一会
二日が過ぎた。
虎斗は誰もいない廊下の端の、パイプ椅子が三つ置かれた喫煙所で、惚けた顔をしながら紫煙を吐いていた。
過眠症の告知を告げられた翌日には、裕二、そして虎斗の母、里美が病室に駆け付けていた。
「大丈夫。大したことないから」
小さく笑顔を向け、その日虎斗は二人を帰した。いや、多分追い返したのだろう。
退院日は無期限未定だと、武田医師から告げられた。理由は、過眠症の発症理由が不明であること。そしてこの病の患者が、去年になってから急激に増えつつあるというところにある。未知なるウイルスによる感染。それを今医者達は危惧している。そして虎斗が今いるこの部屋の全ての住民が、過眠症患者であることも告げられた。つまるところ、虎斗は完全に隔離されたのだ。
静かだった。病院内は驚くほどに、まだ夕方なのに足音一つしない。それが何を意味するかを、虎斗は数時間前に学んでいた。
「まだ寝てるのか…」
再び、紫煙を吸う。そして吐く。虎斗が目を覚ましてから二日。虎斗以外に朝日を拝んだ患者はいなかった。そして虎斗は、今閉じそうに重みがかかる瞼に悩まされていた。
「参ったな…」
はっと息を吐く。過眠症患者が不眠に悩まされているのだ。笑うしかない。
夕日をぼんやり眺める。どことなく重くなる意識。夕日に包み困れるかのような安堵感。だが、廊下のあまりにも心ない静寂が、虎斗の不安を震わせていた。
「ったく」
煙草を持つ指が震える。
「何が大丈夫だ」
紫煙を吐く息が震える。
「何が…!」
肩が、震えていた。
は、と気がついた時には、十分ほど時間が過ぎていた。どうやら少し眠気に負けたらしい。落ちた煙草の火が少しだけ、廊下を焦がしている。寝不足な上に寝煙草とは情けない。というより危なっかしいことこの上ない。
虎斗は、少し歩くことにした。素直に眠ったほうがよいのだが、まだ寝るには時間が早い。
ポケットを探る。取り出したのは、虎斗が肌身はなさず持ち歩いている、デジタルカメラだった。
「さて…どうするかな」
特に写すものは無い。それ以前に、写す気力があるわけでもない。ただ、あまりに空っぽ過ぎるこの瞬間、自分まで静かにしていては、きっと気が狂ってしまう。虎斗にはそんな直感があったのだ。
とりあえず、歩く。何気ないものに、何気なくシャッターを切る作業を続けた。
備え付けの花瓶
非常口のランプ
自分の煙草の吸い殻
窓の外に写る鳩
誰もいない真っ直ぐな廊下
「…」
色々写して見たものの、味気無い。
「やっぱり人がいないと写真に活気が出ないな」
誰かを普段から撮影しているわけでは無い。ただ、人が、そこで、生きている。人の心がそこにある。その要素が無ければ、そこに写るのは無機質なものでしかない。写された画像を見て、首を捻る。
「人がいれば…」
そこまで考えて、ふと思い付く。
「いるじゃないか、人」
僅かながらに、虎斗の瞳が生き返った。それはほんの小さなものであったが、彼の中に眠るカメラマン魂が、枯れ果てかけた心を僅かに湿らせていた。
虎斗が向かった先は、病室だった。しかしそこは自分の病室ではない。
階段に一番近い、彼の病室の一つ右隣、知らぬ他人の病室だった。
「おじゃまします、と」
別段躊躇も無く、横スライドのドアを開ける。どうせ全員眠っているのだ。勝手に入ったところで怒られるわけでもない。
これは、いわば一つの挨拶回り。俺は新参者なんだから、ちゃんと挨拶しなきゃね。などと、虎斗は半ば強引に、いたずら心だけ背中に積んで部屋を見渡した。
そこは綺麗に整理された部屋だった。ベッドにかけられた布団は病院で支給されたものではなく、恐らく患者に送られた専用の柔らかそうな厚みのある薄茶色をしており、小さな本棚まで用意されている。並べられた本の殆どが音楽系、特にクラシックを中心とした雑誌で占められていて、その横には年季が入り、埃の被ったヴァイオリンが立て掛けられていた。
「こりゃまた、随分と待遇のいい」
そこまで言いかけて、柔らかい布団の中で眠りに付く患者を一目見て、虎斗は声を詰まらせた。
女性だった。自分より、恐らく少し若い。二十歳前後の、ほんのり栗色がかった長い髪の女性が、点滴を数本受けつつも、穏やかな表情で、静かに呼吸していた。
「…」
綺麗なロングヘアーに、一瞬魅入る。そして、
「何で男女分けて無いんだよここ」
とりあえず、つっこみを入れてみた。そして、カメラを構える。
「別にそういう趣味なわけじゃないけど」
誰にも見られていない室内で、意味も無く自己弁護をしながら、ファインダー越しにその女性を見つめる。そして、シャッターを切った。
「んっ」
声がした。はっとして、虎斗は後ろを振り返る。しかしそこには誰もいなかった。
「え?」
視線を、ベッドの女性に向ける。
「んー…」
ぼんやりと、穏やかに、そして少し気怠そうに、彼女は瞳を開いていた。
「あ…」
目が合った。眠気が一瞬のうちに地平線の彼方へと飛び去るのを感じる。これはやばい。虎斗はそう感じていた。
「ど、どうもー…」
固かった。恐らく虎斗の人生で一番固い作り笑いだったに違いない。女性は丸い瞳を数回まばたきさせ、
「どうもー…」
表情を変えず、同じ言葉を返した。そして彼女は、小さく欠伸をした。