


「理由って課題のこと?」


 僕が訊くと、テセアは驚いたように目を丸くした。


「知ってたの?」


「いや……さっきエルに訊いて来たんだ。それをテセアにも教えておこうと思ったんだけど……必要なかったね」


 僕は頬をかきながら、若干視線を逸らしつつ答える。なんだかバツが悪い。テセアは自力でアリスちゃんから事情を訊いたのに、僕はちょっとずるい手を使ってしまった。

 まあ、僕だと彼女のようにはいかなかっただろうから、仕方ないと思うことにする。元々僕は正攻法は苦手なのだ。汚属性が今更取り繕っても仕方がない。


 でも、テセア。

 お兄ちゃんを見捨てないでね。

 泣いちゃうから。


 情けないことを考えながら恐る恐るテセアに視線を戻すと、彼女は何故か更に驚いたような顔をしていた。


「すごい、アリスの言った通りだ」


「え?」


「私、お兄ちゃんに話していいかも訊いたんだけど、アリスはどうせクソ『精霊王』がクソ下僕に話してんだろって言ってたんだ」


 あー……なるほど。

 アリスも僕とエルがどう動くかくらいはお見通しだったわけね。ということは、エルもわかってて僕に話したんだろうな。止めないということは、教えても構わないと判断していたわけだ。


 アリスちゃんには謝ろうと思ってたけど、必要なさそうだな。こっそりエルに探りを入れた事をこの先ネチネチ言われる可能性はあるけども。


「うーん、すごいなぁ。私には察したりするのって、まだ難しいんだよね。お兄ちゃんたちみたいにはいかないや」


 僕、わかってなかったけど。


 まあ、テセアはこの先人付き合いを深めていけば、間違いなく僕よりも察しが良くなるだろう。だから焦る必要はない。


「テセアなら大丈夫だよ」


 何も察して行動していなかった僕は、クールに微笑みテセアの頭を撫でた。

 すると、彼女はじっと上目遣いで僕を見つめてくる。


「多分、お兄ちゃんはわかってなかったよね?」


 バレた。

 成長してるじゃないか、ははっ。

 だけどもっとゆっくりでいいんだよ? 

 焦る必要はないからね? 

 じゃないと僕の立つ瀬が凄い勢いでなくなっていくからね。

 この兄はどうしようもない奴だと気づくのは、もう少しだけ待ってください。


「ぷふっ、当たりだ」


 テセアは彼女独特の、頬を膨らませる笑い声をあげ、嬉しそうにそう言った。僕の兄としての威厳はもう地に落ちたかもしれない。


「あ、待って。手はそのままがいい!」


 笑顔を引き攣らせ、そっと頭から手を離そうとすると、テセアは慌てたように僕の手に自分の手を重ねた。


「落ち着くから、そのまま」


 そして、照れくさそうに笑う。


「ふっ……」


 僕は再びクールな笑みを浮かべた。

 どうやら僕はまだ兄で居られるようだ。


「……何で泣きそうになってるの?」


 クールな笑顔になっていなかったらしい。テセアが心底不思議そうに訊ねてくる。


「気にしないで」


「気になるけど、わかった」


 できた妹だぜ。

 まったくなんだいこの子は? 天使かな?


 僕は万感の思いを込めてテセアの頭を撫でながら、話を本題に戻す。


「えっと、それで……テセアはもしかして、アリスちゃんの話してくれた理由が、納得いかなかったのかな?」


「そう! そうなの! すごいお兄ちゃん!」


 テセアは興奮したように瞳を輝かせ、枕を抱いていない方の手をぶんぶんと振る。


「やっぱりお兄ちゃんもそう思った? 何か変だよね! アリスらしくないっていうか……絶対何か隠してるよ!」


 なんだいこの可愛い生き物は。

 両手で抱きしめ直した枕に頬を膨らませて顔を乗せたテセアを見て、僕はそう思った。

 彼女は不満げな顔のまま、ぷしゅーと、頬に溜めた空気を吐き出す。

 なんだいこの可愛い生き物は。


「なんか変……なんか変なんだけど……わかんない。だからね、お兄ちゃん」


 テセアは顔を上げ、先程の子供っぽい仕草とは打って変わって僕へと真剣な眼差しを向けた。


「アリスをお願い」


 それが、彼女がこの部屋に来た理由だったのだろう。


「アリスは、私にとって初めての友達で……でも、私にはこれ以上は何もできないから……だから……」


「任せて、テセア」


 やるせなさそうな表情を浮かべるテセアに、僕は笑顔を向けた。そして、頭を優しく撫でる。


 果たして僕に何ができるのかはわからないが、妹の頼みならば僕は無条件で引き受けるよ。それが兄ってやつだろう。

 それに元より、全員で無事に帰ること以外は考えていない。


 だから、心配しないで待っていてくれ。


「お兄ちゃんも、絶対帰ってきてね」


 その信頼を裏切るわけにはいかないだろう。だから僕には似合わないが、力強く頷く。


「約束するよ、必ず帰る。皆でね」


 テセアは安心したように微笑み、頷いてくれた。


 そのまま二人で笑みを交わしていると、ふと、テセアは頭に置かれた僕の手を取り、枕を抱えた胸元に寄せると、両手で握った。

 どうしたのかと思っていると、彼女は窺うように僕を上目遣いで見てくる。


「あ、あのね……もう一つお願いがあって……」


「うん?」


 無意識にだろうか、僕の手を両手で擦りながら、彼女は意を決したようにやや頬を染め、口を開いた。


「今日は、一緒に寝てもいい……?」


「もちろんさ」


 即答した。

 テセアは照れくさそうな笑みを浮かべる。


「やったぁ」


 なんだいこの可愛い生き物は?

 信じられるかい?

 こんなに可愛い子が僕の妹なんたぜ? 

 僕は一体どんな徳を積んだというんだ。


 しかし……ああ、しかし、だ。

 即答しておいてなんだが、一つ問題があったな。


 嫌なことを思い出した僕は、頬を染めてはにかんでいるテセアに、申し訳ない気持ちで告げる。


「多分、店長が途中で来るけど、気にしなくていいから」


「え? ミリスさん?」


「うん……」


「…………私、じゃま?」


「むしろ店長が邪魔だね」


「え? 約束してるんじゃないの?」


「してないね」


「…………どういうこと?」


「勝手に来るんだ」


「…………どういうこと?」


 僕にもわからないよ。ただあの人寂しがり屋だから、慣れた場所じゃないと一人じゃ眠れないんだよ。

 十中八九、今夜は潜り込んでくる。僕にはもうわかるんだ。そしてそれは防ぎようがない。


「とにかく、気にしなくていいから。何かそういう生き物だと思ってれば無害だから」


「う、うん……わかった……」


 僕は戸惑った様子のテセアを先にベッドに寝かせ、とりあえず部屋の入り口を手頃な棚で塞いだ後、部屋の明かりを消して彼女の隣で横になった。


「…………お兄ちゃんとミリスさんってどういう関係なの?」


 僕の行動を黙って見ていたテセアが、理解できないといった顔で問いかけてくる。


「なんだろうね」


 僕にもよくわからない。

 なので、困惑しているテセアの頭を一度撫で、「おやすみ」と声をかけて瞳を閉じた。

 しばしの間があって、テセアからも「おやすみ……」と声が返ってくる。そして、手が遠慮がちに握られたの感じた。


 僕がそっと握り返すと、すぐ隣からは「えへへ」と小さな笑い声が聞こえてくるのだった。

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