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城下町の妻たち  作者: 市川比佐氏
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第四章隠蔽

  1


エアバッグとは、交通事故の衝撃を緩和するため袋体を用いて乗員を保護する装置である。ハンドルやコックピットモジュールなどに設置され、クルマの衝突を加速度センサーを介して察知し、ECUと呼ばれる制御ユニットを経由して、エアバッグの展開を指示する。エアバッグには火薬を充填したインフレーターという部品が入っており、これが爆発することでガスを発生させて袋体を膨張させる。現在シートベルトとともに全ての車両に搭載され、実際に多くの乗員の命を守ってきた。

現在のエアバッグにあたる安全クッション技術は一九五二年にアメリカで開発され、翌年には特許も取得されている。しかし実際に市場で採用されるまでには多くの時間を要し、また消防法への抵触や誤作動事例などからメーカーからは嫌煙され、実用化までは年月が掛かった。日本国内ではトキオ自動車が最初に搭載し、芝田電機工業がエアバッグメーカーとしてトップシェアを誇る。

エンジンを除く部品としては発火物を詰んだ稀な存在といえる。安全を守る一方で、爆発の衝撃で乳幼児の頭部が吹き飛んだという事例もある。今や技術も進み安全上の課題はクリアされたが、消費者の印象はデリケートで、仮にエアバッグで不具合が生じたとなればその反響は計り知れない。

「最内、今自宅か――」

休暇をとっていた最内の携帯が鳴る。番号を見ると会社のデスクからだ。

平日に代休をとっても家族は出払っているし、世間は働くサラリーマンで溢れている。わざわざ出掛ける気も起きない。朝から自宅で主婦向けの帯番組を見ていた最内は妙な倦怠感に包まれ、慌てて電話を手にとった。

「ええ、自宅におります」

せっかくの休暇に自宅にいるとはつまらない奴だ。そんな油井の難癖が耳に飛び込んできそうだ。

「悪いが、午後から出れないか。緊急なんだ」

緊急か。せっかくの休日は急に現実味を帯びた魔の手に潰されてしまった。最内は経緯を聞くと、気怠るそうに生返事をした。

「厚木――、ですか」

「しょうがないだろ。すぐに捕まる奴と言ったらお前くらいしかいないんだ」

部下に碌に仕事を与えず、それでいて暇人扱いすることで相手の自尊心を砕く。出向者虐めの常套手段だ。

最内は電話を切るとリビングの壁に掛けられた時計を見つめた。十一時。今から厚木となれば、到着は午後二時頃か。

最内は手帳と着馴れないスーツを持って駅へと向かった。出掛ける前に花恵にはメールを送っておいた。今夜は久しぶりに家族で夕食を摂る予定だったが、話は流れた。不本意ながら和泉エクスプレスに乗車し、秋葉原、新宿を経由して小田急線で本厚木へ臨む。厚木市恩名の芝田電機厚木工場までは駅からバスで三十分程度。一二九号を通過すると、そこは工業団地ならではの無機質な幅広い道路が最内を冷たく迎えた。芝田電機工業の看板が見えると、最内はバスを下車し守衛のいるエントランスへと足を運んだ。

「イズミ自動車の最内です。二時から営業部の木村様と面会の予定がございます」

社員の質は企業を写す鏡である。来客というのに挨拶のひとつもせず、「じゃあ、そこに名前書いて」と警備はぶっきらぼうに言った。雑に記された構内図は四隅が錆びており、客人案内としてはとても心許ない。指示された通り最内は応接に向かったが、ここでもビニールの剥げた古い椅子が荒々しく最内を出迎え腰を痛めた。

約束の二時を十五分過ぎても木村からは連絡がない。「ここでお待ち下さい」と言われたが、徐々に不安が募っていった。お茶のひとつが出ないのも、いちいち驚かなくなった。

多くの部品メーカーを傘下に抱えるイズミだが、完全独立系メーカーであるシバタにはイズミの出向役員は一人もいない。そのため内々の連絡も取りにくく、不具合の状況が掴めないでいた。

「――対応に追われていまして」

謝罪の言葉とともに応接の扉が開いた。

悪びれる様子もなく、突如最内の目の前に現れたのは気の弱そうな技術営業の木村だ。スラックスの上着に水色の作業ブルゾンを着て、白髪まじりの頭と丸い縁の眼鏡はいかにも製造業の人間といった風貌だ。

「対応とは?」

名刺も交換する前に、最内は問うた。

「午前中、トキオさんの来訪がございまして」

六年前に死亡事故を起こした問題のエアバッグは、たしかトキオ車に搭載されていたことを思い出した。イズミ自動車が大規模リコールを起こした前年の話だ。当時は自社のリコール対応でエアバッグの話など気にもしていなかった。世間的に見ても、リコールの代名詞といえばイズミだっただろう。米国で不具合を起こしたというが、シバタなどという中堅自動車部品メーカーの名前など、この時点で誰も知る由もない。

最内は目の前の木村から放たれる悲壮感を感じ取っていた。

最内にとってシバタといえば優良企業のイメージしかない。

創業者の芝田一族から引き継ぐ独自技術や先見性には定評があり、実際エアバッグが未だ市場に広まらない時期に本格的に開発に乗り出したのがシバタだ。今となってはエアバッグ産業で世界のトップ三に君臨する。しかし如何せんエアバッグという特殊な部品に、最内自身それ以上の情報を伴わせていなかった。

木村の説明によると、既に聞き耳を立てたトキオ担当者に呼び出しを受けていたという。トキオ自動車はシバタにとって最大の大口客であり、日本で最初にシバタ製エアバッグを採用したのもトキオだ。

「弊社製のエアバッグで、リコール対象が拡大する懸念がありまして」

「リコールですか」

「ええ、大変お恥ずかしい話ですが――」

木村の口からリコールという言葉を聞いたとき、最内の背中に冷たいものが走った。

風説が立っていることは既に連絡されているが、いざリコールという事実を聞くと危機感が増す。

「二○○九年に北米で発生した事故、御存知ですか」

「ええ、こちらに来る前に下調べは済んでおります」

下調べと言っても、出掛ける前に電話越しで油井から説明を聞いたくらいであるが。

「当時、アメリカでリコールの届出を済ませていて、その件に関しては既に全ての車種の対応の済んでいるのですが、実は他のエアバッグでも同様の不具合が起きる可能性があるんです」

「不具合の原因は何なのでしょう」

木村は一瞬口を紡いだが、最内は答えを急いだ。

「恥ずかしながら原因は未だはっきりしておりません。以前は製造工程での作業ミスや設備不具合などが原因として考えられておりましたが、新たに行った調査によると、仕様そのものに問題がある懸念があり―」

木村の答えはそこで止まった。技術営業という肩書だが、内部の構造までは知見が薄そうだ。これ以上引き出しても意味がない、最内はそう判断した。

自動車メーカーは海外進出の時代を終え、今では淘汰の時代に突入しつつある。完成車工場には部品の安定的な供給が必要となる。選択と淘汰が経営の鍵を握り、為替や労働力の問題など、時況が変化することで新たな新興国に生産拠点を変える。サプライチェーンも多岐に渡り、世界中で部品を作って、世界中の完成車工場に部品を納めるのが今の自動車業界だ。網の目のように張り巡らされた物流網を管理するのは企業の課題となっている。

しかし一方で、ひとつの図面を基に世界中で同仕様の部品を生産している事実は見逃せない。しかもその規模は年々拡大するばかりである。ある部品が設計的な不具合を抱えれば、その部品を搭載しているすべての車両に対して処置を施さなければならなくなる。生産規模が大きくなればなるほど、リコールの範囲も広くなる。部品の共用化、そしてスケールメリットの追求が生んだ弊害だ。

開口一番、リコールという真実を耳にして、最内の頭の中ですべての点と点が結ばれた。一方で、開けてはいけない蓋を開けてしまったという思いにも駆られた。

想定していた最悪のシナリオが現実味を帯びていく。偶の休日と思っていた最内にとっては、突如とんでもなく大きな重圧が両肩に覆い被さった形となった。

「国交省には、まだ連絡を入れていないですか」

最内は前週に行われた国交省監査のことは口に出さず、暗に木村の出方を探った。

「いえ、とんでもない。まだこれは弊社の中で留めている内容でございます」

「では、トキオはリコールを出すと言っているのですか」

「それもまだ分かりません。原因もまだはっきりしていませんで。製造上のミスなのか、それとも本当に仕様が悪いのか、当社としても検証を重ねている次第です。完成車メーカー様への対応はその後考えます」

木村の弱々しい肩がさらに沈んだ。おそらく、午前中もトキオに同様の詮索をされたのだろう。目尻に寄った皺が悲壮感を引き立てる。

「リコールが出されたら、うちは潰れてしまいます。イズミさんと違ってうちは小さな会社ですから―」

こんな厚木の片田舎で黙々と生産ラインに向かっていたら、さすがに精神が参ってしまうのだろう。この男にも妻子供がいるのかも知れない。得意先にあれやこれやと口擊され続けたら白髪も混じるわけだ。窶れて見えるが、見た目よりも若いとみた。老けて映るのは心労のせいか。

「ここだけの話、もし本当にリコールとなれば、その対象は何百万台、いや、ひょっとすると一千万台を越える可能性も充分にあります。エアバッグの構造にそれほど多くの種類はないのですから。二○○九年に起きたエアバッグと同等の製品は世界中に流通しています。弊社のエアバッグの年間生産数は一千万機ですから、ややもすれば――」

「つまり二○○九年に死亡事故を起こした時点で、さらにリコール対象が拡大することは予測していたが、公表せず隠していたということか」

「とんでもございません」

全く自責の念が感じられない。最内は被害者面を浮かべた木村を攻めた。

「以前のリコールの際は然るべき対応を行い、代替品や交換対応も含めてきちんと行っておりました」

「しかし共用部品の洗い出しまでは進んでいなかったと」

「――ええ、仰る通りです」

部品に不具合があるのならば、責任はその部品を製造したサプライヤーではないか。喉元まで出かけた言葉を、寸前で最内は止めた。

否、違うのである。

世間の目はシバタでなく、不具合があると分かって部品を使っていた完成車メーカーに向けられる。不具合の存在を知っていて見逃せばもちろんのこと、そうでなくても不具合を見出せなかったという理由で完成車は責任を問われる。この業界で最終顧客である消費者と直接接しているのは、部品メーカーでなく完成車なのだ。

エアバッグは特殊な部品だ。発火物を積んでいる分、それ相応のリスクも加味しなければならない。ハンドルに搭載されたエアバッグは乗員の命を守るが、時として爆弾の如く人命を奪うのである。そんな風説が広まれば、評判は一瞬にして地に落ちる。この業界の怖いところは社会的責任があまりにも大きいということだ。ひょんな噂で名声が地に落ちてしまう。

「――最内、シバタ側の反応はどうだったんだ」

来た時と同じように神奈中バスで本厚木駅へ戻る。道中、警察車両がパトランプを光らせて走行していた。交通事故のようだ。前方にヘッドライトが欠けたセダンが目に入った。その隣には衝突で変形したガードレールが見えた。単独事故か。運転席のエアバッグは作動し、袋体がだらしなく垂れ下がっていた。運転者は無事のようだ。

厚木工場を出た頃合いを見計らってか、油井から着信があった。「詳細は明日、報告します」今の最内に状況を説明する気力は残っていない。

「そうか、分かった。じゃあ明日、ゆっくり聞くことにしよう」

僅かばかりの会話だったが、その声は不穏な空気を感じ取っていたに違いない。午後七時、今から帰ると、自宅に到着するのは十時近くになる。結局、この日も子供の顔を見ることはできなかった。駅に着くと最内は、自分の支払いでロマンスカーの特急券を購入した。


   2


霞ヶ関にある国交省の自動車交通局リコール課。

監査を終えた田宮補佐官は緊張した面持ちで課長デスクへと出向いた。

「例の件、米国の運輸局も調査に乗り出すそうです」

最初に問題が発覚したアメリカで、当局が内偵に乗り出すという噂を駆け付け、本国の管轄局にも焦りの色が滲み始めていた。国内の自動車事情を司る国交省が不具合を予知できなかったと知られれば世界中に醜態を晒すことになる。ここは何としてでも不具合の原因を探り、逸早く対策を講じる必要があると判断した。

そしてその情報は一刻も早くリコール課長の鬼田の耳にも届いた。

「運輸局だろうと何だろうと関係ない。不具合品を製造したのは日本のメーカーだ。我々は事態を最初に把握しなければならない。先週のイズミの監査結果はどうだったんだ。検証結果を洗い浚いすべて取り寄せろと言っただろう」

狭いリコール課のオフィスには百九十センチの図体は似つかわしくない。短く刈った髪と口元の細い髭はまるで任侠映画を彷彿とさせる。五十歳になる鬼田は自動車業界の随所を知り尽くした首領である。

「今のところイズミだけでなく、国内メーカーにおいてシバタの不具合報告は挙げられていません」

鬼田の右腕として機能する補佐官の田宮は焦りの混じった吐息を漏らしながら、ありのままに監査結果を伝えた。

「イズミの監査資料を精査中ですが、エアバッグに関する記述はいまだ一件もございません」

「たわけ」

ばんっと机を思い切り叩く音がフロア中に響き渡った。

その眼は田宮を鋭く睨み付け、地割れのような怒声は田宮の魂を抉った。

「そんな生温い姿勢で不具合を発見できるか。貴様、リコール課の名に泥を塗る気か。自分の発言の意味が分かっていないようだな。この国の自動車業界を司るのが我々リコール課の使命だ。疑わしきは罰する。そうでもしないと、メーカーは利益の上に胡坐をかいて不具合を隠そうとする。常に性悪説に立て。ちょっとした気の緩みが国民の交通安全を損なうことになる。ワシは絶対に不正を見逃さない。断固としてメーカーを許すつもりはない」

鬼田が立ち上がると、その上背は忽ち天井に到達する。鬼田は田宮を見下ろし威圧した。かく言う田宮も膝を震わせながら、必死に鬼田に対応した。

「仮にエアバッグの不具合が製造工程によるものとなると、その確率は十万分の一程度と予想されます。芝田電機の製造ラインはほとんどが自動化されているため、製造ミスを探し出すのは困難を極めます。エアバッグの場合、極僅かな生産不具合品が市場に流通して、しかもその車が交通事故を起こさない限り不具合は発覚しません。エアバッグの良し悪しは、作動してみて初めて分かるのですから」

「言い訳など聞かせるな。何が何でも絶対に探し出せ、リコール隠しなどさせてたまるか」

エアバッグには自己診断装置があり、不具合を常時監視している。電気系統に異常が発見されると、ワーニングランプが点灯して故障を知らせる仕組みになっている。しかしガス発生剤のトラブルやバッグの破れなど、電気系統以外のトラブルは予知することができない。

今回発覚した不具合の主原因はガス発生剤の充填不足や、発生剤そのものの湿気によるトラブルであり、発見が遅れた要因となっている。

鬼田の凝視が続いた。

怖気づく田宮を見て、何とかフォローしようと同じくリコール課の明神が奮い立った。

明神も先週の監査に田宮と同行しており、三十代半ばの若い補佐官だが、仕事には抜け目がなく自動車の知見もある。

「そういえばタカタの前岡という男が中央研究所に出入りしている記録がありました。それも我々が監査をした二週間前にです」

イズミ研究所のエントランスには警備会社が常駐しており、来訪者は行先を伝えなければ入門できない。明神は念のため直近のメーカーの来社履歴を記録していた。

明神の説明を聞き、鬼田は首を傾げて振り向いた。

「前岡?聞いた覚えのない名前だな。芝田社長の来社履歴はないのか。役員クラスが動かない限りワシは興味はない。社運を揺るがす大規模リコールであれば、自ずと幹部クラスがアクションを起こすはずだろう」

「苗字は違いますが前岡は芝田家の血縁関係に当たります」

「ほう、そういえば道楽好きの腹違い息子がおったか」

芝田電機の芝田代表は過去に二度離婚を経験し、三度目の再婚を経ている。前岡は前妻の苗字である。

「前岡がイズミに来訪した詳しい目的は分かりません。しかし、わざわざ本部まで出向くとすれば、目的は間違いなく不具合関連でしょう。連中はリコールを嗅ぎ付けている可能性が大きい」

「黒だな――」

明神の話が本当だとすれば芝田側が不具合を把握していることは間違いない。鬼田はそう確信した。

「うかうかするな。早くしないとメーカーは隠蔽工作を始める。対象件数を少なく報告したり、対策をはぐらかしたり、連中はあの手この手で悪知恵を働かす。余計な動きをされる前に問題を突き詰めよう。いいな――」

鬼田の指示ですぐにリコール課は調査を再開した。

この手の調査はスピードが重要だ。先に対策を講じられたり、他の調査機関に対して出遅れれば国交省の面子が立たない。

「エアバッグはトキオだけでなくイズミにも納品している。それどころか、世界中の自動車メーカーにだ。六年前のリコールは不具合対象を製造年月で限定していたが、エアバッグの仕組みなどそうそう変わるもんじゃない。俺は確信する。これは自動車史上最大のリコールになる」


   3


「木村に再々実施したヒヤリングの結果によると、不具合品は米国シバタ法人で製造されたインフレーターと判明しました。フロリダの工場で生産されたインフレーターによる不安定な燃焼が主原因で、また噴出ガスをアジ化ナトリウムから硝酸アンモニウムに変更したことも不具合の一因と考えられております。十年ほど前に毒性の高い硝酸アンモニウムの使用を控え、ガス剤を硝酸アンモニウムに変更した。しかしこれは湿気により燃焼性が不安定化することが今回の検証で分かっております。今現在シバタ側には硝酸アンモニウムの在庫管理状況について調査を行わせております」

発火物を積んだエアバッグの生産は、メーカーとして不具合のリスクが高いため嫌煙されていた。一定の技術力と生産能力がなければエアバッグの製造は難しく、現在エアバッグ市場は三社による寡占となっている。北欧のステアモーターズが業界一位のシェアを誇り、次いで芝田電機は二位につく。芝田のシェアは流通しているエアバッグの四分の一以上を占める。

「インフレーターの不良、ガス剤の充填不足、杜撰な在庫管理、設備不良、そして作業者のヒューマンエラー。原因は複合的であり、現時点でどれが真の正解か分かっておりません。六年前に起きたインフレーターの破裂は、当時の資料によると作業者のミスであると判明しておりますが、今回新たに拡大しようとしているリコールに関しては、正直申し上げて、要因が多すぎて手の付けようがありません」

不幸なことに、問題のエアバッグがメビウスにも搭載されていることが分かった。それどころか、全世界で部品を共有しているため、対象は芝田電機のエアバッグを使用しているすべての車種に広がる懸念ある。極限まで進んだモジュール化による弊害だった。一度リコールが起きればその対象は忽ち千万台単位となる。

最内は前日に厚木工場で得た情報について、ありのままを油井と時田に説明した。朝からすべてのスケジュールを抑えられ、室長会議部屋から一歩も出れずにいた。

「木村の見解によると、一番の不具合要因はフロリダのインフレーター工場であるとのことです。エアバッグの組立工場はロット生産しているため、製造年月日から不具合品を突き止められますが、インフレーター製造工場はロット管理をしておらず、対策を講じ切れずにいます――」

「木村の見解などどうでもいいんだよ。お前の見解はどうなんだ」

それまで瞑目しながら最内の報告を聞いていた油井は、溜まらず声を荒げた。

「何のためにお前をわざわざ厚木に向かわせたと思うんだ。ちゃんと生産ラインは見てきたんだろうな。木村などといういち営業の訳の分からない説明など信用できるか。自分の目で現場を見て、問題を洗い出すのが品証の役目だろう。まさか説明だけ聞いてノコノコと帰って来たんじゃなかろうな」

最内は背中に冷たいものが走る感覚がした。

確かに生産ラインの確認まではしていないが、だからといって休日に部下を叩き起こして厚木に向かわせる上司の神経もどうかと思う。沈黙する最内を、さらに油井は追及し続けた。

「ったく、当事者意識の薄い奴め」最内が木村にかけた言葉と全く同じ内容を、油井は最内に放った。

取って付けたような屁理屈を並べ部下を罵倒するのは油井の十八番である。時田がいなければ狸顔に拳を振っていたかも知れない。最内はぐっと怒りを沈めた。

「油井、この話は品証内で止めておいた方がよさそうだな」

咳払いのあと、それまで場を静観していた時田品証室長が漸く重たい口を開いた。

「他部署に漏らせば忽ち風説が広まる。エアバッグの件、当面の間は我々の間で引き留めるべきでしょう」

イズミ自動車には市内だけで十二万人を越す従業員が在籍する。たとえ社員であっても、機密情報を漏らすことはリスクがつきまとう。

「六年前に米国で起きた死亡事故。エアバッグの構成品のひとつであるインフレーターが不安定な状態で爆発を起こし、金属の構成品が飛散し運転者の喉に突き刺さった。無論、事故による衝撃も相当のもので、金属片が直接の死因でないのかも知れない。しかし、少なくとも当時の事故資料では生産不具合があったと記してあった。設計仕様上の問題があったとは当時、誰が予測できたか――」

時田は静かに立ち上がり会議室の外を眺めた。

「我々は当時、自社で発生した巨額リコールの対応で、エアバッグの不具合など対岸の火事だと思っていた。自分の城で発生したリコールの火消で精一杯で、トキオのリコール内容にまで頭が回っていなかったのは事実だ。そのツケが五年の歳月をかけ、今になって巡り巡って訪れたという訳だ。その間にリコールの規模は知らぬ間に拡大し、我々イズミ自動車の掲げる一千万台体制の中でリコール対象も爆発的に増加した。今は誰を攻めても仕方がない。他の完成車と足並みを揃えて対応していくしかないでしょう」

今から五年前、イズミ自動車を巡る情勢は一件の大規模リコールによって地に落ちた。

米国下院で異例の謝罪会見を執り行う和泉章雄の顔が、大々的に世界中の紙面を独占した。品質ナンバーワンを誇示する日本の製造業界の評判を一気に墜落させたのがイズミ自動車だった。

その後真摯な対応を貫き、消費者の支持を回復したイズミグループは再び自動車業界のトップに返り咲いたが、当時の生傷は今でも時田の心の中に残っている。一度癒えた古傷が長い歳月をかけて再発した気分だ。

感傷に浸る時田を余所目に、油井は現実的な調子で続けた。

「――と、申しましても不具合の責任はシバタにある訳です。責任は芝田が一社で引き受けるべきでは」

「そういう訳にはいかないでしょう」

油井の発言を遮るように時田は言った。

「売上高五千億円に満たないシバタが、一千万台分のエアバッグの改修を一手に請け負ったらどうなるか。シバタは間違いなく倒産します。代替品の生産、出荷、交換作業。シバタの年間生産能力が一千万台強であることを考えると、一年間赤字で工場を回し続けることになる。そうなれば、シバタは確実に潰れる」

品証畑一筋を歩み続けるという人事は、イズミの中でも珍しい例だ。時田は部品の品質だけでなく、リコールによって企業がどれだけの損失を被るかも経験から熟知している。自動車メーカーはもしもの不具合に備えてリコール引当金を販売価格に加味しているが、今回はその範囲を遥かに越えると予想される。そしてその引責は芝田が負うことも明確であった。

時田は逡巡した後、次のように指示した。

「最内、すぐに検証の準備を行ってほしい」

最内は時田の意図を理解した。

「すぐに厚木に向かおう。担当者に連絡を入れろ、いいな」


   4


「シバタのエアバッグの件、品証間ではえらく大事になっているそうだな」

仕事を早く切り上げ天久保の個室居酒屋で落ち合った油井と宝田は乾杯のビールのあとは熱燗を続けた。社内の行先板には架空の会議を設定した。ある意味この場も、アルコールは入っているが会議と同じくらい重要な意味を持つ。

「ああ、察する通りだよ」

肘をついて御猪口を口に当てるだらしの無い低落は、同期である宝田にしか見せない姿だ。

エンジニアであってもサラリーマンに違いはない。技術が全てでなく、調整と根回しがこの世界で生き抜く術だ。たしか自分にも技術を追い求め目を光らせていた時代があったはずだ。輝かしい頃の感覚は遠に葬られた。

「どうするつもりなんだよ」

「何がだ」

「何がって、リコールの件、責任配分はどうするつもりだよ」

良い製品を作って名声を得るのは完成車だが、不具合品を出せば部品メーカーに責任を押し付ける。自分に都合の良い解釈を並べる。それが完成車メーカーのやり方だ。

「気が早いな。まあ、悪くても七・三、固いところで八・二か。本当は百パーセント芝田の負担にしたいところだが、それじゃあ、さすがに芝田が潰れるだろう」

バブル期に入社したイケイケどんどん世代の二人にとって、車とは単なる移動手段でなくステータスシンボルであった。金は天下の回りモノで、技術云々よりも真っ先に興味が向くのは金の話だ。特にイズミのような組織的企業では、個々人の金銭感覚は完全に麻痺している。自分達の判子ひとつで億単位の金が動くのだから、いち企業を倒産させるか否かの判断にも自己の感情はない。

創立以来、紆余曲折はあったものの一度もトップの座を譲らなかったイズミ自動車。財閥グループや銀行に提携を打診されたこともあったが、断固として独自の経営を貫き通した。そんなイズミ式経営は世界的にみても稀な日本的企業文化である。完全な上意下達の風潮、悪く言えば風通しが悪い部分もある。如何に効率的で実利を生むかという合理主義の組織のなかに個人の意志はない。その精神はイズミ生産方式にも根付く。

工場では従業員は人でなく機械の一部であり、また余分な工数は削減の対象になる。長年続いた改善の行く末は、注ぎ足された秘伝のタレのように個を消失していく。これが日本が世界に誇る生産工学の賜物である。

不具合が発見されれば、次に問われるのは原因、そして対策。

原因が不明確な状態では対策は練れない。しかし一方で、十万分の一といわれる製造不具合を発見し対策を講じるのは不可能に近い。なかにはヒューマンエラーや偶発的な設備トラブルも含む。それらを技術的に説明するのは限界がある。それを今後どのように対応するか、油井の腕の見せ所だ。

「良品を納入するのがサプライヤーの責務。つまり、不具合品が発生した時点で、百パーセント芝田電機に非がある。言い訳は無用。代替品生産に伴う通常生産分の遅れも、すべて芝田に負担させる。それが今までのイズミのやり方だ」

兎に角理詰めで、自分に都合の良い解釈をするのに長けている。責任を擦り付ける術に関しては業界一だ。ヤクザ的と揶揄されることもあるが、ピラミッド構造の業界の常識では、頂点にいる完成車メーカーが最も偉いのである。ここに良品を納入できなければ、業界での立ち位置を失うことになる。

今日、実験部の宝田と品証の油井が会合を開くのには特別な意味があった。

単なる同期入社の落ち合いではない。

公の会議以上に意味を持つのは裏の調整である。そしてすべては保身に繋がるのである。

「実験部の過去の報告事例にエアバッグの不懸はあったのか調査しろと、時田室長から直々に御命令があった。衝突実験、故障車の検証結果など過去二十年分の資料を徹底的に調べろ――、と」

警察のように社内の技術部署に異見するのが品証の本来の役割である。自ら付加価値を創造することはないが、他部署には横柄に口を挟む。それが品証だ。

油井は徳利から日本酒を宝田の御猪口に注いだ。

「ここで過去の不懸が発覚すれば大事だ。問題を知っていて報告していなかったり、そうでなくても、問題が存在していたという事実が把握できていなければ我々の落ち度となる。品証室の手薄さが暴かれてしまう。リコールに繋がる不具合を把握しておいて届け出していないと役人に知られれば、我々のクビが吹き飛ぶ。それどころか社内から逮捕者が出るかもな」

「フルラップ衝突によるエアバッグの作動試験では十回中、十回合格。数万分の一台の不具合を、たったの十台で見つけるなど無理だ」

イズミは独自の規定で、新車に対しあらゆる角度から複数回の衝突試験を行っていた。その過程で今回のエアバッグの不懸を見つけることは出来なかった。不具合を未然に防げなかったメーカー側の責任も問われ兼ねないが、今の実力では不可能である。

「役員報告では『なぜ今まで不具合を見つけることができなかったのか』と根掘り葉掘り問われるはずだ。『知らなかった』では済まされない」

要は、如何に身の回りの潔白を整理し、全責をシバタに押し付けるかが鍵だ。

完成車にとってエアバッグの不懸を事前に見出すのは技術的にも物理的にも不可能。だからこそ、全ての責任は製造元である芝田にある。イズミに非はない。

宝田は一度天井を仰ぐと、思い巡らせたように零した。

たしかあれは二年前だったか、宝田は酒で腫れた喉を振り絞った。

「新車立上げ直後には何度も衝突試験を行っているが、立上げから十年も経ったメビウスを敢えて検証する必要性はない。あれはあくまでも当時新入社員だった山内のお手並を拝見するために課した事故車検証だ。あれ以来、メビウスの検証は行っていない。つまり二年前に実施した検証が最新の資料だ」

今から二年前に起きたメビウスの死亡事故の検証の結果、助手席のコックピットモジュールの合皮部分に説明の付かない焦げ跡が付いていた。新入社員の山岡に全権を任したとはいえ、後で問題が起きれば上司である宝田の責任となる。取るに足らない仕事と思いつつも、山岡の帰宅後に宝田は密かに事故車の確認を行っていた。それが破損したインフレーターの金属片による焦げ跡であると発覚したのはディーラーに引き取り作業を依頼した後であった。

「報告の存在を知っているのは山内と私と油井さんと―」

「あと、最内です」

聞き覚えのない名前だった。はて、そんな社員が同席していただろうか。

宝田は遠い記憶を辿った。

「あいつはいいだろう。たしか彼は期限付きだったはずじゃないか。出向者は基本、三年任期じゃなかったか。来年になったら彼は消えるだろう。いちいちカウントしなくていい」

吐き捨てるように宝田は言うと、平目の造りを日本酒で流し込んだ。

宝田にとって一担当の言動など取るに足らない。しかも出向者であれば尚更である。

二年前のメビウスの事故――。

大破したメビウスの車内には、通常の衝突では考えられない焦げ跡があった。果たしてそれがもともとあった焦げ跡なのか、何らかの衝撃で生じたものか、説明がつかない。当時の会議ではその内容を有耶無耶にしたが、今となっては避けられない事実である。もしあれが本当に破裂したインフレーターによる焦げ跡と判明した場合、大きな問題へと発展する。

薄れかかっていた記憶とアルコールで鈍った頭を回し、油井は気掛かりなことを伺った。

「当時の報告資料、まだ書庫に眠っているのですか。それとも――」

楽観主義の油井も危惧していた内容だ。あれが外に出れば面倒なことになる。今日宝田と会った目的もこのことを問い正すためだ。

油井の心配を他所に宝田は終始リラックスした様子で酒を進める。用意周到な宝田である。「報告書は、既に葬ったよ」、宝田の微笑を見たとき、さすがとばかりに油井は頷いた。

「まさか山岡が数万分の一のハズレくじを引くとは思わなかった。私は見て見ぬふりをした訳ではない、そこだけは勘違いしないでくれよな」

不敵な笑みを浮かべた宝田は、すべての記憶を流すようにさらに酒を進めた。


   5


一台のグランXが厚木市恩名の芝田電機に到着した。助手席の扉が開くと、重たい足取りで時田が降りた。部長職以上のみに許された社用車はリクライニングが緩く、足腰が浮いた感覚がした。

葬式の参列者のような堅苦しいスーツ姿の四人が見えると、この日は重役クラスが来社するということで、常務の前岡が玄関口まで迎えに上がった。事態が事態だけに前回とは待遇が異なる。

相手の役職を見て態度を変えるとは、やはり会社としての品位が知られる。社員は企業の質を映す鏡である。その辺の対応もサプライヤー選定の一つのファクターとなるのを知ってから知らずか、常務の前岡と木村、そして加治屋厚木工場長が顔を現した。

この日、厚木を訪れたのはエアバッグ購担の清水、品証室の油井、最内、そして時田である。

品質保証室の事実上トップである時田といえば、肩書きとしては役員の一歩手前となる。連結従業員数三十万人を越えるイズミ自動車は、部長クラスでもその辺の中小企業の社長より部下が多い。室長クラスが忙しい合間を縫って辺鄙なサプライヤーに顔を出すとは異例中の異例である。前岡は緊張した面持ちで終始対応を続けた。

前岡は仰々しく時田を迎え入れると、最内が来社したときより一回り大きな応接に一行を招いた。どうやら重要な客人のために用意された特別な部屋らしく、確かにソファの革の質が断然違う。三人が席に着くと、前岡を中心に一礼した

「本日は遠方からわざわざお越し頂き、誠に感謝しております」

月並みな挨拶を交わす前岡。時田は表情ひとつ変えず凛として対面した。

前情報によると前岡は現芝田電機の社長、芝田玄一郎の息子にあたる。複雑な家庭環境のため苗字は異なるが、血の繋がった親子である。たしかに目鼻立ちは父親の風貌を思わせる。一方で同族社長の息子らしくこの期に及んで派手派手しい身なりであり、スーツのセンスは若者らしい。

「エアバッグの不具合の件ですが、御社での調査結果を拝聴したい」

開口一番、本題から入った時田はドスの効いた低い声で宮岡に問うた。

前岡もそれまでの飄々とした態度を一変し表情を強ばらせた。

「当社でもその件に関しては真摯に対応しており、なんと申しますか、幾つかの複合的な要因が考えられますので、対応に時間がかかっております」

「では、その幾つかの要因というのをここで全て説明して頂けますか」

「それは――」

時田に成り代わって清水も巨体を前に屈めて威圧した。外弁慶と揶揄される購買の本分がここで発揮されることとなる。

「我々も他の完成車メーカーなどにあたり独自に調査を行いましたが、不具合の原因は設計仕様にあると伺っております。これが事実であれば、我社に納入頂いているエアバッグの凡そ八割がリコールの対象になると、そう試算しております」

「ええ、しかしリコールと仰りますが、未だ正式にリコールを届け出るとは決まった訳ではありません。以前、当社の北米子会社で起きた不具合と同等の原因と発覚した場合、改めてリコールを出す必要はないと考えております。当然、無償交換は行いますが、当社としてもそう安易にリコールを出すことは引け目がございます」

手ぐすねを引く前岡に清水は堪らず畳み掛ける。

「なに呑気なこと言ってるんだ。粗悪品を納入しておいて、随分と生温いんじゃないですか、前岡常務――」

清水は社内では決して見せないような厳つい目線を送りつけた。

「申し訳ございません。しかし原因も分からないままリコールを発令することはできません。リコールに関しては社内で再々度協議を行ったあと、社長の芝田共々対応していく次第であります」

「既に不具合が起きたことは事実なんだろう。確実に良品と呼べるエアバッグだと判明しない限り、うちには部品を納入しないで頂きたい。お宅がやってることは人殺しですよ。あんた、さっきから聞いてればまったく当事者意識がないな。今この瞬間もお宅のエアバッグがうちで組み付けられているんだよ。エアバッグが爆発して人を殺すと消費者が聞いたら、どれだけ信用を失墜するか分かっていないようだな。殺人機械を市場にばら撒いておいて、無責任極まりない」

ばんっとテーブルを叩く音が応接室中に木霊した。

噂には聞いていたが、清水という男は下請企業に対して常に強行な態度をとっていると聞く。実際に生で見ると迫力がある。

「代替品の生産で通常出荷分が間に合わないなんて言い訳は聞きたくないですよ。もし部品を切らせて我々の工場のラインを止めたら、その分の損害はすべて請求させて頂きます。ご承知置き下さい」

「もういい、その辺にしておきなさい」

今にも飛びかかりそうな勢いの清水を時田は制止した。

チっと舌を鳴らす清水。舎弟と親元の関係性を匂わせる、ヤクザ的な駆け引きに見えた。

「それで、対象はどのくらい拡大しそうなのか、包み隠さずお聞かせ願いたい。わざわざここまで来た理由はそれを聞きたかったからだ。今更不具合を隠そうなんて魂胆や止めた方が身の為ですよ」

清水の一喝で相手が怖気づいた状態で、油井は追い打ちをかけた。

「御社に納入させて頂いている分だけで二百万台。全完成車メーカーの総数でいうと、少なく見積もっても千三百万台―」

「一千万を越える、か」

予想を遥かに越える数字に、さすがの時田も驚愕の色を隠せなかった。

これは過去のリコールの中でも例を見ない規模だ。歴史上最悪のリコール、まさにそれが目の前で事実になりつつある。

「仮に今リコールを届け出たとして、来年度のリコール特損は四百五十億円を越える予想です。現時点で判明している不具合の代替品生産と交換対応だけでもその数字です。しかも、さらに対象は膨れ上がる見込みですので、こうなるとシバタだけでは自力で対応できません」

それは暗に事実上の芝田電機存続の終焉を意味した。

真実のままリコールを発令すれば芝田は潰れる。

時田らの勢いに圧倒され、すべてを包み隠さずに自白した前岡。その肩はだらりと落ち、今にも倒れそうな蒼い顔をしている。

「リコール隠しが発覚すれば、犯罪者扱いされることは間違いない。素直にリコールを発表する必要がありますが、ありのままの数字を発表したら、販売店に人が押し掛けることになる。自動車史上類を見ないパニックが起きる。我々の生産能力だけでは、国内メーカー分の数百万台の代替部品すら用意することはできません。社内でも色々と策を練りましたが、難局を乗り切る方法は見つかっておりません。暫定策としてECUのプログラムを打ち変え、エアバッグが作動しなくなる処置も考えておりますが、果たして本当にそんなことしていいものか、検討も付きません。作動しないエアバッグなど、そもそも本末転倒ですから――」

代替品の目処は立っていない。

また、たとえ破裂の懸念があるからといって、エアバッグを停止させるなど許されるはずがない。

八方塞がった。芝田としては限界の策である。

「内訳はトキオ自動車が最も多く二百五十万台、次いで御社が二百万、そして国内メーカーと海外メーカーで残りの五百万台超。日系、非日系の割合は半々ですので、今回の不具合は全世界に飛び火します。仮に当社の全世界の工場をすべてフル稼働させても、一年そこらで代替品を用意することはできません」

芝田電機工業の連結売上高は約五千億円。その内エアバッグが全体の七割を占めている。厚木にある国内最大の生産拠点と、北米、タイやインドネシアといった東南アジア地域、そして中国でも生産を行っている。エアバッグにはハンドル、助手席、ルーフモジュール、ドアなど設置場所によって複数の種類があるが、ガスを噴出して袋体を膨らませるという基本構造に違いはない。今回の不具合の主要因であるインフレーターはすべてのエアバッグに搭載されている。現時点での対象は十年以上前に製造されたものと限定しているが、その後に作られたエアバッグでも同様の不具合が生じる可能性がある。

「仮にリコールとなれば国内自動車メーカー全体で足並みをそろえて発表する必要がある。問題が大き過ぎて対応ができない―」


最後に厚木工場のエアバッグ製造ラインの視察に向かった一行は、均整のとれた製造現場の様子に驚かされることになった。

工場内の説明は加治屋工場長によってとり行なわれた。

厚木工場の製造ラインは殆どが自動化されており、一部検査役の作業者がいる程度で他は自動設備に依存する。エアバッグの構成品は袋体、インフレーター、ガス剤などデリケートなものばかりだ。特に危険物の取り扱いには細心の注意を払っており、人間の手を借りないライン設計が施されていた。工場内も食品工場のように清潔であり、不純物が混入しないよう所々ビニールシートで覆われている。まるで無菌室を思わせた。

今回の訪問者の中で唯一、生産技術としての経験のある最内は、食い入るように生産ラインを眺めた。

サプライヤー訪問の経験は何度もあるが、エアバッグ工場は初である。

見慣れない設備が並ぶのはエアバッグ特有であろう。特に危険物を取り扱うだけあって防護ガラスが設置されるなど安全対策がなされている。

「自動化ラインといっても全知全能ではない。機械といえど不具合がゼロとは言い切れない」

工場入口にはエアシャワーが設置されており、見学者は衣服の埃を払い落とし、ついで靴カバーも装着する。徹底した管理であるが、それでも不具合は生じてしまった。加治屋の表情には無念さが映る。

設備には至る所にポカ除けが設置してある。

取付不良、ガス充填不足、傷や製作誤差など、作り手としての万全は期しているはずだ。

これだけ高度な生産技術を駆使した工場なのに不良が出るとは、やはりエアバッグという部品が如何に難しいものか痛感させられる。

車両工場に比べると工場の敷地は小規模である。ラインの終端まで歩くと、最内はある疑念を抱き、加治屋に問うた。

「ここはフロリダの工場と同じ構造ですか」

六年前、不具合が発覚したのは北米子会社であると聞いた。国によって事情が違うのではないかという最内の疑問はすぐに打ち砕かれることになる。

「基本的に海外の工場は、すべて同じ製造ラインを使っております。うちは標準化を進めているので」

日本でプロトタイプを造り、それを海外でも汎用するという作り込みは全ての製造業に共通する。芝田も例外でない。

一通りラインを見回った一行は次に最終出荷上近くにある試験場を見学した。

芝田電機では完成品に対して、抜き打ちで発火試験も行っている。実際に衝撃信号を与えエアバッグを作動させる。徹底した管理下のもと、社内検証でも爆発の仕方が不安定であったり、作動しなかった例はこれまでに一度もないという。「量産前の試作段階で複数回の実験を行っており、量産後に不具合が発生しないよう神経を使っています」、加治屋はそのように付け加えた。

ここまでしても、十万台にひとつと言われる不具合品を探し出すのは不可能ということか。

百パーセント安全な製品など世の中には存在しない。

九九・九パーセントの良品と○・一パーセントの不具合品。その○・一パーセントが会社の評価を下げる。ある意味、それが製造業の宿命なのだ。

「本日は貴重な時間を割いて御対応頂き、ありがとうございました」

三十分程度の短い視察だったが、多くのことが分かった気がする。

そしてそれが芝田だけでなく、自動車業界全体を取り巻く大きな課題であったということも同様に判明した。

この問題の根は深い。

一行が工場を出て事務本館に戻る途中、最内は工場横の寂れた部品倉庫に目がいった。平屋造りの変哲もない建家である。

「もしお時間があれば、仕掛品の確認もしたいのですが、倉庫も見せて頂けませんか」

「倉庫ですか―。え、ええ。いいですよ」

しどろもどろに言う加治屋。見られてはマズいものが入っているのか、ここは最内の勘が冴えた。

「ガス噴出剤の保管状態を教えて頂きたいのですが」

芝田は不具合が発生する十五年前に、エアバッグの噴出ガスとして毒物であるアジ化ナトリウムの使用をやめ、現在の硝酸アンモニウムへと変更した。硝酸アンモニウムは残滓物も少なく燃焼効率も高いが、一方で湿気により発火が不安定化するというマイナスの側面も持つ。インフレーター内部に不安定な状態で成形されたガス発生剤が混入すると、異常な圧力がかかりインフレーターの破裂が懸念される。北米で発生した死亡事故は、おそらくこれが原因と考えられている。

「確かに我々は、アジ化ナトリウムへの変更にあたり、インフレーターの出荷や在庫管理には細心の注意を払ってきました。特に梅雨時の保管や湿気の多い国での保管には苦心していた過去がありますが、今は在庫品に乾燥剤を入れておりますし、湿気による不良というのは考えにくいです」

エアバッグを採用していない自動車メーカーはない。現に多くの命を救っている特効薬と化している。しかしそれが凶器となって人の命を奪ったのも事実だ。

四人は車に乗って厚木を後にすると、東名に乗って帰社を急いだ。

夕方の高速は交通量が多く、思いには反して車の進みが悪い。万事休す、今更焦ったところで、一度出回ったエアバッグを取り戻せる訳ではない。

「車は三万点の部品から成り立つ。その殆どは運転者の目には入らない場所にある。そして一台の車を製造するには三万人の従業員の犠牲で成り立つ。ひとりひとりの労働者の苦労も消費者には映らないとは、皮肉なもんよ」

今、エアバッグという三万分の一点によって、ひとつの会社が姿を消そうとしている。

そんな悲劇が最内の頭を過ぎったとき、背筋に痺れるものが走った。


   6


「それほど点数が悪いわけじゃないけどな。以前いた学校では成績は中の上くらいだったか。でも今は尻から二番目だ。確かに和泉市の教育レベルは高いからな」

国語、数学、理科、社会、そして英語の五科目で、梅園中学の平均点数は九割を越えている。これは平均的な生徒は皆、私立のトップ校へ進学できることを示す。

要の点数は六割程度。全国平均よりやや上だが、梅園では下位のクラスに分類される。

会社から帰った最内は、ネクタイを緩めたままリビングのテーブルにつくと、要の成績を広げて眺めた。校内偏差値で見ると悲惨な数字が並ぶが、一般的な小学校高学年の教養は十分に兼ね備えている。

「今日も補講で遅くまで学校に残っていたの。宿題の量も多くて、それを終わらせないと次の日学校で怒られるんだって」

まるで残業に追われるサラリーマンと一緒だ。

最内の頭では必死に稟議や報告書類をまとめている自分の姿と重なった。

十時のニュースが流れると、受験戦争に挑む有名進学塾の映像が扱われていた。夏合宿に参加する生徒は皆、牛乳瓶のような眼鏡をかけていて、頭に鉢巻を巻いている。統制がとれていて、皆同じような顔に見える。その後には我が子の成功を祈る母親たちの姿。講師の話を熱心に聞きメモをとる親の姿は宗教的に映る。塾の月謝は十五万ときた。さらに夏期講習には三十万円以上の費用がかかる。普通のサラリーマンには手の届きにくい金額だ。母親たちも、お高くまとまった服装や品位のある化粧を施している。どことなく城下町の妻たちの様相に似ていた。

「学校社会も会社も本質的には変わらない。できない奴は淘汰されるし、競争に負けて良い学校に行けなければ将来的に割を食うことになる。それが嫌なら死ぬ気で勉強して、より良い待遇を得ることだ。勉学も出世も結局、本人の努力だからな」

出された夕食に手をつけると、缶ビールのタブを抜いて喉に流し込んだ。

アルコールで気が緩むと、一日会社で溜まった毒が吐かれる。

「成績下位の奴は僻地の不人気校に進学して、大学に行けず高卒で工場採用。そこからひたすら部品を組み付け続ける単純作業の繰り返し。現場監督者に怒鳴り散らされて、毎日ストレス下で働くことになる。工場勤務の安賃金じゃ、結婚して子供を授かるのも難しいだろう。やっとできた子供も出来損ないの遺伝子を引き継ぎ、ロクな能力を兼ね備えていない。子供に大した教育を受けさせることも出来ず、その子供もまた人並みの生活すら送れないだろうよ―」

「もう止めて」

バンっとテーブルを叩く音が聞こえた。

「子供になんてことを言うのよ、最低」

「それが現実なんだ。子供に真実を教えることの何が悪い。お前みたいに子供に余計な夢を抱かせて、いつまでも幻想の中に追いやってしまっては後々で取り返しの付かないことになる。俺を見てみろ。トラック会社のヒラ社員が、本体に逆出向させられて、日々不具合対応に追われている。このザマだ、チクショウ。周囲からの協力もなく、上司からも見放された。それが俺の今の仕事だ。煌びやかな新車なんて俺には関係ない。品証ってのはいてもいなくても関係ないんだよ」

「要はもう寝なさい。お父さんの言うことを聞いていたらこっちまで鬱になるわ」

子供の頃抱いていた夢や自分は何者にでもなれるという希望は、大人になって社会に揉まれるうちに打ち砕かれ、今となっては会社でどんな仕打ちを受けても何も感じなくなった。サラリーマンは上意下達、上位者の意見に従うしかない、自分の意志はない、個人の尊重は許されない。

「申し訳ない、俺は最低の父親だ」

目の前の花恵の顔を見た。

いつの間にか年を喰ったように見える。結婚当初はそれなりに綺麗だったが、いつの間にか老け込んだ。年のせいか、それとも自分のせいか。内面の悪さが表情に滲み出ている。そして自分もまた同様に酷い顔をしていた。

手元には半分だけ口をつけた白飯と味噌汁。タブの空いた缶ビール。鯖の焼き物、漬物、玉ねぎやレタス、トマトの入った簡単なサラダ。とても贅沢な食卓とは言えない。そういえば最後に家族で外食に行ったのはいつだっただろうか。家族に旨いもんを食わせることもできない自分を情けないと思う。

二人の間に無言の時間が過ぎる。

重たい空気が覆いかぶさる。自分が持つ悪い雰囲気を、家族にまで強要してしまっていることに気が付いた。ここで踏ん張らなければ、本当にみんな不幸に陥ってしまう。

「こんな俺が大きな組織に立ち向かっても勝目はない。でも今が勝負どきなんだよ」

俺は夢を諦めたからサラリーマンとして仕事をしている。

無味乾燥とした単調な日々の繰り返しだが、心の奥底でプライドが燃え滾っている。

だからこそ、正義を貫くべきなのだ。

最内は残った夕食をかき込むと、鋭い眼光で決意を告げた。


   7


高い品質基準や為替動向に後押しされ、日本車の米国売上実績は近年頗る好調である。僅か五年前、巨額リコールを発生させたイズミ自動車がテロ組織の如く市場から追放されたのが遠い過去のようだ。喉元を過ぎれば熱さを忘れる。マスメディアは挙って掌を返し、日本車万歳の音頭をとっていた。

パワートレインやメタル部品といった内製品の他、電装品、樹脂製品など、イズミ傘下の部品メーカーは完成車工場に近接するように工場を設立し、近隣に巨大な工業団地を形成する。これにより納入リードタイムを限りなく零に近付け、強固なサプライチェーンを確立する。

しかし、エアバッグは例外である。

完全独立系メーカーである芝田電機は、車両工場の立地に関係なく工場を設立し、場合によっては海送や空送などの手立てを使って国を跨いだ納入ルートを構築していた。六十年前の創立以来、どのメーカーにも寄生することなく自ら独立した位置を保ち続けた。シバタの持つ高い技術力と寡占化がこれを可能にしている。

しかし一方で、世界中の車両工場で芝田の部品を採用しているということは、万が一仕様上の品質不具合が生じた場合、ウィルスがばら蒔かれるように一斉に奇病が蔓延する。

なぜ、リスクは防げなかったのか――。

寡占市場の弊害がこの要因にある。

発火物を積んだ危険部品という特性上、エアバッグは技術力の低いメーカーは手を出し難い領域であった。

販売開始当初はそれなりに注目された安全技術であったが、高過ぎるリスクゆえに淘汰され、結局現在の三社寡占の構図に繋がった。

エアバッグ大手の内、日系企業は芝田電機が唯一である。海外のエアバッグメーカーは地理的に離れているため、輸送コストや調達リスクが伴う。不具合や海難事故が発生した場合、代替品が簡単に用意できない。必然的に、イズミ、トキオをはじめ国内の完成車メーカーはシバタに依存せざるを得ない状況に陥っていた。これこそが今回の悪夢を招いてしまった。

厚木から戻った時田は、中央研究所から車で十五分ほどにあるイズミ本社の役員フロアにて、ある人物から面会を受けていた。

事態を重く見た和泉章雄が直々に品証室の時田を呼び出したのだ。

「――それで、どうだったんだ。視察の結果は」

「トキオが先に立入検査に入っていたようです。芝田側も不具合を認知しておりました」

本社は和泉駅前のビル群にある。

駅前はイズミ自動車の他にも、和泉商事、エレクトロニカ、その他傘下の部品メーカーの本社ビルが何棟も林立する。和泉市が城下町であれば、天守閣はこの場所にあたる。

和泉駅をターミナルにもつ和泉エクスプレスの開通は、もともとは常総線沿線駅までの計画だったが、イズミ自動車切っての要望で余計に十キロ以上も延長したという逸話がある。それだけイズミという会社の影響力は計り知れない。

市内の広大な敷地にはテストコースが何本も整備され、主要サプライヤーを誘致して巨大な和泉工業団地が形成されている、江戸の時代だったらこの場所は大工町、鍛冶町と呼ばれていたのかも知れない。

章雄のいる役員フロアは天守閣の最上階にあり、城下町が一望できる位置にある。

本社より高い建物が和泉市内に存在しないのはイズミ自動車の権力の源である。五年前に新設されたこの本社は章雄の願いで県下最高の高層ビルとなった。

「対応は万全なのか」

章雄はゆっくりと立ち上がると、フロアをゆっくりと回遊した。

「不具合の詳細は?国内での発生事例はまだ聞かないようだが。安全面での対策はどうする。補償範囲はどれくらいなんだい」

矢継ぎ早に質問が飛ぶのは管理職の性だろう。

章雄は大学卒業後、すぐに管理職の道を約束された特別な社員であった。

「一千三百万台ということです。はっきり言って、我々の試算を遥かに超えていました」

「一千万か―」、あまりにも大きなリコール規模に、章雄の足が止まった。

五十八歳になる和泉章雄は、イズミグループ創始者である和泉宗一郎の孫にあたる。宗一郎以来イズミ自動車のトップは和泉家が継ぎ、章雄自身は五代目社長にあたる。まさに日本一華麗なる一族の息子となった章雄は、和泉市で生まれ育った後、東大経済学部を卒業。在学中、単身渡米して経営学修士課程を修了すると、そのままイズミ自動車に就職した。入社後は大穂や茎崎で工場生産管理を経験したあと、海外出向を経て三十代を前に本社の経営統括室に異動。以後、開発や購買など様々な部門の管理職を兼務しながら経営畑を真っ直ぐに進み、四十歳で取締役、二年後には常務取締役、さらに一年後には専務取締役とエリート街道を直進した。

そんな章雄が五代目社長に昇任したのは今から六年前の出来事であった。奇しくも章雄が社長に就任した翌年に発生した大規模リコールにより、それまで一度も踏み外すことのなかった潔白なレールから章雄は突き落とされることになる。類希に見る巨額損失は人生で初めてその輝かしい経歴に泥を塗る結果となった。

章雄が世界中の品質保証部門を統合し、新たに品質保証室を設置したのもここに起因する。品証出身の塩谷を取締役に抜擢し、製造業として品質ナンバーワンを掲げた経営計画はこれまで順当に推移している。

そんな中で発覚したエアバッグの不懸である。章雄が黙視できずにいる理由はそこあった。

「私も長いことこの業界にいるが、一千万台規模のリコールなど聞いたことがないぞ」

温厚な章雄が珍しく声を荒らげた。

堅物と揶揄されることもあるが、日本を代表する組織的経営の首長に不覚は許されない。

それまで城下町を見下ろしていた将軍の視線は一変して時田を睨み付けた。

「ところでそれはリコール引当金に収まる範囲なんだろうな」

リコール引当金とは製品保証引当金という会計科目に含まれていることが多く、通常の不具合発生件数に応じた保証金やアフターセールスに関わるサービス料とともに処理される。

部品によって不具合のリスクは異なるが、特に保安部品や動力伝達部の不具合は消費者に致命的な事故を引き起こす懸念があるため十分な引当が用意される。当然、危険物であるエアバッグもリコールのリスクは加味されている。

しかし十年に一度あるかないかという大規模リコールを予測することは難しく、引当金の範囲に収まるかを事前に考慮するのはこの上なく難しい。イズミほどの超マンモス企業であっても、万能の知は存在しないのである。実際、大規模リコールの直後は赤字会計という結果に陥るケースがあり、会社として株主や融資元の銀行からも信用を失うことになる。

「仮に我々がリコールを届け出て、シバタに数百億の特損が発生したら株価は暴落するだろう。社会的に信用を失墜し、シバタだけでなくエアバッグという技術そのものの存在を疑わせることになり兼ねない。メーンバンクはシバタへの融資を打ち切り、単独での復興ができなくなったシバタは産業再生機構の再生計画を待つしかない。悪い結末が見えている」

「やはり、トカゲの尻尾切りとはいきませんか」

財閥系を凌ぐ経済力からイズミ銀行の異名を持つが、臭い物に手を差し延べるほどの善者ではない。


六年前に米国で発生した大規模リコール。

米国下院公聴会では、まるで凶悪犯罪者を扱うかのようにイズミ自動車社長の章雄を問い詰めた。

――当局での発覚前に問題があったという認識は

ござません。社内でもこれまで数々の品質検証を行っておりますが、不具合を認識して故意に隠していた事実はございません。

議長から矢継ぎ早に発せられる質問の嵐は、通訳を介して章雄の耳に突き刺さった。

――以前から苦情があったのではないか

いいえ、決してそのようなことはございません。また、部品設計上の問題はありません。あくまで製造上の偶発的な不具合と認識しております。

――社会的信用を失墜したことに対しての責任はどうか

自動車という製品において、顧客の信頼は最も重要なものであると理解しております。本来、人の安全を守るべき機械で命を奪ったことに、企業として全責を負うべきと考えております

――あなたの誤った判断で、死傷者が出たことについてはどう思うか

真摯に受けて止めております。被害者の方には心より謝罪し、これ以上の被害を出さぬよう対応していく次第でございます

議長は徐々に語気を荒げ、質問はいつしか非難へと変わった。すべての問い掛けに対し、章雄は真摯に対応した。

自尊心が砕かれた。

人生で最も神経を磨り減らした瞬間だったと、今になって思う。

人間が生まれ持った防衛反応なのか、不思議と当時の記憶は消失していた。人は極限までストレスに浸されると、自己を認識しなくなるのだろうか。章雄は二度とこのような体験をしたくないと、全社をあげて品質管理の徹底を決意した。

「代替品生産に伴う供給リスク、ディーラー対応、考え得るすべての懸念を列挙して迅速に対応しろ。いいな」

まるで押し寄せる津波のような感覚がした。

遠方から襲ってくると分かっていても、決して逃げることはできない。少しでも被害を抑えようと策を練るのだが、一千万台という数字は如何なる対策をも飲み込んでしまう規模である。競合他社にも異例の対応を求める。自動車業界一丸となって荒波を乗り越えなければならない。

六年前のリコールを教訓に、あらゆる逃げ道を思い巡らせた。

しかし章雄にはこのとき、ひとつだけどうしても解せない事実があった。

なぜ五年も前に起きた不具合が今更問題になったのか――。

北米で発生したという死傷事故。たしかにその後の自社のリコールで手一杯だったため、エアバッグの調査にまで手が回らなかったという事実はある。しかし、これだけの規模の不具合を章雄はじめ誰も認識してなかったというのは大きな疑問である。製造責任を持つ芝田だけでなく、他の完成車メーカーも独自の安全対策を行っていたはず。イズミ自動車も衝突によるエアバッグの展開試験は課していたはずだ。

「今の技術ではすべての不具合を把握することは困難です。シバタはガス剤の保管や製造工程にこの上ない安全対応策を敷いています。しかしエアバッグは事故を起こして初めてその部品の善し悪しが分かるという特殊な装置です。発見が遅れた理由はここにあります」

自らも現場での経験を積んだ章雄だ。

技術力の限界という時田の訴えは心底、理解している。

「メビウスのモデルチェンジも近い。マスコミ対策だけは万全を期すように。余計な風説を流されて信用を落としては元も子もない」

章雄はそう言うとハンガーにかけてあったコートを手にとった。

時刻は既に夜十時を過ぎている。多忙な男だ。明日も早朝から海外視察と、スケジュールに暇はない。

身支度を整えて役員フロアを出ようとする章雄。ぐるりと背を向ける章雄に、時田はある判断を仰いだ。

「社長、我々品証室での対応について伺いたいのですが」

「対応?」

章雄は素っ頓狂な声を上げた。

振り向くとそこには自分を見つめる時田が静かに対峙している。

「リコールを出すか、出さないか―」

章雄の目には迷いが見えた。その視線は焦点を失い、動揺して右往左往している。

不具合と分かって隠蔽したり、故意にリコールの対象範囲を狭める行為は当然のことながら違法である。もし仮にリコール隠しが発覚すれば罰則を受けるだけでなく、社会的信用を失墜することに繋がる。

「ご判断を――」

真剣な眼差しで回答を求める時田。

章雄は大きく息を吐いて振り返ると、決心したように述べた。

「リコールは、――出さない」

思いがけない言葉だった。

一瞬、時間が止まったように二人は対面した。

予想もつかない発言だ。一国の長が、会社の行く末を左右する重大な決断を下した瞬間だ。

「リコールは絶対に出さない。なんとか揉み消す糸口を開拓しろ。それが品証室に課されたタスクだ、いいな」

章雄はそう言い放つと、足早にその場を去った。


   8


早朝、会議室に呼び出された最内。目的は分かっている。厚木視察と今後の対応についてだ。

室長同行で芝田電機を訪問し、不具合の要因と規模は把握できた。重要なのは今後、具体的にどのようなアクションをとるかである。

おそらく最内を中心として対策本部が準備され、関係部署やシバタと代替品の生産や交換作業について、細かい日程線を引いて対応することになる。もしくは広報を介したマスコミへの応対についてだろうか。いずれにしても、忙しない日々が訪れそうだ。

油井の手によって会議室の扉が閉ざされ、完全な密室となった。

しかし、そこで油井の放った一言は、それまでの行動を覆す衝撃的な内容であった。

「リコールは出さない」

「なぜですか」

最内は思いがけない指示に疑問を呈した。いや、むしろそれは疑いというより憤りに近いものがあった。いったい、今までの行ってきた調査はなんだったのか。わざわざ休日に視察に向かわせ、さらに室長まで対応した挙句、この期に及んで不具合を隠蔽するというのか。何より、企業としての対応に大きな疑問が生じた。

「社長命令だ。お前はこれ以上、余計なことを口外するんじゃない」

「くそっ」最内は上司の前で汚い言葉を吐いた。腐ってやがる。腐敗した組織、ここまで事態が深刻であると判明して、誰がリコール回避など思い付くかと思いきや、それは和泉章雄直々の上意判断であるという。

最内は思わず右の拳をテーブルに投げ下ろした。

「これだけの規模の不具合を隠せと言うのですか」油井に訴えかけるのだが、当の油井自身も困惑を隠せないとみた。腑に落ちないのは最内だけでない。この男もある意味、被害者なのだ。

「前回と同じ内容であれば、改めてリコールを出す必要はない。今はまだ国交省にも情報が及んでいないし、サービスキャンペーンで対応するという手段もある」

言い訳がましい説明に、納得できない様子の最内は噛み付いた。

「しかし、六年前に発令したリコールとは別の要因が見つかった訳でしょう。なぜ社長はリコールを止めるのでしょうか」

「これ以上、詮索しても仕方がないんだ。今までのことは知らないふりをしろ。不具合の要因も、噴出ガスの件も、保管の問題も、すべてなかったことにする。我々は開けてはいけない蓋を開けてしまったんだ」

油井は煙草を手に取ると、開放した窓に向かって白い煙を吐いた。本来ならばオフィスは全面禁煙である。

「考えてみろ、世界中にばら蒔かれた一千三百万台もの不良品をどうやって回収するんだ。ディーラーで引き取って代替品を無償交換するか。それともエアバッグの作動をストップさせるよう、ECUのプログラムを書き換えるか。エアバッグの作動を止める対応を施したと聞いて、消費者はどう思う。いずれにしても現実的な策は存在しないんだ。ある意味、社長の判断が真の正解なのだろう」

「本当にそれが正解なんですか。発覚した場合のリスクが大き過ぎます。これだけの規模のリコールを隠蔽したと周囲に知られたら、それこそ五年前の再来です。そのときは本当にイズミの名声は地に落ちる結果となる」

油井は窓冊子に手をつき、だらりと首を垂らした。

鼻先からは細い煙が力なく出ている。

「だから知らないふりをしろと言うんだ。いいか、エアバッグは事故を起こさない限り不具合は発覚しないんだ。仮に何万分の一という不良品を搭載した車が事故を起こしても、そして運転者が死傷したとしても、それが直接の死因に繋がるとも考えにくい。お前も視察に行ったから分かるだろう。ご存知の通り、インフレーターはロット生産を行っていない。つまりどの製造年月日のエアバッグが不良なのか、トレーサビリティも効かないんだぞ。これじゃあ砂の中から針を探すようなもんだ」

不具合は生産上の要因なのか、それとも仕様の問題なのか、もしくはその両方の複合的な理由なのか。そしてすべてのエアバッグに不良があるのか、一部のみなのか、それすらも解明することは出来ていない。もし原因を究明するとなれば、世界中で走っているクルマに搭載されたシバタ製エアバッグを分解してみる以外に方法はない。当然、そのような策に現実味はない。

最内は冷静に判断した。

これ以上、油井に訴求しても事態は改善されない。

「では、不具合を見て見ぬふりをしろ、というのが上からの御指示なんですね」

「昨夜、時田室長が和泉章雄に直々にご判断を仰いだ結果だ」

ひとつ大きな溜息を吐いた。

手のうちようはない。ここは知らぬが得なのである。

「畏まりました。私もサラリーマンです。そういうことでしたら、絶対に事実を口外致しません」

最内は罪悪感に苛まれながらも、気力を無に帰して会議室を後にした。


   9


「イズミ系列の全国のディーラーを調査したところ、今から約二年前に目黒区内の販社で廃車解体中にエアバッグに亀裂が発見されたという報告がありました。今回のリコールと直接的な関係があるのか分かりませんが、証拠資料として計上したいと思います」

田宮は極秘に入手したサービスレターのコピーを見せた。

鬼田はそれを手に取ると、目を細めて眺めた。

リコール課に在籍する監査官は、何としてでもエアバッグの不具合を探索しようと、国内の出先機関を総動員して調査を続けていた。

調査対象は工場、メーカー、販社、すべてに至る。さらにはリコール課独自で部品を入手し仕様の研究も行っていた。

不具合はメーカー独自の検証で発覚する場合と、市場クレームにより外部から情報が伝達されるケースがある。設計、製造過程で不具合の懸念があると分かった場合、メーカーは迅速に国交省のクレーム課に報告し、直ちに対策に乗り出す必要がある。もしくは国交省側からメーカーに対策を要請することもあるが、いずれにしても対策や報告を怠ると罰則が科せられる。意図的にリコール対象を狭めたり、虚偽報告を行うのも同様だ。

毎年寄せられるリコール件数は、二百五十から三百程度と相当数で推移しているが、その内メディアの紙面を賑わせるような大規模リコールの発生は極稀である。対象件数一千三百万台というのは十年に一度あるかないかの規模である。むしろ、リコールの制度が発足して以来、最悪の数字だ。

「目黒区内で発生した単独事故、雨天による一部路面冠水、スピードの出し過ぎ、死因は胸部圧迫と出血性ショック――か」

鬼田は法文を読み上げるように淡々と言葉を発した。

写真も添付しれなければ、部品も既に処分されている。参考資料にはなるが、決定的な証拠とはならなそうだ。

鬼田は俯き加減にサービスレターを置くと、田宮の顔を見上げた。

「現行法では部品メーカーへの立入検査は行うことはできない。直接我々がシバタに出向けるよう、改正法案を提出し通常国会で取り上げても、採用までは足が長い。そうこうしている内に証拠資料を処分されてしまっては困る。いかに素早く確固たる証拠を入手するかが鍵なんだ」

製造不具合、設計上のミス、どちらをとってもシバタ側の落ち度だが、それを見破れなかったのは完成車メーカーの責任。

鬼田は顔の前で手を組むと、まっすぐに田宮の額を睨み付けた。

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