春奈
目が覚めた。嫌な程に爽やかな心地。熟睡の達成感。約一週間ぶりに、過眠症を再発させたらしい。
「おはようございます、木村さん」
ベッドの横には、ヴァイオリンを片手にパイプ椅子に座る春菜がいた。
「何日だ?」
春菜に質問する。
「十二月十三日ですよ」
「三日か…」
記録更新。病院生活には慣れたものの、やはり目覚めた瞬間、気持ちが落ちる。靄がかかる。
「もう歩けるのか?」
そんな陰りを振り払うかのように、虎斗は落ち着いた様子で春菜に質問をする。今日は運がいい。目が覚めても、側に誰かがいたのだから。
「はい、ようやくヴァイオリンの方も無理なく弾けるようになったんですよ」
虎斗の気持ちを察したのか、春菜は柔らかに微笑んだ。
虎斗が眠り続けている間のことを、春菜は一つ一つ丁寧に、虎斗に話してくれた。見舞いに来た裕二とも友達になったこと。一昨日のカレーが美味しかったこと。また海岸に鯨が打ち上げられたというニュースがあったこと。虎斗のカメラを勝手にいじって看護婦に叱られたこと。一つ一つを、彼女は楽しそうに虎斗に伝えた。
「酷い奴だな。勝手に俺のカメラで暇潰しなんて」
「木村さんだって私の寝顔盗撮したんだから、お互い様です」
どうやらバレていたらしい。そこを突かれると反論する術が無いので。虎斗は素直に謝った。
「分かればよろしい。次からはちゃんと断ってから撮ってくださいね?」
満足そうに笑う春菜。
「了承を得たらどんな写真でも撮っていいのか?」
「それはセクハラです」
「冗談だよ」
顔を赤らめて怒る春菜を、虎斗はカラカラとした様子でなだめる。
「おや、お邪魔だったかな」
そこに入って来たのは、黒いコートを羽織った裕二だった。
「いや、すまん、お楽しみ中だったようだな」
「待て、帰るな」
そそくさと帰る素振りを見せる裕二を慌てて呼び止める。数日会話をして分かったことだが、春菜はなかなかに、俗に言う乙女チックなところがあるらしい。既に顔を真っ赤にして意識が飛んだような顔をしている。
「つっこみ入れられる余裕があるなら元気な証拠だな。安心したよ」
「いいのか? そんな度々こっち来て。過眠症が移っても知らないぞ」
裕二は落ち着いた様子だが、虎斗はそういうわけにはいかない。過眠症が伝染する病気である可能性は、まだ否定されていないからだ。しかし、裕二が気にする様子は無い。
「大丈夫だよ。毎回消毒は受けてるし、今のところ見舞いに来た人間の発症はないらしい。空気感染の可能性も高くないって聞いてるよ」
裕二は裕二で、過眠症について独学でいろいろと調べてくれているらしい。将来の名医となるかも知れない友の言葉には、どこか安心のできる納得感があった。
「それよりも、今重要なのはしっかりと健康的な生活を送ること。睡眠も毎日しっかり摂って、適度に運動、ストレスを溜め込まないことだ。ストレスが多い患者に比べ、ストレスの少ない患者のほうが過眠症の進行速度が遅くなるっていう統計も出てる」
コートからメモを取り出し、裕二は一つ一つ、細かく自分がリサーチした情報を虎斗に教えてくれた。とても頼もしい。
「つまるところ極度にストレスを溜め続けることにより心的疲労が脳に蓄積され…」
頼もしいのだが。
「簡単に説明すると、体の機能に限界があると脳が誤作動を起こし…」
長い。
「これはフィンランドの脳外科医、アナスタシア…」
「ゆ、裕二、そろそろ時間大丈夫か?」
「え? ああ、もうこんな時間か…」
耐え兼ねて、虎斗が裕二の講義を中断させる。まだ話し足りないといった様子で、裕二は少し不満気に腕時計を見た。
「悪いな。まだ提出するレポート書かなきゃいけないから、そろそろ」
そう言いながら席を立ち、コートのボタンを閉める。
「じゃあな、ちゃんと飯はしっかり食べて、睡眠も最低七時間は」
「わかったわかった」
さすがに虎斗もうんざりした様子で、裕二を見送った。
「本当にすごいですね、若本さんは」
「裕二は一度スイッチ入ると止まらないからなあ…」
頭がパンクした様子の春菜を見て、虎斗も苦笑する。
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「木村さんのために、あんなに色々調べてくれるなんて」
確かに、裕二のメモには細かく付箋紙が貼り付けられていた。今思うと、どことなく、疲れて眠たそうに見えなくもなかったかのように思える。元々、裕二は脳の専門ではない。あれだけの資料を集めるには、かなりの労があったに違いない。
「木村さんには素敵な友達がいて、なんだか、羨ましいです」
少し寂しそうに、春菜は苦笑した。
春菜は、どうなのだろう。虎斗は未だに、冬美以外に、春菜の見舞いに来た相手を見たことがない。もしそれが、今までの五年間、延々と続けられて来たものだとしたら。
「何言ってんだよ」
「え?」
ふいに、虎斗が切り出す。
「裕二も春菜さんの友達なんだろ? 俺だけのためじゃない。春菜さんのためにも頑張ってるんだよ。あいつはお人好しだからな」
虎斗は、考えるのは止めにした。過去は過去、今は今だ。もう、この病院に静寂は無い。今この場に、自分がいて、裕二がいて、春菜がいる。それでいい。それでいいのだ。
「そうですね」
満面の笑みを、春菜は浮かべた。それを見て、虎斗も満足する。
これでいい。今は、目の前の春菜の笑顔を見ていよう。
十二月の寒い午後。虎斗はその暖かな笑顔を見つめながら、そう思った。