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格差

「…」

「…」

 しばらく、沈黙があった。虎斗は固い引きつり笑いを崩せぬまま、女性は眠そうな眼を虎斗に向けたまま、数秒ではあったが、それが虎斗には数分に感じた。

「あなたは?」

 先に口を開いたのは女性の方だった。当然の質問を、虎斗に向ける。

「あ? ああ…俺は木村、木村虎斗。一昨日ここに来たばかりで、えーと、あれだ! 部屋を間違えちゃってさ、隣りだったみたい。あはは…」

 声を裏返しながら、明らかに不自然に虎斗は明るく振る舞う。その反応とは裏腹に、彼女はやんわりと笑みを浮かべた。

「そうでしたか」

 あまりに和やかな対応に、虎斗はどう反応していいか分からなくなる。警戒の欠片も感じない。まるで初めて出会った人ではないかのような彼女の振る舞いに、虎斗は戸惑いを隠せない。

「私は、橘春菜です。お隣り同士、よろしくお願いします」

 そう言って、春菜と名乗る女性は、ぺこりと小さく頭を下げた。礼儀正しいが、どことなく少女を思わせる振る舞いに、虎斗は自然と緊張を解いていった。

「結構、慣れてるみたいだね、橘さんは」

「春菜でいいですよ。木村さんのほうが年上でしょう?」

「ああ、多分そうだな。二十五だし。春菜さんは…失礼だけど、いくつ?」

 女性に年を聞くのは、あまり礼儀のいいことではないと知りつつも、虎斗は彼女への興味を抑えられず、質問する。

「えっと、私は…」

 少し視線を逸らし、春菜は考え込むように白く小さな指で顎を撫でた。その様子に、虎斗は違和感を覚える。

「橘さん!」

 静寂を破ったのは、ドアを開け入って来た三十代程の、パーマをかけた看護婦だった。しまった、と虎斗は再び顔を強張らせる。

「ち、違うんです看護婦さん。決して変な理由で…」

「ちょっと待ってて下さいね。すぐに看護婦を呼びますから」

 看護婦は虎斗には目もくれず、部屋を出た。その様子を見て、虎斗は何かただならぬ気配を察知する。

「虎斗さん。今…何年、何月ですか?」

 春菜が質問した。その瞳は虎斗ではなく、窓の外の遠くを見つめていた。

「平成二十五年の、十二月一日だけど」

 嫌な予感がした。春菜は僅かに、微笑みながらこう言った。

「そうですか。一年も眠っていたんですね、私」

 心臓の音が止まった。そう思わせるくらいの静寂が、室内を包みこんだ。

「すいません、ベッド、起こしてもらっていいですか? ずっと寝ていたせいで、体がうまく動かないみたいなんです」

 何事も無かったかのように、春菜は微笑む。虎斗は出す言葉を選べぬまま、彼女の頼みに応じた。

「もうちょっと…あ、そのくらいでいいです。ありがとうございます」

 備え付けのクランクをカラカラと回し、春菜の上体を五十度ほど上げてやると、嬉しそうに、春菜は笑った。

「強いんだね、春菜さんは」

 虎斗は、彼女の目を見ずに口を開いた。言ってから、その発言がとても失礼なことであることに気付き、後悔する。

「そうでもありませんよ」

 春菜は笑みを絶やさない。

「ただ、今日は運がいいなって思ったから、なんか嬉しかったんです」

「え?」

 彼女の顔を見ると、そこには微笑みつつも、どことなく弱々しさを感じさせる、重度の過眠症に蝕まれた、一人の少女がいた。

「今まで目が覚めて、そばに誰かがいたことなんて、なかったから」

 改めて、虎斗は後悔した。いや、自分を恨んだ。俺はなんて心ないことを言ってしまったんだ。彼女に比べれば、自分の置かれた状況などまだまだ可愛いものじゃないか。なんて…自分は弱いんだ。

「春菜さん…」

「目が覚めたのですね」

 虎斗が言葉を発するのと同時に部屋に入って来たのは、武田医師だった。

「お久し振りです。先生」

 春菜は小さく頭を下げる。そこに微笑みはなかった。

「木村さんはなぜここに?」

「…。部屋間違えただけですよ」

 武田医師は当然の質問をする。虎斗は目を見ずに、返答した。

「すみませんが木村さん、少し橘さんと二人だけで話がしたいのですが、よろしいですか?」

「…。すいません、十分だけ、いや五分でいいから、二人だけで話させてくれませんか?」

 その発言に、武田医師は顔をしかめ、春菜は目を丸くする。

「困りますよ木村さん。橘さんはまだ…」

「先生。すいません、五分でいいので…私からもお願いします」

 今度は春菜から願い出る。そして虎斗が驚いたような顔をした。

「…少しだけですからね」

 軽く溜め息をつき、武田医師は部屋を出た。

 とす、と、静かにドアが閉められ、再び数秒の静寂。

「よかったの? 春菜さん。何か大事な話っぽかったけど」

「いいんです。どうせいつもの『事情徴収』と検査予定の話だけですから」

 そう言って、春菜は再び微笑みを取り戻す。

「木村さんこそ、どうしていきなりあんなことを?」

 春菜の質問に、虎斗は、

「んー…なんかあまり面白そうな顔してなかったから、かな」

 上手く理由が言えなかった。その様子を見て、春菜はくすくすと声を出して笑う。

「なんですかそれ」

「はは、なんなんだろね」

 つられて苦笑しながら、虎斗は力なく隣に置いてある未使用のベッドに腰を掛けた。

「眠いんですか?」

「正確には、寝たいけど寝れないって感じかな」

 春菜の気遣いに、虎斗は少し情けなさそうに笑う。虎斗の気持ちを察したのか、春菜は本棚に立て掛けられているヴァイオリンに力無く手を伸ばした。

「弾けるの?」

「かなりなまってますから、上手くいくか分かりませんけど…」

 そう言って、彼女は腕を僅かに震わせながら、ヴァイオリンの弦に触れた。

「無理しない方が」

「そこで聞いていて下さい、大丈夫ですから…」

 立ち上がろうとした虎斗を、春菜は言葉で制する。

「それでは…」

 小さく息を吸い、春菜はヴァイオリンを奏で始めた。ゆっくりと、おだやかなテンポ。それはとてもレベルの高いと言える楽曲では無かったものの、虎斗の耳を優しく撫ぜた。

「(綺麗な曲だ)」

 何故彼女が急にヴァイオリンを弾き始めたのか、虎斗には分からなかったが、これが自分に向けられた音楽であるだけで、悪い心地はしなかった。

 瞳を閉じて、曲に心身を委ねる。

「……」

 心も身体も、その柔らかなメロディーに包み込まれた頃には、虎斗の意識は、遠いレムの世界へと導かれていた。

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