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城下町の妻たち  作者: 市川比佐氏
7/7

第六章  潔白

   1


前日も帰宅が遅かった最内はジリジリと痛む背筋を無理くり伸ばし、寝ぼけ眼のまま出社した。

最近、帰りが十時を過ぎることが多くなった。

疲労が蓄積し、土日を挟んでも疲れがとれないのは年のせいだろうか。要の進学も気になるところだ。疲労は肉体的な要因だけではなさそうだ。

自宅から研究所まで猛スピードで車を飛ばす。梅園住宅から研究所までは慢性的な交通渋滞が続く。朝八時、見慣れた光景だが、のろのろと蛇行する車の中でカーラジオを聴きながら、頭に浮かぶのは不具合のことばかりだ。気掛かりは多い。スッキリとしない頭のまま車を止めると、重たい足取りで研究所に入った。

いつものようにエレベーターで最上階まで登ると、やけに慌ただしい雰囲気の同僚たちの姿が目に映った。オフィス内は騒然とした空気に包まれている。駆け足で移動する者もいれば、電話応対に息を上げている社員の姿も見える。

トラブルか。

デスクについた最内の耳にも、不穏な知らせはすぐに届いた。

「――まずいことになった」

出社する最内の姿を見るや否や、鏑木は駆け付けて大声を上げた。

目が血走っており、週明けの朝の様子とはとても思えない。喧騒が最内を包む。

「なんですか、まずいことって」

鞄も開けぬまま最内が問うと「リコールだよ。リコール」と鏑木。言葉にならない声で最内に事情を告げた。

「リコール?」

鏑木はノートパソコンを開けると、インターネット検索サイトのトップニュースに取り上げられた記事を最内に見せた。そこに映っていた文字を見て、最内の頭の中に衝撃が走った。

―シバタ製エアバッグで大規模リコールが発覚。

心臓が止まりそうなショックを受けた最内は、大きく口を開けたまま無我夢中で文字を追った。

記事の内容はこうだ。

『――二○○九年に米国で発覚したエアバッグの異常破裂による死亡事故で、さらなる進展があった。事故の原因となった芝田電気工業製のエアバッグに設計仕様上の不具合が見つかり、今後リコールの対象件数が増大する見込みだ。当時の地元当局の調べによると、エアバッグの構成部品であるインフレーターに不良があり、エアバッグが作動した際に部品の一部が破裂し、飛び散った金属片が運転者の頸動脈を切り、その結果出血性ショックで死亡したという。調査では工場の設備不良に伴う偶発的な不具合とされていたが、改めて行われた調査によると、部品の設計仕様そのものに不備があったと判明したという。問題のインフレーターは同社の生産するエアバッグのほぼ全域に搭載されており、世界中の自動車メーカーに納入されている。仮にリコールが発令された場合、その規模は一千万台を遥かに越える見込みだ。エアバッグ最大手のシバタのみならず、業界全体としての対応が急がれる――』

――すっぱ抜かれた。

記事の出典元は東京経済新聞とある。最内の頭には真っ先に水田の顔が浮かんだ。

品証フロアにはまるで五年前と似た空気が広がっている。

大規模リコール。イズミ自動車をドン底に陥れたトラウマが、再び品証室を襲おうとしていた。

突如巻き起こった衝撃に、フロア中の社員が各々の頭を抱えている。悪夢が蘇ってしまったようだ。

「ええ、ですからその件に関しては社内でも調査中の段階であり、現時点で詳しいことは申し上げられません」

始業前から電話が引っ切りなしに鳴り響いている。立ったまま受話器を握り、何度も頭を下げる品証社員。取り返しがつかないことになった。品証室中がパニックに陥っている。

記事には問題のインフレーターなど、不具合の詳細についても言及されている。詳しい人物が情報を漏らさない限り、外に知られるはずがない内容ばかりだ。


臨時の連絡会が開かれたのはその日の午後で、品証関係者は皆大会議室に強制招集された。

最内も朝から仕事が手につかず、この日のスケジュールはすべてキャンセルとなった。

震災直後のような激しい緊張が一同を包む。皆、時田室長の言葉に固唾を呑んだ。

「由々しき事態、極めて遺憾。皆は動揺せず、普段通りに仕事に邁進してほしい」

弁解する時田の表情は言葉と裏腹にげっそりと窶れている。聞くところによると、時田自身、記事の内容について朝から役員に絞られていたらしい。なぜ不具合が流出したのか。心配するなという方が無理だった。


「――なあ、いったいどうなっちゃってんのよ。これ」

心配した加山は経済誌を片手に最内のもとにやってきた。もう一方の片手には売店で購入した菓子パンが見える。「どうせ忙しくて朝から何も食ってないんだろう」最内はそれを受けとると無我夢中で貪った。やはり持つべきものは友である。

「俺も分からない。でもタレコミがあったに違いない。でも誰が―」

加山の目にはこの期に及んで愛想をふりまく間宮を捉えた。

「まさか、でも―」

思い当たる節がないわけではない。書庫の管理を任されていた間宮はいつでも機密情報を見れる状況にいた。

しかし、派遣社員の間宮に、技術的な文書を読み解く力はあるのか。この時点で最内は半信半疑だった。

「山岡の資料が消えたことも怪しい。誰がどのように隠したのか。油井か宝田のどちらかであることは間違いないだろうが、まさか奴らがタレこむなんて思えない。だからと言って、間宮が情報漏洩に手を染めるとも思い難い。他に容疑者など思い付かない。いったい誰が―」

二人は探偵のように思いを巡らせたが、答えが出てくるわけもなかった。

万事休す。今は過酷な現状をどう乗り越えるか考えるしかない。


終わりの見えない一日。時刻は夜九時を過ぎたというのに誰も帰れずにいる。唯一、姿が見えないのは契約社員の間宮くらいだろうか。普段、定時に退社する年配社員もこの日ばかりはオフィスに留まっていた。

一日中鳴り続けた電話も、九時を過ぎて漸く落ち着いた。やっとこれで本来業務に戻れる。社員の面々には悲愴感が垣間見れる。

「――誰かがタレこんだんじゃないか」

突然、最内の後方で大きな声が聞こえた。聞き覚えのある声は、鏑木だ。

鏑木は優秀な中堅社員であるが、年配者の多い品証室では些か浮いて見える。優秀と形容するより、他に仕事を任せられる社員がいないため、重要な仕事を任せるとしたら消去法で鏑木という方が正しいのだろう。他に同年代の社員がいないため、鏑木には競争心が欠けており調子に乗っている帰来があった。

鏑木の一言に、周囲にいた社員は大袈裟に反応してみせた。

「内部告発か」

「ああ、だってほら、これを見てみろ。ニュースの中にはイズミ自動車を指摘した文言も含まれている」

早朝六時に公開された東京経済新聞のすっぱ抜きを皮切りに、インターネット上では他のメディアのニュースが次々と配信された。そのほとんどが製造元の芝田電機やトキオ自動車を非難した内容だが、中にはイズミ自動車を名指しで批判したものもある。『問題のエアバッグは国内最大手のイズミにも納入実績がある。イズミ自動車は社内で再三衝突試験を行っているにも関わらず不具合を見出せなかった。いや、不具合があると知って隠蔽した可能性もある』と。

デタラメだ―。マスコミは好き放題言うものである。憶測が憶測を呼び、悪い噂は一瞬にして世界中に配信された。

「なあ、最内。インテリアの担当はお前だろ。お前の持ってる資料が外部に流れたなんてことはないよな」

「まさか――」

自分に白羽の矢が向けられるとは夢にも思っていなかった。最内は必死に否定する。

「たとえば、メールの宛先に部外の人間が含まれていたとか。お前、最近、芝田電機の営業の木村とかいう男とやり取りしてたろ。昔あったんだよ、社外の人間に誤って機密情報を垂れ流してたってことがさ」

最内は時田に釘を刺されて以来、一度たりとも履歴の残る形で情報を授受した覚えはない。監査の際に書類や電子メールの開示を求められるケースを考慮し、最内は徹底して不具合を隠し通していた。

「どうなんだよ、最内」

水梨をはじめ、取り巻きが最内を責め立てた。

妙な噂が立っては困る。まさか内部告発を行った人間が自分であると思われれば、仮に誤解だとしても社内での立ち位置が危うくなる。「違う、俺じゃない」最内は必死に訴えた。

結局、自宅に到着したのは日付を越えた夜中の二時だ。

リビングの電灯をつけても、家族は寝静まっている。食欲が湧かず、花恵の拵えた夕食に手を付けることもできない。疲労からか、ソファに身を投げるとそのまま眠りについてしまいそうだ。

明日も朝からエアバッグ関連ですべてのスケジュールが抑えられてしまっている。興奮とストレスで頭の中がグルグルと回り、夜中に何度も目が覚めて冷汗を流す。最近、妙に鬱っぽい。最内はそのまま眠れない夜を過ごすのであった


   2


「油井、妙なことになったぞ」

管理職ばかりが集められた年度末の会議では、翌年度の体制や人員配置について議論が繰り返された。

主なトピックスは二つ。

一つは、メビウスのフルモデルチェンジ。

そして二つ目は、最近発覚したばかりのシバタ製のエアバッグについて。

これらの要因により翌年度の人員削減は見送られると予想された。むしろ大幅に人員を増強しなければ大規模リコールには耐えられない。未だ正式に不具合を公にすると決まった訳ではないが、タレこみにより事態は一変した。もはやイズミに逃げ道はない。

「妙なこととは―」

隣席に座った宝田が耳打ちした。

「塩谷品質担当役員から直々に打診があった。昨日のニュースの件で臨時の役員会が開かれたらしい。当社としてリコールは発令しないようだ」

「まさか」

会議室に集まったのは油井、宝田をはじめ品質管理を管轄する関係部隊である。

議論の流れは徐々にエアバッグへと流れ、リコールの話題で持ち切りになった。予想はしていたが、白熱した議論に拍車がかけられる。

「不具合が判明した年月の生産ロットだけでも追及してディーラーで交換対応できないか」

そう発言したのは工場品証を取りまとめる岩永部長代理である。しゃがれた声が特徴的で、現場上がりだけにこういった場では声が大きい。

「しかし原因は製造だけでなくインフレーターの構造上によるものだろう。不具合の可能性があるのは問題のインフレーターを積んだ対象部品すべてじゃないか。不具合ロット分だけを改修しても意味がない」

「不具合は不具合だが、聞くところによると致命的な不具合ではないらしいじゃないか。だいいちエアバッグが作動するレベルの激しい事故にならない限り、不具合は発覚しない。その前に分かっている対象車だけでも代替品を用意すればいいのでは――」

岩永を皮切りに勝手なことを言い出す者も現れ、会議の方向性は収集がつかなくなった。

「当局に届け出る必要はないのですか。国交省に届け出ずに勝手に自社で交換対応など行えば隠蔽工作ととられます。リコール隠しに繋がりかねない」

岩永の発言を遮るように、遅れて到着した時田は次のように発言した。

「幸いうちはトキオと違って死傷事故は起こしていない。またイズミ自動車の不正を名指ししたメディアも極僅かだ。大きな事態に発展する前に、懸念のある部品だけでも手を打とうということだ。塩谷常務は間違ったことは言っていない」

部課長職ばかりが集められた体制会議。

そこにも役員の意思が伝播した。リコールは出さない。今のところ不正を暴いた明確な証拠は出ておらず、イズミ自動車は水際で逃げ切れている状況だ。

なんとか場が落ち着いたところを見計らって、狙い澄ましたように宝田が口を挟んだ

「聞くところによると、例のエアバッグは出向者が担当しているらしいじゃないか。責任のない人間にこんな大きな問題を負わせるというのは管理上で疑問が残る。これだけの不懸をひとりに任せるなど、荷が重すぎるんじゃないか」

会議に参加していた人間の視線が宝田に集められた。

宝田は、すべての責任を最内に押し付けようとしていた。

山岡資料の存在を知るのは最内だけだ。

やり方は何であれ、今のうちに最内を引っペがしておかなければ後々で都合が悪い。

宝田からすれば、今が保身のための絶好のチャンスであった。

「これだけの大規模リコールになり兼ねない懸念事項を、期限付きの出向者に担当させるのは管理上の問題じゃないか。ねえ、油井課長。来年度にはいなくなるかも知れない最内にエアバッグを任せておいて良いのですか。品質保証室はリコール窓口という重大機能も持っているのだから、今回の件はもっと上位の人間が負うべきじゃないですか」

宝田は意図的に油井に話を振った。これもまた、事前に手の内を合わせている。

もっともらしい宝田の発言に、周囲は納得した表情で頷いた。

集まった管理職は白い目で油井を見る。「そうだな、来年度から最内は他の仕事を任せよう」、申し訳なさそうに呟く油井だが、その陰には策略があった。

それまで一連の流れを静観していた時田は、ようやくその重い口を開いた。

しかしその発言は宝田の狙いを背く内容だった。

「最内はよくやっている」

時田の思いがけない言葉に、宝田は睨みをきかせた。

「ったく、余計なことを」、宝田の愚痴は喉元で止まったが、険悪な心の内ははっきりと表情に現れている。

「逸早く事態を察知し、実際に現場にいって部品を見たのは最内の手柄だ。彼は問題意識を持ち、真摯に対応しようとしている。場合によっては最内には出向期限の延長を要請するつもりだ」

時田は部下を擁護する発言を繰り返した。時田には肩書きで人選する信条はない。

室長という肩書きの人間が中立的立場で物事を判断できるというのは、凝り固まった組織の中でも救いがあるということを示している。

しかしそんな時田の言い分を真っ向から否定する言葉が聞こえた。

「本当にそれでいいのですか。時田室長、あなた自身の任命責任でもあるんですよ」

声の大きな岩永が、赤茶げた顔をさらに朱に染めて言った。いいぞ、もっと言え。このときばかりは宝田も岩永を心の中で支持していた。

宝田と時田のやり取りを見て、このままではまずいと思った油井は、熱論に一矢報いる形で決定的な風説を垂れ流すことにした。これは最後まで言うまいと油井が残しておいた蜂の一刺しだ。

「ここだけの話、例のタレこみですが、最内が記者と密会していたという証言があります」

「なに、本当か」

油井の一言で会議の雰囲気は一変した。

最内を擁護する悪い流れを、再び油井が引き戻した。

「つまりリークしたのは最内ということか」

油井は小さく頷いた。

「ええ、はっきりとは分かりませんが、東京経済新聞の傘下である出版者の女性記者と、駅前のカフェで会っていたという目撃情報がありました」

内部告発を働いたのが最内であるとすれば、もはや時田でしても庇いきれない。

時田は顔の前で手を組むと、それまでの擁護を撤回するように顔を顰めた。

その最内とやらを今すぐに外すべきだ。悪夢の如く、議論の決着はついた。

最後に油井は宝田と視線を合わせると、不敵な笑みを浮かべた。


   3


「メビウスの品確資料、できたか」

朝から引っ切りなしに続く会議に最内の頭からは次期型メビウスなど完全に消し去られていた。いや、正確に言えば考えたくても考える時間がないといったところか。

「いえ、まだ手が付いておりません」

突然の油井の要求に、最内は正直にそう返答した。不具合対応に追われてばかりだが、メビウスの量産日程が遅れている訳ではない。仕事は山積みでもやるべきとはやるのである。

「エアバッグの一件が忙しくて新車業務に手が付かなかったとでも言いたそうな顔だな」

「そういうつもりでは―」

最内は実際に厚木工場での現場視察も経験し、エアバッグの不具合に関しては社内で一番の有識者ということで、管理職からのヒヤリング、広報への情報提供、そして購買などを交えた供給リスク対応など、ありとあらゆる会議に駆り出されていた。

昼食を口にしながらランチオンミーティングを行わなければいけないほどスケジュールが詰まったのは、入社以来初めての経験だ。

そんな矢先に急に投げ掛けられた質問である。最内はもっともらしい回答を持ち合わせていなかった。

「いいか、君がここに来てもらったのは今後急増する新車投入に対応するという目的からだ。余計な突発仕事に現を抜かしてもらっては困る」

浮上するリコール疑惑に対し、これまでメーカーの対応を最内に一任してきた油井だが、ここにきて急に論点をねじ曲げてきた感が否めない。狙いはなんなのか、最内はこの時点で解せないでした。そして次に発せられた思いがけない言葉に最内は素っ頓狂な反応を見せるのである。

「以後、シバタの件は我々管理職で対応することに決定した。午後からの会議は私と時田室長で対応する。君は出席しなくていい。お前は次期型メビウスの立上業務だけに集中してほしい、いいな」

納得がいかない様相の最内を余所目に、油井はきっぱりと担当業務を外した。


「――いったい、どういうつもりなんだ」

午後の予定を半ば強制的にキャンセルされた最内は、腑に落ちない様子で加山と落ち合った。足を運んだのは駅前の焼き鳥店である。突然はじまった久々の友人との会合に、予約も入れず大衆店でサシで飲むことにした。

店内は炭火の香りが立ち込めている。モクモクと上がる煙が食欲をそそるが、今は悠長なことを考えている余裕はない。最内は油で変色した換気扇を見つめると、難しい顔でビールを頼んだ。

「お前がエアバッグの検証資料の存在を知っている以上、奴らにしては都合が悪いのだろう。弱みを握られて、余計な真似をされては困るからな」

「そんな理由かな」

普段なら雑務ばかり負わせて、深夜まで残業させてもお構いなしという油井だが、今日という日ばかりは強制帰宅を命じた。自分の都合だけで仕事を振るというのは管理職失格である。

加山は焼き立てのカシラを頬張ると、熱さを打ち消すために一気にビールで流し込んだ。

妙に焦っているように見えたのは気のせいではなかろう。

時間は余るほどあるのだが、日頃の癖か早食いになってしまう。それは最内も同様だった。

「油井と宝田はタイプも見た目も違うが、同期入社で、しかも出身も同じだったはずだ。たしかお前と同じ梅園住宅じゃなかったかな」

宝田の長男が同じ学校に通学しているということは知っている。

たしか、一回りも若い感じのいい奥さんで、要と同い年の子だったはずだ。

出世頭の宝田の息子だけあって学校での成績もよく、スポーツも万能である。母親譲りで顔立ちも端整な可愛らしい子だ。天は二物を与え、最内には一物もくれなかったことを憎む。

「かたや実験部、かたや品証だ。本来、品証室は実験部の提示した実験結果を品質観点から検証しなければならない立場にいるが、同期入社の蜜月の関係上、実験部の都合の良いようにデータが改竄されてきた。今回のエアバッグの件も、あらゆる手立てと口実で責任を逃れるつもりだろう。奴らは責任回避のプロだ。自分たちに非があろうとなかろうと、すべてはシバタの製造責任にするつもりだろう。サプライヤー泣かせもいいとこだな」

加山は最初の一杯で顔を赤くして管を巻いた。

「嫌に詳しいな。なぜお前がそんなことを知っているんだ」

「商事はイズミの購買機能を請け負っているんだ。サプライヤー選定のとき、品証や設計の合意を得る必要がある。その関係で商事にいた頃から油井とは付き合いはあった。油井は品質に関して難癖をつけては、都合のいいメーカーばかり採用してきた帰来がある。油井には気を付けろって、当時から有名だったよ。奴は下請潰しの異名がある」

油井には新規参入サプライヤーを尽く虐め抜いてきた過去がある。

品質不懸のある部品は納入を許可せず、イズミ側の生産変動による納入調整があってもすべて部品メーカーに負担させてきた。

そんな油井をヤクザ的と恐れる関係者は多い。ネチネチと正論を突き付けるやり方で、多くの担当者を潰してきたのだ。

「期末の人事考課が近い。おそらく急に体制の話をふっかけたのもそれが関係しているのだろう。勝手な推測だが、部外者であるお前にリコールは触れさせるなという目論見があるのだろう。都合の悪い情報が握られてしまっては困る。それに、うちの人事考課は半端じゃないからな」

府中トラックのときも人事考課はあったが本体のそれは人事が絡む。常に転勤と出向がつきまとい、年度末となると皆翌年以降の異動にそなえ戦々恐々としている。

要の進学も近いというのに、最内には大きな不安が付きまとった。

「実際、子供が小さい頃は転校が多いからな」

急に食欲を失った最内はロクに食事も通らず、アルコールばかりを口につけた。


   4


部長室に呼び出された最内を迎えたのは仏頂面した上役三人だ。

渋い顔で自分を見つめる時田と油井の面々がある。良い知らせでないことは一目でわかった。最初にエアバッグの不良が発覚したときと同じ空気だ。

しかし、そのときと明らかに違う点がひとつ。最内の前には油井と時田、そして見慣れないネズミ顔の男が一人いる。

寄れたスーツの肩幅が力なく映るが、一方で維持の悪そうな尖った口元をしている。いったい何者なのだろうか。

その答えを明かすように、油井は皺げた顔で最内をキっと睨みつけ、重たい口を開いてこう言った。

「単刀直入に申し上げて、君を来月一日付で人事付にするという方向でまとまりつつある」

「人事?どういうことでしょうか」

何の前触れもなく告げられた宣告に最内は動揺を隠せなかった。

まったく状況が掴めない。

一連の不具合騒動から始まり、国交省による立入検査、そして東京経済新聞にリコール隠しの疑いをすっぱ抜かれるなど、品証室が置かれる立場は日に日に弱くなっていった。特に問題のエアバッグを担当する張本人ということで、証人喚問の如く社内の関係部署に引っ張り出され、最内は出向以来もっとも危機的な状況下にいる。そんな中で突如宣告された人事部への異動だ。冷静に考える余裕などあるはずもなかった。

「お前が社内の機密情報を漏洩させたという証言がある」

急に語気を上げた油井の眼光が鋭く刺さった。

「漏洩、まさか」

「君が今回のリコール情報を流出させたという疑いがある。正確に言えば、三年前に行われた衝突実験の結果を、イズミ自動車に不利になる形に情報をねじ曲げてリークした」

「とんでもない!」

身に覚えのない濡れ衣を着せられ、最内は必死に抵抗してみせた。

「どうなんだ、最内」

詰め寄る油井。会議室は取調べのような圧迫感を伴っていた。

何としてでも最内に全責を負わせたい言い方だ

「そんな事実はありません、風説です」

「いいか、お前が記者と密会していたという目撃情報が出てるんだよ。社内情報を流出させる行為は勿論、リコールに関する重要不具合内容を出版社に流すとは言語道断、会社の信用と利益を損なう行為だ」

このとき最内の頭に過ぎったのは水田の顔である。

憎々しいまでに愛想をふりまく水田。たしかに水田と接触し、さらに駅前の喫茶店で密会したことは否定できない。その場を第三者に目撃されたとすれば、最内の立場は弱くなる。言い逃れはできない。

突然の呼び出しから油井の畳み掛けるような言い方は、最内を一方的に威嚇し続けた。立場でみれば、出向者と本体の部課長。本来、言い返すこともできない間柄だが、不正は不正である。最内は意を決して思いのままを告げることにした。

「しかし、リコール情報を隠蔽工作するのは本来、間違っていると思わないのですか」

「なんだ、口答えする気か」

開き直りと捉えられても仕方がないかも知れない。しかし、本来対応すべき問題は別にあるはずだ。イズミ自動車はメーカーとしての責任を負うべきであり、ユーザーに対応すべき策を講じる。それが今の品証室に求められた道ではないか。最内はそう訴えかけたのだ。

しかし最内のちっぽけな正義感は組織に毒された油井には通用するはずもなく、さらに油井は最内を追及する。

「その言い方は、つまりお前が内部告発したということになるな」

「それは―」

油井は憎しみを込めた声で最内を罵倒した

きっと間宮との関係も疑っているに違いない。

全面的に否定したいが証拠がない。しかも目撃証言があるときた。この場では相手に分がある。最内はこの上なく不利な立場に追いやられた。

「最内君ね、口の効き方には注意した方がいいぞ。私には人事権もある。あ、脅してるつもりはないがな」

意地汚い油井の物言いもこのままでは正論と化してしまう。なんとか形成を逆転したい最内に対して、時田が重たい口を開いた。

「君を見損なったよ。タレコミが仮に真実だとすれば、人事的処置は免れない。人事部の中三河に同席して頂いたのもそこに理由がある。ねえ、中三河さん」

ようやくネズミ男が口を開く瞬間がきた。

人事部門の人間と口を利くのはこれが最初で最後であろう。イズミ自動車ほどの図体となると、人事の仕事の幅も際限がない。三十万人を越える従業員の採用、人員整理、そして異動から退職までのすべてを担う。そんな人間に目を付けられた日にはサラリーマン生活の終焉だ。人事に名前を覚えられるということは、警察に指紋を採られたのと同義なのである。

「悪いが、今回の件に関しては人事部も見逃すことはできない。君を来月一日で人事部付けにすることが決定された。既に塩谷常務の承認済みだ」

人事部付け――。

人事部付けとは、出向や異動など、勤務地変更を伴う人事処置の前に、一時的な着地点として言い渡される仮の在籍である。翌年度までの準備期間として与えられることが多く、ネガティブな意味で捉えられるケースが多い。海外転勤や出向、転籍など、次年度に会社名が変わることを暗に意味する。最内の場合、出向期限も近付いていることもあり、府中トラックに戻されるか、場合によっては新たな出向ということも考えられる。特に理由が理由だけに、栄転という話は有り得ないだろう。

最内は中三河の細く釣り上がった目を見た。

薄くなった頭部と顔の皺を見れば、年齢は五十を越えていることが分かる。これまでに多くの従業員のクビを切ってきたに違いない。家族や持ち家のある社員を容赦なく飛ばす。それが冷酷な人事のシノギである。

「今回の件については、会社の評判を著しく傷付ける行為のため、本来ならば君を査問委員会にかけることになるはずだった。査問された社員は懲戒や罰則の対象になるが、私もそこまで鬼ではない。しかし品証室にこれ以上、君を置き続けることは難しいだろう。人事付で済まされるとこは我々の最大限の斟酌だと思ってもらいたい」

情報漏洩など事実無根である。

しかし最内の反論が聞き入れられる様子はない。証拠がなければ言語道断、人事の判断は絶対なのだ。

「何か言い残すことはないかね」

中三河の放った質問に、最内は言葉を発することができなかった。

今はあまりにも状況が悪過ぎる。最内はぐっと拳を握ったまま、卑しい視線を耐え抜くしかなかった。


   5


厚木に訪問するのは何度目だろうか。

このところ毎週のように視察に向かっている。

原因の解明と対策――。

この二つについて、日々の進捗会で報告が求められる。それが今の最内のすべてだ。真の原因は何なのか、不具合規模はどのくらいか、損失はいくらか、代替品の供給は間に合うのか…云々。これらについて、各部署からヒアリングが繰り返される。「まだ具体的には分かっておりません、調査中です」、と応えれば、「いつになったら分かるのか、お前は当事者意識がない、品証は責任感がない」、と罵倒され、「それもまだ分かりません、申し訳ございません」、と何度頭を下げたものか。終には「お前じゃだめだ、上司を出せ」、ときた。そしてこのような不毛なやり取りがいつまで続くものか。今や品証の最内といえばエアバッグ担当の異称を背負って癌とみなされている。エアバッグの問題が大きくなればなるほど、最内の評判は落ちていく。最内は最内という個人でなく、社内ではあくまで品質保証室のエアバッグ担当なのだ。

不具合が見つけられなかった品証が悪い、不具合品を製造した生産元が悪い、不具合を発生させる仕様をつくった開発が悪い、価格だけでメーカーを決定した購買が悪い。各部署が責任を回避し続け、誰も具体的な対策をとろうとしない。そしてタライ回しにされた責任の行き着く先を、立場の弱い最内へと追いやった。これでは本質的な解決には繋がらない。事なかれ主義。問題が大きくなればなるほど、目を背けたくなるのが大企業倫理というものだ。

最内を突如襲った悲劇は、厚木工場から帰社する東名の途中で起きた。

助手席に置いた鞄の中で携帯電話が轟々しく振動している。

このところ最内を呼ぶ電話やメールも多くなった。どうせ問い合わせても答えはない。しかし、必ず最内に浴びせられるのは「早く対応しろ」という締めくくりだ。

最内はのろのろと走る渋滞の車中で鞄に手を伸ばした。

きっと油井だろう。

視察の結果はどうなった、何か進展があったか。進展がないと応えれば、お前は何をしに行ったのかと罵倒され、社内にいても現場に出ろと罵倒される。

憂鬱な思いで手にとった待受画面には見知らぬ番号が表示されている。○二九からはじまる番号は和泉市内からだ。本社からか、もしくは取引先。いずれにしても声質を変え、会社員気取った様子でとると、早回し再生されたテープのような聞き取りづらい声が聞こえた。

「妻が事故に?」

「ええ、奥様が運転されていた車が」

声の主は茨城県警和泉警察署の若い刑事だった。

力ない声はまだ二十代だろうか。状況が把握できないだけに、余計に不安に感じられる。

妻が事故―?

花恵は無事なのか。

いつ、どこで、どのように事故に遭って、命に別状はないのか。

「様態については、まだ詳しいことは分かり兼ねます」

曖昧な新米刑事の回答に最内は声を荒らげた。

「なぜ分からない。あんた、警察なんだろ。妻の様態をすぐに調べて教えてくれ」

まったく頼りのない担当だ。こんな大事なときに状況把握すらできていない。

そしてその新米刑事は今の最内にも重なった。

こんな大きな不具合を起こしておいて、なぜ原因の把握すらできていない。

金曜六時の東名川崎は凍ったように渋滞が続いている。

『この先五キロ、事故渋滞』

クソっ、こんなときに事故なんて。

最内はこれ以上ないほど力強く握った右拳をハンドルに叩きつけた。その瞬間、クラクションが鳴り響く。

驚いた前方の車は車線を変更した。最内はアクセルを踏み一気に前へ出る。そしてその前には新たな渋滞が続く。

万事休す。

最内は苛立ちを無理やり落ち着けて、首都高から常磐道へと急いだ。


既に息子が駆けつけていた。相当に泣いたのだろう。目頭を赤く腫らして妻に寄り添う子供の姿がそこにある。

「気が動転していたみたい。でも大丈夫」

病室にたどり着いた最内は力なく跪いた。

目の前には痛々しく包帯を巻いた花恵の姿が見えた。顔は事故のショックで青白いが、意識は確かだ。最悪の事態を想定していただけに、ひとまず安堵した。

和泉市内にある和泉記念病院は、イズミグループが保有する県下最大規模の総合病院である。産業医も多く常駐しており、社内の検診はすべてここで行われる。イズミ自動車の屋台骨を支える役割を担っている。

最内は看護婦に頭を下げると、ベッドの横にあるパイプ椅子に重たい腰を下げた。皮肉かな、ここでの病状も会社側に伝達されており、最内が知らせる前に時田から連絡があった。従業員だけでなく家族の健康状態も総務がしっかりと管理している。社員の怪我、病気、そして近年増加しているメンタルヘルスも、人事の重要なファクターとなっている。

病室は白塗りの壁で、実に冷淡な雰囲気が漂っている。処置後の一時的な部屋のため現在は一人部屋だが、すぐに四人部屋に移るそうだ。骨折や内部出血もなく、この様子だと一週間も経てば元通り元気になるであろう。事故後のショックだけが心配だが、もともと気丈な女だ。最内が抱いていた心配は蒸気のように消えていった。

「お母さん、大丈夫なの。死んじゃったりしないの」

涙ぐんだ声で花恵を見つめる要。

風邪以外で病院に来たのは初めてだろう。多少、大袈裟だが、要の心配も当初に比べれば和らいできた。一件落着。最内を襲った悲劇は呆気なく終焉した。

「心配かけてごめんね。顎を強く打ったけど、エアバッグがあったから助かった」

花恵の一言が最内の胸に衝撃を与えた。

エアバッグが妻の命を守った。

傷口はそれほど大きくないようだが、顎には痛々しく医療用ガーゼが貼ってあるのが見える。もしこれが、エアバッグが搭載されていなければ、妻の怪我の具合はもっと激しかったのかも知れない。

今の最内にとってエアバッグは厄介極まりない存在である。インフレーターの金属片が破損し、爆発の衝撃で悲惨する可能性がある。最悪の場合、運転者を傷つける。実際に運悪く命を落とした例もあった。

しかし一方で、エアバッグが運転者の命を救った例もまた少なくない。最内の頭の中には、エアバッグなど搭載すべきでないという意見が固まっていた。日々の日報には安全な代替品確保に東奔西走する様子が刻々と記されているが、問題の本質は下らない上位報告でも責任回避でもなく、乗員の安全確保だ。安全な技術を搭載した車を消費者に届ける。それが自動車会社の使命でないか。最内はこのとき、大切なものに気付かされた気がした。

芝田電機がエアバッグの開発に乗り出した真の理由はなんだったのか。製造が極めて難しい爆破物を積んだ部品を生産し、市場で圧倒的な占有率を誇るためか。誰も触れたくない技術に敢えて取り組み、寡占市場で温々と会社経営を続けるためか。否、違うだろう。

もともとシートベルトやチャイルドシートといった安全装置ばかりを扱っていた同社だ。運転者や乗員の安全を保証するため、四十年以上にわたり市場を席巻してきた。その会社が今から二十年前、本格的にエアバッグの製造に取り掛かる。シバタブランドは自動車市場の中で、安全の二文字をキーワードに多くの人々の命を救ってきたのではないか。そして目の目にいる花恵も、シバタに救われたひとりだ。

多忙な毎日に目的を失っていた最内だ。

それでも大切な人をエアバッグが救った現実を目の前に、意識を変えられた気がする。

最内は瞑目すると、悟りを開いたように今後の行末を念じた。


   6


最内に残された時間は少ない。

油井からかけられた謀略ともとれる濡れ衣を解かなければ、自身の人事部付は免れない。いや、それよりもイズミ自動車としてリコールを発令し、建設的な対策を講じなければ新たな被害者を出す可能性もある。ユーザーに不具合の内容を周知させ、然るべき対応をとる。それがメーカーのあるべき姿である。下らない社内の責任の擦り付け合いに現を抜かし、問題の根幹を見失っては元も子もない。

イズミほどの大手企業ともなると、部長級の人間はそこらの中小企業の経営者よりも多くの部下を抱えている。スケジュールを見てもほとんど空きはない。朝八時から夜九時まで分刻みでびっしりと詰まった会議の他に、深夜まで海外との電話会議もある。

そうとは言っても、これほどまで大きくなった問題を放置するわけにもいかない。

エアバッグの一件はイズミとして最優先で取り掛かるべき事案なのである。

最内はこの日、ある人物を訪ねる決心をしていた。

数百億円規模にも膨れ上る特損を、彼自身知らないはずがない。

最内はこの日まで十分な情報収集を重ね、満を持して実験部フロアへと向かった

「宝田部長、四九八番の検証報告書について伺いたいのですが」

実験部フロアに来るのは二回目だ。受付に声をかけなくてもデスクの位置は分かる。心臓が口から飛び出しそうな勢いで鼓動している。最内は最上階のフロアに到着すると、真っ直ぐに宝田のもとへと向かった。

「なんだ、また君かね」

宝田は荒々しく最内を出迎えた。やはりこの態度、すべてを把握しているはずだ。

「覚えておりませんか、メビウスZの事故検証の件」

そう言うと最内は山岡が送られた報告書を宝田に突きつけた。

宝田は一瞬、顔を歪めながらも「ああ、このことか」と、すぐに持ち直す。

「この件だが、特筆すべき問題がないから台帳からは外したんだ。わざわざ残しておく必要性もないからね。新入社員の腕試しの意味合いが強かったから、私の方で処分させてもらった」

すぐに言い訳の言葉が飛び出すのはさすがである。最内は続けた。

「当時の写真にははっきりと黒点が残っている。これは明らかにインフレーターの金属片が飛散した際に付着した焦げ跡だ。それに、検査後にディーラー処分作業を行わせた際、エアバッグが破損していた記録もあった。不具合を把握しておいて報告しなかったのは、あなたじゃないか」

「なんのことか。知らないね」

少しは下調べをしたようだが、確固たる証拠にはならない。そう言いたげな表情だ。

形として残る履歴はすべて処分した。実験部に非はない。証拠がなければ、知らぬ存ぜぬを貫き通す。それがこの会社のやり方だ。

落ち着き払った宝田は冷ややかに笑うと、「忙しいから帰ってくれないか。そろそろ会議があるんだ」と、最内をあしらった。帰るわけにはいかない。一歩も引く様子を見せず、ついに最内は宝田を追い詰めた。

「国交省監査の前週、珍しく休出なさっていたそうで」

「なに―」

最内の指摘に、宝田は上体を仰け反らせた。虚勢を張った目の奥には焦りが見える。

「その日、私は諸用で、休日にも関わらず茎崎へ出勤していました。油井品証課長の命令で、工場の納入実績を調査しておりました。和泉市内の事業所はどこも非稼働だったので。その日の休出者は極少数だったはずです。その日は長男の進学について父親参加必須の説明会があったのに、仕事で私は参加できなかった。しかし、そんな大事な会合に欠席したのは、どうやら私だけではなかったようです」

奥歯を食いしばった宝田の表情が印象的だ。これ以上、言い逃れはさせまい。最内はさらに宝田に詰め寄った。

「なぜ、わざわざ事故書類を隠したのでしょうか」

更なる追い打ちに宝田は口を紡いだ。

「疚しさがなければ、わざわざ休出してまで書類を隠す必要性はない」

「だいたい、なんで君が私の休日の行動について知っているんだよ。私が出勤したなんて情報自体デタラメじゃないのか。証拠はあるのか、証拠は」

証拠。この会社の技術屋はこの言葉が好きだ。証拠がなければ全てが無に帰すとでも思っているのか。

「ええ、あります」そう言って最内は警備から受け取った入出記録のコピーを差し出した。

「国交省の監査官が品証フロアの入出記録を参考に持ち出していました。たまたま監査に居合わせた私は、そのとき監査官が手に持っていた入手記録の一部を目にしました。どうやら監査官はシバタの関係者の来訪の有無を調査していたようです。しかし、私の目に映ったのは紛れもない、宝田部長の名前でした」

最内の追求に宝田は押し黙った。

「宝田部長、わざわざ休日に書庫に入る理由などあったのでしょうか。それに、品証室が管轄している書庫に実験部の人間が入ること自体、相当に特殊な理由であると思われますが、如何でしょうか」

最内は東京経済新聞の記事を見せた。

ちょうどエアバッグのリコールがすっぱ抜かれた日の記事だ。

「それとこの記事、シバタの情報がマスコミに漏れた。紙面には社内の情報がかなり詳しく記載されています。何者かによる内部告発があったことは間違いありません。当時の情報を知るのは、私と、油井課長、山岡、そして宝田部長」

「ああ、そうだ。だから君が問題をリークしたのではないかと出回っている」

怒りで目を三角形にしながら、宝田は憎々しく口を開いた。

「ええ、お陰で私は来月から人事部付となりました」

なにやらエアバッグの件で揉めているようだと、激論の行き着く先を、実験部デスクにいた社員たちも固唾を飲んで見つめている。

「メビウスの事故検証については、あなたが原紙を葬ったため、第三者に知られることはなかった。しかし実はもうひとり、報告書の存在を知る者がいます」

宝田は意外性を持った表情で最内を見つめた。

「間宮という品証事務員です」

間宮か―。

宝田の中で何かが崩れる音がした。

「書庫の管理を正社員以外の人間にやらせていたのは管理上の問題でしょう。書庫の中には外に知られてはマズい資料ばかりが保管されていた。あなたの隠した検証結果もそうです。しかし間宮は隠蔽工作を知っていた。台帳管理は間宮の仕事だったため、一覧表がすり替えられていたことを間宮は把握しています。ちょうどその月の報告総数が、何かしらの理由で一件減っていたのですから、不自然に思われても仕方ありません」

情報漏洩の危惧から機密事項は厳重に管理されていたはずだが、書庫の管理を行っていた愛人はいつでも中身を見れる状態にいた。灯台下暗し。愛人のことだから技術書類の中身まで分からないだろうと高を括っていたが、どうやら間違っていたようだ。

「じゃあ、タレコミは間宮の仕業だというのか」

最内は小さく頷いた。

「それ以外に考えられません。しかし、間宮に責任はない。間宮に会社の重要な機密事項を任せていた管理体制に非がある。そう思いませんか」

「くそ」

何もかも終わった。完璧に練られたはずの隠蔽策は、脆くも最内の前で崩れ落ちた。

「今日の夜九時以降、時間はとれないか」

「私はいつでも結構です」

宝田は時間と場所だけを告げると、逃げるようにその場を後にした。これですべてが終わった。長い戦いを済ませた最内は、九時までの間、堂々とした素振りで日頃溜まった仕事を片付けることにした。


「――すまん、遅くなった。今から向かってもいいか」

宝田から電話があったのは約束の時間を十分過ぎた頃だ。どうやら前の会議が揉めて、長引いていたらしい。忙しい身分だ。

宝田は品証フロア横にある会議スペースに腰をかけると、事の真相を話し始めた。

「あのとき、事故車両のコックピットモジュールの合皮に説明のつかない焦げ跡が見つかった。直接の死因ではないが、何かしらの部品が焼けて合皮に付着したと考えられる。エンジンの損傷がない場合、焼けるとしたら考えられるのは発火物を積んだエアバッグだけだ」

「つまりエアバッグに不具合があると分かっていてわざと隠蔽したと」

「そうだ」

この日は油井も出先だった。

誰もいなくなったフロアは不気味に陰が広がっている。

「しかし困るのは君も同様じゃないか。報告会に同席した品証も、エアバッグの問題を見つけられなかったんだからな」

宝田は隠し持っていた報告書を最内に見せた。

当時の日付と、油井、宝田の両職印。間違いない。これだ。

報告書の問題なしという但し書きに目がいき、たまらず最内は食い付いた。

「あのとき私は焦げ跡を指摘したはずです。議事に残ってないなんて」

「実を言うと、あのとき私は昇進試験を受けていてね、翌年部長職に昇進することが決まっていた。本当はあと一年早く部長になる予定だったが、生憎ポストが空いてなくてね。それで一年間、私は実験部の中で、コンパクトカーを含む小型車セグメントを管轄する課にいた。そこに問題のエアバッグを積んだメビウスも含まれていたというわけだ」

「つまり、経歴に汚点がつくことを免れようとして、不具合を隠蔽したと」

宝田はふっと笑った。

「役員報告があったんだよ。余計なことを言うと色々と詮索されて面倒臭い。あのときは必死でね、問題のある資料はすべて隠蔽していた。油井課長の承認のもとにね」

山岡に不具合の隠蔽を促した張本人も、この宝田だ。

しかし二年経って当時の報告書が残っていたとは思いもしなかっただろう。

「まだ二年目の新人と出向者の君だろう。上手く取り繕えと言っても、社内の政治的な部分に疎い人間には我々の真意はうまく伝達できないと思った。だから事故検証を行ったという履歴そのものを削滅したんだ」

出向者は使えない。ろくに仕事も出来ないくせに頭は堅くては融通が効かない。せめてもう少し上手く取り繕う能力があれば救いようはあるんだが。宝田は包み隠さず黒い腹を披露してくれた。

これですべての点と点がつながった。

しかし非道い話だ

正直に語ったことは評価するが、あまりに下衆な動機に、最内はそれ以上返す言葉がなかった。

「これだけ大規模なリコールとなると、会社としての損失も計り知れない。実際、今回の件で来期以降のシバタの業績は危ういだろう。おそらく自力での回復は不可能と思われる。イズミがどこまで介入するのか見物だ。そこは経営判断を煽りたいと思うが。」

リコールが発令されるとディーラーが修理、交換の対応をする。消費者が修理費用を負担することはない。代替品の用意や修理費用は完成車かシバタのいずれかが負担、もしくは折半か負担割合を今後議論することになる。イズミとしては、余計な負担をなるべく払いたくないのは当然だ。しかし一千万台規模のリコールを一社で賄えるはずもない。今後の動向が注目される。

一方で未だに具体的な対策もないまま、芝田は不具合の懸念のあるエアバッグを垂れ流し続けている。次期型メビウスへの搭載を見送ったのも、芝田側の苦肉の策だろうが、抜本的な解決策とはほど遠い。求められるのはやはり全数代替だ。

「品質保証室としてリコールの準備にとりかかるよう、塩谷専務に直談判を行う所存でいます。宜しければ宝田部長も同行願えませんか」

最内はこれまで収集した調査報告を宝田に突き出した。

「どうせ私も、来期この会社にいられるか分かりません。立場上、出向者である私が役員と顔を合わせることなど出来ないので、宝田部長の顔を借りたいのですが」

「俺はどうなっても知らんぞ。自分で自分の首を絞めることになるかも知れない」

宝田は唾を飛ばしたが、毅然として最内は頷いた。

「ったく、好きにしろ」


   7


「インフレーターを製造している松葉化学というメーカーがございます。ご存知ないでしょうか」

「松葉化学?悪いが聞いたことがないな」

松葉化学はエアバッグのインフレーターを製造している化学品メーカーである。売上高三千億円の大手企業であるが、自動車業界においてはいわゆる二次請け、孫請けと呼ばれる企業のひとつ。優良企業であることは違いないが知名度は低い。宝田が知らないのは無理もない

「無名ですが、インフレーターの製造についてはシバタを凌ぐほどの優良メーカーです」

「その松葉化学という会社が、今回の件と何か関係があるのか」

「松葉化学が代替品の供給に名乗りでています」

なるほど、という面持ちで宝田は顔を上げた。

「そこでお願いがあります、松葉化学の部品に問題がないかどうか、実験部の力を借りてエアバッグの展開実験を行って頂けないでしょうか――」


埼玉県北部にある実験施設に集まったのは、イズミ自動車の品証と実験部担当、そして松葉化学の研究開発本部を統括する執行役の橋田清光だった。広大な敷地にポツンと佇む建家。周囲には白い砂利が敷かれており、殺風景な景色が広がっている。まるでアクション映画の撮影場所のようだ。肩幅の広いジャケットを着た橋田は周囲の景色に似つかわしくないほど浮いて見える。松葉化学にとってみれば、今回の展開実験の結果によっては数百万台の棚牡丹受注を得ることになるため、橋田は祈るようにして実験を見守っている。

爆破物の展開実験は危険が伴うため、専用の実験施設で行う必要がある。こうして外部の実験施設にイズミ関係者が挙って集まるのは珍しい例だ。

作業担当者はECUを操作し、エアバッグの展開に備えた。

準備が整うと一行は試作エアバッグの積まれた車両を離れ、アクリル板の裏から固唾を飲んで実験の様子を見つめる。

成功してくれ。

祈る最内。

目線の先には、腐敗した組織で繰り返される保身行為ではなく、運転者の安全を考慮した技術者たちの真剣な表情が見られる。

「では、展開します。三、二、一…」

マイクロフォンから流れる合図の後に、ECUに衝突センサーから信号が送られると、ポンっという乾いた爆発音が僅かばかりの白煙ととともに聞こえた。風袋が勢いよくハンドルから弾ける。エアバッグは無事に展開された。どうやら破損もないようだ。実験は成功した。

噴出ガスが完全に抜けたことを確認し、一行は力なく萎んだエアバッグを食い入るように見つめた。

課題のインフレーターも難なく作動している。

「問題はなさそうだ」前岡も安堵の一言を発した。

最内の背後で前岡と橋田が固く握手をしている姿が見える。これですべてがうまくいく。肩の力が下りた最内は、その場で静かに立ち尽くした。


――その後もイズミ社内ではリコールを出すべきかという議論が繰り返された。

いや、イズミだけでなくすべての完成車メーカーが足並みを揃えて国交省に状況を報告する必要があった。

多くの懸念材料が残されたままである。

イズミ自動車の関係者が霞ヶ関に訪れたのは、三月も中旬を過ぎた晴天の出来事だった。

この日、四月下旬並の気温を記録した東京では、桜の蕾が今にもはち切れんばかりに膨らみ、春の訪れを感じさせていた。

「下らねえディベート大会やってんじゃねえぞ、やったかやってねえか、それだけ話しゃいいんだよ」

長尺テーブルで隔たれた会議室には、鬼田はじめリコール課員と自動車関係者が対峙する形で向かい合った。

鬼田の巨大な図体と怒声は圧が激しく、今にも関係者を飲み込んでしまいそうだ。

鬼田の挙げた指摘の数々は、消費者を守る国交省として至極真っ当なものばかりだ。

本来、人の命を守るべきエアバッグが死傷事故を起こしているということ。

爆発物を積んでいるという事実が消費者に与える恐怖感は大きい。自分の車は無事なのか、もしものときに破裂などしないか。メーカー側は今後どのように情報を周知し、消費者の不安を拭うのか。

昨今の低価格指向で部品の共用化が進んでいる。特にエアバッグは市場そのものが寡占であり、仮にリコールが発せられても、これだけの規模の代替品を用意することはできないのではないか。ディーラーにユーザーが駆け付けて交換対応ができるのか。

仮に暫定的といえど、プログラムを変更してエアバッグを止めるなど本末転倒でないか。

部品の安全性については個々の部品メーカーが製造責任を負っているが、一方で完成車メーカーも部品を採用し消費者に売るという点で品質責任がある。車両実験部が行っている衝突実験も一例だ。いったい責任の分配は誰が、どのように決めるのか。

もしイズミ自動車が本当にエアバッグの危険性を知っていて今までリコールを発表していなかったと消費者に知られれば、その責任は回避できない。

現時点で不具合の原因がはっきりと分かっていない。製造不具合なのか、設計不具合なのか、それとも複合的な要因なのか、どの年代に製造されたロットが問題なのか、特定が甘い。

――国交省を交えた会合は小休止を挟んで三時間と続いた。しかし、三時間の議論で結論が見えるほど簡単な問題ではない。唯一言えることは、多くの良品の中に混じった一部の不具合品が全体の評判を落としていることだ。

原因が明確でないのに対策は出せない。ヒューマンエラーなど世の中に五万とある。偶々エアバッグというリスキーな部品を取り扱っていたことが仇となったと考えることもできる。責任を一社に寄せるのは、本質的ではない。

百パーセント要因と対策が分かっていない状態ではリコールを出しようがないという意見も聞こえた。

これまで多くの人間の命を救ってきたエアバッグが、場合によって凶器になり人に襲い掛かるというジレンマ。この事実をメーカーがどのように対応するか。答えはない。

「これらの課題をして、事態を快方へ向かわせるため、なにか建設的な意見のひとつもないのか」

鬼田の放った質問に、最内は毅然とした態度で応えた。

「実験部と品証、そしてメーカーが合同で行った展開試験の結果、松葉化学製のインフレーターが代替品として適していることが明らかとなりました。心配されていた噴出ガスや互換上の課題もクリアした。今後、松葉化学で製造されたインフレーターは芝田工業に納入され、メインラインでエアバッグに組み付けられることになります」

最内の説明を聞くと、鬼田は「そうか」と押し黙った。荒波を越える方法はひとつ。業界一丸となって代替品の生産を進めることだろう。

その他、リコール課から矢継ぎ早に投げ掛けられた質問は、塩谷品証担当役員や宝田がフォローに入った。

確固たる裏付けをもって提案を行った最内。

量産に加え代替分も生産するとなると、芝田だけでは能力が足りない。一部、中国やタイといったアジア圏の工場からも補完生産を実施する予定だ。そして北米や欧州の代替品に関しても、いずれは解決しなければならない。課題は山積みだ。しかし、鬼田を前に大きな一歩を踏み出せた気がする。


   8


十日間の短い入院期間は花恵にとって退屈そのものであった。

「今は抜糸が必要ない溶ける糸があるみたいなの」と、花恵は上機嫌に笑った。

喋るとまだ顎が突っ張った感覚があるらしい。

気丈に振る舞うが、本当はどこか恐怖心が残っているのだろう。

無理するな、と声をかけるが、一日中病室にいるのは性に合わないらしい。昼間は庭園を散歩したり、併設されたカフェで本を読んだりと暇を持て余しているらしい。早くパートに出たいと言った。もともと気の強い女だ。

こうして久しぶりに家族で過ごすと、失われた時間を取り戻す。

家族とは本来こうあるべきだ。

家族の団欒は会社によって引き離され、毎晩遅くまで仕事に忙殺され、プライベートを享受できない。二年ごとのジョブローテーションと転勤。会社側の都合の良い解釈で、引越代も足が出る。これでは本当に家畜と一緒だ。

家事は妻に押し付けて、子供の面倒もみてやることもできていなかった。しかし今は違う。

久々に父親らしい時間が過ごせたと思う。


天久保で落ち合ったのは腐れ縁が祟ったせいか。

城下町の繁華街は、唯一治外法権を許された地域である。

酒が一杯入れば無礼講。そこには役職も部署間の確執も存在ない。

地上の楽園の光景がそこに広がる。

「お前が府中に戻るって聞いて良かったと思ってるよ、お前は現場が似合う」

「そんなお前も四月から頑張ってな、鰻の養殖」

結局、三年という期限付きの出向は一年間延長された。用名はリコール対策という特命業務だ。

もともと新車立上に携わる予定でこちらに移ったのだが、思いも寄らぬ事態で仕事が手に付かなくなった。幸いメビウスのフルモデルチェンジは大きな遅れもなく順調に進んでいるようだが、最内を取り巻く環境は三年で目まぐるしく変化した。

「馬鹿にしてるだろう。水産加工業ってのは商社にとって将来性のあるビジネスなんだぞ」

加山はジョッキに半分残ったビールを一気に流し込むと、普段より回らない舌で上機嫌に言った。

「しかし内部告発の犯人、本当に間宮だったのかな―」

小洒落たバーである。

昼はカフェで、夜はアルコールも提供する流行りのスタイルだ。

テーブルの上には洋書が並び、カウンターの奥にはビアサーバーの横にエスプレッソマシンも見える。

確信的な根拠もないが、最内が白だとすれば、書庫の管理をしていた間宮にタレこみ犯の疑いが立ったのは言うまでもない。いずれにしても間宮の責任は問われない。プロパー社員でない間宮に書庫管理を任命した責任が問われ、油井は研究所から工場品証へと異動になった。新たな勤務先は大穂工場だ。油井に言い渡された辞令は組立工程の製造不具合を管理する地味な職場への異動である。

「間宮がリークする動機が見つからないな」

美人だが、謎の多い女だ。

日頃、誰に対しても嫌な顔ひとつせず振る舞っている様は八方美人そのものだ。

最内がこちらに移る前に結婚したと聞いているが、主婦であることを感じさせない見事なプロポーションの持ち主だった。

「間宮は酷く油井を嫌っていたからな。セクハラ親父だって。それに間宮が結婚したのは奇しくも宝田の部下だろう。結婚してすぐに海外出向だ。さすがの間宮嬢もご立腹ときたもんだ」

「そんな簡単な理由かね」

トキオ自動車が初めて不具合を把握しリコールを届け出したのは今から約十年前の二○○四年の出来事だが、当時それは偶発的に発生した製造不具合と思われていた。

その後も断続的に不良品は発生したが、これといって取り沙汰されることはなかった。

しかし、それから五年後の二○○九年にエアバッグを原因とする死亡事故が起きると事態は一変した。トキオと芝田電機が本格的に当局に指導を受け、要因解明に走ることになる。

さらにその翌々年、芝田電機が社内の独自調査で、不具合が製造工程によるものでなく、設計仕様上の問題であるという懸念が浮上する。インフレーターのガス充填率や、そもそも使っている噴出剤自体に問題があり、仮に不具合が事実であるとすれば対象は搭載する自動車全域に及ぶとされた。

そして最悪のシナリオは、無情にも現実となった。

前例のない不具合規模。そして、その原因も不特定なまま発令されたのは異例の調査リコールであった。

不具合要因の特定には長い時間を要する。誰も把握し切れていない不具合の調査に、複数回の検査を繰り返し原因を解明する。それまでの期間、予防処置としてリコールを発令し、ユーザーへの対応を行う。調査リコールは日本国内で初の試みであった。

いずれにしても課題は山積みである。

米上院公聴会に呼び出された芝田電機の前岡の顔が全米中に放映された。さすがに落ち着いた黒のスーツを着て、心労からか、心なしか老けたように見える。実際に事故で顔を損傷した女性の痛ましい写真が大々的に映されると、事故の物々しさを痛感させられる。前岡は右手で顔を覆うと、目を赤くして謝罪の言葉を繰り返した。

当初、三百万台と報道されたリコール対象点数は、四百万、五百万と日に日に拡大し、ついには一千万台を越えた。

最悪の場合を想定はしていたが、相次ぐ追加リコールがトップニュースで報道される度、複雑な思いに駆られる。

本当にリコールを発表することが正解だったのか――。

自分自身の行動に最内は疑問を呈した。

しかし他社より遅れてリコールを発令することは企業としての対応の遅さを露呈することになる。なにより隠蔽工作を繰り返していても、真の解決策とはならない。塗り固められた泥壁はいつか崩壊するのである。一千万台規模の大リコールに、品質ナンバーワン・イズミの化けの皮が剥がれたのだ。

もし母の時代にエアバッグという技術が存在すれば、きっと母親の死は免れたであろう。

当面は販売店でエアバッグを停止するプログラムを施すという暫定対策がとられるようだ。

幸い世界中のエアバッグメーカーが代替品の生産対応に協力的な姿勢を示した。松葉化学のみならず、業界一位のステアモーターも問題となったインフレーターの代替品生産に乗り出した。ライバル企業が代替品の生産を行うという異例の処置である。

「代替品を製造できるサプライヤーを召集したのは、あの鬼田だそうだ」

誰よりも先手を切って対策を講じ責任を分散させる。今回の件は業界が生み出した膿だ。どこが悪いという話ではない。鬼田のとった行動は的確だった。

「これだけの規模のリコールとなると、誰も問題を拾いたがらない。責任の擦り付け合いで対策が遅れたら大変だ。その辺は役人が入って仲介を行った方がいい。鬼田は自分の立場をよく分かっている。上に立つ人間は、ああじゃなきゃな」

「鬼の目にも優しさありってか」

そう言うと加山はふっと鼻で笑った。

ディーラーでは対応が続けられている。

いまだ未回収率は高いが、対策も見つかりひとまず最内の肩の荷は下りた。


――引越前の状態に戻すのに、そう時間はかからなかった。

もともと借家だと思って住んでいた家である。

高々一年出向期限が伸びたが、家具を買うこともなく、トラック一台で事足りた。

掃除機をかけて簡単に雑巾がけをする。年度末の異動シーズンで引越会社を見つけるのには苦労した。幸い以前住んでいたマンションの近くに空き部屋があり、当分はそこに暮らすことに決めた。

都内はやはり家賃相場が高い。同じ間取りでも和泉と比べると二万円は高くつく。多少贅沢はできなくなるが、それでも家族の顔は晴れているように見えた。

最内は最後の荷物を車に積んだ。

メビウスは大衆車にしてはトランクルームが広く、荷物を運ぶには適している。ゴルフバッグを横向きに積んでも余裕がある。

短いようで長い出向期間だった。

辛いことの方が圧倒的に多かったが、よい経験をした気がする。

「人は辛い経験をしたあと、急に生温い環境に置かれると、刺激がなくなって物足りないと感じるらしい」

おどけたように最内は冗談を言うと、助手席の花恵は気分を損ねて「やめてよ、もう」と話を遮った。

後部座席では重たい荷物に囲まれて窮屈そうに要が体を捩じらせている。

自宅を出てインターまでの間、いつも通勤で使った見慣れた道路が目に入る。休日のため交通量は少ないが、平日はイズミ社員で大渋滞を起こす迷惑な道路である。ここで何度陰鬱な朝を過ごしたものか。

そんな暗い過去も、今は笑って過ごせる。

和泉中心部を通り過ぎ、城下町を抜けインターに突入したとき、最後に花恵は小さく呟いた。

「城下町での生活は、もう御免よ」

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