感謝
十二月十四日。隣りの部屋の春菜のヴァイオリンの音色に撫でられ、虎斗は目を覚ました。
「よく寝たな、と」
大きく欠伸をし、テレビを付ける。ニュース番組のセットはクリスマス一色に染められ、BGMもどこかで聞いたことのある冬の定番曲が流れている。
「クリスマスね…」
目を擦りながら、再び欠伸。
「遠めから見ると、なかなか呑気なもんだな」
目を擦り、興味なくブラウン管を眺める。カップルや、暖かな家族、若い女性にとっては何よりも心踊る祭りなのだろう。プレゼントを贈り、贈られ、互いの心を暖める。それは相手があってこそ成し得ることだ。一人黙々とカメラを撮り続けた挙句、不治の病に冒され病院と言う名の箱庭に閉じめられた今の自分に、贈る相手など…。
「…いたな」
隣りの音色に鼓膜をくすぐられ、ぴくりと背中が疼く。
「ふむ、悪くない」
虎斗は無意識に口元が緩んでいることに気付いていない。それは、プレゼントを受け取った春菜の顔を想像してのことではなく、どちらかと言えば何もない入院生活で僅かな刺激を見つけた事への、自己中心的な喜びに対してに近かった。
「ようやく起きましたか」
入って来たのは、あの熟年の看護婦だった。時計の針は十時の五分前。やや寝坊していた。
「駄目ですよ、ちゃんと動ける時は動かないと。寝過ぎてもストレスは溜まるんですから」
辛口ながらも気遣うのは、彼女なりのスタイルらしい。
「だったらたまには外に出させてくださいよ。これじゃクリスマスなのにプレゼントすら買いにいけない」
「それは駄目です。我が儘言えるのは、元気な証拠ね」
苦笑しつつ、体温計と血圧計を準備する。
「でも、だいぶ慣れて来たみたいで安心したわ」
「そうですかね…」
体温計を脇に挟み、虎斗はテレビを見つめる。
「他の人達は結構、立ち直るのに時間が掛かっちゃうから…」
無言でテレビを見つめる。
「立ち直っても、また次に目覚めた時には…立ち上がれなくなる人も少なくないの」
無言。
「でも、あの子は強い子ね」
「春菜のことですか?」
口を開いた虎斗を、彼女は少し意地悪く微笑する。それに気付き、虎斗は慌てて顔を背けた。
「感謝しなきゃ駄目ですよ?」
「感謝?」
再び、虎斗は振り返る。
「分かってるくせに」
「からかわないでください」
言葉攻めに思わず顔が熱くなる。
「それが、木村さんのためにも、橘さんのためにもなるのですから」
次の言葉に詰まる。
「希望を失わない、人生を楽しむ、今生きている事に感謝して、今そばにいる人に感謝する。病院に勤める私が、こんな非科学的な事は言いたくないけど、それが二人の病気の一番の薬なのですよ」
「なんかお婆ちゃんみたいな説教ですよ」
「失礼ね」
誤魔化す虎斗の体温計を奪い取り、体温を記録する。
「まあ、今はそのお婆ちゃん臭い言葉を、忘れないでくださいね」
「感謝ね…」
気が付いた時には、ヴァイオリンの音色は消えていた。
「春菜…まだ起きてますよね」
「どうしたんですか? 急に」
「いや、別に」
てきぱきと血圧を計る看護婦に、一瞬どきりとした様子で虎斗は質問を中断する。
「心配しなくても大丈夫ですよ。武田先生も、あと一週間は再発は無いって言っていましたし」
「…そうですか」
少し、恥ずかしかった、一瞬でも、春菜の過眠症が再発し、再び静寂に取り残される事に恐怖した自分自身の弱さを恥じたのだ。
「ところで…」
ふと気付いたように、虎斗は口を開いた。
「そんなにいろいろ喋って大丈夫なんですか?」
「駄目に決まってるじゃない」
あまりにもあっさりとした様子で悪びれずに血圧を記録するその様子に、虎斗は呆気にとられる。
「じゃあなんで」
「そう言うの隠されるの、木村さんはあまり好きじゃないタイプでしょう?」
「いや、タイプって…」
「医者の最優先事項は病気の治療。看護婦の最優先事項は、患者さんのサポートよ」
血圧計をしまいながら、彼女は続ける。
「ストレスを溜めさせないことが、一番の薬なんだから、隠し事作って患者さんをイライラさせないことも、時には大切なのよ」
「……」
「あ、このこと武田先生には言わないでくださいね」
「言いませんよ」
少し呆れた様子で、虎斗は溜息を吐いた。
「それじゃあ木村さん、早く顔洗って、歯磨いてくださいね」
口の中がねばねばしている。臭かったのだろうか?
「それと」
入口のドアを開けて、彼女は立ち止まった。
「絶対に脱出とか考えないようにしてくださいね。三時間おきに見回りしているから、ばれたら大目玉ですよ」
それだけ言うと、職務怠慢の看護婦はドアを閉め、去って行った。
「…ありがとうございます」
聞こえたかは分からないが、虎斗は彼女に感謝した。