依頼
目が覚めた。はっとして、虎斗は飛び起きる。なんたる不覚、他人の病室で眠りこけてしまうとは。しかも脳が語りかける。これは熟睡だったと。それを思い知らしめるかのように、朝日が虎斗の顔を刺した。
「おはようございます」
声がした。振り向くと、そこには、ベッドで小さく息をしながら眠りにつく春菜と、その横のパイプ椅子に腰を掛け、彼女を見守る、四十半ばと思われる、白髪の線が僅かに見える、物腰柔らかな雰囲気の女性だった。
「木村さん、でしたよね?」
そう言って、その女性は小さく微笑む。その笑みは、虎斗にはつい最近まで見覚えのある微笑みだった。
「…春菜さんの、お母さんですか?」
「あら、ばれちゃいましたね」
そう言いながら、彼女はくすっと笑う。それもやはり、面影のある笑みだった。
「すみません、熟睡するとは思わなくて」
申し訳なさそうに、虎斗は頭を下げる。
「いいんですよ別に。まあ、看護婦さんとお医者様からは、あとでこっぴどく叱られるとは思いますけど」
そう言いながら、彼女は少し意地悪に笑う。なるほど、母親と言うだけあって、春菜より一枚上手らしい。
「それに、どちらかと言えば感謝したいくらいなんですよ」
「え?」
少し意外な言葉だった。
「この子、昨日は寝るまで、木村さん話をしてたんですよ。あんなに楽しそうな春菜を見たのは、久し振りでした」
母の会話は続く。
「きっと、この子と年の近い人は、今までいなかったから」
「他の住人さんとは、あまり話さないんですか?」
虎斗の質問に、彼女は苦笑しながら春菜の頭を撫でる。
「勿論話しますよ。でも…」
母は笑みを絶やさず、俯いた。
「返事をする人は、いません。だって、この子か入院して五年、誰一人、目を覚ました人はいないのですから」
言葉を失った。そして静かに納得した。ああ、そうか、そういうことか。
この病院がいまだに静かな理由が分かった。彼女の言う五年、静寂はもはや、この病院内では日常以上に自然なことだったのだ。医師が検査として眠る患者を運び出すまで。春菜が数日、数週間、数か月置きに起きるまで。そして、今虎斗が起きる、この例外を除いて。この病院の静寂は、永遠に続くのだ。
「木村さん」
彼女は微笑みながら、小さな声でこう言った。
「あの子の、友達になってくれませんか」
「どうか、お願いします。もう二十歳になりますが…この子の心はまだ、高校も卒業して無いんです」
そこに、もはや微笑みはなかった。ただ一人の母親として、頭を下げる、大人の女性の姿があった。
「お母さん」
虎斗は、落ち着いた様子で口を開いた。
「その質問はする必要ありませんよ」
きょとんとした様子で、彼女は顔を上げる。
「だって、僕と春菜さんは、もうすでに友達ですから」
自分の事を「僕」と言うのには、どことなく抵抗があった。ただ何となく、やはり相手は年上だ。それに、ここで「俺」と言うのは、なんだか格好つけているようで、虎斗は少し恥ずかしかった。
「ありがとうございます」
深々と、春菜の母は頭を下げる。
「そんな、大袈裟ですよお母さん」
深々とお辞儀され、少し虎斗は焦り顔になる。当り前の事だ。そしてこれは、きっと断ることの出来ない運命なのだ。虎斗はそう感じていた。何故ならば、次に春菜が過眠症を発症した時に、長い孤独を味わう事になるのは、虎斗なのだから。虎斗はそう感じていた。
「ごめんなさい。少し取り乱してしまいましたね。これからもよろしくお願いします。木村さん」
そう言って、彼女はようやく苦笑する。そして一言付け足した。
「あと、お母さんっていう呼び方はちょっとあれなので、冬美おばさんて呼んでくれないかしら?」
なるほど、確かに女性の母親に「お母さん」の呼び方はあれだ。
「分かりました。冬美おばさん」
虎斗は一本取られたといった様子で苦笑した。その時、もそもそと布団が動いた。
「よく寝た…」
欠伸をしながら、春菜が目を覚ました。
「あ、おはようございます。木村さん」
少し力みながら、春菜は自力で起き上がる。体のなまりとやらは、少しずつ回復傾向にあるようだ。
「よく眠れましたか?」
「おかげさまで。まあ、多分看護婦さんにこっぴどく叱られるだろうけどね」
からかうように微笑む春菜に、虎斗は再び苦笑する。満足したのか、橘親子は声を揃えてふふっと笑った。
「朝食の時間ですよ」
いいタイミングで入って来たのは、卵焼きと柳葉魚の塩焼き、味噌汁を運んで来た昨日の看護婦だった。そして虎斗を見て一言。
「木村さんは、あっち」
明らかに機嫌が悪そうに、虎斗の部屋の方を指差す。
「それじゃ、ちょっと怒られてくるよ」
満足げに苦笑しながら、ベッドから立ち上がった。
「やれやれ」
軽く息を吐きながら、質素な自分のベッドに腰掛ける。多分一分もしないうちに先ほどの看護婦から注意を受けるのだろうが、虎斗の心はどこか晴れやかだった。
「運がいい、か」
昨日の春菜の言葉が頭に響く。昨日、そしてついさっき見せた春菜の微笑みを思い出す。
「運がいいのは、俺の方だよまったく」
隣りから笑い声が聞こえる。そしてどことなく困っているのだと予想出来る看護婦の声も聞こえた。
眠りについていた病棟は、ようやく夢から覚めたのだ。
「なんかいい詩が書けそうな気がしてきたな」
昨日の心の靄は嘘のように、虎斗の体から消え去っていた。思い出したように、虎斗はテレビの棚から携帯電話を取り出す。裕二、それに心配しているであろう母に、いち早く元気な声を聞かせてやりたい。そんな気持ちでいっぱいだったからだ。
「室内は携帯はオフですよ」
と、再び狙ったようなタイミングで、先ほどの看護婦が朝食を運んで来た。
「あらら」
参りました、といった様子で、虎斗は苦笑した。