第五章漏洩
1
子供の進学や家庭を顧みず、休日というのに会社に駆り出される自分を、最内は哀れに思った。
この状況を花恵はどう感じているか。
本当に自分と一緒になって幸せだったのか。家族を取り巻く環境は日に日に悪化しているように思えた。
「行ってくる」
遺影に手を合わせた最内は重たい腰をあげて玄関に向かった。
久しぶりに戻った実家。
思えばイズミ自動車に出向してからの三年間、一度も実家に戻ることはなかった。
二十代の頃であれば毎年、盆と正月は必ず帰ったものだが、結婚して子供ができ、男親とは疎遠となった。しかも遠方ときたら尚更だ。
最内が生まれ育った長崎は造船業の城下町で、かくゆう最内の父もまた造船会社の開発部門にいた。
幼い頃から漠然とではあるが製造業に就くつもりでいた。敢えて自動車を選んだのは都会的な雰囲気への憧れだったのだろう。最内の目の前に広がるのは錆び付いた港。幼少の記憶は巨大なジブクレーンと折り重なっていた。
造船には魅力を感じられなかった。巨大な建造物を開発する楽しみがあったかも知れないが、その分製作の足は長く、調整の多い仕事だ。しかし現在自分が置かれた立場を思えば、地元に残って船舶を製造していた方が幸せだったのかも知れない。人生に答えはない。
自分が小学校の頃、だから今から二十年以上も前のことか。父母参観日に母親が交通事故で死んだ。今の最内と同じ歳だった。
いつもより緊張して学校に向かったことをはっきりと覚えている。
続々と教室に入る父兄の姿、後を振り返ると多くの大人たちが我が子を見つめる。恥ずかしい気持ちで一杯であったし、参観日はなるべく発言したくなかった。
ひとり、またひとりと、親たちが教室に入る。
チャイムが鳴り、普段より少しだけ着飾った担任教師が教壇に上がる。
しかし、いつまで経っても母親の姿はない。
サラリーマンだった父親は仕事が忙しく学校行事に姿を見せることは少なかった。代わりに学校行事には母が必ず参加した。スポーツも勉強も苦手だった最内は、公衆の面前に立つのが嫌いだった。参観日のあとは色々と説教を食らうから憂鬱だった。授業参観など無ければよいのに――と、本気でそう思っていた。
一時間の授業はあっという間に終わった。結局、最後まで母親の姿はなかった。
あとで余計な小言を吐かれずに済むと感じた一方で、このとき子供ながらに一抹の不安を感じとっていた。
確かに、朝出かけるときは参観日に来ると言っていたはずだ。
授業が終わり、帰りの支度をする。
学生鞄に教科書を放り込んでいると、担任が焦った様子で「最内くん、ちょっと」と職員室に呼ぶ。
虫の知らせだった。
最内は説明の付かない不吉な空気を感じ取っていた。
「お母さんが交通事故に遭われたって、すぐに警察の方がお迎えに上がるって」
――地元の総合病院。
風邪を引いたときに何度か外来に通されたことはあったが、裏口から入るのは初めてだ。
普段検診を受ける病棟のほかに入院棟が併設されてある。しかし地下があることはこのとき初めて知った。
そして地下室に入るのはこれが最初で最後となった。
名前も知らない初老の刑事が、神妙な面持ちで自分の肩を叩き「辛くても強く生きるんだぞ」と優しく声をかける。父親が目を瞑ったまま顔の前で手を組んでいる。当時の最内にこの状況を理解することはできなかった。
交差点を曲がる途中、急に飛び出した子供を避けるためハンドルを切り、対向車線に乗り出した。母親の運転していた車は土木を積んだトレーラーと衝突。胸部を強く打ち、病院で息を引き取った。現場は自宅から学校へ行く途中にある見通しの良い道路だった。なぜこんな場所で事故に遭ったのかは分からない。警察の調べに寄ると、授業の開始時間に遅れまいと急いで運転していたのではないか、という見解だ。
二十年前といえば当時はまだエアバッグが普及していなかった。
高級車にオプションで搭載されるくらいで、エアバッグの存在を知る一般ユーザーの方が少数派だった時代だ。
あの時代にエアバッグがあれば母は助かっていたかも知れない。
そして今、エアバッグなどなければ良かったと思う自分がいる。
世の中は無情である。
無意識に目尻には涙が浮いていた。今の最内を誰が救ってくれるか。母親のいない最内を救う者はいるのだろうか。
負けてたまるか―。
最内は勢いよく玄関の扉を開けた。潮の香が海風に乗って、最内の鼻をついた。
2
出向者の最内にとっても今回のリコールは他人行儀でない。籍のある府中トラックでも、かつて大規模リコール問題に巻き込まれた過去がある
北米でエアバッグの不良による死亡事故が発生したさらに七年前、国内トラック各社が共通して採用していたハブに強度的問題があり、経時劣化により金属疲労が起きる事故が多発した。問題を起こした財閥系メーカーは競合他社に比べ使用している部品の層が薄く、荷重により破損する確率が大きかったという。不幸にもある運送会社でタイヤとブレーキドラムが脱落し、そのまま猛スピードで歩行人に直撃。被害者は死亡した。
国内での不具合事例、しかも死亡事故ということで、事故を起こした財閥系トラックメーカーは社会的信用を損失し、後韻を未だに引き摺っている。同じ部品を共用していたにも関わらず、府中トラックは事故を起こさなかったという理由だけで、これまで幸いにも雲隠れできていた。問題を起こした財閥系メーカーとは構造的に差異があり、また他にもリコール隠しを繰り返していたことが発覚して大きなニュースとなったが、一連の事故によりリコールは技術的側面でなく、消費者の印象を影響する面が大きいと痛感させられた。部品共用により不具合品を搭載していても、取り沙汰されるのは事故を起こしたメーカーだけだった。そういった意味では、今後のマスメディアの対応が重要な鍵を握る。
夜九時を過ぎた品証フロアはオフィスの半分が灯りを消され、不気味に静まり返っていた。
この日は部課長も外出しており、この時間まで残っている社員は少ない。
最内は皆が帰宅したことを確認し、隣の書庫に足を忍ばせた。
書庫の鍵は品証室の社員であれば、警備室で簡単に借りることはできる。もしくはスペアキーを持つ間宮に断ればいいが、さすがにこの時間まで残っていることは少ない。
最内が書庫に向かうと、妙なことに扉が開いていることに気が付いた。
しかも灯りが廊下に零れており、ゴソゴソと動く影が見える。誰かいるようだ。
こんな遅くに誰かと思い、最内は恐る恐る書庫の内部を覗き込んだ。
そこにいたのは最内の思いがけない人物であった。
「あら、最内さんじゃない」
そこにいたのは紛れもない、間宮の姿であった。
「珍しいですね。こんな遅くまで」
棚の上のファイルに手を差し伸べようと背伸びをしている。薄いピンクがかった膝丈上のスカートが目に映る。辺りには自分と間宮以外に誰もおらず、気をおかしくしてしまいそうだ。
なぜこんな遅くまで間宮が残っていたのか。
最内は床に無造作に置かれたファイルを見て事態を理解した。
「月末の棚卸で書庫の整理を行っていたの。気付いたらこんな時間。明日は役員報告があるらしいから、早いとこ片付けておかないと」
どうやら不在の時田からの指示らしい。
品証室では毎月の不具合事例を役員にも報告しており、そこでカルテの内容について対応の判断を受ける。
役員が重要不具合であると判断したカルテに関しては、こうして書庫に仕舞われる。文字通り御蔵入り資料の山ができている。
「大変だな」
「ええ、でも今日だけですよ。こんなに遅くまで残ってるの」
契約社員である間宮は、書類の整理や資料作りなど庶務全般をこなす。つまらない仕事だが、八方美人張りに笑顔を振りまく間宮の姿は職場の雰囲気を向上させる。マスコット的な存在だ。カルテ整理は時田にとって政治的なバイアスがかかる仕事である。神経を使う分、間宮に例外的な残業を与えていた。
程なくして間宮は整理を終えると、一旦オフィスへと戻った。そろそろ帰り支度をしないと十時を回ってしまう。
「ちょっと手伝ってもらっちゃって、すみません。最内さん最近忙しそうですよね」
忙しそう、か。
確かに日々の業務に忙殺されていることは違いないが、何より人間関係の方が精神をやられる。
「遅いんで気を付けて下さい。あと、書庫の鍵は間宮さんのデスクの引き出しに入れておきますね」
最内が言うと、間宮は笑顔で対応した。
屈託のない純粋な瞳をしている。妖艶な瞳だ。遅い時間帯だけにフロアには二人以外に残っている社員の姿はない。最内はそのまま吸い込まれてしまいそうな感覚になった。
たしか結婚していて、妻の花恵より一回りも若いと聞いた。旦那は実験部のエリートで、現在は海外出向中ときく。最内にとって、部唯一の華である間宮が憧れの存在となっているのは紛れもない事実であった。
間宮に別れを告げ、姿が見えなくなるのを確認すると、気を取り直して最内は書庫へと向かった。早速、目的の書類探しにとりかかった。
最内が探している検証報告書は、規定のフォーマットに記されたあと、印刷して課長印が押され書庫に保管される。
二年前の五月、最内がこちらに移ってきたばかりの頃に参加したメビウスの事故車検証。実験部と合同で行った会議は新米の最内にとって印象深かった。最内の脳裏には、はっきりと映ったエアバッグの焦げ跡の記憶が蘇った。
報告者の名前は――えっと、はっきりと思い出せない。たしか実習から戻ったばかりの新入社員だったはずである。
書類を探している途中、最内は当時油井に吐かれた言葉を思い返した。お前は出向者である。今後は余計な発言を控えるように、と釘を刺された。そのときの言葉が、皮肉だが、ある意味今の自分の立ち位置を明確化させたのかも知れない。しかし最内には確固たる信条があった。正義は貫き通すべきである。
今どきペーパーレスの時代に、いちいち印刷してファイリングしてあるもんだから探索には時間を要す。
こういった余計な手続きが、カルテの在り処を分り難くしているのだ。
最内は棚から二年前の日付を追った。
タイトルには『実験部検証資料』とある。日付は二○十二年五月。間違いない、これだ。
最内は一ページ目から順々に捲り報告書を探した。
ひとつのファイルには約四十件の報告書と、関連するデータや写真が添付されている。きっと、エアバッグの焦げ跡を捉えた写真も残っているはずだ。
一枚、また一枚と報告資料を眺める最内。しかし、最内を待っていたのは思いがけない事態であった。
――報告書がない。
そこにあるはずのメビウスの事故資料が存在しないのである。
まさか、と思いもう一度一ページ目から探し直すが、やはりそこにはエアバッグの不具合資料は存在しなかった。
「チクショウ、やられた」
時、既に遅し。何者かが報告書を闇に葬ったに違いない。でも、いったい誰が。そのとき最内の頭に浮かんだのは微笑みを浮かべる間宮の表情であった。
しかし、よりによってなぜ間宮が。
動機は分からない。そして間宮が報告書を抜いたという確証もない。
それでも、そこにあるはずの報告書が消えたという現実には変わりがない。
完全に八方塞がってしまった。前途多難。最内はファイルを抱えたまま、その場で項垂れた。
3
「少しお話を聞かせてもらってもいいですか――」
退社間際の最内に話しかけたのはリクルートスーツを身にまとった若い女性だった。二十代後半位だろうか。製造業であるイズミ自動車ではスーツ姿の社員は珍しく、人目見ただけで社外の人間と分かる。
「なんでしょうか」
面倒なものを見るように、最内は女を見た。
なにかの書類を胸に抱え、まっすぐに最内を見つめている。
保険の販売員だろうか。一般的に言うと可愛いとされる部類かも知れないが、保険には興味ない。ホイホイと尻に付いていったところで、待っている言葉は「では、印鑑をどうぞ」だ。
大企業となれば食堂やエントランスに愛嬌のある女性が大挙して、何かと思えば保険の勧誘だったということは多い。特に新入社員時代にはそういった経験をよくしたものだ。見た目が若いと販売員のカモにされる。騙されて契約した馬鹿な同期入社の話も聞く。しかし、自分は三十を半ば越えた中堅である。今更そのような手で騙されることはない。
女性は愛想をふりまき、笑顔でこちらに真っ直ぐと歩み寄った。
「少しだけでいいので」しつこい女である。
「申し訳ないけど、忙しいから今度にしてくれ」
女の顔からは強かさが滲み出ている。こんな分かりやすい手法に騙される男などいるのか。よほど女にモテないか、精神を病んでいるか、もしくは単なる莫迦である。最内は女から目を離し、足早にその場を立ち去ろうとした。
「そう仰らずに、五分でいいので取材をさせて欲しいのですが」
「取材?」そう聞いて最内は足を止めた。どうやら保険ではなさそうだ。
よく見ると女は初見だった。普段エントランスで見かける保険のセールスではない。
不審に思いながらも、一向に引き下がる様子がない女性を面倒がり、
「すみませんが、名刺を頂けませんか」
と言ってあしらおうとしたところ、後を振り向きざまに、
「エアバッグの件で伺いに参ったのですが」と女は語りかけた。
その瞬間、びくりと肩を揺らし足を止めた。
取材。そして、エアバッグ。二つの単語が最内の頭を混乱させる。
いったいこの女は何者なのか。
「その反応はエアバッグについてご存知という風にお見受けしました」
「いや――」
なんとか言い訳の言葉を探すが、動揺は隠しきれない。最内の負けだ。
「時間は取りませんので―」
二人は駅前のカフェへと向かった
ここではまずい、と最内は会社を出て、人目につかない場所を探した。移動の間、あれやこれやと矢継ぎ早に質問を投げる女の口を封じ、二人は駅前のカフェに入店した。
平日の夜。時刻は夜九時を過ぎている。駅前は閑散としていた。
車社会ならでは、電車は交通手段としての優先順位は低い。駅では時折、学生服姿を見かけるくらいだ。サラリーマンは少ない。
喫茶店であれば都合がいい。記者とはいえ、若い女性と夜な夜な密会している姿を同僚に見られたら大変だ。城下町では妙な噂は一瞬にして広がってしまう。
眠気を覚ますために一杯のアメリカンコーヒーを頼むと、女は早速本題へと移った。
「私こういう者です」、と差し出された名刺には東京経済出版とある。女は水田という名の記者だ。
東京経済出版は麹町に本社を構える大手新聞社のグループ会社で、実用書やビジネス書籍を得意とする。芸能ゴシップを取り扱うことは少ないが、経済ニュースを頻繁に取り扱っている。
不正行為をすっぱ抜こうと記者が企業に張り付くことはよくあることだ。今回もその手の話だろうか。
しかしなぜ社外の人間がエアバッグについて知っているのか。
自慢する話ではないが、イズミ自動車の隠蔽工作は手が込んでいる。完膚なきまでに徹底した隠蔽工作のもとに、社外に不具合情報が漏洩することは考え難い。
最内がこの場に足を運んだのも、なぜ水田がエアバッグの件を知っているのかという興味からだ。若い女性に対する疚しさは皆目ない。最内は真剣な眼で水田に対面した。
「実は弊社でシバタ製エアバッグの不具合について調査しておりまして。御社にも芝田電機工業から数多くのエアバッグが納入されていると聞きます。リコールの適用範囲を拡大する可能性があるというお話で伺いました」
水田は恐れもせず単刀直入に言った。
「ちょっと待った。なぜその話を知っているんだ」
慌てて最内は店内を見回す。どうやら二人の他に客はいないようだ。最内は乾いた口元をコーヒーで潤し、ひとまずは安心して会話を続けた。
「内部告発がありまして」
「内部告発?」
素っ頓狂な声が出たのは、水田の放った思いがけない言葉のせいだ。
「詳しくは申し上げられませんが、御社の関係者で、当社に内部情報をリークした方がいらっしゃいます」
なんとまぁ、余計なことをしてくれたもんだと内心思った
今まさに自分が四苦八苦しているリコール案件を大手マスコミに漏洩するとは、とんだ愚か者である。
思わず最内は右手で額を抑えた。
わざわざマスコミにタレ込むとは何らかの不純な動機があるのだろう。影で会社を恨んでいるのだろうか。だとすれば、いったい誰が。
しかし、社内でエアバッグの不懸を知る者といえば相当に限られてくるはずだ。最内は思い当たる面々を頭に浮かべた
「もし何か知っていることがあれば教えて頂きたいのですが。勿論、タダとは言いません」
「タダとは言わないって、つまり―」
最内が問うと、なにを思ったのか水田は色目を使ってきた。その手には乗らない、と目線を外して最内はメニュー表に目をやる。
「生憎、僕は君の望んでいるような情報は知らないよ。エアバッグの件に関しては噂で聞いただけだし、僕は品質関連の仕事はしていないしね」
そうですか、と語気を落として水田は俯いた。
困り顔も愛くるしい。渉外屋としてはこの上ない女性社員だ。
水田は気を取り直すと、再びはきはきとした口調で最内に語りかけた。
「畏まりました。もし何か情報がございましたら、こちらに連絡を下さい」
水田は仰々しくも会社携帯だけでなく私用の連絡先を名刺にメモして最内に手渡した。
なんという女だ。
最内は駅へと向かう水田を見送ると、水田もそれに応えて最内に手を振った。まるで愛人に別れを告げる錯覚を覚えた。
ひとり駅に残された最内。
夜風が頬を撫でる。不思議な感覚が最内を包んだ。
――しかし妙だ。
エアバッグの不良について社内で知見がある者といえば、品証社員か、もしくは報告した役員のみ。まさか役員が内部情報をタレ込むとも思えない。だとすれば、水田に情報を送ったのは同じフロアの同僚の誰かだろうか。
これ以上考えても答えが出なそうだ。それどころか、人間不信に陥りそうだった。
最内は腕時計に目をやった。時刻は十時を過ぎている。早めに仕事を切り上げたのは良いものの、余計な客人で帰りが遅くなってしまった。最内は気を取り直すと家路を急いだ。
4
「国交省の方がお見えになっております」
受付の震えた声が印象的だった。
たしか前回の監査からは二ヶ月と経っていない。定期監査にしては少し早過ぎるのではないか。フロア内を見回しても、監査の気配を感じさせない従業員たちには緊張感が見れない。
いったん受話器を外すと、油井は行先表を見つめた。
まずい、室長がいない。
時田はこの日、サプライヤー工場視察で県外に出ていた。
どんなときでも冷静沈着に指示を与える時田である。人望も厚く、常に中立的な意見を放つ。そんな信頼の置ける時田が不在のときに、恐れていた監査は訪れてしまった。
油井はなんとか平静を繕って受話器を耳にあてた。
「分かった。すぐに応接を手配できるか」
「あいにく六名様分の応接室が空いておりませんで、大会議室になってしまうのですが」
「六名?」油井は素っ頓狂な声を上げた。
いつもなら田宮補佐官を中心とした四人の決まった顔ぶれが来訪するが、今回は何か雰囲気が違うと感じた。油井の勘が研ぎ澄まされる。そして虫の知らせの答えはすぐに判明した。
「みんな来たぞ、国交省監査だ。工場品証にも連絡を入れてくれ」
油井の一言で忽ちフロアは騒然となった。
カルテや部品を隠す社員を横目に、油井は慌ててエレベーターフロアへと足を運んだ。
四台あるうちの一台が点検中だ。
よりによって、なぜこんな大事なときに。悪夢は重なる。
苛立ちを隠せない油井。地団駄を踏みながらボタンを押してエレベーターを待つと、ランプが二階、三階と上昇し、漸く九階で止まった。
しかし、そこには思いも寄らない事態が待っていた。
扉が開いた瞬間、急いでエレベーターに乗り込もうとすると、そこには既に国交省の役人の姿があった。
「こそこそと隠蔽工作をしおって。茶など要らんわ」
目に映った巨大な上背は、油井の度肝を抜いた。
「国交省の鬼田だ。すぐに事務所に入れてくれ」
腰が抜けてその場に立ち尽くす油井。そこにいたのは畏敬の光を放つ大男の姿だった。
鬼田権造――。
噂には聞いたことがあるが、実物を見るのは初めてだ。
国交省自動車局のリコール課課長で、これまであらゆる製造業の不具合事案に立ち会ってきた百戦錬磨の重鎮である。どんな不正も見逃さないことを信条とする。いわば品質保証室の敵役だ
年齢は五十代後半であろうが、百九十近い上背と横に張った肩幅は老いを感じさせない。
もたつく油井を尻目に鬼田は大股を闊歩させて品証フロアへと向かうと、まるで家宅捜査の如く声を荒らげた。
「今から抜き打ち検査を行いますのでそのまま動かないで下さい。パソコンの画面もそのままで、書類や部品にも触れないでください」
部品やカルテを紙袋に入れて書庫に向かう社員は、鬼田の存在に気付き足を止めた
慌てて部品をデスクに仕舞おうとする鏑木。手には重要不具合台帳の字が映る。
「貴様、手を触れるなと言ってんだろ」
鬼田の一喝でフロア中の社員が凍ったように止まった。
鬼田以外五人がそれぞれの配置につき、従業員の動きを制する。
どうやら下調べは万全のようだ。
市内の他工場に国交省の来訪を電話で伝えていた最内のもとにも、監査官が訪れた。明神だ。
「受話器を置いてください。午前十時前に、市内のすべての工場に監査官を配置しております。無駄な足掻きは止めてください」
最内の表情が硬直した。時計を見ると、ちょうど十時を五分過ぎた頃だ。通りで誰も電話に出ないはずだ。先手を打たれていた。
「じゃあ、始めようか」
手筈が整ったところで、鬼田はフロア内を順繰りに調べ始めた。その間、拳銃を押し付けられた人質のように品証社員は一歩も動けない。徹底された監視下で鬼田の目が光る。まるで重大犯罪者を見る目だ。
「すみません、お手洗いに行ってもよろしいですか」
最重要不具合であるバルブスプリングのカルテをスーツのポケットに隠していた鏑木は弱々しく零した。
これはまだ国交省に届け出ていない重大案件で、鏑木が担当するエンジン部品としては最も不具合対象件数が多い。仮にリコールとなると、台あたり十万円前後の改修費用がかかるため、安易にリコールを発令できないでいた。
「便所か。構わんよ。しかしその前に、貴様の腹に隠したカルテを出してからだ」
鬼田はすべてを見通していたようだ。カルテという呼び名は社内の人間でなければ知る由もない。どうやら、内部情報が漏洩したようだ。
鏑木からカルテを取り上げると、田宮に手渡した。
しかし今回の目的はバルブスプリングなどではない。もっと大きな獲物が眠っている。鬼田は引き続きフロア内を舐めるような目付きで詮索した。
「汚ぇ事務所だな。事前連絡がなければこの有様だ。どうせ山のように不具合を隠してるんだろう」
鬼田は床に散財していた部品を蹴り飛ばした
「ここにはないな。ロッカー室、トイレ、会議室など洗いざらい探せ。こりゃあエアバッグ以外にもわんさか出てくるぞ」
鬼田は背後に突っ伏した油井を見かけると、睨みつけながらゆっくりと近付いた。
「貴様、担当課長の油井といったな」
「ええ、私が油井です」
油井は怯えた表情で鬼田に対面した。小太りが三十センチも上背が高い鬼田と並んでいる。こうして改めて見ると気の弱い太った中年男にしか見えない。
「衝突試験、事故車の検証報告書、そして販売店のサービスレターの月次報告を見たいんだが、どこに隠してある」
「さ、サービスレターですか」
油井は知らぬふりをして、さぁと惚けた顔をした。
「知らぬ存ぜぬでは済まさんぞ。書庫に案内しろ」
すべてが終わった。
鬼田の口から書庫という言葉が出た瞬間、部内の誰もがそう感じたはずだ。
品質保証室のある本館と実験棟を結ぶ空中廊下の手前に、増築時に造られた狭い空間がある。物置部屋として使われており、人目に付きづらく、また建築図面に存在しない部屋として品証室はその空間にすべての重要機密書類を格納していた。二重管理帳簿やカルテはすべて書庫内に保管されている。そこに監査官が足を踏み入れれば、瞬時にすべてのリコール隠しが発覚してしまう。
「書庫の鍵を持ってるのはそこの姉ちゃんか。さっさと出しな」
鬼田は他の監査官を集めると、間宮、油井とともに書庫へと移動した。
「マズいことになった、一巻の終わりだ」その場に立ち尽くす品証社員。突如訪れた臨時監査の時間は永遠に感じられた。
鬼田を先頭に監査官が書庫の扉の前に立つ。
「ここが書庫です」
間宮の華奢な体が震えている。
いい匂いのする女だ。「ここへきて余計な真似はするなよ」鬼田は鋭い視線で間宮の体を見つめた。
鬼田ら監査官は狭い書庫に入ると、窓もないコンクリート打ちっぱなしの空間に、ぎっしりとファイルが格納されているのを見て不敵に笑った。
「随分と溜め込んだもんやのう、油井課長」
そこにはイズミ自動車が保有する二十年分の不具合情報すべてが存在する。しかも国交省に届け出していない不具合ばかりだ。埃臭いその部屋には年度別に棚に整頓されている。監査官はそれらを片っ端に調べると、次から次へと外に持ち出した。
「どこか大きめの会議室はないか」
「運ぶのを手伝いましょうか」という油井の提案に「結構。貴様、隠そうとするだろう」と突っぱねた。今回ばかりは本当におしまいだ。
会議室一杯に並べられたカルテの山。
最新のバルブスプリングの不懸書類をはじめ、国内外の製造拠点や販売店から寄せられた不具合情報がぎっしりと記されている。きっとこの中に、エアバッグの不良を記した報告書類が紛れているに違いない。監査官は最新のファイルから順に中身を確認し始めた。
トキオ自動車や芝田電機、そして米国当局に届けられた情報をジグソーパズルのように断片的に繋げていく。最近十年分の不具合を見れば型がつくだろう。死亡事故が起きて初めにエアバッグの不具合が発覚したのが今から六年前の出来事である。とすれば、この六年間の間にイズミ自動車でも何らかの対応を行っているはずだ。
鬼田の目的はひとつ。イズミ自動車がエアバッグの不具合を把握していたか否か、という事実だ。どんな形式の書類でも構わない。兎に角、エアバッグの不良を記載した何らかの書類が発見された時点で、イズミ自動車は黒となる。なぜならば不具合を知っていながら届出を行っていないと分かった場合、その時点でリコール隠しの証拠資料と判断できるからだ。
鬼田ら監査官は必死な形相でページを捲った。
これでお前らはゲームオーバーだ。
瞑目する油井。
緊張が最高潮に達する。
しかし、鬼田の高鳴る期待とは裏腹に、そこには探し求めていた資料は存在しなかった。
「ない、な」
田宮は溜息混じりに言った。
「何故ないんだ。ちゃんと探したのか。ない訳がないだろう」
焦りを隠せず鬼田は田宮に罵声を吐く。
鬼田の額からは冷たいものが流れた。
「エアバッグの検証内容を記した資料がひとつもありません。油井課長、他にどこか隠し場所はありませんか」
田宮は油井を睨みつけた。
しかし、油井の表情は思いに反して奇妙なほどに醒め切っていた。
形成は逆転した。ここに報告書はない。なぜならば既に宝田が処分したからだ。
「隠し場所?さあ、不具合を隠したことなどありませんからね」したりやったりの油井は軽快に言った。
「くそっ」鬼田は前のテーブルを蹴り飛ばした。
エアバッグの検証書類は存在しない。
いや、正確に言えば何者かがどこかに隠したのだ。しかし、隠したという証拠はない。証拠がなければ存在しないと同義なのである。
「失礼ですが、念のため管理職の方はハードディスクのデータと電子メールの記録も取らせて頂きます」
帰り際に田宮が放った言葉にも油井は動じない。
電子メールだと。足跡のつくメールなどとっくに削除してある。
「今日のところはこのくらいにしておいてやろう。でも隠蔽工作が発覚したらすぐにお縄を頂戴するからな。覚悟しておけ」
怒声が虚しく宙に散った。
フロア中から安堵の溜息が聞こえる。
怒りで震えた大きな背中を、品証社員は目で追い続けた。
肩透かしを喰らった鬼田は不本意な思いで研究所を去った。
5
「そろそろ受験校を決める時期です」
公立でも入学試験があることは聞いていたが、いざ自分の息子がとなると、実感が湧いてこないものだ。
なにより中学受験をさせるのは一部の限られた家庭だと信じて止まなかった。
学生机で隔たれた担任との距離は実際よりも遠く感じられる。
鉄の女という異称に相応しく、冷徹な視線が花恵に真っ直ぐ向けられていた。
教室の窓からは風光明媚な景色が広がっている。もともと何もない田舎だった一帯である。イズミ自動車が城下町を形成する以前は、周囲の主な産業は農家だけであった。茨城県南の片田舎、今も中心部を離れれば原風景が広がっている。綺麗に整理された土地計画のもとに設立された学校は、グラウンドが広く子供の育成に適している。しかし恵まれた環境とは対象的に、鉄の女は学園に舞い降りた魔女のように見えた。
「要君に関しましては、北条中学は如何でしょうか」
榎田の放った言葉は、花恵の予想とはかけ離れたものであった。
「北条――ですか」
北条中学といえば、市の中心部から離れた北条地区に位置する学校である。合併を繰り返して大きくなった和泉市は、十年前に北条村を吸収した。北条にはイズミ工機という工作機械メーカーの本店工場が存在するが、それ以外には何もない辺鄙な場所だ。車で行くにしても、同じ市内でありながら優に三十分はかかる。
なぜ榎田がそのような僻地の中学を勧めるのか、花恵は解せないでいた。
「少し遠いですが通学バスがあります。それにスポーツをやっていたということで、要君には相応しいかと。北条は県大会でも好成績を収める強豪ですよ」
中高一貫制を敷く中心部の中学校と違って、北条中は一般的な非一貫校である。
部活動が盛んであるというが、具体的な実績も分からない。
何より引越時に隣に住む白石から聞いた言葉が気にかかる。
和泉市は中心部を外れると途端に治安が悪化する。
外国人労働者も多く、作業着姿でそこら中をふろつき回っているというのだ。工場労働者を卑下するつもりはないが、どうせ進学するなら中心部の方がいい。
てっきり自宅から徒歩圏にある梅園中学へ進学するとばかりに思っていた花恵だけに、榎田の説得を聞き入れる余裕はなかった。
「自宅から近い梅園中への進学を考えています。近所のお友達もそこに進学しますし―」
「今の成績では梅園は無理です」
花恵の言葉を遮るように、榎田はきっぱりと進学を否定した。北条を勧めるのは何も根拠がないわけではない。榎田は話の真髄を切り出した。
「ご存知のように和泉市中央にある梅園、竹園、松園の中等教育は全国的に見ても高水準です。半期に一度の学力テストと期末考査の成績次第では他校への転校が命じられるケースもあります。現に今年度も下位の生徒の中に退学者がありました」
和泉市の教育は学区制を敷いている。東西南北と中心部の五つの学区で分かれており、中でも中心部は本社勤務の社員が在籍するため、自ずと素養のある生徒が集まる傾向にある。しかし一部、競争に漏れた生徒に関しては入学を許可しない他、毎年の定期考査の結果次第で転校を命じられることもある。著しく成績が悪く、有名大学への進学が見込めない場合、まるで塵芥のように扱われるのだ。
「中心部の中学はすべて中高一貫教育を敷いております。中学二年までに中等教育課程を終了し、高校三年に上がる頃には大学受験に必要な全ての科目を終了させます。これは公立校としてはかなりのスピードです。各校とも、東大をはじめとした有名大学に毎年五十名以上の合格者を排出しているのが教育水準の高さの証です。小学校レベルの課程も禄についていけない生徒に、はっきり申し上げて、猛スピードで進められる授業にはついていけるとは到底思えません。どうかご理解を」
そういうと榎田は、花恵に要の成績表を見せた。
全ての科目が下位十位に入っており、総合的に見ると学年最下位から二番目。これでは返す言葉がない。
「しかし小学校時点の学力で将来を測るのは如何かと思います。中学以降伸びる子供もいるでしょうし、高校三年間必死に勉強して成功する子供もいます。要には未だ塾にも行かせておりませんし、本人の意思も尊重させたいのが親の本音です」
「それは親御さんの意識の低さではないのでしょうか」
鉄の女の放つ怒声はいつしか語気が上がって広い教室に木霊した。
「塾へ行くことが全てとは思いません。中には独学で上位に君臨する生徒さんもおります。毎日九時まで学校に残って、休日も図書館で自主学習をされていると聞きます。それでいて学校行事にも積極的に参加し、体力測定の結果も申し分ない。子供ながら頭が上がりません。要君の場合どうでしょうか。御家庭での教育に親御さんはご理解を置いているのでしょうか」
花恵の必死の抵抗も、榎田の前では脆くも散った。
言い返したい気持ちが山々だが、机の上に置かれた散々たる成績では立場がない。
「旦那は遅くまで働いていますし、私も今年からパートに出ていますので、正直時間がないのが本音です」
「以前、当校で開催した進学説明会に参加されなかったのも、最内様のご家庭くらいですよ。同じクラスの宝田さんのご家庭もお父様が不在でしたが、職位が違います。それに事前に欠席の連絡もありました。それでも宝田さんのお宅は熱心に教育に打ち込まれ、成績もよろしいです。時間がないのはどのご家庭も一緒です。その中で皆さん一生懸命やりくりされているのですから」
毎晩、遅くまで会社にいる夫のことを思うと、休日に学校に駆り出す気が削がれる。
花恵もまた家庭と学校という間でジレンマを抱えていた。
「要君のお父様は研究所勤務と伺っておりますが」
「ええ、そうですが」
榎田の突拍子もない質問の真意が解せなかった。
あまりの迫力に圧倒されて黙り込んだ花恵は、榎田の次の言葉を待った。
「梅園学区の生徒の殆どが本社や研究所勤務。中には和泉商事やエレクトロニカへ出向されている親御さんもいらっしゃいますが。それでも学校行事には積極的に御参加頂いている。イズミ自動車はワークライフバランスに優れた会社ですので、お子さんの育児や教育のために休暇を取得できる制度があります。受験シーズンは皆さんそうやって協力的に働いています」
労働貴族と揶揄されるほどの強力な組合組織を持つイズミ自動車では、年間二十日間の年次有給休暇の他に、子育て休暇や育児休暇、さらに長期勤続休暇など数多くの休暇が用意されている。暦通りに動くイズミカレンダーに加え、社員が自由なタイミングで休みをとれるのだ。しかも有給の九割を取得しないと組合から罰則が下されるなど、ワークライフバランスの確保には厳しい。
しかし本体籍の社員と出向者では待遇がまったく違う。強力な労働組合で身分を保証されている本体籍の社員は、残業規定や有給休暇も厳密に守られているが、最内のいる府中トラックは有給取得率が低く、未だにサービス残業も横行していると聞いた。担任は親の勤務先を熟知しているはず。榎田の発言は出向者を親に持つ要への嫌味とも取れた。
「そうですか」
空返事をした花恵。榎田の説明は屈辱的なものであった。これ以上、この女と話しても意味がない。榎田との論議に匙を投げた。
「いずれにしても、要君の今の成績を考えると、進学先は北条中学ですね」
一方的な攻勢だった。
面談を終えた花恵は要の手を引くと「負けるんじゃないよ」と弱々しい言葉を放ち、教室を後にした。
6
実験部の有する実験棟は、中央研究所としては唯一の現場で、作業着姿の社員も目立つ。走行実験用のコースも建屋外部にあり、研究所で最も広い面積を有する。言い換えれば最も多くの予算を消費する部署でもある。エントランスホールに入ると安全帽と爪先に金属板の入った特殊な靴に履き替え、一歩中に踏み入れると鉄の焦げたような臭いが立ち込める。
九階建ての各フロアには部品庫や設備が所狭しと置かれており、新車の試作も行っている。各フロアへの立入には許可を要し、カメラ付き携帯電話の持ち込みは不可。宝田のいる実験部事務所に入るにも、入口で面倒な手続きが必要だ。
入館許可を済ませた最内は実験棟の上階にある実験部フロアに足を運んだ。IDカードを翳すと、二階から八階のランプが消え、九階の実験部事務所までエレベーターは直行した。
「宝田部長はお出ででしょうか」
「はぁ」
五十代と見られる総務の女性に声をかけると、首から下げたチェーン付の眼鏡をかけ、目を細めて座席表を確認した。購買や営業部と違って、来客の少ない部署であるため、総務の対応も些か手馴れないように映る。女性は宝田の名前を見つけると、重い腰を上げて最内を部長席へと案内した。
宝田は複数ある島の一番奥にある窓際のデスクに座っていた。
ブラインダーから漏れた日差しが宝田に降り注ぐ。
宝田と会うのは実に二年ぶりだ。当時と変わらない憎々しい顔をしている。
深く走った眉間の皺に、眼鏡の奥の鋭い目付き。なにやら忙しなくパソコンに向かっているようだが、何を考えているのか見当も付かない。また新たな不正を犯そうとしているのだろうか。
部長デスクの前に立った最内の顔を見ると、宝田は一瞬怪訝な表情を浮かべた。どうやら最内の異様な雰囲気を感づいたようだ。当時のことを覚えていないとは言わせない。
「なんだね、君は。見覚えのない顔だな。果て、誰君だったかな」
二年越しに聞いた宝田の声が、当時の記憶を鮮明に蘇らせた。
最内は確信した。知らぬふりをして、敢えて吹っかけてきている態度だ。最内も負けじと宝田に対面した。
「二年前、実験部の山岡という新入社員が担当したメビウスの事故車検証についてお伺いしたいのですが」
「二年前?そんな昔のこと覚えてないね」
間髪入れずに宝田は返事した。
「悪いが、当時と立場は違うんだ」
そう言って首を捻り、面倒なものを見るように背筋を仰け反った。
実験部の組織はプラットフォーム毎に課が分かれている。昨年度、課長から部長へと昇進した宝田はすべてのモデルを横断して管理している。全体を俯瞰する立場にいて、細かい部分は各課に一任している。「事故車の検証資料など私が知る由もない」、と宝田の短い言葉から聞き取れた。
「メビウスの車担は二宮課長だ。二宮にあたってくれ、話はつけておく。私はこれから外に出る用があるので、これで失礼するよ」
鞄を持つと逃げるようにその場を去った宝田。
その表情からは僅かながら焦りの色が見て取れた。
「二宮課長は当時の資料など知らないでしょう。しかもあんたが隠蔽した資料など知る由もない」
逃げる宝田に、最内は追い打ちをかけた。
隠蔽と聞いて宝田の足が止まる。一瞬、宝田の肩が震えたのは見間違えではなさそうだ。
「隠蔽?」
大きな声に気付いて、何事かとフロア中の社員が二人の会話に視線を送った。
この状態では場が悪いと、宝田は虚勢をあげて語気を荒らげた。
「知らないね。君、トボけたことを抜かすんじゃないよ」
必死な最内の追及も虚しく、まともに取り付くこともないまま宝田はその場を去った。
7
久しぶりに天久保にある居酒屋へと向かった最内と加山である。このところ不具合対応で帰宅時間が十時を越える日が続いた。日付を越える日も少なくなく、サシで飲みに行く暇などなかった。
二人は乾杯のビールとお通しで出されたイカのお造りをすすりながら、落ち着いた雰囲気で顔を朱に染めた。北風が吹き荒れる初冬の夕刻。この辺は高い建物も少なく平地なため、一度風が吹くと一気に気温が降下する。身震いする体に冷たいビールは染み渡る。すぐに熱燗へと切り替えることにした。
「実験部は毎年一人ずつ新入社員を採用しているから、山岡の居場所なんてすぐに見つかるだろう」
この日、二人の会話は隠された報告書で持ち切りだった。
隠蔽したのは油井と宝田のラインで間違いはないのだが、いつ、どうやってどこに隠したのか、皆目検討がつかない。それどころか二年前の記憶を辿っても、当時エアバッグの焦げ跡が記された資料が報告されたか否かも知る由がなかった。
加山は注文した熱燗がなかなか届かないのに苛立ちを表し、呼び鈴を押して店員を呼びつけた。
「遅いよ、さっさとしてくれ」
油井の狸顔を思い返すと嫌気が差す。嫌われ者ほど出世が早いのは大企業の性質なのだろうか。
ようやく到着した日本酒を互いの徳利に注ぐと、口を細めて一気に啜った。
熱いものが喉元を通り過ぎるのが分かる。冬はこれにつきる。
加山は気を取り直すと、ノートパソコンの画面をおもむろに開き最内に見せた。
そこには社内サイトの検索画面が映し出されている。
「山岡は今、メキシコ支社に出向となっている。どおりでイントラに名前がないわけだ」
社員の連絡先は社内サイトで検索が可能だが、海外出向となるとメールアドレスも変更となる。
実験部に籍がないため退社したと思われたが、山岡はまだ入社四年目。これだけの大企業をそう易々と辞めるとも考えにくい。だいいち世間は就職氷河期で、転職市場も凍り付いている。良いニュースを聞くのは自動車産業と重電くらいか。
メキシコといえばシバタの現地法人が近傍にある。
しかも問題のインフレーターを製造している工場だ。首都であるメキシコシティから車で北西にひた走ること三時間、バヒオと呼ばれる自動車工業地帯には百社を越える日系メーカーが林立する。イズミ自動車の工場もバヒオ地区の中心部にあり、メビウスをはじめとした乗用車の生産を行っている。
「宝田は未だ実験部だが、去年部長に出世したらしい。今はすべてのセグメントを横断的に管轄している、偉くなったもんよ」
加山は苦虫を潰したような表情をした。
若年層にとって海外出向は栄転とされる。山岡のような本体籍のエリートであれば、毎年のように部署を異動して色々と経験を積ませるのが人材育成の方針であり、渡航費用を含めた高い教育費用を使って色々経験を吸収させる狙いだ。海外出向のみならず、外部の教育機関に派遣したり経営修士課程を専攻させるなど、枚挙に暇はない。
一方で傘下の部品メーカーや設備業者はジョブローテーションなどという概念すらなく、一箇所で燻っている社員も多い。加山と最内、商事社員と出向応援者という弱い立場で、ともに本体に酷使されていることで共通している。「良い身分だよ」加山は嘲笑した。
酒は進むが箸が止まっているのは精神不安定の証拠だ。
酒の力を借りて悪い記憶を流してしまおうなどと思うほど、今置かれた立場は芳しくない。
書庫で報告書を探していたときのことを思い返すと、最内の頭の中にはあることが蘇った。
「たしかに山岡がメビウスの事故検証を行ったことは間違いない。しかし不思議なことに、報告書どころか目録にも検証内容が存在しなかった。すべての報告書には管理番号が付与されていて、データベースからタイトルだけは検索できるはずなんだが、それすらも消失していた。手の込んだ隠蔽工作だ」
「管理表ごとすり替えられたのかもな」山岡の報告書は一覧表からも除外されていた。用意周到な宝田の性格だ。その辺はまったく抜け目がない。
最内は片肘をテーブルにつくと、行儀悪くつまみを啄いた。
山岡に直談判するには報告書が必要だ。
さもないと、知らぬふりをされるオチが見えている。「さあ、知らないね、何のことかね、覚えていないね、忙しいから後にしてくれ」思いつく限りの宝田の言い訳が聞こえてきそうだ。
「あるとすれば、山岡が持っているかも知れない」
几帳面な山岡のことだ。報告書を課長に提出する前に何度も推敲作業をしているはず。しかも入社して以来、初めての報告業務となれば思い入れは大きいだろう。最内はそう閃いた。
8
「どうだった」
「何人かに当たりましたが、有力な情報は得られませんでした」
麹町にある東京経済出版本社で、編集局の森谷が眉を顰めた。
東京経済出版は、経済紙大手の東京経済新聞が百パーセント出資する出版子会社である。もともと同社の出版局の内部にあったが、新聞業から分離独立する形で会社を設立した。
近年の出版不況に重なり、東京経済出版の業績も悲鳴を上げていた。また、これといった経済ネタも存在しない。
上場企業の社長の愛人問題を綴ったところで、誰が面白がって読むものか。一時的な奮起剤でなく、大企業の不正隠しや暴力団体への献金など、もっと大きなネタがほしい。どこかにそんな面白い話題は転がっていないものか。
本部である新聞社にも圧力をかけられ、森谷は色々な策を講じたが、どれも単発的で長続きはしなかった。
ここにも中間管理職の陰鬱な事情が見え隠れしている。こちらも深刻に頭を抱えていた。
水田はそんな森谷の様相とは裏腹に、どこか自身に満ちた表情で対面した。
その覆面の裏には確固たる勝因があるそうだ。
「昨日の調査では収穫はありませんでした。しかし、イズミ自動車のリコール隠しは黒であることに間違いはありません。エアバッグの不具合に関して担当者は以前から認識していました」
「なぜそんなことが言えるのか。確信がなければ記事が書けない、証拠を持って来い」
ボイスレコーダー、隠しカメラ、記者の商売道具は探偵顔負けだ。
はっきりと見える形のネタでなければ読む人の目を満足させることはできない。それがゴシップである。
「間違いありません、品質保証室で不具合情報を管理している間宮がそう言っています。間宮と私は昔、同じ大学のサークルで一緒だったので」
間宮と水田は学生時代、ある学生団体の主催する街コンに所属していたことがある。
和泉市の街コンは全国的に見ても最も盛んである。それもそのはず、日本一の大企業の城下町であるが、田舎であるため男女の出逢いの場は限られている。街コンの需要は相当に高く、特に大企業に勤める男性に御近付きになるため、地元の女性は挙って参加していた。
別名『金持ち倶楽部』と侮称される街コンに、大学の同窓生だった間宮と水田は揃って参加していた。
間宮は見事に玉の輿に乗ったというわけだ。
「そんな団体があるのか。年寄りには解せないがな」
五十代も半ばに差し掛かる森谷は薄くなった頭部を手で掻いた。
水田は街コンを主催する団体のパンフレットを見せると、そこにある低俗な謳い文句に森谷は再び表情を強ばらせた。しかし、ネタとしては面白い。
「企業城下町の交際事情か、大企業の社員に集る地元の妻たち、泥沼の人間関係、そしてそこから社内情報が漏洩した。なかなか面白いかもな」
プライベートと仕事は別である。
如何わしい世界に足を踏み入れたくはないが、記者として便乗したい好奇心はある。
森谷の目に一線の光が差し込んだ。
「まずはよくやった。景気付けに一杯どうか」
下心のある目線を送ったが、「結構です」と水田はきっぱり森谷の誘いを断った。世の中は無情である。
「そういえばメビウスのモデルチェンジはいつだったか」
気を取り直して森谷は本題について問うた。
新聞社の出版部門といえば経済通で通っている。過去に自動車業界の記事に何度触れたことか。人気車種が三年のスパンでモデルチェンジを繰り返すことなど周知である。
「来年の九月です」
「九月か、てことはマスメディアに発表するのは販売の二ヶ月前頃か―」
森谷は逡巡した後、思い付いたように不敵な笑みを浮かべた
「次期型メビウスを発表した頃を見計らってリコールをすっぱ抜こう」
森谷の提案に、間宮も頷いた。
久しぶりのネタに森谷は胸を高鳴らせた。しかも日本を代表するイズミ自動車。これは大ニュースになる。
「暑い夏になるな」
森谷はそう呟くと、小さくにやけた。
9
「同期の神谷から入手した。これが当時の検証書類だ」
神谷はメキシコ和泉商事バヒオ駐在所に在籍しており、完成車物流と現地法人の販路拡大を担当している。
総合商社である和泉商事は世界中に駐在者を派遣している。
事業を多角化する前は、もともとイズミ自動車向けの物流、購買、マーケティングなどを担う専門商社だったため、車両工場のあるメキシコにも商事の駐在事務所が存在する。山岡に直接コンタクトをとるのは容易だ。
「山岡の証言だが、やはり当時の話は覚えているという。入社して初めての仕事だったし、印象に残っていたそうだ」
「そうか、それで例の焦げ跡についてはなんと」
加山は俯いて首を振った。
「山岡自身、事故検証をして腑に落ちない点は沢山あったという。リコールに繋がる不具合が見つかっても絶対に品証には伝えるなときつく言われていたみたいだ。実験部と品証は犬猿の仲だから、余計なことをつつかれるのが面倒と教わったらしい」
「ひでえ話だ」
表向きは品質ナンバーワンを誇るイズミ自動車。しかしそこには疑惑の真実が隠されていた。
ギリギリの水面下で繰り返された隠蔽工作。高度な知識を持って監査官の目を欺いた品証室のやり方は徐々に化けの皮を剥がされていった。
「しかし山岡にそんな指示をしていたのは誰なんだ」
最内が問うと、加山は間髪入れずに応えた。
「宝田だ」
予想通りの回答だが、呆れて最内は頭を抱えた。
「宝田に直談判するためには報告書が必ず必要となる」
用意周到な宝田のことだ。事態を知って報告書の原紙は既に闇に葬られている可能性が高い。
「山岡から入手した報告書はあくまでコピー品だ。課長印がついていない。これでは効力はない。取り合ってもらえるかな」
そう言うと加山は空欄となっている承認員を指でトントンと合図した。
「なんだよ、効力って。そりゃ、社内での効力に過ぎないだろう。写真は証拠になる」
加山の心配を一蹴した。必ず不正を暴く。意固地な最内に加山はそれ以上、言及しなかった。
「それと、厄介なことに、宝田と油井は蜜月の関係でね、たしか同期入社で、これまでも幾度となく実験データを改竄していた過去がある。しかも巧妙に練られた方法で、知見のある技術員ですら見抜けないものばかりだ。社外の素人が到底見破れるものではない」
長く会社にいると法の穴を探す術を覚える。不具合が発生しても、逃げ道を熟知した宝田に抜け目はない。不正に次ぐ不正。エアバッグの不良も、宝田の下心がなければ事前に見抜けたのかも知れない。
「宝田は今回の不正発覚の責任を品証室に押し付けようとしている。しかも、担当のお前にだ。宝田と油井は裏で繋がっているから、管理責任にならないようなうまい口実を考えてくる。うまくやれよ。山岡の証言と、山岡が送ってくれた検証書類だけがお前を救う鍵だ」