急逝
十二月二十三日、午後四時過ぎ、虎斗は喫煙所で煙草を吸いながら、ノートにペンを走らせていた。
「……」
その目には文字の列とペンの先、白と黒、それ以外の何かが入り込む余地は無い。ただひたすらに、なびく音は紫煙を吐き出す呼吸音と、とつとつとペンが紙を叩く、乾いた音だけである。
「おはよう、三百…」
「うわ!」
突然背後から破られた静寂に、虎斗は肩を弾けさせながらノートのページを押し潰した。
「あー…」
「あーじゃない、覗き見してくるのは卑怯じゃないか?」
勿体なさそうに声を漏らす春菜に振り返りながら、虎斗は抗議した。
「だって、木村さんいつも詩読ませてくれないじゃないですか」
「俺の詩は春菜さんのヴァイオリンみたいに立派な出来じゃないの」
「でも、木村さん七年も詩を書いていたんでしょ? 裕二さんから聞きました」
「(余計なことを…)」
バツが悪そうに、虎斗は煙草をもみ消す。
「とにかく駄目なものは駄目」
「どうしてもですか?」
「どうしても」
プロを目指していながら、虎斗は人に詩を読んでもらうのが苦手だ。そこを情けないと知りつつも、虎斗はそんな自身の弱点を克服出来ずにいた。
「なんでそんなに読みたいんだよ。俺なんかの詩読んでもつまらないぞ?」
「つまらなくてもいいんです」
「うわ、地味に傷つくな」
「ご、ごめんなさい、そんなつもりじゃ…」
慌てて謝りながら、春菜は顔を俯かせる。
「ただ、いつでも読めるわけじゃなじゃないですか、私のヴァイオリンだって、ようやく去年の感覚がもどってきたけど、もうすぐ…」
「……」
しくじった。虎斗はそう思った。
「あと一週間は…」
看護婦のそんな言葉を、虎斗は今更になって思い出した。あれから、何日経ったか?
「……」
沈黙が訪れる。とても長く感じた。虎斗と春菜が初めて目を合わせた、あの瞬間以来の沈黙だった。しかしこれは、あの時より重い。
「とにかく、今日は駄目だ」
「そうですか…」
落胆した様子で、春菜は視線を落とす。
「まだ完成してないからな」
「え?」
「明日まで待ってろ。せっかくいいとこだったのに、いきなり覗かれたからネタが吹っ飛じまったよ」
少し驚いた様子で、春菜はそっぽを向いたままの虎斗の背中を見つめる。
「俺は納得いく作品しか人に見せないの」
そう言いながら、虎斗はぶっきらぼうに煙草に火をつけた。
「それはそれは…失礼しました」
くすりと声を漏らしながら、春菜か笑った。虎斗はそんな気がして、何かを誤魔化すように煙を吸った。
「あら、邪魔したかしら?」
新しい声が、二人の背後から聞こえた。はっとした様子で振り返った虎斗の目に入ったのは、にやにやしながら細い目をしている姉、琴美であった。
「これはこれは…私みたいなお邪魔」
「わーっ、それ以上言うな!」
慌てて琴美の茶化しを大声で塞ぐ。このパターンは今まで何度も裕二から味わっているだけでなく、実質二人だけしか生活していない空間だ。あまりに気まずい。
「あれ、この声もしかして…」
虎斗の予想とは裏腹に春菜は期待満杯の瞳で琴美を見つめていた。
「ん? どっかで会ったことあったっけ?」
軽い様子で返す琴美に、春菜は顔を輝かせた。
「その声、タイガー木村さんですよね!」
「なっ」
あっさりと正体を見破った春菜に琴美はたじろいだ。
「な、なんでばれたの? 雑誌の撮影以外は化粧してないから絶対ばれないのに」
「分かりますよ声で。なんてったって私、先週からタイガー木村さんのファンなんですから!」
「先週って最近じゃん……。ってか姉さんの番組聞いてたんだ…」
戸惑う虎斗と琴美をよそに、春菜は飛んだり跳ねたりしそうな興奮ぶりである。
「ん? 今、お姉さんって言いました?」
「そ、そうだけど…」
「なんでそんな重要なこと今まで黙ってたんですか!」
あまりの興奮ぶりについには虎斗に怒り出す。
「あー……お二人さん?」
「わ、分かったから落ち着け落ち着け…」
「いいえ! これは落ち着いてなんかいられません。事の詳細はあとできっちり…」
琴美は話に割って入りたいが、二人(主に春菜)の興奮ぶりに邪魔され、なかなか入れない。
「もし…」
「いや、詳細ってなんだよ」
「詳細は詳細です! 木村さんとタイガー姉さんが…えーと、例えばどんな関係だったのかとか…」
「姉弟」
「そういう事じゃなくて!」
「じゃあどういうことだよ!」
「ええいやかましい!!」
琴美の怒号が院内に響く。恐らく過去に無いこの病棟での大騒ぎに、夕食を準備していた看護婦がびくりとしたのは言うまでも無い。
「ああ…この怒り方本物…」
「私この子苦手だ…」
恍惚とした様子の春菜に対し、琴美はうんざりした様子で溜め息を付く。
「それにしても大丈夫なの? いつも収録で忙しいのに」
「私が出ないと休めない馬鹿がいるのよ」
「は?」
「ま、たまにはいいじゃない」
ぼやきながら、琴美は強引に虎斗に紙包みを渡した。
「ああ、悪いねわざわざ」
「裕二からよ。これはあんたの分」
目を合わせず、琴美は春菜にも紙包みを渡した。
「私にも?」
「明日開けろって。クリスマスプレゼントらしいわよ」
「なんだ、あいつ明日来ないのか。ちょっと残念だな」
虎斗は苦笑し、春菜は嬉しそうに、包みを胸に抱いた。
「…安心した」
「ん?」
琴美の意外な言葉に、虎斗は思わず聞き返した。
「へばってるかなと思って心配してみたけど、全然大丈夫みたいじゃない。さすがは私の弟。見直したわよ」
「や、やめろよ気持ち悪い」
「誰が気持ち悪いって?」
ぐいっと頬をつねられ、虎斗は声にならない声をあげる。助けを求める虎斗を無視し、春菜はその様子を微笑ましげに見つめていた。
「ちょ、春菜助け…」
そんな虎斗を助けたのは、携帯の着信音だった。
「も、もしもし? ああ、裕二のお母さん?」
珍しい着信に、虎斗は強引に琴美を引き離し、電話に出た。
「お久し振りです。珍しいですね、おばさんから電話してくるなんて、え……?」
虎斗の表情が固まる。その様子に先に気付いたのは、琴美だった。
「……冗談やめてくださいよ」
まだ、携帯電話からは声が聞こえる電話を強引に、力無く、虎斗は切った。
「虎斗…?」
「木村さん…?」
尋常じゃない虎斗の顔の青ざめ様に、二人も何も聞き出せない。
わずかな沈黙を押し切るように、虎斗は声を震わせながら、呟いた。
「裕二が……」
虎斗の、肩が、震えた。
「……死んだ」