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城下町の妻たち  作者: 市川比佐氏
3/7

第二章城下町

   1


「今から監査対応訓練を行う。合図があったら全員位置につくように、いいな」

油井の一声で始まった監査対応訓練。それまで緩やかだった空気が一変して緊張に包まれる。品証社員は皆、忙しなく動いていた手を止め、デスクから機密資料を整理し始めた。

「品質保証室には三ヶ月に一度、国交省の立入監査がある。そのときは部品や書類を全部隠せ」

品証が管理する不具合台帳にはモデル毎、販売店毎、工場毎の不具合内容が管理番号で紐づけられて管理されている。ペーパーレスの時代になっても紙の帳簿と電子データの二種類が存在する。特に市場クレームとなりうる重要不具合事項の管理は厳重で、リコール届出前に外部に漏れれば会社の信用を大きく損なう。

車の不具合には様々な原因があるが、数万台に一台といわれる製造上の不具合、そして設計段階での仕様不具合に大別される。

製造不具合はメンテナンス不備や動作不良などの設備トラブル、もしくは作業ミスといったヒューマンエラーが考えられるが、不具合の確率としては非常に低く、また仮に不具合が生じたとしてもロット管理されている生産ラインから原因を追求できる。対策もそれほど難しくはない。

一方で設計仕様に不備があった場合、不具合対応は困難を極める。部品の仕様そのものに問題があれば対象となる車両すべてがリコールの対象となり、販売店での代替品の用意や交換対応など損失の規模が大きい。それゆえに設計不具合は全社をあげて慎重に取り扱わなければならない。

油井の合図で、実際に国交省の監査人が来訪したことを想定し、朝十時から訓練は始まった。

国交省監査は従業員が出社して間もない午前中に行われることが多い。

国交省としても、メーカーの隠蔽工作を防ぐためにあらゆる策を講じているのだ。

「では、始めてください」

油井が言うと従業員は一斉に自分の立ち位置へ急いだ。

品証が管理する不具合は重要度別にランク付けが為され、リコールに繋がる超重大不具合は特別な台帳に管理がされている。重要不具合ばかりを記録した台帳、通称『カルテ』は、すぐに医師に連絡しないと重症化する病的な不具合に例えられ、役員報告が義務付けられた門外不出の秘匿情報だ。

品質不具合は販売店から報告されるサービスレター、生産工場から届くプロダクションレター、そして設計不具合を記したテクニカルレターに大別される。その全てをこの品質保証室で一括管理しているため、一般社員であっても品証オフィスに入るには特別な許可が必要とされる。

監査対応訓練では、国交省来訪を伝える架空の一報が受付から電話で寄越され、合図を受けた品証社員が重要度の高い管理台帳から順番に書庫に隠すことになる。そしてその書庫は、隠し扉と呼ばれる建物図面にない門戸の奥にある。中央研究所は会社設立当時から複雑に増改築されており、設計図に現れない空間が複数存在する。品証オフィスと実験棟の境目に位置する目立たない空間がそれに当たり、品証関係者のみぞ知る秘密の部屋だ。

さらに外付けハードディスクも同じように書庫に移し、見られてはマズい電子メールの履歴を削除する。同様の指示を各工場にいる品証課にも伝達し、本店と支店で情報の齟齬が起きないよう口裏を合わせる。実際に国交省に見せるのは二重管理された別の台帳で、そこにはカルテに載っている不具合項目は存在しない。長年、リコール窓口で入念に練られた方策だ。

監査対応の極めつけは、取るに足らないレベルの不具合は敢えて隠さないということ。製造現場において、不具合ゼロ件ということは通常有り得ない。リコールに繋がるような重要不具合のみを隠蔽し、それ以外の製造不具合などはありのままに報告する。そうすることで、不自然さを回避する狙いだ。

「五分四十秒、上出来だ」

油井は手にしたストップウォッチの数字を見て満足そうに微笑んだ。

度重なる訓練と応対で品証課の隠蔽工作は年々熟れてきた。当初三十分以上かかっていた隠蔽操作も、ついには十分を切るようになってきた。

これだけの短時間ですべての不具合を隠すことができれば、国交省関係者が来訪し、応接でお茶汲みをしている間にカルテを隠すことができる。事前に見られてはまずい重大不具合がばれることはない。

「これで訓練は終了にしたいと思う。皆、よくやった。それでは通常業務に戻りなさい。以上――」

クレーム窓口という仕事柄、メールや書類でのやり取りは後々で証拠資料となる懸念があるため、極力履歴を残さないのがイズムである。

そのため会議は極力フェイストウフェイスで行われ、議事録は外部に出さないのが通例となっていた。人海戦術を駆使した徹底的な情報漏洩防止策により、抜き打ち監査にいつでも耐えられる準備が為されていた。

最内をはじめ、誰もが品証課にきた最初は面食らってしまうが、一年も経てば然も普通かのように感じるようになる。職場の文化は会社によって、課によって異なる。それはイズミ社内でも同様。郷に入れば郷に従うのがサラリーマンなのだ。


   2


花恵が通されたのは校長室横にある応接ルームであった。花恵以外にも二十名ほどの父兄の姿が見える。皆、今春転校する予定の生徒らしい。初々しい表情で、今後の学校生活に期待を膨らませているように見えた。

三月も下旬となり、残り一週間で新年度に突入する。三寒四温で徐々に春めいた空気に入れ替わったが、この日はまるで冬に逆戻りしたかのような灰色の雲が広がっていた。朝から偏頭痛がするのはそのせいだろう。花恵は遠い目で資料を眺めた。

数分して学校教職員らしき女性が応接室に入ると、あたりはピリッとした緊張感に包まれた。年は三十代半ばといったところだろうか。銀縁のメガネが小さな顔からはみ出しており、少々キツい印象を与える。

「本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます」

女性は榎田と名乗った。

おそらく、ここに集まっている四年生の生徒を受け持つ教員だ。言葉遣いこそ丁寧に聞こえたが覇気がない。子供たちの面前に立つ教職員がこれでは心もとない。

一抹の不安を抱えながら、花恵は榎田の説明に耳を傾けた。

「早速ですが、和泉市の教育体制について説明を始めさせて頂きます」

「和泉市初等教育のしおり」と書かれたA4サイズの分厚い冊子には、学校生活を過ごす上で必要な事務的な所作が記されている。以前通っていた武蔵野市内の小学校に比べると、仰々しいというか、些か堅い印象を受ける。

「まずは和泉市が独特に編成しているカリキュラムについて説明を致します」

教員は冊子の中頃に書いてある科目について説明をはじめた。

どうやら和泉市は教育先進都市として国から認定を受けており、他地域とは異なるプログラムを用意しているらしい。

「和泉市内の学校は、公立でありながら私立進学校にも負けないカリキュラムを敷いております。その所以は独自の教育プログラムにあり、それは自動車社会で生き抜くにあたって、実用的な知識を提供することを目的としているからです。たとえば、古文や歴史などの知識は、一般の社会生活を過ごしていく中で不必要な知識であると判断され、和泉の小、中学校の必須科目からは除外されています」

花恵はまるで予備校のような教育体制に目を白黒とさせた。

内容はこうだ――。

まず、国語教育は論文の書き方や論説文の読解のみに特化されている。和泉市では「自動車創業以前の文献をわざわざ授業で読ませる価値はない」と考えられており、古文漢文に加え、小説の読解の授業は必須ではなく選択制とされている。代わりに英語や第二外国語教育に力点を置いているのは「世界展開するイズミ自動車において、海外で事業を行う上で絶対必須」と考えられているからだ。

同様に自動車創業以前の歴史に教育的価値はなく、社会科の授業から歴史が除外されている。選択制で簡易な世界史の講義が用意されているが、これも「海外で外国人とコミュニケーションするのに最低限必要な常識的教養」を教えるのみだ。

一方で地理や政治経済は一般的な公立学校よりも豊富な内容で講義が行われ、またそれに加えて会計やマーケティングといった会社経営に欠かせない講義が必須となっている。イズミ創業者の経営概念は勿論、世界的に事業を繰り広げている大企業の経営方針も高校までに特別講義として受けることができる。また年に数回、市内にある和泉記念館で、学生による起業大会たるものもあるというのだから驚きだ。優勝者には市から起業資金が提供される。実際に世間を賑わせるインターネット事業社長も、その多くが和泉市出身者である。

文系科目が簡易化されている一方で、自然科学については非常に細かく指導科目が整備されており、小学校低学年のうちから基礎的な算数、数学の概念を取り入れ、中学校卒業時には高校数学の半分以上を修了するカリキュラムとなっている。数学は習得に個人差があるため、教員や学校OBがマンツーマンとなって遅れている生徒の学習を取り戻す手の込みようだ。

和泉市の高校生の物理、化学の能力は常に全国一であり、実際大手予備校の全国模試においては、市内で一番の進学校である松園高校が上位を独占する。高校生クイズや数学オリンピックも、あまりに松園高校が連覇を続けるため、主催者が同校を殿堂入りさせて今となっては仮に参加しても参考記録にしかならないという逸話を残すほどだ。

榎田の説明は続いた。

「また、将来的に研究開発分野に進む学生のために、高校入学時点である程度専門分野に沿ったコースを選択することもできます。具体的言うと、中学校三年間の全国模試の成績をもとに、得意不得意に応じて生徒を篩にかけます」

教員の話によると、幼い頃から競争原理を植え付けることによって、生徒たちに社会の厳しさを痛感させる目的があるという。

教育現場は聖域ではなく、もっと子供に現実感を与えることが本当の愛情というのだ。

確かに原理は理解できるが、少々残酷すぎる感じがするのも否めない。

飛び級制度のような早食い科目の例を挙げれば、電気自動車や燃料電池に使われる高性能電池に関する理論など、希望があれば門戸を開けてくれるということらしい。

その他、体育、芸術の講義もその道の一流が外部講師として教育に参加している。パソコンも小学校一年生から全員に支給され、プログラミングなど、幼い頃からコンピューターリテラシーを覚えさせる。和泉市の教育は完全に合理化された状態で提供され、また時代の変遷によって常に「改善」が施される。

「――以上が和泉市の教育体制の説明となります」

一方的に説明を受け、花恵は唖然とした。

開いた口が塞がらないとはこのことだ。とんでもない場所に来てしまったというのが本音だ。

突然、突きつけられた現実。こんな学校に要を入学させて本当に大丈夫なものか。不安ばかりが頭を過ぎった。

「学校教職員は皆、最低五年以上の社会人経験を持っています。教育委員会では、教職員に対しても特別な教育プログラムを用意しております。良い教師なくして、よい教育現場は成り立ちません」

学校を卒業して学校に就職する教職員は社会的見識が狭い。そんな教員に、良い教育ができるわけがない。

教員の中にはイズミ自動車で実際に技術者として働いていた者、経営に携わっていた元社員も存在する。市内の学校長は皆、イズミ自動車の課長級以上の天下りで構成されている。学校経営に管理職の手法がふんだんに取り入れられているのはこのせいだ。

「世の中は資本主義です。学校を卒業すれば、ほとんどの生徒が何かしらの形で経済活動に組み込まれることになります。つまり競争原理に組み込まれるのです。公務員である教員に、民間企業の競争精神を教えることは難しい。そこで和泉市は教員に民間経験を義務づけているのです」

競争、競争、競争――。

榎田の言うことは的を射ている。たしかに正論だ。

しかし、子供を茨の道に進ませるのは少しばかり期が早過ぎる気がした。父母説明が終わると、花恵は神妙な面持ちで学校を後にした。要にはなんと伝えるべきか。頭の中を巡る疑問を拭っても取りきれないまま、花恵の家路についた。


   3


車両実験部と品質保証室の定期連絡会では入社二年目の山岡が壇上で発表の準備を行っていた。

会議室には品証課長の油井、最内、宝田など両課の関係者が顔を連ねる。二十分の発表と十分の質疑応答で構成される連絡会は山岡にとって初の報告の場。日の目の舞台であった。

「運転者は時速百キロで径二十メートルのカーブに突入、スピードを緩めるためにブレーキを踏んだがタイヤが空転し、そのまま歩道と車道の間にある電信柱に衝突。胸部などを強く打ち即死した―」

五月十四日午前零時十分頃、イズミ製メビウスによる単独事故。二十六歳の男性運転者が死亡した。

「運転手が左折しようとハンドルを左に切った際、スリップしてカーブを曲がり切れず慌ててブレーキをかけたが、そのままほぼ直進して反対車線に乗り出し、さらにその先の歩道にある電信柱に激突。破損部の写真を見れば分かる通り、運転者のいる右側フロントドアからヘッドライトにかけての骨格部分が大きく破損しています。衝突による破損部分はエンジンルームにも及び、エンジン構成部品が潰れているのが分かります。衝撃によってステアリングが後部に移動し室内を圧迫した。運転者はそれにより胸部圧迫や打撲により即死。当該車にはハンドルとルーフサイドにカーテンエアバッグが設置されていたが、正常に作動したものの、衝突の激しさから生還はほぼ不可能であった――」

山岡が映し出した衝突シュミレーション資料には運転者側、前方の骨格が大きく変形した様子が見て取れる。

痛ましい、通常ならばそう感じるかも知れないが、会議の趣旨は車両の安全性検証。衝突のダメージが車内に到達するのを如何に軽減するか、設計部にフィードバックするのが実験部の役目だ。

「現場は見通しの悪い鋭角のカーブであったこと、夜間であったこと、雨天で道路には所々水溜りができており、摩擦係数が低下したこと―。複数の要因があった」

新米の辿々しい受け答えをフォローするかのように宝田は言った。

車両は○八年型メビウス、年間二十五万台を売り上げるイズミ自動車の看板車種だ。

「何かご質問は―」

背中から冷たいものが下がるのが分かる。

季節は過ごしやすい五月の陽気な一日であるが、緊迫感のある会議室は山岡を重たい雲で覆っていた。

「最内、お前はなんか聞くことはないか」

突如、油井は最内に質問を振った。

「こちらも新人の最内さん、よろしく」

ぶつくさに紹介を済ました油井は気怠そうに肘をついた。不具合に至らない単独事故である。つまらない案件だ。それでも彼らにとっては初の発表の舞台である。今後、もっと大きな場で報告する上で、最初の小さな階段を登らせる教育的な意味合いが強い。

何も言葉を発してないとは場が悪いと感じた最内は一度逡巡したあと、山岡の目を見て言った。

「もう一度、写真を見せて頂けませんか。スライドショーの後半に載っていた写真です」

最内は事故を起こしたメビウスの車内写真を要求した。

内装品を担当する最内にとって、内部の破損は気にかかる内容だ。最内は目を細めて再びスライドを眺めた。

油井と宝田は一度目を合わせると、面倒なものを見るような表情で最内を見た。

「激しい事故でしたが、助手席は比較的原型を留めているようですが」

車は運転者の乗っていた右側が大きく破損した反面、雨水でタイヤが空転して反対車線に乗り出したため、助手席側はさほどダメージを受けていなかったようだ。

「写真を少し拡大できませんか」

最内はスライドのある部分を注目した。

下らない茶番に現を抜かしている暇があったら他にもっと重要な仕事をさせた方がいい。

油井と宝田の両管理職は苛立つ気持ちを無理に抑えて最内の次の言葉を待った。

「これは何でしょう、焦げ跡のようなものが見えますが」

「焦げ跡?」

思い掛けない最内の質問に、山岡は素っ頓狂な声を上げた。

最内はコックピットモジュールに付着した小さな黒点を指さした。内装はベージュで統一されているため、黒い汚れは目立つ。購入後、一年間もない新車同様の車内には相応しくない汚れの付き方だ。

山岡は事前に幾つかの質問を想定して回答を用意してきたが、最内の指摘に不意を突かれる形となった。

事故の際、火災は発生していない。車内での発火の痕跡など見つかっておらず、焦げ跡という言葉に返す言葉がない。

「申し訳ありません。こちらの準備不足で、何とお答えしていいものか」

「煙草の押し跡かなんかだろう、今回の事故には関係ない。つまらない質問するな」

山岡の返答を遮るように宝田は声を荒らげた。「時間だ」、宝田は山岡の手を引くと、そそくさと部屋を出た。それに続いて油井も席を発つ。最初で最後の定期発表会は呆気なく幕を閉じた。

良かれと思って発した言葉が、あまりにも的を射ていないととられたのだろう。

釈然としない面持ちで最内も油井の背中を追う。すると油井は最内の足を止め、目を吊り上げながら言い放った。

「最内君ね、ご自分の立ち位置を弁えて発言すべきですよ」

最内は油井の言う意味が分からないでいた。

「うちでは出向者が本体の人間に物申すなんてことは許されない。山岡はああ見えて将来を約束された存在だ。お前のような期限付きの人間に余計な真似をされては困る」

出向者―。

それは最内が今後背負って立たなければならない不名誉な看板である。

自動車業界は完成者メーカーを筆頭にピラミッド構造が築かれている。完成車両工場が指示する納期は絶対、イズミの引いた図面が全ての仕事の衝になる。イズミグループにおいて最も影響力を持つのは本体のイズミ自動車である。トラック会社から出向したお上りの意見など、ここでは聞き入れられる訳がない。最内はこの場においてカーストの最下層にいる。自らの足下を垣間見ず、おずおずと顔を出すのは不適切だ。

最内に与えられた洗礼の言葉は、その後長きに渡ってイズミ自動車社員としての在り方に釘を刺し続けることになるのである。


   4


「やっぱりこの学校おかしいわ」

土曜日の夕方四時。三月にしては陽気な西日がリビングに差し込んできた。

引っ越したばかりだからか、遊び友達もいないため要はテレビばかり見ている。時折、子供らしくドタバタと部屋の中を駆けずり回っているため、家の中は随分と賑やかに感じられた。

「これパンフレットなんだけどさ、まるで私立みたい」

花恵はどこか苛立ちを見せながら、腑に落ちない様子で最内に話しかけた。

どれどれ、と最内は花恵が持って寄越した学校説明資料を開く。

和泉市立梅園小学校――。

学校長の挨拶と校訓。『誠実、鍛錬、希望』、ありふれた言葉が見える。これといって代わり映えのない資料に見えた。

「なんだ、別に普通じゃないか」と最内はつまらなそうにページを捲る。たしかに立派な固紙だが、特段変わった様子も見られない。考え過ぎだろう、と適当に最内は受け流そうとした。

「だってさ、小学校のうちから職場見学なんてあるのよ、本当にイズミ自動車の城下町みたい」

花恵がページを開いて見せると、学校行事欄に職場体験たる文字が見えた。

「へえ、凄いじゃないか。僕が子供の頃はこんなものはなかった」

学業だけでなく、道徳や総合教育の一環として実際に県内の企業に出向いて様々な業種を学習する機会が与えられている。とはいっても、県内には自動車関連業しかないのだが。

「子供のうちから競争、競争って。どうかしているわよ」

日本全国、他のどの都市を見てもこれほどまで明確に格差が根付いている街は存在しないだろう。

選民思想という言葉がぴったりと当てはまる。それは教育の世界も例外ではなさそうだ。

親の勤め先は小中学校の学区で分かり、保護者の勤め先欄には役職も記されているため、教職員は自ずと生徒を色眼鏡で見始める。クラス分けには親の職位がバイアスに加わり、成績や役職で進学先が篩にかけられる。

PTAはペアレンツ、ティーチャー、アソシエーションの略称であるが、和泉市の教育委員会では、そこにカンパニーを意味するCを加えてPTCAと呼ばれる。これはプラン、ドゥ、チェック、アクションを意味するPDCAとかけて語呂がよく、長年和泉市内の教育現場で親しまれてきた言葉だ。

こんな場所にまで企業の影響力が及んでいるのかと、はじめは度肝を抜かれるのだが、最初に抱いた違和感は徐々に薄れていき、終いには息子を良い学校に進学させようと腐心する教育ママに成り代わってしまうのがこの街の恐さである。

人格というものは環境的な要因で変わるのだ。花恵はその恐ろしさを早い段階から感じていた。

「子供の頃から企業見学なんかさせて意味があるのかしら。訪問先企業例って、イズミの関連会社ばかりじゃない。これじゃイズミに入社するのが良いって子供のうちに洗脳させているみたい」

「随分、ご立腹のようだね。何かあったのかい」

花恵の尖った口から放たれる荒々しい口調を勘ぐった最内は問うた。

「教員よ。横柄な態度で、あれが教育者として相応しいのかしら」

花恵は昼に会った担任のことを話した。鉄の女という表現がぴったりとはまる。

ツンケンとした目付きに冷たい雰囲気は、子供に接する者として如何なものか。子供の教育には少し厳しいくらいがちょうどいいという考えの花恵だが、必ずそこには愛情がなければならない。榎田の話し方には人間らしさが欠けていた。そんな人間に息子の成長を任せていいものか、甚だ疑問だった。

花恵がパンフレットとともにもらった教育の栞を見せると、そこにはびっしりと詰まったカリキュラムが載せられていた。

月曜から金曜までの六時限授業と、土曜日の午前補講。加えて夜八時まで希望に応じて特別講義が選択できる。中学レベルの講座を先取りし、よりレベルの高い知識を得られるというのだ。

「こりゃ教える方も大変だ」

つい本音が零れた。教師もサラリーマンである。これでは自動的に夜八時まで残業が確定することを意味する。

梅園は公立だが、中高と一貫教育を敷いている。さらにイズミ自動車が保有する学校法人の和泉工業大学への推薦枠もある。エレベーター式に進学でき、高い水準の教育が受けられることが売りだが、生まれながらにしてイズミ自動車へ入社するレールを敷かれた危険な香りも漂う。要にはもっと選択の幅を広げさせたいというのが、花恵の本音だ。

「以前いた武蔵野にもこんな教育制度なかったわよ」

「いいじゃないか、だって公立でこれだけの教育を受けられるんだろ。学費は無料だし、最高じゃないか。要にとっても良いよ」

「そうかしら、子供はもっと元気に自由奔放にしてた方がいいんじゃない」

夫婦の会話は微妙な平行線を辿ったまま終了した。


   5


始業式は異様な雰囲気で包まれていた。

学校長のありきたりな挨拶の後、来賓の長ったらしい祝辞が続く。生徒は退屈な式辞に眠気眼をこすりながらその時間をやり過ごしている。余所行きの服に着飾った花恵は壇上を見つめると、名を連ねる来賓たちの肩書きに大きな違和感を覚えていた。

「春の晴天の下、桜の花びらが舞いはじめ、始業式には相応しい一日であります」

最初に祝辞を披露したのは日本自動車工業会の蔵前悟であった。

タキシード姿に白髪といった様相は、企業の入社式を感じさせる。実際に他の面々も企業関係者が続いた。

「先日、挙行されましたイズミ自動車の決算発表では過去最高の売上げとなりました。増収増益の陰には皆様方のご協力があってのものです。そして、子供たちの将来の活躍に期待を込めて、日々熱心に教育を行う教職員の努力があります」

開口一番、蔵前の口から発せられたのは、学校の説明でも教育理念でもなくイズミ自動車の業績であった。

花恵は違和感を隠せなかった。

ここは教育の場である。なぜ、冒頭が決算報告なのか。その真意が解せない。

さらに蔵前の言葉は続く。

「イズミ式教育を象徴付ける上で重要なシステムが、実際に社会で活躍する著名人を学内に招致し、特別講義を開催するというものです。これによって生徒は早い段階から『勉強する意味』を把握することができる。驚くべき数字として、勉強する意味が分からないという十二歳未満の児童の割合が五パーセント以下というものがある。これは他の教育委員会と比較して驚異的な低さであります」

蔵前が褒めると拍手が湧き上がる。

自画自賛、宗教的。

この状況をどう例えていいか分からいないが、ひとつ確実に言えることは、これは異様である。

「特別講義にはイズミ関係者だけでなく、政界、財界、医師、弁護士といった特定分野で活躍する人間を幅広く呼んでおります。これによって生徒たちに広い見識を与える。なにもイズミに入社するのがすべてとは思いません。和泉で教育課程を修了した生徒たちは、いずれ各界の第一線で活躍し、そこでイズミブランドを広めてくれる。そう信じれば、両者にとって利益になるのです」

公立の教育は税金で賄っている。

イズミは莫大な法人税を落とし、この地に雇用を創出してきた。であれば、ここで学ぶ子供たちも皆、いつかはイズミに貢献しなければならない。

「『バケツを持って廊下に立っていなさい』と言う代わりに、和泉市の教員は『丸を描いて立っていなさい』と叱ります。こうすることによって物事を客観的に俯瞰でき、改善すべき内容が自ずと見えてくる。改善は外ではなく、人の心の中にあるのです」

花恵は講堂の後方席に座っていた。

この場から要の席を確認するのは難しい。要はどんな気持ちで蔵前の講話を聞いているのか。

真に受けなければ良いのだが―。

花恵の親心は子供を洗脳から守ることで必死であった。

「このような合理化された教育の中で、幼い頃から社会の一員であることの自覚を植え付け、二十代になったときに即戦力として活躍できる下地を作ります」

――イズミは車だけを作っているのでなく、人間も作っている。

これは現職の和泉市長の言葉だ。彼もまた、イズミ自動車で工場長を歴任した人物である。

蔵前は客席に一礼すると、会場は大きな拍手に包まれた。教祖といった方がぴったりくる。そんな威厳を蔵前は放っていた。

講堂には校歌と市歌を記した額縁が飾られている。

「イズミ、イズミ、イズミ…、

産業の礎、人びとの発展、時代を席巻する両輪たれ―」

まるでイズミ自動車の社訓のような言葉が歌詞に散りばめられている。それを見て、花恵は頭が眩んでしまいそうな気分に陥った。

「本日、ご多忙のため残念ながら参加頂けなかった来賓各位より電報をお預かりしておりますので、誠に恐縮ながら代読させて頂きます」

司会進行役は金田という名の教頭だ。次期校長候補だから、彼も課長級以上の管理職経験者である。言葉遣いから立ち振る舞いまで、一般の教員とは異なって見えた。古い日本企業の組織に毒された体裁と上下関係が、金田の話し方からも滲み出ている。

「イズミ自動車代表取締役和泉章雄、エレクトロニカ会長和泉壮一郎、和泉車体取締役社長山田宏一、和泉商事和泉武彦――」

オールイズミと呼ばれる中枢企業の取締の名前が読み上げられる。この年齢から式典の度に企業名を聞いていれば、たしかに頭の中に刷り込まれるのだろう。

「これじゃあイズミだけの社会にいるみたい」、と深々に感じた花恵だった。

まさにその通りなのだ。

この街はイズミの、イズミによる、イズミのための社会なのである。その空気は教育機関も同様に然り。

周囲を見渡せば、装飾品をまとった父母たちの姿が見える。どこか気品があって高級感が漂うが、その目は真っ直ぐに壇上を見据えていた。

会社役員の祝辞を手帳に記録し、写真撮影を繰り返す。挨拶の度に拍手喝采を繰り広げ、うんうんと頷く様はまるで熱心なプロ市民のようだ。この面々もまた、イズミの関係社員なのだろうか。

永遠のように感じられた僅か二時間の始業式。帰り際、花恵は要の手を引いて「どうだった」と聞いてみた。

要を引くその手は力強く、子供を洗脳から守る親の懇親が垣間見れた瞬間だった。


   6


城下町から放たれる雰囲気は、まるで大奥の世界を匂わせる。

大企業ならでは、世界各地に事業所を持つイズミ自動車では、夫は転勤で自宅を不在にすることが多い。また長期転勤に関わらずとも日中男は仕事に出ているため、必然的に城下町は女だけの世界になる。

せっかくローンを組んで一軒家を購入したかと思えば、すぐに出向が決まり、知らぬ間に子供が大人になっていたなどというエピソードもよく耳にする。会社から斡旋される低金利住宅ローンは内々で総務に通達され、会社が社員の個人情報を管理できる仕組みになっているのだ。「誰それが家を買った、新車を買った」、などという情報が入れば、すぐに転勤の魔の手を差し伸べる。それがサラリーマンの性である。

ある意味、城下町で最も平和なのは新入社員用の独身寮なのかも知れない。ここはお世辞でも綺麗と言えないが、所帯持ちと違って行動は身軽だし、同期入社と夜中まで飲んで騒いでも音沙汰はない。

「――なあ、最内。お前、愛人のことどう思うよ」

夜八時、品証室に在籍する社員の半数以上は既に帰宅していた。

残業の最中、最内に話しかけたのは同い年の鏑木だ。

鏑木といえば生え抜きのやり手で、最も品質懸念があるエンジン担当である。責任の大きな仕事だけに部内でも帰宅が遅い方だ。

「愛人?なんのことでしょう」

「間宮だよ」

間宮凛子は品証室で唯一の契約社員であり、端整な顔立ちとスタイルの良さから男性社員に圧倒的な人気を誇る。

鏑木はキザな見た目で、お世辞でも気の置ける存在とは言えない。

こうして部内のアイドル的存在について意見を伺うあたり、一種の冷やかしなのだろう。

「間宮さんですか。なぜそんなことを」、馬鹿にされていると分かり嫌気が差しながらも、素知らぬ顔で最内は問うた。

「最内とは仕事で絡むことがねえからな。本当は一緒のグループに入ってもらって、仕事を覚えてもらいたいもんだが」

心にもないことを言うもんだ。鏑木の意図はなんなのだろうか。

「ここに来て三カ月経つだろう。そろそろ部の雰囲気にも慣れてきた頃合いだ。だからいいこと教えてやる。いいか、間宮にだけは気を付けろ」

大手人材派遣業パーソネルの子会社である和泉パーソネルは、二十年前にイズミ自動車との合同出資で設立され、和泉市内に複数の事業所を構えた。

二十年前といえばバブルが崩壊し、企業が挙ってリストラに走った時代である。イズミ自動車も例外でなく、新入社員の採用を絞り、団塊世代の定年退職とともに派遣社員の比率を上げ徐々に賃料を低減させていた。

今となっては受発注業務や総務などの単純作業はほとんどが契約社員で占める。品証室で資料整理や書庫管理を担う間宮もそのひとりだ。

大手企業の傘下ということで、人材派遣業界の中では和泉パーソネルは高い人気を誇り、特に二十代の女性社員の採用が多く、中には美人局化して正社員以上の発言力を持つ者も現れる。男女共同参画やダイバーシティの弊害が顕著に表れていた。

パーソネルは和泉市出身者だけでなく、採用の門戸を全国に広げている。そのため、正社員比率が減る中で社内の雰囲気も変わっていった。

四年制大学を卒業したバリバリのキャリアウーマンよりも、おしとやかで気の遣える女子社員の方が好まれる。管理職も人事権を駆使して、少しでも華のある女性社員を自部署に引き込むかに躍起になり、見事にマドンナを陥れた部署の雰囲気は格段に上がる。調整や気遣いの上手い社員は仕事でも高く評価され、二十代のうちに社内結婚を済まし、家庭に入るのが最近の若い世代の風潮となっていた。

晩婚化や少子化も和泉市では何処吹く風だ。安定した収入と男女の出逢いが確保された地域では、結婚という制度は過去の産物ではない。

間宮は地味な社員の多い品証室の中では異彩を放つ存在だ。

太めの眉毛とはっきりした目鼻立ち、濃い口紅はいかにも帰国子女を彷彿とし、育ちの良さを露呈している。美人であることに異論はないが、少々鼻に付くのもまた真だ。

「間宮は皆に愛人と呼ばれているんだ。もちろん本人は気付いていない。愛人の仇名の理由は簡単、部課長にちやほやされているからな。あの油井ともデキてるって噂だ」

「まさか」

油井といえば禿げ頭に脂でテカった顔が特徴だ。

見た目だけならまだしも、性格も良いと呼べたもんじゃない。人格の悪さが表面に滲み出ている。

間宮のような清潔感のある女性が油井と関係を持っているなど、想像に難しい。

「嘘じゃないぜ。偉い立場の人間にはすぐに股を開く女だ。そうやって世間を渡り歩いてきた。怖い女だよ」

会話を盗み聞きしていた水梨も最内のもとに駆け付ける。

水梨は、ひょろっと長い上背だが顔はゴツゴツとしていて迫力がある。

いつの間にか会話に華が咲き業務は小休止。デスクに深く腰をかけ、座談会が開催された。

「もともと金持ち倶楽部の女だからな」

「なんですか。金持ち倶楽部って」

「お前そんなことも知らないのか。街コンだよ、街コン」

城下町で唯一安全なシェルターと言われる独身寮でも、三十を越えていつまでも入居し続けようものなら、いずれ変人扱いされる。

そんな三十路独身男性を刻々と狙うのは、通称『金持ち倶楽部』と呼ばれる婚活サークルである。

ここではどんなブ男であれ、本社勤務というだけで女が寄り添ってくるのだ。

「和泉市の街コンは別名、金持ち倶楽部って呼ばれてんの。地元の女性を集めて、本体勤務の独身男性をターゲットにしてるってわけ。愛人ももともと城下町の外から来たんだけど、見事に東大卒で実験部の旦那さんを捕まえたってわけよ。しかも都合のいいことに、結婚してすぐに旦那は海外出向。晴れて愛人は新築の家に一人暮らし。子供もいないし、やりたい放題やってるらしいよ」

「そうなんですか」

イズミ本体籍の旦那を捕まえれば、自ずと日本を代表する大企業の妻になる。

順当に出世すれば四十代で課長職、五十代で部長になる。幹部クラスまで出世すれば当たりクジだが、そこまで求めなくても高水準の賃金を受け取れることに違いはない。

都内ほど家賃はかからないし、イズミホームが格安のローンを斡旋してくれる。車はイズミ車を社割で購入でき、病院、銀行、生命保険も皆、和泉グループのお抱えだ。

乳母車から墓場まで、市内の生活拠点すべてにイズミ印が付いている。

「でも愛人に色目使われても、絶対に尻に付いていくなよ。愛人との交際がバれたら油井に大目玉を喰らう。愛人と遊んで、飛ばなかった奴はいないという噂だ。まあ、出向者には興味ないかもしれないけどな」

城下町は非常に閉鎖的で狭い世間であるため、明文化されないルールがあまりにも多い。

町内会に参加を拒むものなら村八分の扱いを受け、職住近接のため社内の催し事には半強制参加となる。社内運動会で旦那に良い弁当を作り、良い服を着せ、徒競走で疲れた体を献身的に介護する。そういった内助の功が周囲の評判を買う。これがもし妻不在であれば、忽ち「誰それさんの奥さんは社交的じゃない、変人だ」と烙印を押され、翌月曜日に旦那は非常に肩身の狭い思いをしなければならない。

自動車会社ならではだろうか、保有する車のランクにはやたらと厳しく、ヒラ、管理職、役員で購入できる車が異なる。一丁前にグランXなど納車した日には「あら、出世も近いのかしら」など嫌味嘲笑の的になる。

城下町での不倫は皆無、留守の自宅に男の出入りなどあればすぐに噂は伝播する

「誰々の旦那が早く出世した」とか、「どの家庭の子供が大学に進学した」とか、専業主婦の多い城下町では家族のステータスが自分自身の身分に直結するのだ。

幹部候補と思って結婚したのに蓋を開けてみれば次長止まりのぐーたら亭主、しかも年をとって禿げただの太ったなどといえば、何故こんな男と結婚したのかと過去を悔やむ。間宮もまた、そんな城下町で優雅に泳ぐひとりの美人局なのだ。

「じゃあ、遅いからそろそろ帰るか」

碌に仕事にも手を付けず井戸端会議は終わった。

時刻は九時を過ぎた。一時間も話し込んでしまった。いつの間にか周囲の社員も姿を消し、隣の島の電気は消されている。

城下町の掟か――。

企業城下町に隠された闇は深い。


   7


品証オフィス横の大会議室に集まった社員は緊張感のない様子で月次の定例会に望んでいた。

この日集められたのは月末の台帳棚卸で、月次で発生した重大品質事故について共有する場である。品証室に在籍する全社員が参加し、時田による説明を約三十分聴講するという形式だ。

大会議室には弛んだ空気が蔓延り、眠気眼をこする社員の姿も見てとれる。

それもそのはず、このところ重要保安部品に関わる大きなトピックスもなく、オフィスは平和ボケしていたからだ。

保安部品とはその部品の不具合によって保安基準に適合しなくなるものを呼ぶ。

保安基準自体は道路運送車両法によって定められているが、なかでも、走る、曲がる、止まる、という車の基本性能に影響を及ぼす装置や危険物を保安部品といい、さらにメーカー独自で定義されている特に重大なモノを重要保安部品という。例えばブレーキやパワートレインがそれにあたり、これらの装置に不具合が生じると忽ち致命的なリコールとなりうる。

「今月はリコール届出件数が十六件、内イズミ自動車採用の部品は二件、重保はゼロ件」

淡々とした口調で国内のリコール届出件数とその内容を読み上げる時田。

それを聞いて熱心にメモをとる社員もいれば、腕を組んで現を抜かす者もいる。管理職はノートパソコンを開いて講話と関係のないメールを忙しなく返信している。それがここ数年の品証定例会の見慣れた景色だ。

「トキオ自動車採用、ダートラ製リクライニングシート調節用のギアが緩んで調節が効かなくなる懸念。不具合報告ゼロ件、事故報告ゼロ件。ドイツ本社からの情報により発覚、対象三百五十台―」

売上台数はイズミの半数程度であるが、二輪車や高級車などのセグメントに注力する国内二位のトキオ自動車。

車両価格六百万円以上のプレミアシップモデルに採用しているリクライニングシートの一部に、調節機能が鈍る可能性が見つかったという。ドイツの内装メーカーが独自の検証により発見し、トキオ自動車に不具合を報告した。

「ほう、さすが高級車だけに台数が少ないね」

まるで対岸の火事を見つめるような視線で時田のプレゼンを耳にする。

従業員たちはライバル車のリコール内容を嘲笑した。

「ドアモジュールの水密不具合。雨水の侵入により内部の電装部品がショートする恐れ、不具合件数、事故件数ともになし」

続いて時田の口から発せられたのはアメリカに拠点を置く大手自動車メーカーの日本法人によるリコールであった。

輸入車のシャワーテストの際に発覚した僅かな水漏れである。実際に車内に雨水が入ることは想定しにくいが、ドアモジュール内に構成される電装品が湿気でショートする懸念がある。未だ日本国内、本国アメリカともに市場クレームには発展していないが、これもまたメーカー独自の判断でリコール届出という手筈に至った。

「水陸両用車じゃあるまいし、車が池に突っ込まない限り水密なんて影響しないさ」

「日米で安全基準が違うからしょうがない」

妙に斜に構えた後ろ向きな発言が飛び交うのは品証オフィスに限った話であろう。

品証は社内では別名「警察」の異名を持つ。他の部署と違い、自らモノを生み出すことはない。設計や製造部が作り出した部品、完成車両に対し小言を発するのが品証の役目であり、実際に問題が起きても責任をとることはない。部署内の平均年齢も高く、一線を退いた年配者ばかりが集まる。他人の文句を言うほど楽な仕事はない。警察と揶揄される所以も分かる。

「不具合など消費者の使い方に起因するところが大きい。頭の悪いユーザーが碌にメンテナンスもせず、やれ不具合だ、やれリコールだなんて言われ、そんなアホなユーザーに頭を下げるのがメーカーの仕事だ」

今でこそ閑古鳥の鳴く品証オフィスであるが、かく言う品質保証室もかつては大荒れに荒れた時代もあった

『イズミ自動車社長、米国下院で謝罪会見』

全米を巻き込む大リコールを起こし、米国下院や運輸局で謝罪報告を行った和泉社長の写真が世界中に報道されたのは今から六年前の話である。イズミは三百万台のリコールを発表。多額の損失を生み出しただけでなく、会社の信用も地に落ちたように思われた。

それでもイズミは諦めず、元来受け継いだ高レベルの生産方式、高品質、先進技術によって見事に復活を遂げた。一度失った信用を取り戻すのは難しい。それでもイズミは奈落の底から一再び頂点に返り咲いたのだ。

悪夢から六年―。

喉元を過ぎれば熱りを忘れるのは人間の性だろう。

ジョブローテーションが進み、今となっては当時の危機感を覚えている社員など存在しない。良い意味で部の雰囲気は一新されたが、本当の意味で技術が伝承されているかと問われれば、それは否である。

時田の講話が終わると、品証社員は気怠そうにデスクへと戻った。

自分が在籍している期間に問題が生じなければいい。そう思うのが大企業病だろう。事なかれ主義の社員の多くは、会議室を出た頃には時田の話など頭からすっかりと抜けてしまっていた。


   8


金融不況や震災を乗り越えイズミグループの積極投資が始まった自動車再起の元年から二年が経った。伸び悩む国内販売台数の一方で海外の新工場は無事に立ち上がり、グローバル生産台数は安定して一千万台の大台を越えるようになった。一企業が千万台の車を売る時代が来るものか―。懐疑的な世論をものともせず、イズミは国際自動車市場の雄としてトップを独走していた。

新年会を終えた油井は同期入社の吉水拓人と天久保のクラブを梯子していた。吉水は車両開発本部でステアリングの制動技術を担当している。分野は違うが油井とは旧知であり、こうして時間ができると一緒に杯を交わす気の置けない仲である。

「忙しいか、最近―」

周囲の目を気にせず、まずはおしぼりで顔を拭いた。

いつの間にか中堅から管理職に移行し、心労も絶えなくなった。若い頃のように夜通し飲み歩く体力も気力もないが、女性のいる店でこうして飲めるのも、まだまだやれる証拠だ。「まあ、ぼちぼち」という吉水の生返事には、溜息の中に充足感も溢れていた。課長補佐という立場、そして緻密な調整ごとの多い開発職で忙殺されているが、仕事がなく燻っているよりはマシかも知れない。

一軒目で相当の量のビール瓶を開けた二人はハーフロックで蕭やかに始めると、徐々に酔い直すことに決めた。

天久保は和泉市で唯一の歓楽街である。和泉駅からほど近く、大学のキャンパスや研究施設、大手企業が近接するため週末ともなると多くの客で賑わう。昔ながらのスナックやパブから、若者の好むカラオケ、大衆居酒屋まで全てのジャンルの店が揃い、イズミグループの社員も飲むとすればこの場所と相場が決まっている。

店は三十分でホステスの女性が入れ替わる。個室も悪くないが、開放的な空間の方が寧ろ話しやすい。油井は取るに足らない世間話から日々の業務内容まで、日頃の鬱憤を晴らすかのように吉水に打ち明けた。

「ほう、開発も似たような空気か」

油井は妙に納得した表情で吉水の言葉を軽く流した。

「新車、新車というが、短期間で造れる車種は限られる。人を増やせばいいって問題じゃない。市場に投入する前にあの妙なデザインを一新した方がいいんじゃないか」

「言えてるな。商品企画とデザインの頭の中がお花畑だから、開発以下、下々の努力も水の泡だ」

世間は輸入車と軽自動車で需要格差が広がっていた。高級車を乗り回す人びとが増えた一方で、車は軽で十分という層も多い。なにより外車の真似事ばかりで、日本車のアイデンティティを失ったモノづくり姿勢に現場の開発部隊は冷め切っていた。

アルコールで饒舌になった吉水はホステスの肩に手を回し三杯目からをロックに変えた。時刻は十一時半を過ぎている。車社会の城下町では終電を気にする者は少ない。

吉水は一度落としたペースを再び上げて顔を漆に赤らめた。目尻には皺が寄っている。疲労が溜まっているのだろう。それでも油井の前では終始リラックスした様子で酒を進める。

「そう言えば今週、サプライヤーの来訪が相次いでな」

紫色の壁紙で装飾された店内は落ち着いた雰囲気を放っている。

再び吉水の世間話が始まるのを油井は斜めに構えて聞いた。酔っ払い同士の話など、碌に真面目に聞く気概もない。

「いやに神妙な顔のスーツ姿が複数見えた。葬式みたいだったよ。トキオ搭載のエアバッグの件、揉めているらしい」

「エアバッグ?」

突如、吉水の口から飛び出した言葉に油井は酒で回った頭を起こした。

グルグルと回る視線の先には紫色の天井だけが妖しく映る。エアバッグと聞いて、急に現実に引き戻された感覚がした。

「ああ、なんだか五年前くらいにアメリカで起きた死亡事故の件らしい。エアバッグの構成部品が運転者の喉を傷付けて死んだって話だ。ひょっとしたら設計不具合かも知れないって、やけに力が入っていたな」

品証としての在籍が長い油井は、競合他社も含めて周辺の不具合事情には滅法詳しい。特に最大のライバル企業であるトキオ自動車となれば尚更だ。

遠い記憶を辿れば、たしかトキオが北米進出ブランドにおいて、エアバッグの製造不具合による死亡事故を引き起こしたというものだ。死因はエアバッグの破裂だけでなく、事故による衝撃であると判明したため大事には至らなかったはずだが。選りに選って五年も前に起きた事故が再びぶり返す理由が分からない。

「なんでそれが今更になって急に揉め出したんだ」油井は真意を急いだ。

吉水は他人事のようにウィスキーを飲み干すと、ガラステーブルの上にコップをトンと置いた。

「なにやらリコールを出すか出さないかで」

「り、リコール?」

呂律が回らないのは、なにも酒のせいによるものではない。

「そう、リコール」

リコール、という言葉に敏感に体が反応するのは品証の職業病であろう。

これまで他社で発覚したリコールが、部品の共用化で自社に飛び火した例は少なくない。

トキオほどの大手であれば、イズミと部品を供用している可能性は十分にある。しかもエアバッグといえば寡占市場だ。油井は吉水との会話を受け流せずにいた。

それにしても直近で行われた不具合事例報告会ではトキオのエアバッグなど話題にもなっていなかったが、情報は確かなのだろうか。

半信半疑な油井を横目に、意外なところから新たな情報が舞い込んだ。

「―あら、拓人さん、つい先日も遊びに来てくれたのよね」

指名したホステスが吉水を横切ると愛想よく声をかけた。罰が悪そうに吉水は引きつった表情で彼女を見る。

「実は先週、ステアモーターの江戸崎さんとここに来たんだよ。接待でな。誰にも言うなよ」

江戸崎といえば北欧に本社を持つ大手部品メーカー、ステアモーターの営業担当である。ステアグループは完成車メーカーをも凌ぐ売上規模で、営業の羽振りもいい。社則で接待は厳しく禁じられているが、未だに呑み代を会社経費で落としている噂を聞く。

天久保に屯するスーツ姿の多くは当然イズミ関係者が大半であるのだが、コンプライアンスが厳しくなった今でも下請会社と接待じみた交流が夜な夜な繰り広げられているのもまた真だ。

「なるほど、情報源は確かなようだな」

日付を過ぎた天久保では雑居ビルの一階から五階まで色とりどりのネオンが光る。昼間、目にする灰色の光景とは異なった鮮やかな色彩だ。油井は店をあとにすると、難しい顔を浮かべながら吉水に別れを告げた。不穏な足音が一歩一歩と近付いてくる感覚がする。それを振り払うように、油井は駆け足で家路を急いだ。


   9


一般的に自動車会社では人気車種のモデルチェンジが二年半から三年程度のスパンで行われる。技術革新やデザインの流行により、いつまでも古いラインナップを並べていては顧客満足度を低下させてしまう。イズミでは最も売れ筋のメビウスが翌年九月にマイナーチェンジを迎える。開発計画も徐々に具体化し関係部署が準備を始めていた。

新車開発計画は発行元の開発部署を発端とし購買やセールスなどの各機能部署、部品設計担当部署、製造工場に伝達される。計画を受け取った関係部署は部品費や設備導入費、販売費などを見積り、予算の申請を行う。予算計画に基づき、開発担当は車両販売価格と照らし合わせて利幅を算出する。ここで充分な利益が獲得できないと判明すると、各部署に更なる原価低減を依頼するか、もしくは最悪の場合、計画自体が取り消しになることもある。

最内ら品証部署にも例外なく新車計画は落ちてきており、設計とともに部品の仕様変更や品質懸念箇所を洗い出し、次期型メビウスの立上準備を粛々と進めていた

マイナーチェンジ後のメビウスには排気量の違うエンジンが新たに追加搭載される。過給機の増加と排ガス循環装置、車体の軽量化により更なる燃費向上を目指す。これが実現すれば量産モデルとしては業界初の平均燃費四十キロが実現する。イズミ自動車としては翌年度の営業利益と市場でのプレゼンスを上げる絶好の試金石となるため、何としてでも成功させなければならない。

「エン担は忙しないな、ターボチャージャーの排気ロスが大きくて異音が発しているらしい。実験部が毎夜ファイアリングテストを行っているが、試作までに改善の見込みがあるかな」

燃費向上にはエネルギーロスを如何に軽減するかが鍵になってくる。より少ない燃料で航続距離を伸ばすには、エンジンの燃焼効率を上げるほか、車体重量の軽減、伝達効率の向上が必要で、関係各署が一丸となって臨まなければならない。今や三リッターで百キロ走る車は国際的に稀でなく、ハイブリッド先駆者イズミでしても、挑戦者意識がなければすぐに市場に遅れをとってしまう。エンジニアが凌ぎを削る時代が続く。

品証オフィスもパワートレイン担当のいる島は電話が鳴り響き、早朝から会議が続きデスクにいる暇もない。長時間の会議はランチタイムや定時後も関係なく続き、焦燥した様相の担当者が自席に戻るのは夜九時を過ぎた頃だ。それから会議資料を作成し、帰宅時間は日付を超すことが多くなった。

一方、最内のいる内装担当はモデルチェンジによりカラーバリエーションが増えたものの、仕様に関してはこれといった大きな変化はなく部内での存在感も薄くなっていた。同じ部署でありながら島を挟んで流れる時間が全く異なる。

朝、最内は出社すると新たに手配される部品の一覧表をもとに事務作業に邁進し、品質リスクの大きい順に部品の優先度を並べた。A、B、Cとランク付けされた内装部品リストにはCの文字が並ぶ。C部品は現行車の流用品で品質リスクが少ないという意味だ。

「インテリアは問題がなさそうすね。サプライヤーの生産能力にも余裕があります。価格も据え置き、これといった不懸もない」

購買や設計を交え、内装品担当者間で打合せが行われた。週次で行われる進捗会にはこれといったトピックスもなく、会議は緊張感を失っていた。

会議に参加した購担の清水は、大きく張り出した腹を苦しそうにベルトで締め付けている。顔は脂ぎっているが身に纏う装飾品は高級な品である。袖から見え隠れする高級腕時計は怪しげな売人風貌を匂わせる。

完成車メーカーの購買担当といえば、下請メーカーから部品を安く叩き買うことが業務目標のため、持前の横柄さが顔に滲み出ている。品証と同じく社内では嫌われ役を担う機会が多い分、社内での会議では肩身が狭く外弁慶気質が醸し出している。

「内装品に関しては、部品の製造元も現行と変わりないかと」

清水はリストの束を広げると、双対となっている部品とメーカー一覧を指し示した。

現行と同じ部品、同じメーカーであれば、モデルチェンジであってもさして変化はない。取るに足らない打合せなどさっさと終わらせたい一心で清水は早口で捲し立てた。

形だけでも一応は全点確認する必要がある。それが面倒な品証な仕事のやり方だ。

「―あった、一社だけ。次期型メビウス搭載のエアバッグですが、シバタでなくステアモーターになります」

そう言うと清水は納入元欄を指さした。そこには欧州の出荷港を示す略語が記載されている。

「ステアモーターズだと、輸入品じゃないか」

大手総合部品メーカーであるステアモーターズは、エアバッグ以外にもチャイルドシートやシートベルト、電装部品、各モジュール部品を製造している。世界中に拠点があるが、エアバッグに関しては北欧にある本店工場で製造されている。船便で送るとなるとスエズ運河を経由して那珂湊港に到着するには四十日程度のリードタイムを要する。海送による遅延や事故といったリスクだけでなく、不具合品の代替や在庫管理という点でも足の長い輸入品は扱いにくい。

「ええ、ですがステアモーターズ製に問題はないと思いますが」

清水は飄々とした態度で言った。現場を知らない購買部門の軽々しい発言に最内は苛立ちを隠せずにいた。

「輸入品は供給リスクがあるだろう。それにリストを見る限り、部品費もシバタと変らないじゃないですか。むしろ調達コストを考えれば赤だ。これじゃ、わざわざステアモーターズに変更する意味が分からない。よりによってエアバッグが輸入だなんて」

輸入品は安価だが、インフレーターなどの発火物を積んだ部品は通関手続きも面倒である。品質保証をする身としては、輸入調達で余計な責任を負いたくはない。きっと現場も首を縦に振らないだろう。何としてでも輸入品の採用を阻止したい一心で最内は清水に食い掛かった。

しかし清水も負けじと自論を貫き通す。渉外の多い購買部は口が立つ。会議という場では清水の方が一枚も二枚も上手だ。

「芝田電機の工場担当者によると、月産二万台の超量産車に供給するには生産能力が足りないと、そう仰ってました。エアバッグを製造している厚木工場を昼夜フルに回しても、能力が追い付かないと説明を受けました」

清水の説明に合点がいかない。最内は更に続けた。

「現行車もシバタを採用しているじゃないか。それにステアモーターズはメビウスでの搭載実績はない」

「シバタ製エアバッグはトキオ自動車が最大の大口、次いでイズミと続く。先に立ち上がったフラットへの部品供給で厚木は能力過多だそうです」

フラットといえばトキオ自動車の売れ筋モデルである。コンパクトカーセグメントで、ハイブリッドを含む様々なバリエーションを有する。リッター三十キロの高燃費は国内メーカーとしてはメビウスの最大のライバルであり、特に今年度モデルチェンジを行ったフラットはカーオブザイヤーも受賞し年間三十万台の生産を達成した。トキオへの供給増で他の生産が追い付かないというのは説明がつく。

「ステアモーターズ製エアバッグは次型メビウスにも十分に互換があることは開発部で承認されています。現に他モデルでは搭載実績がある。輸入品のリスクはありますが、サプライヤーの供給の関係もあるので、状況を考えるとステアモーターズを採用せざるを得ません。ご理解ください」

ご理解――か。

口煩い品証担当とでも思っているのだろう。自分が面倒な警察役と思わられていることを考えるとやる瀬がない。

会議が終わり清水の大きな後ろ姿が打合せスペースのガラス越しに消えていくなか、最内は最大懸念事項としてエアバッグの行く末を念じた。

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