表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
城下町の妻たち  作者: 市川比佐氏
4/7

第三章風説

  1


盆休みの前週の金曜日、今季最高気温を記録した関東地方では夕方から局地的に猛烈な夕立を降らせた。所々水溜りができたアスファルト。雨が蒸発した妙な匂いが鼻をつく中、仕事を早めに切り上げた最内は加山と共に天久保にあるバーに出向いていた。

「湿気てるよなぁ。昨期最高益なのに、出向者のボーナスは○・五ヶ月しかアップしないなんて。本体の人間は上場企業トップの報酬を貰ってるときた。下々にはあまりにも厳しい会社だな」

最内は携帯を開くと、イズミ自動車の年間一時金の増額を謳った経済ニュースを見て愕然とした。

会社の業績が街の景気に直結する、それが城下町の経済である。市内唯一の歓楽街にはボーナス後、イズミ社員で毎夜溢れ返った。

「お陰様でうちは打出小槌だよ。こんだけお客さんが来てくれれば安泰だ。イズミ様々だよ」

少々厚化粧が目立つが、景子と名乗るママも昔はそれなりに美人だったのだろう。かつてはイズミ自動車の派遣社員として経理事務を行っていたという。海外進出が進むとイズミ自動車は派遣社員に大きく鉈を振った。派遣切りを喰らった元社員の多くは路頭に迷ったが、景子については今やスナックとバーを数店切り盛りするやり手の経営者となっていた。

「昔は都落ちって言われたよ。でもこれでいいんだ。イズミ車が売れて、社員様が稼いだお金が巡り巡ってうちに落ちてるんだからね」

景子は自虐的に笑うと次々と入店する客に愛想を振りまいた。

都落ちは派遣切りや出向社員など、本体を離れた人間に向けて差される隠語である。一方、転職など自ら希望して和泉市を去る者は脱北。本社が城であることを思えば、城下町から出ることは自動車ビジネスにおける敗北を意味する。

二人は最初にビールを流し込むと、あとは適当なサワー類を注文した。兎に角蒸し暑く呑んでいないとやっていられないという状況だ。ワイシャツの背中が汗ばんで気持ちが悪い。

適当に酔いが回った後で加山は本題に乗り出した。わざわざここに足を運んだのも理由がある。狭いカウンター席の隅で声を殺して、神妙な面持ちで加山は始めた。

「最内さ、お前も本体に移って二年経つだろう。次年度はどうするんだよ」

期限付き出向。もともと最内に課せられた出向期限は三年である。ここでの生活にもだいぶ慣れたが、籍は府中トラックのままだ。いつ呼び戻しの声が掛ってもおかしくない。

最内はグラスについた水滴を指でなぞると気怠そうに言った。

「まだ何も。夏前に人事考課があったが、ひとまず次期型メビウスの立上までは配転は無さそうだ」

最内らが本体に移ったのも、もとを正せば和泉章雄が決算発表で発した増産大号令だった。イズミ自動車は一千万台体制を維持するため新車を次々と市場に投入する。そのため工場は勿論、本社や研究所の間接員の増強も測った。このやり方が正しかったかは未だ分からない。品証室をはじめ一部の部署ではひどい手余りの実態が噂されている。それでも毎年紙面を賑わすイズミの好成績は内部の崩落を感じさせない。

「来年度は確かにビッグイベントがある。でもメビウスのフルモデルチェンジが終われば、あとは現行車のマイナーばかり。そろそろ人員整理も考えられる。来期以降もこのまま本体に居続けられるかは分からない」

転勤の多い商事社員ならではの考え方であった。

和泉商事は“脱”自動車化を掲げ他事業への投資を本格化させていた。

海外部品メーカーからの買付や輸送、そして完成車の販路拡大と創立当初は専らイズミ自動車向けの事業が中心で、常に本体の右腕として機能してきた和泉商事だが、近年ではエネルギー事業やレアメタル権益の獲得などに腐心して仕事の幅を広げている。

これによってもともと自動車カンパニーにいた同期社員の多くが、自動車とは全く関係のない事業会社へと移っていった。いつ自分に呼び声がかかるかも分からない。加山は常にアンテナを広げて人事情報の収集を急いでいた。

二人の陰鬱な空気を感じ取ってママはカウンターの奥で存在感を消していたが「これ、サービスね」と二人にボトルを渡した。ちょうどグラスが空いたタイミングを見計らっていたようだ。この街で商売を行うということは、つまりイズミ社員にサービスを提供することを意味する。街は工場稼働日に応じたイズミカレンダーで動く。ママが再び他の客の接待に向かったことを確認すると、加山はそれをグラスに注いだ。

「都落ちの覚悟は俺もしている。どうせ家も借家だし、いつでも府中に戻るつもりだ」

最内の腹は決まっていた。

三年間の期限付出向。

元部署の課長であった萩野に命じられたのは三年という年月だった。それがプロジェクトの後ろ倒しで多少延びただけだ。それ以上イズミに残るつもりはない。またいつか、府中にある寂れたトラック工場で汗を流す日がくる。最内はそう信じて止まなかった。

最内の言葉を聞いて納得した加山は、落ち着いて残りの酒を進めた。米焼酎はクセがあるが、溶けた氷と相まって喉を刺激する。鳥飼と書かれた白いボトルを眺めるとアルコールで徐々に記憶が遠のいていった。

「そういえば、清水が言っていた件が気になるな」

マンネリ化した空気を切り替えるように最内は話題を変えた。最内は加山に水曜日の購担会議の経緯を説明した。

次期型メビウスのエアバッグが芝田電機でなくステアモーターズに変わるらしい。理由はエアバッグを生産している厚木工場の能力不足であるとか。輸入品であれば品質保証の観点から今まで以上に注視する必要がある。面倒な仕事が増えると最内は項垂れた。

「エアバッグか。ステアモーターズは最大手だが、日系メーカーの方が信頼はある。だいいち、これまでイズミは殆どの車種のエアバッグをシバタに依存してきたし、厚木工場設立の理由はイズミとトキオが関東に工場を構えていたからだ。創業は滋賀だが、関東進出を依頼したのは我々イズミだ。それだけにシバタとイズミは切っても切れない関係だ」

「でも今はフラットのご時世だろ。今年はさすがのメビウスもフラットには勝てなかった。先約が売れまくってるお陰で、メビウスまで部品供給が回らないって腹だ」

「それはデブの清水の勝手な見解だろう。本当に生産能力だけの問題かな」

加山は最内の言葉を遮るように言った。

先ほどまで随分呑んでいたはずだが、やはり商事の人間だ。酒が回った状態でも弁が立つ。商社マンといえば飲んでナンボの世界だ。加山自身も高い営業費で随分と飲み歩いたのだろう。この店も外回り時代に見つけた店らしい。雑居ビルの中空にある個人経営のスナックなど、一見で入れる訳がない。

妙に感心した様子の最内とは対照的に、加山の熱弁は続いた。

「俺は以前、調達課に在籍していたことがあるが、サプライヤーの能力不足で部品が止まるなんてことはあってはならないと教えられた。場合によっては生産ラインを止めることになる。製品を生み出さない工場は赤字を生み出す。工場が止まってる間も労務費やメンテナンス代はかかる。経費は莫迦にならない。それにメーカー自身も受注を勝ち取ろうと必死だから、何としてでも部品を納めようとするはずだが」

イズミ自動車の購買は競売形式が基本である。要件定義を満たした開発力、生産力を兼ね備えるメーカーを複数呼んで、最も安い数字を出した会社を採用するという形だ。

「厚木工場は年間六十万台程度の生産能力がある。フラットとメビウスの年間生産台数はそれぞれ二十五万台。さらに海外にもエアバッグ製造工場は存在する。初月は生産が大きく振れるかも知れないが、造り溜めで何とでも対応できるだろう。メビウスに搭載するとなれば、シバタからすれば超がつくほどの大口契約だろ。それを蹴るとは。他に問題があるんじゃないかな」

「他に問題とは―」

加山は半分まで氷が溜まったグラスをテーブルに置いた。

「不具合――とか」

グラスは鈍い音を立てて店中に響き渡った。他の客は一斉に加山の方を向いたが、すぐに何事もなかったように再び飲み直した。

「シバタは優良だぞ。納入遅れもないし、今まで大きな不具合を起こしたこともない。北米の事故は運転者側に問題があったはずだ。その後のシバタの対応は素早かったし、すぐに代替品を用意した。エアバッグの不具合なんて有り得ない。その読みはないと思うがね」

加山の推察を最内は否定した。

「まぁ確かに、俺の発言には何の根拠もございませんがね」

そう言って加山は空になったグラスに自ら手酌した。最内の視点が一点にグラスに向けられる。不具合など有り得ない。そう自分に言い聞かせたかった。

最内の見えない水面下で暗い影が近付いてくるような寒気があった。認めたくない事実が、徐々に現実味を帯びて最内に襲いかかってくる予感がしてならなかった。


   2


最内が清水とともに茎崎に向かった目的は、モデルチェンジの際に導入するテストラインの視察であった。最終テストラインには水密検査、高速走行検査、その他ランプの点灯やクラクション音などの電装検査など、複数の検査項目が存在する。茎崎工場は創設六十年を越えるイズミ自動車として最も古い工場のひとつである。そのため、メビウスのフルモデルチェンジを期に老朽化した設備の入れ替えが計画されていた。テストラインは品証室の管轄工程であり、設備業者の競争入札準備のため購買部の清水とともに視察を行った。

清水は顔の知れた人物である。決して人望が厚いわけではないが、購買畑一筋二十年で、ありとあらゆるメーカーと対峙してきた。部品メーカーしかり、今回のように設備メーカーや船社などと交渉を渡り歩くこともできる。

当然、茎崎工場でも名の知られた存在だ。

「シミちゃん、今度のメビウス、輸入品がまた増えるって言うじゃない」

清水に声をかけたのは工場次長の蛭間康夫だった。

背丈が低く、前歯が煙草のヤニで黄色く変色している。よれよれの作業着は膝元が汚れており、まさに現場のおやじという出で立ちだ。それでも次長まで昇進したというのだから信じられない。

「ヤッさん、久しぶり」

皆からヤッさんの愛称で呼ばれるのも頷けるほど、裏表のないキャラクターである。

「どうしたの、輸入、輸入って」

「勘弁してよ。購買の方で何とかしてよ」

近年、国内工場では安価な輸入部品を多く採用していた。一方で輸入品は在庫管理や品質の観点で国内サプライヤーに比して劣る面が多い。面倒な対応をするのは現場の人間だ。蛭間は日々、納入される輸入品の不具合の多さに頭を悩ませていた。

「在庫管理も大変だし、一度の発注単位もでかい。だいいち不具合があったときの対応はどうするんだい。代替品も、北欧じゃ二ヶ月は入らないんでしょ、それとも空送すんの。現場いじめも大概にしれくれよ」

蛭間はラインサイドにあるダンボールの山を指さした。そこにはステアモーターズの会社ロゴが散見される。ステアモーターズは自動車部品総合メーカーとして、多くの部品を茎崎に納入している。

「最近、品証がやたらにエアバッグの確認にくるけど、どうなっちゃってんのよ。先週も品証の油井って人が来てたよ。シバタの社長さんと。そうだ、たしか緑色の帽子、芝田電機だよね。とにかく、うちはこれ以上輸入品増やすのは反対だからね――」

二人は適当に蛭間をあしらうと、問題のテスト工程へと向かった。

入替予定の設備は最終ラインにあるため、工場の端まで歩かなければならない。その間、コンベアに吊り下げられた数多くの車両が最内の頭の上を流れる。まだエンジンもタイヤも取り付けられていない鉄の塊を眺めると、前方に見慣れない服装の団体を見かけた。

「小学生の見学ですかね」

ラインサイドに黄色い安全帽を被った小学生の見学の列がゾロゾロと流れていた。

組立ラインの横には黄色いテープで施された見学コースが整備され、周辺地域の小学生や外部メーカー、新入社員が安全に作業風景を見て回れるようになっている。和泉市内のみならず全国から見学希望者が殺到するのは、イズミ自動車の推進するカイゼン活動のベンチマーキング目的もある。

最内は微笑ましく横を通り過ぎると、なにやら熱心に作業観察をする子供達の面々に異様な空気を感じた。

そこには子供らしさで溢れた好奇心はなく、皆睨むように作業者の動きに食い入っている。

「丸を描いて立っていなさい」

小学生に放つ注意の言葉としては、少々キツい声が聞こえた。

教師は腕を組んで作業観察を行う子供達を監視している。

妙な緊張感が伝わってくる。

お調子者の小学生が列を崩して説教でも喰らっているのだろうか、と高を括ってみたが、真相は違ったようだ。

観測板とストップウオッチを持って、作業分析を繰り返す様子が見てとれる。

――右手にボルトを二つ持ち、インパクトレンチで締め付ける。青いランプが点灯すれば作業完了の合図。赤ランプの場合、締め付けトルクが不足している証拠。付随作業、部品の入れ替え、レンチのメンテナンス、作業台の交換――。

「ありゃ、小学生の二日間改善だよ」

足を止めて様子を伺っていた最内に清水が声をかけた。

「改善?」

「そう、俺もガキの頃やらされたよ」

清水の指差す先には生徒の列の前に立つ担任らしき女性の姿が見えた。

黒のパンツスーツに作業ブルゾンと安全帽を羽織っている。髪は後にまとめている。化粧っ気もなく、女性らしさを感じさせない。

吊り上がった目は冷たい印象を与える。

「あなた達は税金で勉強させてもらっているんです。イズミ自動車は毎年、莫大な法人税の他に、周辺地域にもお金を落としています。ここで雇用を創出しているのもイズミです。あなた達はイズミ自動車のお陰で勉強できているのです。少しでも貢献できるよう、作業改善を進めてください。原価低減効果が一番大きなグループには賞品があります」

担任の檄が飛ぶと、再び生徒は作業分析を始めた。

歩行数、手の動き、隣工程とのバランス、作業態勢…どこかに無駄はないか。

決められたタクトタイムにはまるのは当たり前。肝心なのは一台あたりの作業時間を削減し、生産効率を向上させることだ。幼い頃から改善の目を養うことは重要。改善はすべての基本である。創業者の和泉壮一郎が放った名言だ。

生徒たちは観測を終えると、すぐに他の工程へと移った。統制のとれた小学生の列はまるで子供離れしている。「右見て、左見て、もう一度右」、指差呼称も完璧だ。

一連の様子を伺った最内の頭には、真っ先に要の顔が浮かんだ。

引越直後に見た学校パンフレットには、たしか職場体験の紹介があったはずだ。

もっと和やかな体験現場をイメージしていたが、実態は違ったようだ。

清水は何事もなかったように足を進め、テストラインへと急いだ。小学生の列が組立ラインの反対側に消えていく。

いったいぜんたい、どうしたものか。

花恵の心配など気にも留めていなかった最内だが、目の前の現実に急に血の気が引いていく感覚がした。


   3


「国交省の方が見えています」

突然の着信音が品証オフィスの混乱を渦巻いた。

「来たか――」

全身の血の気が引いたように青ざめた油井の顔を見て、周囲の社員は只事でないことに気が付いた。

受話器を握ったまま油井は皆に合図を送る。

「みんな、来たぞ!」

残暑厳しい九月を終えて、正式に辞令が展開される十月一日。幸運にも、ここ品証室では今秋の異動者はいなかった。その分、新たな風が流入せず凝り固まった組織が垣間みれるのも気のせいではない。緊張感が失われた品証オフィスを突如襲ったのは恐れていた監査であった。

国交省監査――。

それはリコール窓口を一手に担う品質保証室にとって、最も大きな意味を持つ行事である。

リコールという仕組は道路運送車両法に基づく。部品に不具合が発覚した場合、メーカーは無償で対応を施さなければいけない。もし不具合を隠したり、不具合件数を低く見積もるなどの虚偽の報告をした場合、対象のメーカーは法の下に罰せられる。いや、単に罰せられるだけでは済まない。社会的信用を失った自動車メーカーは消費者から見放され、淘汰され、自ずと市場から追放される。直接、消費者に製品を売る製造業にとって品質不具合は致命傷を意味する。一旦広まった風説を拭うには多くの時間を費やす。製品知識のない消費者の信頼を取り戻すのは、メーカーにとって予想以上に難しい。そういった意味でも、国交省監査に際して虚偽報告を行うなど断じて許されないはずなのだ。

油井の合図で品証オフィスは騒然とした雰囲気に包まれた。

それまで自分の担当業務に集中していた従業員は手を止め、一斉に隠蔽工作に取り掛かる。

なにかと来訪者の多い品証フロアには、受付との直通電話が二つ用意されている。

一つは契約社員の間宮のデスクに置かれている。品証室の窓口業務を担う間宮は部署で一番の人気があり、彼女目当てで業務以外の電話をかける輩も存在するほどだ。そんな従業員に対しても嫌顔ひとつ見せず対応する間宮は品証フロアでマスコット的存在だ。

そして、もう一つの直通電話は油井デスクに設置されていた。

もし国交省の関係者が来訪したら、間宮でなく油井デスクにかけるように受付に伝えてある。

つまり、油井の電話の着信が鳴った時点で、それはまるで警報のように品証フロアに響き渡るのだ。

書類を隠せ、部品を隠せ――。

定番の交響曲を用いた着信音が、不気味にオフィス内に鳴った。

普段から訓練を行っているものの、いざ本番ともなれば緊張の度合いは格段に異なる。

何度経験しても慣れないのは、やはりそこに疚しさが隠れているからに違いない。

「来た!みんな、来たぞ。カルテを隠せ」

オフィスにいた社員は散乱していた部品や書類を慌てて書庫に移した。次いで、見られてはまずいデータを外付けハードディスクに移し、同様に書庫に運ぶ。台車一杯に積まれた大量の資料を、次から次へと書庫へ運ぶ。この際、男性も女性も関係はない。手当たり次第に重たい荷物を運び、身の回りの潔白を敷いた。

国交省監査はおよそ三カ月に一度のペースで行われる。以前であれば監査前に国交省から一報が入ったが、横行した大規模リコール隠しの発覚を教訓に、今では事前連絡なしの抜き打ち監査が行われることも多くなった。立入監査にも備え、イズミ自動車では普段から台帳や報告書を隠す訓練が行われている。統制のとれた品証社員の動きは抜け目がなく、みるみるうちにデスクの上が片付いていくのが見て取れる。

この日、中央研究所を訪れたのは国土交通省交通局リコール課の田宮補佐官を中心とする一派である。

田宮は受付を済ますと、すぐにエントランスホールに駆け下りた油井が用談に招き、秘書にお茶を汲ませた。

「ようこそお出でなさいました。遠方から、お足元の悪いところ」

外を見ると小雨が降っているのが見えた。

雲が低いところにある。典型的な秋雨の景色だ。

「我々には構わずに。それより、事務所を見せて頂けませんか」

紳士風の装いだが中身は役人だ。急ぐ田宮を尻目に、油井はエントランス横の応接に一行を招いた。

ここで時間稼ぎをしておき、その間に九階オフィスにいる品証社員は隠蔽工作を行う。入念に練られた作戦は本番でも功を奏した。

疑わしきは罰する国交省の監査の手を少しでも回避するため、無駄な疑いをかけられあれやこれやと詮索をされては日常業務にも支障を来す。そして何より、製造現場や販売店から送られた機密資料が見つかってはまずい。門外不出の重要品質事項の中には、すぐにでもリコールに繋がるような事案が幾つも眠っている。それを見られてしまっては厄介なことになる。油井は必死な形相で時間を稼ぎ続けた。

「お茶はいいよ。時間があまりないんだ。他にも監査の予定があるからね。品証オフィスはこの上かい」

「―ええ、はい」

予想もしない田宮の言葉にも油井は動じる素振りを見せない。

監査対応にはいくつもの想定が為されている。

突然役人が来訪した場合、油井が不在の場合、他事業所から先に監査が行われた場合…など、あらゆるケースを想定して訓練を行っている。

普段の訓練の成果では、リコール事案の詰まった機密書類である通称“カルテ”を隠すのには五分もかからない。

同時進行でパソコンの中に保管された不具合一覧データの差し替え作業も行い、ハードディスクへの移動を考慮しても僅か十分程度で型がつく。ここで油井に求められた仕事は、如何に田宮の気を引くかであった。

一行をエレベーターに招いた油井は、先に国交省一行を乗せると、自分もその後に続いてゆっくりと乗車した。

油井は品証フロアのある最上階九階のボタンを押す。品証室を最上階に移したのは現常務取締役の塩谷一郎である。塩谷は茎崎工場で品証畑を経験歩んだあと、品質保証室に異動。リコール窓口部署を歴任した。塩谷自身、リコールの恐さを熟知している。会社の最重要情報を人目のつく場所に置くべきでないと、塩谷の説得で品証フロアは現在の位置に移った。

国交省一行を乗せたエレベーターはゆっくりと動き出した。重苦しい空気が油井を包む。狭苦しい箱の中で誰も言葉を発しないまま、エレベーターは二階で停止した。

「すみません、失礼します」

研究所内でスーツ姿は珍しい。一般社員は皆ビジネスカジュアルのため、スーツはすぐに客人と判断できる。

若手社員が申し訳なさそうな面持ちで狭い個室に入った。手には一杯の書類が見える。いかにも重たそうな素振りで、若者は三階のボタンを押した。

「一階登るくらいなら階段を使えよ」

つい本音が出そうになった田宮である。若いのに足腰が弱い、しかし田宮がそう思った矢先であった。エレベーターは更に四階で止まり、今度は女性社員が同様に重たい書類の束を持って入室し、その後五階で降りていった。

田宮は苛立ちを隠せないでいた。しきりに腕時計を確認する。一分、また一分。九階に上るまでに何分かかるんだ。

しかし田宮の思いとは裏腹に、さらに六階、七階、八階と、結局全ての階でエレベーターは停止して人の出入りがあった。

さすがは日本を代表する大企業だ。従業員数も日本一である。ここ中央研究所だけでも一万人以上の社員が勤務していると聞く。朝の忙しい時間帯に、エレベーターが何度も停止するのは無理もない――。もちろん、エレベーターを止めたのはすべて品証関係者であったのだが。

「そろそろ役人が来る頃合だ。和泉市内の機関工場にも連絡しろ」

全拠点の不具合情報を統括する中央研究所であるが、その他の製造工場にも監査の手が及ぶ可能性は十分にある。現に不具合が製造に依るものと分かった場合、要因追及のため工程監査が行われるケースもある。その際、品証室と現場での情報に隔たりがあると疑いの目を持たれる懸念がある。監査時には工場のプロダクションレターも整合性をとるために偽装工作が行われる。同様の連絡は販売店にも送られる。

「失礼ですが、空いている会議室はないでしょうか。幾つか書類を確認したい」

漸く九階に到着した田宮はまずフロア内をぐるりと見渡すと、社員に不審な素振りがないか確認した。

田宮はリコール課に十年以上も在籍するベテラン補佐官である。これまでに四十回以上の監査を行った経験を持つ。ここイズミに足を運んだのも数えれば両手を越える。田宮にとって不正を暴くのは難しいことではない。何かを隠そうとする仕草は長年の勘から判断できる。

「大会議室が空いております。こちらへどうぞ」

不穏な空気の中、油井は田宮を会議室へと招いた。

田宮を含む四人の監査員は手馴れた手付きでノートパソコンを鞄から出した。

ついに監査が始まる。油井の薄い額には脂汗が光った。

「では、監査を行います」

一同起立した状態で、法文を呼び上げるように田宮が口火を切った。

「―国交省監査につきましては、事実をありのままに話し、こちらが求める書類に関しては恐縮ながらすぐにご用意頂きたい。また念のため、検査を拒んだり妨げる行為には、法に基づく罰則があることを承知の上、監査に臨んで頂きたい」

最後は語気を上げた田宮である。

油井ら品証社員は言われるがままに、サービスレターとテクニカルレターの台帳を会議室に運んだ。

「これで全てかな」

会議室には十冊の分厚いファイルが持ち込まれた。そこには最近十年分の品質事項すべてが記されている。いわばイズミ自動車の負の部分が濃縮されたファイルといえよう。無論、リコールに繋がる致命的な不具合はきれいに抜き取られている。

油井が「ええ、それで全てです」と頷くと、「そうですか。では、調査が終了するまで会議室から退室頂けますか」と田宮。油井は会議室を後にすると、ぐっと握り拳を上げてフロアへ戻った。

油井の戻りを最初に迎えたのは時田の姿であった。

「どうだった」

油井は興奮で息が上がりそうになりながらも、気持ちを落ち着けて時田に状況を伝達した。

「問題ありません。カルテは全て隠しました」

「よし、よくやった」

会議室の中の様子は確認できない。しかし、田宮らに渡した書類にはすべての重要不具合が消されている。詮索しようにも、こちらから明け渡した情報に疑わしきものは何もない。


喧騒の中で、会議室内は異様な静けさを保っていた。

「さて、始めるか」

一斉にファイルを捲り始める監査員。

室内には紙をペラペラと捲る無機質な音だけが響き渡る。

小休止を挟みながら、まるで銀行の紙幣計数機のように動く田宮の指先。一枚、また一枚と機械的に資料を開き、ついにすべての台帳を確認し終えた。

「ないな」

田宮は溜息混じりに背筋を仰け反った。

ない――。

疑わしきデータがひとつもない。

確かに品証室の提示した台帳の中には少なからず製造不具合が記録されていたが、どれも一万台に一件程度発生する僅かな製造不具合ばかりであった。さらに全ての不具合事項には綺麗に対策処置が施されている。市場に不具合品が流出した気配もない。イズミ自動車のリコール隠しをすっぱ抜いてやろうと意気軒昂に乗り込んだのはいいが、そこに待っていたのは完膚なきまでに徹底されたイズミの品質管理の実態であった。

田宮は他の監査官に目で合図を送ると、一行は席をたち油井らのいる品証フロアへと戻った。

監査は夕方まで丸一日かかった。長いときは日を跨いで二日、三日と連続して行われることもある。しかし今回は重要不具合を掲載しなかったせいか、田宮の反応は肩透かしを思わせる薄さだった。

「監査は終わりました。いくつか質問がございますが、よろしいですか」

ええ、と得意げに返事をした油井は無造作に台帳が広げられた会議室へと入った。

「こちらにあるテクニカルレターですが、これで全てで間違いございませんね」

執拗に念押しする田宮。やはり疑り深い。仕事柄、他人の言葉は信じない主義なのだろうか。監査は性悪説に基づいて行われる。

「ええ、間違いありません」

油井は胸を張って応えた。

「そうですか。念のためすべての資料を調べさせて頂きましたが、御社の不具合記録にリコールに関する指摘事項はございませんでした」

油井、時田の両者は田宮に深々と頭を下げた。これですべて終わった。安堵感から二人の表情も幾分和らいて見えた。

田宮一行は来たときと同じようにエレベーター乗り、そのまままっすぐにエントランスを後にする。見送りのため一階まで同行した油井は最後まで田宮に寄り添った。

ガラス張りの自動扉が開くと、既に雨は止んでいた。監査の終わりを無事に告げる幸運の晴れ間が油井を照らす。

安心しきってそのまま田宮らを送り出そうとする油井の足を、意外な言葉が止めた。

「そうだ、油井課長殿。先程拝見させて頂いたプロダクションレターとは別に、茎崎工場の検品表を見せて頂きたいのですが、どちらにございますか」

「茎崎、ですか」

茎崎工場は和泉市南部にある車両組立工場である。和泉市の中でも豊里工場に次いで二番目に大きく、メビウスなどの量産車を製造している

工場の不具合台帳も中央研究所で統括して管理しているが、さすがに部品個々の検品表までは存在していない。納入から検品処理、及びそれらの履歴管理は生産工場に一任しているため、提示するとなれば時間がかかる。油井は急な要求に焦りを見せた。

「できればすぐに頂きたいのですが。来週にでも用意できますが」

「来週、ですか。―ええ、問題ございません。週明け、月曜にお持ち致します」

「良かった。では、私共はこれで。本日はお忙しい中、ありがとうございました」

そう言うと田宮は颯爽とその場を去った。

運転手らしき部下が運転するのはシルバーのグランX。現行モデルだ。

油井は監査官が乗った車が見えなくなるのを確認すると、不可思議な様子でフロアへと戻った。


   4


「乾杯!」

監査後の祝杯は別格だ。リコール窓口である品証として最大の関門を突破したあとの放恣な雰囲気。三十名ほどいる従業員は皆、馴染みの居酒屋に集結して杯を掲げた。

前回の監査は五月中旬の出来事であった。あれから四ヶ月、茹だるような暑さのなかで国交省監査が行われることを思い返すとどっしりと気が重くなる。それでも今は一時の気の緩みを享受したい一心だ。

「間宮ちゃんが注いでくれるのかい、こりゃあバチが当たるね」

愛人と呼ばれる品証のマスコットが社内営業を続けていた。

鼻の下を伸ばしているのは油井だ。その様子に普段職場で見せるような厳格さはない。場末のスナックのような酔っ払い風貌を見せる。

職場のマドンナが上司と現を抜かす一方で、奥で荒々しく罵声を上げる声が聞こえた。

「田宮の野郎、蟷螂みたいな面しやがって、今度来たら叩きのめしてやる」

アルコールで調子を荒らげていたのは鏑木だ。エンジン部品を担当しており、最近はメビウス立上で心労が溜まっている。さらなる高燃費を目指すメビウスはパワートレインの刷新を繰り返しており、エンジン担当の鏑木は猫の手も借りたいほど多忙な日々を過ごしていた。そんな中で行われた急な立入監査とあり、業務の邪魔をされた挙句、横柄な態度を見せる田宮らに苛立ちを隠せないでいた。

「よせ、役人様に楯突くと我が身が危ない」

同じくエン担の水梨が宥めると、鏑木は遠慮する気配もなく手元のグラスを一気に空けた。

「このクソ忙しいときに何が監査だ」

「斯く言うお前も例のバルブスプリングも不具合が見つからずにホッとしてるのが本音じゃないのか」

水梨の指摘に鏑木はギクリと肩を震わせた。「それは言わない約束だろう」堪らず鏑木は返した。

監査中に隠したカルテには多くのパワートレイン部品が含まれている。車の中で最も複雑な機構といえば、エンジンを含むパワートレインだ。ちょっとした不具合でも重大な問題に繋がりやすく、神経を磨り減らしながら監査の行く末を見守っていた。

バルブスプリングは製造元の帝国製鉄の溶炉内に不純物が混入された疑いがあり、最悪の場合エンジン停止に繋がる不懸がある。これが届出前に発覚した日には大目玉だ。

鏑木はビールから冷酒に変えて顔を朱に塗ると、さらに毒舌に拍車をかけた。

「しかし、内装品は気楽でいいよな。新車準備というのに仕事がなくて羨ましいよ」

次期型メビウスでは新エンジンの搭載が決まっているほか、デザインも今より若者向けのスポーティタイプに変えられる。それに伴い、エンジン、パワートレイン、電装品、そしてエクステリアといった各担当は忙しなく新車準備に取り組んでいた。一方でインテリアには現行に対して変化は少ない。そのため、慌ただしい周囲の様子を横目に最内は手持ち無沙汰の状態が続いていた。

「俺もあんな楽な担当を持ちたいよ」

鏑木は自分の仕事が佳境に入ろうとすることを棚に上げ、暗に最内を揶揄する発言を続けた。

肩身の狭い思いをしながら隅で粛々とグラスを進める最内。このような雰囲気ならば参加しない方がマシだった。酔えない酒を胃に流しながら最内は耳を塞ぎたい気分でいた。

「課長、お触りはいけませんよ」

油井が愛人の腰に手を回そうとすると、さすがの間宮もパシンと油井の手を叩いた。「いいじゃない、ちょっとくらい」と猫撫で声を上げる油井だが、満更でもなさそうだ。

ふと、油井は奥に座っている最内を見つけると、思い出したかのように大きな声で呼んだ。

「そうだ、最内。悪いが明日、茎崎に検収表を取りに行ってくれないか」

「明日ですか」

華金に行なわれた慰労会。当然、翌日の土曜は休日である。突然の油井の命令に、最内は表情を歪ませた。

「監査官の命令なんだ。至急、月曜に提出する必要がある。お前、今暇なんだろう、別で代休をとってくれよ」

アルコールで嗄れた声を最内に浴びせると、油井は目を座らせた。

「週末は子供の進学説明会があるのですが」

最内は花恵の言葉を思い返した。明日は来年中学に上がる要の進学説明がある。大変重要な会合で必ず出席するようにと釘を刺されていた。

「なに甘えたこと抜かしてるんだ。仕事を優先しろ」

呆れ返った油井は右手で額を抑えた。まったく使えない奴だ、そんな言葉が仕草だけで伝わってくる。

周囲から冷めた視線が最内に突き刺さる。出向者がごちゃごちゃと口答えするなとでも言いたげな面々だ。

強力な組合組織を持つイズミ自動車は労働貴族とも揶揄されている。残業の規定は勿論、休日出勤も原則禁止されている。そんな中、府中トラックに籍のある最内と契約社員の間宮だけが、組合の正会員でない。もちろん愛人が工場に出向くはずもなく、消去法で最内が行くべきという結論にまとまった。

「工場長には休出の話をつけとくから、な、頼んだぞ」

突然決まった最内の休日出張をよそに、宴は明け方まで続いた。


   5


「休日出勤許可はとっていますか」

一台のグランXが颯爽と中央研究所の駐車場へと現れた。グランXはイズミ自動車が誇る高級車のひとつだ。平均車両価格は約六百万円と、少々手の届きにくい価格帯となっている。イズミ社員でも部長級以上の管理職か、一部の車好きでないと乗ることはできないモデルだ。

「ええ、とっています。実験部の宝田です」

宝田はドアウィンドウを開けると、色眼鏡を外して顔を出した。

「実験棟のロックを解除して頂けますか」

イズミ自動車のすべての事業所では、従業員カードを翳すと自動的に解除する電子ロックシステムが採用されている。

しかし休日出勤や秘匿エリアである実験棟の出入りは、事前に入門許可を取得していないと開かない。無理に開こうとするとブザーが鳴って警備員が駆け付け、あえなく御用となる。その辺の事前手続きを外すほど宝田は詰めが甘くない。

「ご苦労様です」

宝田はエントランスで受付を済ますと、敬礼する警備員を横目にそのまま実験棟へと向かった。

土曜日の従業員駐車場には車はほとんど停車していない。平日の朝八時ともなれば周辺道路で渋滞が発生するほど多くの従業員を抱える中央研究所であるが、休日となれば普段の混沌が嘘のように静まり返っている。

強力な労働組合を持つイズミでは休日出勤に面倒な手続きを要するが、管理職の宝田は例外的に簡単な許可で済む。

宝田は熟れた手つきでグランXを自分の駐車場に止めると、軽快に車を降りて実験棟内にある書庫に真っ直ぐと向かった。

新車の生産準備や海外出張前など、仕事の負荷がかかる時期は休日であっても従業員の姿が散見されるが、今はそういう時期ではない。ほかに休出している管理職の姿も少ない。また研究所では生産工場と違って設備業者がメンテナンス業務を行う機会も少なく、宝田の姿は少々不可解に映った。

この日、宝田がわざわざ土曜日を選んで出勤したのには理由がある。

宝田の狡賢い先読み技術である。長く組織に属する者にしか成し得ない策略があった。

裏口から奥のエレベーターへと進み、そのまま九階へと上がる。そして実験棟と本館を結ぶ空中廊下を辿り品証フロアへと足を運んだ。当然、フロアには従業員の姿はなく、誰かに見られる心配はない。

宝田はポケットから鍵を取り出すと、そのまま書庫に入った。

二十畳程度の歪なスペースにはひっきりなしに書類が並ぶ。そこには数年分のテクニカルレター、サービスレターが眠っている。中には二十年以上前の日付もあり、日焼けして黄色く変色した資料もあった。昔は手書きの書類も多く、丁寧に課長印が押されている。今や役員となった管理職の貴重な押印もある。イズミの歴史の一部がこんなところにも燻っていた。

宝田は書庫内をぐるりと見渡すと、三年前に行われた事故車の検証データを探した。

品証と合同で行った実験書類は、実験部ではなく品証室が保管する決まりになっていた。

「二○○八年…、二○○九年…」

年度別に置かれたファイルを隈無く目をつけていく。

会社の規則で検証データは履歴としてすべて保管されているが、何年も前の書類をいちいち読み返す機会などない。あるとすれば年末の大掃除くらいであろうか。それでもファイルの上に溜まった埃を払うくらいで、内容までは目を通さないのが普通だ。

宝田は休日で浮ついた集中力をフルに回転させて目的の書類を探した。それは途方もなく実りのない時間のように思えた。なぜこのような下らないことに時間を割かなければならないのか。その答えは詰まるところ、保身にあった。

「―あった」

漸く目的の品を探し当てた宝田。手にとったファイルの日付は二○一○年四月とある。さらにそのファイルのページをめくると、ある部分で宝田の手が止まった。

「四九八番。これだ。間違いない」

A四サイズの用紙は埃臭く、ザラりとした古い紙の感触がした。

報告には二十代の男性が運転するメビウスが引き起こした単独事故の検証結果が記されている。報告者欄には山岡。そしてそこには当時まだ課長職だった実験部宝田の課長印と品証油井の押印があった。事故車両に安全上の不具合はなく、事故原因は完全な運転者の過失であったと結論づけられている。

宝田はファイルの中の検証報告書を抜き取ると、それを丁寧にクリアファイルに入れた。

ついでに管理一覧表を抜き取ると、変わりに別の一覧表をファイルに入れた。敢えて汚れた紙で印刷し、あとで差し替えたことがバレない方策をとったのは宝田の用意周到な性格からだ。

用を成した宝田は書庫を出ると、ゆっくりと鍵を閉めて胸を撫で下ろした。

急に足取りが軽くなり、駆け足で品証オフィスを横切る。

目的を達成し車に戻ろうとすると、急に心拍数が上がって古い記憶が胸を苦しめる。

――本当にいい車を造りたいなら、今すぐイズミを辞めなさい。

入社してすぐの頃であったか。かつての上司に言われた言葉だ。

宝田の運転するグランXは経済成長期真っ只中の一九五五年に初号を生んだイズミ自動車、いや日本の自動車業界を象徴する高級車である。

「いつかはグランX」

コマーシャルのキャッチコピーは多くの顧客を魅了した。今もその魅力は色褪せず、多くの自動車ファンにとって羨望の的となっている。

宝田のグランXは二十代目。かつて憧れた車が、部長という役職で漸く手に入った。

宝田自身、この会社に入った動機もまさにこのグランXであった。

宝田はイズミ自動車の大穂工場でパワートレイン生産技術課に在籍していた親のもとに生まれた。宝田の父は技術屋で口煩い性格だった。子供の学業には過干渉で、少しでも順位を落とすものなら夜遅くまで自習を強いた。正直、厳し過ぎる父は好きではなかった。

「俺は研究職を希望したが、肌に合わず現場への道を選んだ。選択を後悔したこともあったが、家族のために仕事に手を抜いたことはない」

大穂工場周辺はお世辞でも都会的とは言えない。寧ろ田園風景が広がり、茨城の片田舎といった雰囲気だ。進学校を希望する生徒も少なく、文科系の宝田は友達が少なかった。幼い頃から勉強しかしてこなかった記憶がある。

そんな中、幼少期の宝田を魅了して止まなかったのは自動車の存在だった。

特に地元イズミ製のグランXには目がなく、ミニカーや模型を収集して部屋に飾るのが趣味だった。

「グランXに搭載されている三・五リッターのターボエンジンはお父さんが勤めている大穂工場で製造している。ひとつひとつ手作りで製造され、エンジンには製造者の名前が刻印されている。エンジンライン立上げには今のイズミ自動車の社長も参画していた。技術屋が社長になるのはイズミの誇りだ」

厳格な父のもとで育った宝田は無難に都内の国立大学工学部に合格、大学では内燃機関を専攻した。ここでも自動車への野心は消えず、学生の少ないアルバイト料で部品を買い漁っては、五十万円で購入した中古のイズミ車を乗り回した。

宝田は大学卒業後、長年の憧れから自動車最大手のイズミ自動車への入社を希望する。

工学部の就職先といえば製造業、とくに自動車会社の開発部門といえば花形だった。学内推薦でも好成績を収めていなければ枠に入ることは出来ない。イズミの推薦枠には就職を志望する多くの学生が殺到し、小さなパイを目掛けて凌ぎを削った。

「将来はグランXのような高馬力の力強いパワートレインを搭載した車を開発したい。走る楽しさをより多くの自動車ファンに知ってもらい、イズミ自動車の技術発展に貢献したい」

入社後の宝田の配属はブレーキ開発本部とあった。晴れて中央研究所の勤務となる。イズミ自動車の開発部門は部品毎に担当が分かれていて、内燃機関や一部の独自技術を除いては、部品メーカーと共同開発を行っている。花形はエンジン開発であるが、入社間もない若手がエンジンを担当することはない。まずは小さなコモディティから始まり、徐々に重要な仕事を受け持つ。宝田もいつかはグランXに搭載されるような高出力エンジンを担当することを夢見て日々仕事に邁進した。

ブレーキ部品を製造する国内メーカーは一通り知っていた。実際に走り屋をやっていた経験があれば、ブレーキパッドの摩耗やメンテナンスは気になるところだ。宝田は学生時代から友人らとともにガレージに篭もり自らの手で部品交換を行っていた。手先を真っ黒にして部品をいじるのが好きだった。

夢にまで見た開発現場。長い新入社員研修を経て、漸くブレーキ開発部のオフィスに就いた宝田を待っていたのは、思いも寄らない上司の言葉であった。

「自動車会社の開発本部と聞いて、君達どういうイメージを持っている」

大手企業だけあって開発部門には同期入社が五十人以上もいた。その中で足回り関係に配属となったのは三人。その三人に向けて、当時ブレーキ開発本部長だった和泉章雄はこう言い放った。

「イズミとて、一上場企業に変わりはない。会社という組織には調整や根回しといった泥臭い仕事も含まれる。実際に君達が車を見るのは、全体の一割にも満たないだろう。その他、ほとんどの業務は生産性が全くない無意味なものだ。サラリーマンの仕事は上意下達。仕事の九割が報告業務や会議調整など、車とは到底関係のないものばかりである。本当に車が好きなら今すぐにこの会社を辞めなさい。銀行や商社といった給与の良い会社に移って、高級車を買った方がよほど車に親しい生活が送れるだろう」

和泉章雄は現実的な男だった。

悪く言えば、革新的なアイデアを否定するつまらない人間だ。

同族社長がイズミに就任したというニュースが世間を賑わせた。眼鏡の奥に映る地味な様相は、組織の中にびっちりと染まったサラリーマンたる風貌だった。イズミという大きな組織にとって、斬新なアイデアを発信する若手社長は悪だ。巨大過ぎる組織の舵取り役には、調整を重んじる日本人的経営者が似合う。出る釘は徹底的に打つ。組織にとって個性は必要ない。個を重んじる者は、他社へ移ればいい。若き日の和泉章雄が放った一言は、これから始まろうとしている長い会社員人生の前で、宝田の淡い希望を一瞬にして葬った。

あれから早三十年―。

その後、宝田は実験部に移ったが、世間からすれば日本を代表する巨大企業の部長職であることに変わりはない。

やたら世間体だけは良いが、果たしてその実態はどうか。

「俺は一体、何をやっているんだ」

責任を逃れるための隠蔽工作、わざわざ土曜日の家族団欒の時間を犠牲にしてまですることか。愛する妻や子供がこのような薄汚い父親の姿を見て何を思うか。組織に翻弄される自分に、本当の意味でグランXは相応しいのだろうか。

それでもここに来てしまったのは一種の脅迫観念に違いない。

出世、保身、調整、根回し、隠蔽、偽装。

今の宝田を取り巻く柵はイズミ自動車が長年かけて形成した深い闇だった。

宝田は手元に見える検証報告書を握り締めた。

ひとりの男性の命を奪い、未だに遺族は悲しみの霧から逸しきれずにいる。

しかしそういった感情は組織に毒された宝田の胸には響かない。

宝田はグランXに乗り込むと、フルスロットルでエンジンを蒸しその場を去った。


   6


「ではテストを返却します。呼ばれた者は大きな声で返事をして教壇まで取りに来てください」

ここのところやたらと進級の話ばかりだと、要は憂鬱な気分に浸っていた。

学期に二度の定期考査に加え、受験学年になると大手進学塾が主催する全国模試を毎月のように行われる。

お陰で土日も学校に駆り出され、一日中試験ときた。外に遊びにいく暇などない。

頭では理解しているつもりだが、周囲のスピードに付いて行くことができない。

こちらに転入した時点で圧倒的なアドバンテージをつけられていた。このまま行けば、本当に梅園中学には進学できなくなってしまう。十代前半から植え付けられた競争の精神。そして集団から置いてけ掘になり、この年で卑屈な人格が形成されてしまう。

―僕は無能な人間だ。

余計な希望を抱かせず、現実的な思考で社会の歯車と化せるというのも、和泉市の教育の狙いなのかも知れない。優秀な人間の下には多くの無能な人間がいる。社会はこうして作られていく。残酷だが、いつかは知らなければならない事実だ。

「数学が弱いわね。もっと頑張ってね」

榎田はひとりひとり名前を呼び、弱点をフィードバックしていく。

その間、後の席では「誰が何の科目で百点を取った」だとか、「誰が五科目で一位だ」とか、様々な推測が行われていた。このときから、「誰が出世頭だ」や「誰々は頭はいいかも知れないが、人格が優れてないので…云々」と、大人になったときに出世争いを示唆する礎が形成されるのである。

「成績上位者は松園中学へ、次いで竹園、梅園と続く。成績下位の者は、中心部から離れた中学へ進学する。それが和泉市の教育の掟です」

小学校高学年の時期から格差意識が深く根付いている。こんな義務教育も珍しい。

「いいですか、勉強して良い成績を収め、良い学校に行き、大企業に就職する。それが社会の競争原理です。途中で諦めた者はロクな職種につけないでしょう。ひたすら人からもらった単純な下請仕事を続けるばかりで、創造的な仕事は一生できません。あなた達のお父さんを見てみなさい。ここにいるほとんどの親御さん達はイズミ自動車本社組織で働いています。中には研究所勤務や、和泉商事のようなグローバル企業で世界を股にかけて働いていらっしゃる方もいるでしょう。いずれにしても自動車業界の頂点にいて、大きな仕事を動かしている。そしてあなた方もそのイズミの中心部にいる。生まれながらにして恵まれた環境に身を置いていることに感謝しなければ駄目なのです」

榎田節には力が入った。

生徒の成績は担任の成果になる。

多少締め付けてでも生徒に危機感を持たせ、机に向かわせるのが榎田の仕事である。教師の出世争いも他県に比して相当に厳しい。担任、主任、教頭、校長と、教育現場を上がっていくか、もしくは教育庁や教育委員会といった管理部門に移るのも出世のひとつだ。教師の世界にも成果給の精神が根付いている。ボーナスは年功序列でなく役職で決まっており、管理職となれば大手企業以上の報酬を手にすることもできる。

最近は若い教師ほど出世欲が強く、教え子を踏み台にして上昇する傾向が強い。

近年の公務員志向と重なって、優秀な学生が和泉市の教員採用試験を挙って受け始めたのだ。

「――最内君」

ザワついていた教室が一瞬の静寂に包まれた。生徒達の視線は最内と担任の榎田に向けられている。生徒は皆、二人のやり取りを固唾を飲んで見守った。中には今にも噴出しそうに手を口に当て、それを面白がって見る者もいる。

理由は明快だ。要の成績は周知であり、教室内でも嘲笑の的となっている。

あいつはどうしようもない。

毎回の定期考査は学年で最下位。親は聞かず知らずのトラック会社に勤務していて、しかも工場あがりときた。社会を知らない小学生にとって、製造現場とは煤けた汚い場所でしかない。そんな場所で働いている労働者の子供ときたら、きっと生活水準も低く、まともな教育を受けているわけがない。

子供が莫迦なのは、親の遺伝子が悪いからだ。彼は救いようがない。

競争と格差に苛まれた子供たちは、異様なほど偏った思考を抱いているのである。

「最内君の成績じゃ、梅園への進学は無理そうね」

教室にはヒソヒソと要を嘲笑する声が漏れた。

予想通りだ。やはり出向者の息子は馬鹿だ、そんな声が聞こえてきそうだ。

「基本的な問題も出来ていないし、解こうとする粘りも見られない。授業中はやる気が見られないし、分からない所を自ら聞きにこようともしない。受身な態度じゃ勉強はできないんです。それは社会に出ても同じことが言えます」

要と同じクラスには研究職、開発、経営統括室、和泉商事社員などの精鋭社員を親に持つ子供の割合が多い。ここは城下町の中でも最も城に近い場所にある学校なのである。

榎田の憎々しい視線が要に下ろされた。

「クソ餓鬼」

心の声が目の力だけで伝わりそうだ。生徒の進学実績は担任の出世に影響する。ここでも管理職としての責務は変わらない。教師は生徒を管理する役目があり、生徒の成績が悪ければ教師の責任となる。

「あなたのような生徒を受け持って先生は非常に残念です。最近は体罰が厳しいけど、昔だったらあなたのような生徒は張り倒していたはずです。生徒が馬鹿なのに殴ったら教師が非難されるなんて世の中間違っているわよね」

地面を見下ろしたまま顔を上げることができない。

見上げればそこにあるのは榎田の冷たい瞳だけだ。

後を振り向こうものならば、自分より優秀な同級生がゾロゾロといる。そして彼らは自分を哀れむ目で見つめる。「残念だけど生きている世界が違う。同じ中学には進学できない」と目で語りかけるのだ。

「学区制が悪いわよね。なんで出向者住宅が梅園にあるのかしら」

要の心を見透かすように榎田は愚痴を零した。

「親御さんの出向期限が切れて学期末までに転校してくれたらそれ以上の幸福はないわ。こうやって言うとあなたの口うるさい母親が学校に乗り込んで来るんでしょ。モンスターペアレンツって面倒よね。出向者の妻の癖に自己主張だけ強くて」

教師は生徒が嫌いだから叱ってるのではない。しかし、榎田の場合は違う。本当に心の奥底から要を嫌って止まない。査定に響くから、全体の平均を下げる生徒はいなくなってほしい。頼むから目の前から消えてくれ。魂の叫びだ。

「補講には出てくれるの?それとも転校してくれる?今は不登校児を受け入れる専門の施設もあるみたいだから、興味があるなら紹介するわ」

榎田は放り投げるように試験結果を渡した。

紙面には罰が並ぶ。

『もう少し頑張りましょう』

榎田の冷たいコメントは、できる限り優しい言葉を選んだ結果だ。

「せめてスポーツでも出来れば救いはあるんだけど、あなたには運動神経も芸術の資質もないわよね」

溜息をつくと榎田は右手で顔を覆った。

要の精神は限界だった。

恥をかきたくない。そして親に恥をかかせたくない。

不出来な息子で申し訳ない。

要はそのまま後を振り返ると、机に突っ伏して目頭を腫らせた。


   7


「しかし、前回に続いてまたも抜き打ちとはな」

前週は国交省監査を終えた足で、そのまま天久保へと移動した品証室だ。翌月曜、台風一過の品証フロアは監査が行われたときから手付かずの状態で、朝から片付け作業で従業員全員が出払っていた。

「前回も事前連絡がなかったんじゃないか。まったく冷や汗もんだ。心臓に毛が生えていない限りこの仕事はやっていられないな」

時田は油井の薄くなった髪を見て口を紡いだ。油井は元来図太い男である。髪は薄いが、心臓にびっちりと生えた毛の多さには称揚している。

社員たちは元あったようにカルテやハードディスクを自デスクに移している。二度連続の抜き打ち検査。今回もうまく重大な不具合案件は隠し通せたが、一方で何か裏で起きているのではないかと時田は密かに勘ぐっていた。

「ひょっとして、重保関連で何か問題があったんじゃないか」

最も経験の長い時田ならではの洞察である。

通常、監査は三ヶ月に一度のペースで行われが、それとは別にリコール調査の目的で抜き打ち監査を行うケースもある。五年前にイズミ自動車が起こした大規模リコールの際も、連日のように監査員が品証室に常駐していた。二度も続けて抜き打ち監査を行うなど、これまでの経験からしても例がない。時田は不穏な空気を感じ取っていた。

「これは、何か裏で問題が起きているに違いない」

時田の疑念は確信へと変わっていく。

思い付く限りの事案を頭の中で巡らせた。

「たとえば、他メーカーと共有している部品で問題が見つかったとか――」

自動車部品メーカーは複数の完成車メーカーに同じ仕様の部品を供給していることがある。特に近年は価格競争に拍車がかかり、プラットフォームの共用化が進んだことで、それに伴う部品の共用も増えた。つまりひとつの部品が不具合を起こすと、複数の自動車メーカーが同時にリコールの対象となるのだ。プラットフォームの共用化と生産拠点のグローバル化はコストパフォーマンスを格段に押し上げたが、一方で大規模リコールのリスクも同様に高まった。

心配する時田を他所に楽観主義の油井は出っ張った腹を撫でながら問うた。

「とはいっても、思い当たる節とすれば例のバルブスプリングでしょうか。このところ設計段階での不具合件数は下降傾向ですし、他には思いつきません」

油井は最近社内で発覚したバルブスプリングに関する品質不具合の漏洩を懸念していた。

バルブスプリングは内燃機関への吸気を助ける部品である。全長三センチから五センチ程度、重さも数十グラムという小さなパーツであるが、エンジンという自動車会社が最も神経を使う部品だけに、リコールには慎重を期していた。

「不具合の原因はスプリングの素材である鉄鋼に不純物が混じっていたこと。部品製造元の日本スプリングでなく、孫請けの帝国製鉄の製造工程に問題があった。炉の中に何らかの原因でゴミが入ったらしい。帝国製鉄は鉄鋼業界としては最大手だ。大企業ゆえ、情報がどこからリークするか分からない。巡り巡って国交省の耳に届いた可能性もある」

イズミ自動車が未だ国交省に届出していない。いや、正確に言えば届出を渋っている不具合案件としては最大規模になる。予測されるリコール対象台数は多く見積もって二十万台。しかし実際に回収するとなると、エンジンを分解して中身を取り除く面倒な修理となる。バルブを開放して代替対応するとなると、台当たりの改修費用は十万円を下らない。台数を誤魔化して引当の範囲を少しばかり狭められないか、役員を含め上位者と協議中のデリケートな問題となっていた。

時田は眉間に指を当てたままフロアの端を睨みつけた。

「会議室は台帳が残ったままか」

「台帳――、ですか」

油井は最初、時田の言う意味が分からないでいた。

「先週、国交省が重点的に調べた箇所を見れば、連中が何を探しているか検討がつく。もしかしたら台帳にメモや付箋が残っているかも知れない。片付けられる前に会議室に急ごう」

言われるがままに時田に従うと、会議室のテーブルには週末監査が行われたときと変わらず、十冊のファイルが残されていた。そのうちの幾つかはページが開かれたままで監査の痕跡があり、その他はテーブルの端へ追いやられていた。

「片っ端から調べようか。どうせ二重帳簿だからな」

時田と油井は荒々しい手付きでページを捲っていく。時田の予想通り、ファイルの一部にはご丁寧に折り目や印が為されていた。監査人に渡したファイルは言わば監査のためだけに用意したダミーであるため、古い履歴も新品の紙で印刷されている。折り目や汚れは目立つ。

「重点的に見ている箇所は手汗や汚れで分かるだろう」

時田と油井は疑わしい箇所に付箋を貼った。これでどの部分のパーツを重点的に見ていたかが分かる。数分の作業の後、結果はすぐに分かった。

「はっきりした点はひとつ。連中が探していたのは例のバルブスプリングではなさそうだな」

大方の予想に反して、エンジンや足回りといった最重要視されるべき装置はほとんど手付かずであった。

しかも開発部門が発行するテクニカルレターに関しても、調査した痕跡がない。彼らが重点的に見ていたのはエンジンでなく車両組立工場、しかもイズミ自動車が設計に携わっていない購入部品についてだ。

「ますます分からなくなってきた」

プロダクションレターには生産で生じたヒューマンエラーによる不具合、設備不良、そして納入品の不良が割合で記されている。ドカ停が起こらない限り不具合確率は一万から十万分の一という極小さな数字であるのだが、田宮らはそんな僅かな取るに足らない数字を重点的に調べていたのか。

とは言っても組立工場に納入される部品点数は一モデル当たり一千五百を越える。その中から一点の不具合を探すのは砂浜から針を探すより難しい。巨大な鉄の塊を構成する部品はとてつもなく種類が多いのである。

「そう言えば、監査人が妙な要求を帰り際にしていきました」

油井は薄れた記憶を辿った。たしか、金曜の監査のあと田宮が帰り際に検品表を寄越せと。それも茎崎工場と指名付きだ。茎崎はメビウスをはじめとしたイズミ自動車の誇る量産車工場である。アルコールで記憶がたどたどしいが、たしか、最内に休日出勤を指示して検品表を取りに向かわせたはずだ。

「検品状況なんか調査してどうするつもりなんだ」

「納入品の検品状況を知るためでしょう。ということは、やはり狙いは外製品でしょうか」

ここまでの経緯から監査人の狙いを勘繰ると、どこかのサプライヤーに品質不具合が見つかって、それを調べに来たということは分かった。そしてそれがパワートレインでなく、車両部品であるということも。

現行の法律では国交省が部品メーカーに直接立入監査を行うことはできない。そのため、完成車メーカーに監査に伺うというケースは往々にして有り得る。

「他の完成車も当たってくれないか。あと組立ラインの購入部品も。こういうものは早いうちに察知しておかないと。ひょっとするとうちで見逃してしまっている不具合があるかも知れない。そうなれば我々の管理能力が問われ兼ねない」

不穏な雰囲気が漂う。それにしても一体連中は何を探しているのか。頭の中で入念に探すが見つからない。時田は古い記憶を巡らせた。

「エアバッグはどうですか」

突如、油井の口から出た言葉に時田は素っ頓狂な声を上げた。

「エアバッグ?」

「ええ、エアバッグです。以前、同期と呑んだときに気になることを耳にしていまして――」

油井はステアリング設計の吉水の話を思い出した。吉水によると、トキオ自動車が過去に発表したエアバッグの不具合が設計上の問題に依るものと発覚し、リコールの範囲を広めるかという話が内々でされているらしい。対象サプライヤーは芝田電機。設計部に芝田電機の役員クラスがゾロゾロと来社したのを見たと言っていた。

「しかしイズミではエアバッグの不具合は見つかっていない。未だかつて、リコールの事例もない。その情報は確かなのか」

「ですから、トキオで不具合を起こしたエアバッグと同等品をうちで採用した可能性があります。あくまでも予想の範疇ですが」

時田は眉間に皺を寄せた。

「シバタの営業担当は誰だったかな。すぐに当たってくれないか。エアバッグは内装品グループか。インテリア担当は――ああ、最内か。今すぐにでも厚木に飛ばそう。油井、都合がつけばお前も同行してくれないか」

生唾を飲んだ油井の額には脂汗が浮かんだ。

すぐに行動に移すべきだと時田は油井に檄を飛ばすと、会議室に並べられたファイルと手に取りその場を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ