少年の腕
「何だ、これ……!」
悠希は思わず目を疑った。何回も目をこすって目の前を凝視するが状況は変わらない。
いかにも手作り感満載のそれは元々白く塗られた板でできていたのだろうが、黒ずんだり板が割れていたりしてオンボロな雰囲気がある。
そこに墨で書かれた太い文字。
『命、貰います』
まさにホラー映画のワンシーンにでも遭遇したような気分だった。急に風が冷たくなり、悠希はぶるっと身震いをする。
まだそんなに日は暮れていないなのに夜みたいに思えた。
「つ、疲れてるんだな。早く帰ろう」
悠希はそう言い聞かせて足を進めていった。
幸いその先には怪しいものもなく、家に着くまで何も起こらなかった。
悠希はホッと胸をなでおろして家に入った。
この前みたいに咲夜の話が長引いたら大変だと思い、先に荷物を置いて行くことにしたのだ。
少し遅れるが、待ってくれてるだろう。
悠希はそう思いながらひとまず手と顔を洗おうとリビングに行った。
「お帰り」
珍しく早引きしたのか母親がスマホをいじっていた。
「ただいま。今日は早いんだな」
「仕事が早く終わったのよ」
「そっか。ゆっくり休めよ。こういう時にしか休めないんだから」
「どーも」
母親が笑ってお礼を言った。
悠希の母親は警察官で日中は絶えず警察署で働いている。今日は特に目立った事件もなく当番も当たっていなかったため早引きしていいと上司から言われたのだった。
悠希はまたスマホに目を戻してくつろいでいる母を見ながら微笑み、荷物をリビングの端に置いて
「じゃあちょっと散歩行ってくるな」
「珍しいのね、行ってらっしゃい」
こんな時間に子供を外に出すのに躊躇しない、流石は自分の親だなと思いながら「うん」と返事をして外に出る。
さっきよりもだいぶ日が沈んでいた。
もしかすると咲夜はもう待っているかもしれないと思い、悠希は急いであの道端に向かった。
「あれ?いないな」
いつも咲夜が待ってくれている場所に行ってみたが、咲夜の姿はなかった。
もういつもより時間は遅いのにどうしたのだろう。何かあったのだろうかと悠希は急に心配になった。
「その辺探すか」
と悠希が足を踏み出そうとした時だった。
「お兄ちゃん」
突然背後から呼びかけられて思わず叫び声をあげそうになる悠希。何とかそれを堪えて後ろに何歩か後ずさりをする。
暗闇から姿を現したのは咲夜だった。いつもと同じ無邪気な笑顔で笑っている。
「あ、お、おう、咲夜くん。こんばんは」
「こんばんは。ビックリした?」
咲夜は悠希を上目遣いに覗き込むようにして尋ねた。
「あ、うん。心臓出るかと思った」
悠希が素直な感想を言うと、咲夜は声を出して笑った。
「しっ!結構響くし夜だからな」
悠希は慌てて人差し指を立てて口元に寄せる。咲夜はハッと気づいて両手で口を塞いだ。
「ハハハ。まぁ、そんなに大声出さなかったら問題ないとは思うけど」
どこまでも素直な咲夜に悠希は微笑ましくなった。
「で、今日は何の話するんだ?」
悠希が尋ねると咲夜は恥ずかしそうに言った。
「……ボクのお母さんの話していい? 最近ムカつくことが多いんだ」
「了解」
そして咲夜は日頃抱いている母に対しての不満を勢いよく悠希にぶつけていった。
自分が家に帰ったらいつもテレビ見てソファーで寝転がっていること、怠け者だということ、パートで働いてくれてはいるけど結局そのお金も遊びに使うことが多いこと、などなど。
数え切れないくらいたくさん話した。
咲夜の顔があまりにも生き生きしているので
(こいつ、愚痴言う時が1番元気そうだな)
と悠希は笑いそうになってしまった。でも実際のところは咲夜も本気で悩んでいるわけでそこらの区別はしっかりつけるべきだった。
「なるほどな」
話を全て聞き終えて悠希はふむふむと頷いた。まず最初に感じたことは咲夜のお母さんナマケモノかよ!と言うことだった。
流石に丸々侮辱するわけではないが、咲夜の話を聞く限りではパートの時以外はずっと寝ているナマケモノのイメージが悠希の頭の中に浮かんだのだ。
そんな母親を持って咲夜も大変なんだなと少し気の毒に感じる。
「まぁ、日頃の態度がどうであれ働いてくださってることは確かだ。今は信じられないかもしれないけど我慢できる範囲で我慢して、お母さんを助けてやらないとな」
「うん……」
悠希の言葉に咲夜は俯いたまま頷く。
「まぁ、そんなこと言ったって本当は難しいよな」
「お兄ちゃんも母子家庭?」
「ああ、まぁね。でも別にそんなに嫌じゃないよ」
「ボクも。嫌ってわけじゃないけど……」
「お母さんのぐうたらが嫌なんだよな」
悠希が尋ねると、咲夜はコクリと頷いた。悠希は笑いながら咲夜の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「流石に部外者の俺がお母さんに文句言うのも違うし、そこは咲夜くんが我慢するかお母さんに直接「疲れてるのはわかるけどあまりぐうたらしないでほしい」って言うか、だな」
「う、うん」
「こんなに偉そうに言ってるけど俺だって自分の母親がぐうたらしてたら間違いなくキレるよ。ムカつくもんな」
咲夜は悠希の言葉にホッと胸を撫で下ろした。ただ自分が短気なだけなのかもしれないという気持ちが芽生えてきつつあったからだ。
だが必ずしもそうではないと知り少し心が楽になった気がした。
悠希の言う通りだと思った。たしかにぐうたらは少なくしてほしい気持ちは変わらないが、咲夜だって疲れているときは寝てしまうこともある。
そう考えると、母親が帰って早々ぐうたらしているのもわかる気がするのだ。ぐうたらではなく、疲れを取るために休んでいるのだ、と。
母親が常日頃ぐうたらしていると思い込んで色眼鏡をかけていたのかもしれないと反省する。
「ボク、間違ってたかな」
咲夜はボソッと呟く。
「いや、間違ってないよ。でもちょっと気に食わなかったんだよな」
「う、うん」
返事をしながら感心した。悠希は何でもお見通しだ。顔や言葉に出していなくてもちゃんと咲夜の気持ちをわかってくれる。
咲夜にとって悠希以上の理解者はいないだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん。ボク頑張る」
咲夜は覚悟を決め、笑顔で言った。
咲夜の力強い決心に悠希も力強く頷いた。そして何気なく下を向いた時に何かに気付いた。
「そこ、どうしたんだ?」
悠希は気になったところを指差す。
「ん?」
咲夜が悠希に指差された方を見ると、腕に血飛沫が付いていた。
「あっ!いや……これは」
マズイと思った。流石にバレたかもしれない、と。薄々予想はしていたがまさかこんな形で告白しなければいけない形になるとは思わなかった。
これは咲夜の予想外の展開だった。
だが悠希から発せられたのは
「怪我でもしたのか?大丈夫か?」
という咲夜の怪我を疑って心配してくれる言葉だった。
「え?あ、うん!大丈夫」
咲夜はど肝を抜かれた気がして返事をおかしく返してしまったがそれでも白い歯を見せて親指を立てる。
咲夜のポーズを見て悠希も真似をして微笑んだ。
「そっか、ならいいんだ。俺の気にしすぎだったね」
「そ、そうだよ。別にいいけど」
咲夜はそう言って笑った。
「じゃあね、お兄ちゃん。今日もいっぱい話聞いてくれてありがとう」
手を振って笑顔でお礼を言う。
「ああ、またな」
暗闇に消えていく咲夜に向かって悠希も笑顔で手を振り続けた。
咲夜がいなくなってもやはり腕についていた血飛沫のことが気になったが、どこかで怪我でもしたのだろうとそこまで気に留めないことにした。
その血飛沫が何を意味するかも知らずに。




