第一章辞令
1
イズミ自動車では二○一三年、自動車メーカーとしては世界初の一千万台という大台を目前に、社長の和泉章雄による仰々しいばかりの決算発表が行われた。
会場となった茨城県和泉市あるイズミ自動車本社ホールには、多くのマスコミ関係者が集結していた。海外の映画祭を思わせる艶やかな演出で、壇上に登る章雄の表情は日本経済の覇者ともいうべき恍惚を放ち、もはや恐いもの知らずといったところだ。
「当社では昨年度の最終利益が創立以来、初めて一兆円を越えた。新車販売台数は九百四十万台を越え、一千万台の大台も今年度中に乗せることを現実視している」
連結売上高二十兆円、純利益一兆円、従業員数三十万人を越える大所帯はいずれも単一メーカーとして日本最大である。圧倒的な規模と価値は日本経済界を牽引し、万人が認める優良企業の一角だ。
自信と覇気に溢れた章雄の声明に、記者団のみならず、日本中の茶の間が釘付けになった。
「一千万台体制に備えるため、国内の生産工場の稼働率は常時フル回転させたいと考えている。さらなる雇用の創出を進め、活気ある自動車産業を牽引していく」
イズミ自動車が他を寄せ付けない圧倒的な規模で世界の頂点に君臨したのには、決して平坦な道のりだったわけではない。
――米国イズミで巨額リコールを巡る集団訴訟
会見から五年前、イズミ自動車を取り巻く世間の風は冷たく、誰もが世界的企業の墜落を偲んだ。まるで世紀の大犯罪者のように、和泉章雄が米国経済誌の紙面を独占した。連日、各地でイズミ自動車のリコール問題が取り上げられたのは記憶に新しい。
イズミ自動車への向かい風は強く、連続的に起こったリコール訴訟により多くの顧客の信頼を失った。低価格化を目指し、部品の共用化や杜撰な品質管理が仇となって生じた大規模リコール問題は、身から出た錆であった。組織的な不具合隠蔽工作とブランドに胡座をかいた顧客対応。そしてその後も米国金融危機、さらに東日本大震災と不運は続き、イズミは長いトンネルを経験することになる。
世界最強企業の弱点は何だったのか。
イズミ生産方式の唯一の弱点は、減産に弱いことである。超効率的かつ合理的な工場経営は単位時間当たりの生産能力には絶対的な自信を持つが、一方で震災や経済危機がもたらす需要の低下には対応が遅くなりがちである。ライバル企業が次々とリストラや減産という策を打ち出す中で、イズミだけが操業度にメスを入れずにクルマを作り続けた。そういった増産志向姿勢が大量の在庫処理に繋がったのは言うまでもなく、イズミが抱えるサプライチェーンに大きな捻れが発生したのである。玉が出ても売れない。営業と製造の間で生じた不和が、巨大組織の中で爆発的に膨らんでいった。
悪夢から僅か五年。一度は地に落ちたと思われたイズミ自動車の底力は、世界中のアナリスト達の想像を遥かに越えていた。連鎖的に発生したリコール、そして災害の波に沈没しかけた巨大な泥船は、再び生気を取り戻して大海へと繰り出していった。イズミの復活は見る人の度肝を抜き、再び世界一の自動車メーカーとして、その名を世界に知らしめることに成功した。
「時代や景気の変動で、多少の波風はあるかも知れないが、自動車産業という人々の生活に深く根付いたインフラは、そう簡単に潰れることはない」
最内が自動車メーカーを目指した動機も、まさにそこにあった。
最内剛はイズミ自動車のグループ企業である府中トラックに勤務する中堅エンジニアである。入社以来十年間技術畑を邁進し、現在は同社の本店工場である府中工場で車体技術課に属している。
東京都府中市を本拠地とする府中トラックは、主にトラックやバスといった大型車両を専門に扱う完成車メーカーである。イズミグループの中核であり、乗用車以外のセグメントを担っている。
イズミグループは他に、軽自動車やコンパクトカーといったラインナップを中心に扱うナラハツ自動車、高級車ブランドを生産する和泉自動車九州など、セグメントによって幾つかの企業体を形成している。
会社名こそ違うものの、どれもイズミ精神を引き継いだ完成車メーカーであることに違いはない。
イズミ自動車は古くは輸入車の修繕を行っていた和泉一族が、現在の茨城県南に自動車工場を設立したことに起因する。「オールイズミ」と呼ばれるイズミグループの中枢的役割を持つ企業群。創業者グループが直接創立に携わった企業は、現代においても強い影響力を持つ。
その後、戦後の波乱を越えて、アメリカからの輸入産業として自動車の生産を本格的に開始する。現在は部品メーカーや物流商社の他、自動車事業とは関係のない住宅メーカー、金融業、損害保険など数多くの事業を展開している。まさにイズミ財閥の名を欲しいままにしていた。
「我々は次年度を自動車再起の年と呼ぶことにする。さらなる飛躍の年に、モノづくり大国日本の価値を全力で創造していきたい」
章雄は深々と頭を下げると拍手喝采の中で壇上をあとした。自信に満ちた背中を記者団に残し、大きな存在感を示して姿を消した。
2
東京都目黒区で慎ましく行われた葬儀には多くの参列者が訪れていた。
忌中の表札には杉野家とある。
杉野義人、二十八歳。都内の情報通信系企業に勤める若手社員であったが、先日事故で不慮の死を遂げた。
参列者に頭を下げる妻の真由美は先行きの見えない生活と夫の突然の訃報に目頭を腫らしていた。ローンは残り三十五年。結婚二年目で、つい最近新築分譲マンションを購入したばかりという。
「今回の事故に事件性は薄く、またブレーキ痕から推測するにかなりのスピードが出ていたと思われます。現場は見通しの悪いカーブ、当日は強い雨も降っておりました。おそらくハンドルをとられ、そのままガードレールに突っ込んだと―」
葬儀当日も事故発生日に似た冷たい雨が降りしきっていた。
若狭が焼香を上げに杉野宅を訪れたときには既に参列者の多くが着席していた。
多くの事件、事故に遭遇してきたが、遺族に顔を合わせる瞬間はいつも辛い。
事故後、電話で一報を受けた真由美はひどく取り乱したという。結婚して二年、順風満帆な日々を突然襲った悲惨な現実。世の中は無情である。
今は平静を装っているように映るが、ここ数日の感情の変化は想像を絶する。
しめやかに行われた式後、時計の針が六時を回ったことを確認し、若狭は挨拶を済まし本部へと戻ることにした。まだ他に抱えている所用がある。さっさと次の仕事を終えないと、いつ突発が入るか分からないのが警察の世界だ。
「生前、ご主人様には大変お世話になりまして」
会社関係者らしき人々が言葉を交わしたのを確認すると、若狭は真由美のもとに立ち寄った。
「あら刑事さん。お忙しいところご迷惑おかけします」
真由美は義人と同じ会社に勤めるOLだ。華奢な体型であり、それ故に腹の膨らみは喪服の上からも目立った。
「主人は生真面目さだけが取り柄だったような人です。今どき珍しく酒も煙草をやらないで、唯一の趣味といったら車だけでした。そんな主人も結婚後はスポーツカーを諦めて普通車を購入しました。昔は名前も知らないような随分と速い車を乗っていましたが」
真由美は昔を思い出してさも嬉々しく言った。
饒舌な真由美を陰に、もうあのような楽しい過去は二度と戻ってこないという現実を、若狭は苦渋の表情で感じた。
「私に何ができるとも思えませんが、いつでも連絡をください」
ありきたりな言葉を並べると若狭はその場を後にした。
車慣れしていたことが逆に災いとなったのか。
スポーツカー乗りにとって大衆車は車高が高く速度の感覚が鈍りやすい。きっと暗闇に濡れた路面でハンドルをとられたのだろう。家族や会社、そして生まれてくる子供を残しこの世を去った義人の罪は重い。趣味が災いし、義人は永遠の別れを告げたのだ。
降りしきる雨の中、警察車両を走らす若狭。フロントガラスには大粒の雨が叩き付ける。運転する若狭にはある疑問がシコリとなって頭の中を渦巻いた。
「はて、煙草を吸わないとしたら、あの焦げ跡は一体―」
鑑識の森によれば、説明の付かない妙な黒点がコックピットに残っていたという。事故とは直接関係はなく、特段取り沙汰するつもりもなかったのだが、森の不可解な様相が印象に残った。
煙草の焼け跡のように思われたが、被害者は喫煙者ではないらしい。ひとつの疑問がひとつの雨粒となって若狭の頭中に降りしきる。
そんな疑問も、本署につく頃には多忙な若狭の記憶の片隅にしまわれていた。
3
府中トラックは、本店である府中のほかに八王子や羽村など主に西東京地域に開発拠点を置くが、経営の合理化のため売れ筋モデルに生産を絞り、国内工場の生産も縮小傾向である。売上高一兆円の内、七割はタイやインドといったアジア圏に集中し、近年では専ら海外生産に頼っている状況だ。二万人いる従業員のうちほとんどは海外の現地採用で占めている。
「最内、ちょっと」
午後三時。設備メーカーとの打ち合わせを終えた最内がデスクで議事をまとめていると、在籍する車体課課長の萩野が声をかけた。
デニム生地のパンツに上は作業用ブルゾンを羽織っている。撫で肩に作業服は似つかわしくなく、薄くなった前頭部が弱々しく靡いていた。
五十代後半で課長職に据え置きとなった男からは悲壮感が漂う。これ以上の昇進は見込めず、今は若手の育成に尽力するだけだ。
「最近どうなんだ、調子は」
しゃがれた声で煙草の火を点けた萩野は、詰所のパイプ椅子にどかっと腰を下ろした。
上司に呼び出しを喰らうということは、大抵良い話ではないと相場が決まっている。特に国内工場の生産がこれだけ落ち込んでいる状況で、新たな業務の話を振られるとも考え難い。
「ぼちぼちですね。ただ新車が少ない分、暇を持て余してるとも言えなくはないです」
最内は言葉を濁し、悟ったように応えた。
デザインや利便性を刷新し続ける乗用車と異なり、商用車は定期的にモデルチェンジを行う必要性がない。一度製造ラインを立ち上げればそれ以降の設備更新はなく、時折発生するチョコ停対応や設備の保全、品質チェックなど単調な仕事内容に追われる。
堅実といわれる商用車事業だが、仕事が充実しているとは言えない。二○○四年のディーゼル車の排出ガス規制に伴う買換え需要がピークで、そこからは右肩に下がり続けている。また、鳴かず飛ばずの市況は国内だけでない。
一時は爆発的に増えた新興国からの受注は落ち着き、最近になって市場は飽和気味である。業績はここ数年安定しているが、僅かに減少傾向で推移している。遣り甲斐があるかと言えば嘘になる。
府中工場の生産ラインは能力の七割程度で推移。五年前までは三半二交代制だったが、今は昼勤一直となっている。人件費の安い海外工順に勝てず国内工場は閑散としていた。
「最内には今後、もっと大きな仕事をしてもらいたいと考えている。いずれ海外工場の立上や、場合によっては管理職への昇進も―」
「ええ」という生返事は現状に対する不満からではなく、いつの間にか楽な環境に安息している自分への甘えなのだろう。かつて大きな夢を抱いて就職はしてみたが、いざサラリーマンになると保身に走るのが法である。
いかに自分の立場を守るか。変化を拒む体質は最内に限った話ではない。
拡大化を進めるイズミ自動車が同社の株式の過半数を取得したのは今から十五年ほど前の話である。
安全性や法規の対応、環境規制、また自動車の電子化による大型投資により自動車業界は九十年代以降大幅な業界再編を迫れた。イズミも例外でなく、小型車セグメントやスポーツカーの強化のため他の完成車メーカーと業務提携を繰り返し、その一環として府中トラックと提携した。
悪く言えば属人的で日本的経営のイズミは、恵まれたスケールメリットから一度も買収の危機に陥ることもなく、また海外メーカーとの提携も行わなかった。
府中トラックは取締役社長の蓮田をはじめ、役員はイズミ出身者で構成されている。提携後、営業部門が本体に統合されてから自由に販路が見出せず、またイズミの能力確保のため乗用車の生産を府中トラックで一部補完した。常に本体の機嫌を見ている状態だ。
タテ型ネットワークの弊害。企業間に主従関係が生まれるのはやむを得ない。イズミ自動車からOBや出向者を下請企業に派遣するなど、オールイズミの権限は増すばかりだ。
「お前、本体で働くことに興味はあるか」
突如、萩野の口から飛び出した言葉に、最内は目を白黒と点滅させた。
「本体って、和泉市のことでしょうか」
萩野は紫煙を吐いたあと「そうだ」と小さく頷いた。
「イズミが大規模な社内公募を打ち出そうとしているらしい。サプライヤーや設備メーカーにも公募の門戸を広げるという。当然、うちも例外じゃない」
イズミ自動車が一千万台体制を維持するため、従来より多くの新車を投入するという経営計画を発表した直後の話だ。
「ここだけの話、一応は公募という名目だが、各社一定人数以上の社員を本体に出向させなければならないという上位通達だ。イズミグループの社員であれば、少しは本体のやり方は知っているはず。イズミは即戦力を求めている。ここには若い社員が少ないから、最内に出向の話が及ぶのは間違いないだろう」
最内剛は都内の理工系大学で電機工学を専攻したあと、完成車メーカーへの就職を志望し、府中トラックへ入社した。当時、イズミ自動車も受験したが縁はなかった。
製造業に従事していた父親の影響もあって理工系の道へ進み、学生時代にサークル活動で知り合った腐れ縁の花恵と長年の交際の末結婚し、現在は小学生になる息子もいる。
一方で最内は母親を幼い頃に交通事故で亡くしており、母親の記憶は薄い。順風満帆とはいえないが平穏な暮らしを求めるのは、自身の青春時代を遡る本能的なものだろう。そして皮肉にも自動車業界に入社したのは、運転者の安全性の追求が根底にある。
しかし、最内を待っていたのは技術を追い求める華やかなエンジニアの仕事でなく、地味な商用トラックであった。しかも車両ではなく、生産ラインの製造を担当している。最内の目の前に広がるのは油が充満する小汚い工場だ。
諦めと妥協、三十も半ばを超えて、若い頃抱いていた夢は完全に失った。
サラリーマンは上意下達、努力しても高が知れている。自分を取り巻く環境が改善されるわけでもなく、待遇が上がらない。
変化を拒む体質。考え方も保守的になった。十年前、自分を振った面接官の表情が未だに脳裏に蘇る。今さら、イズミ自動車へ出向か。
最内は明言を渋ったが、萩野の言うことならば嘘ではないのだろう。人望はないが人を裏切らない性格だ。この環境でなんとかやっていけているのも萩野の支えがあるからだと言っても過言でない。
「最後は自分の意志だよ、最内」
萩野はポンと最内の肩を叩くと、火の点いた煙草を灰皿に押し付け、ゆっくりとその場を立ち去った。
4
「転勤ってなによ――」
突然の知らせを聞いた妻の花恵は釈然としない様相で最内を迎えた。
「仕方ないんだ。辞令には逆らえない」
武蔵野市にある自宅マンションに着くや否や、夕方突然言い放たれた萩野の言葉を花恵に伝えた。
ネクタイを緩める最内。
俯き加減の最内に、花恵は鋭い視線をぶつけた。
「転勤って、いったいどこに移るの」
「茨城だ」
花恵は素っ頓狂な声をあげた。
「茨城って、まさか本体に移るっていうの」
イズミ自動車は茨城県和泉市に拠点を置く。
輸入車の修理から本格的に自動車の自社生産を進めた和泉一族が茨城に移り工場を設立したのは戦後間もない頃だ。
現在では世界中に工場を展開する大所帯で、自動車業界として初の一千万台生産体制を掲げている。
人口三十万人、面積三百平方キロメートル、茨城県南部に位置する和泉市。産業は専ら自動車が主である、下請業者を含めると九割が自動車従事者である。愛知県豊田市や茨城県日立市などと双璧をなす企業城下町だ。
茨城県の行政単位は、山間、臨海、県央、鹿行、県南、県西の六区域であり、部品メーカーも含めるとイズミの勢力は県全域にわたる。
漁港としても有名な常陸那珂港区、大洗港区、鹿島港、那珂湊は完成車の出荷港としても機能している。世界中見渡してもこれ以上の規模は珍しい。和泉市を中心に巨大な自動車工業地域を形成している。
苛立ちを隠せない花恵に対し、最内は開き直って口角をあげた。
「ああ、そうだ。茨城県和泉市。借家は会社が斡旋してくれる」
「家はともかくとして、一応私もパートを辞めなきゃならないし、要にも転校の準備があるわ」
内辞を受けた暮れの肌寒い夕刻。家族にはどう説明しようかと、答えのない葛藤を抱えながら帰路を辿った最内。サラリーマンである以上、上位者の指示には逆らえない。その一方で家族の合意も必要となる。自由が効かない生活に押し潰されそうだ。
「俺は単身赴任でもいいと思っている」
意外な反応に花恵は息を飲んだ。
結婚して、三十も半ばを越えて、また独身生活に逆戻りか。
ひとりは気楽でいいかも知れないが、孤独に耐え得るか。
最内を取り巻く不安は募るばかりだ。
人事の一言で家族が引き離される。サラリーマン人生は無情である。
「そういう問題じゃないの」
花恵は訴えかけるように声を荒げた。
「すまないと思っている」自分が悪いわけでもないのに謝るのは何故なのか。答えは自分も分からない。
「それで、異動はいつからなの」
「次年度から。つまり来年の春からだから、府中にいられるのも残りあと三ヶ月ってとこだな」
諦めたように薄ら笑いを浮かべた。
最内は心のどこかで府中という場所を気に入っていた。
都心とはいえないが、田舎と違ってアクセスはよく、良い意味でバランスがとれている。
学校や職場、妻のパート先からも近く、近所付き合いでも問題は生じていない。こんな安穏な生活を捨てて、北関東の片田舎に転居となれば、些か憂鬱な気分になるのも無理はなかろう。
「茨城というと、少し田舎に引っ越ししなきゃいけないのね」
状況を理解し、漸く冷静になった花恵も虚ろに呟いた。
「和泉市ってどんなとこかしら。イズミ自動車の城下町っていうイメージしかないけど」
「まさにそんな感じだろうな。もともと筑波という地名だったらしいが、イズミ自動車が拠点を構えてから名称が変わったというくらいだから」
こうして突如始まった最内家の引越計画である。
引越先は、茨城県和泉市梅園――。
そこがどんな場所であるか想像もつかない。仕事と家族、二重の不安を抱えながらも、突きつけられた現実に最内は毅然と対峙した。
5
「――そうですね、出向された方はこちらの地区に住まわれるのが多いですよ。イズミグループの社員様でしたら家賃補助が出ます」
会社から案内を受けた駅前の不動産屋に行くと、想像していたよりも清潔感のある店内でこれから住む社宅の説明を受けた。
前野と名乗る感じのいい営業社員。名札の上には宅地建物取引主任者の文字が見える。
イズミホームはイズミ自動車が主要株主となっているハウスメーカーである。イズミ傘下の大手部品メーカー、エレクトロニカの現会長である和泉忠の発案で、建売住宅、マンション分譲を中心に不動産開発部門を興した。もともとは従業員用社宅の開発が目的であったが、イズミ自動車が事業を拡大する中で、徐々に和泉市の地場産業として深く根付いていった経緯がある。
地元である茨城県の土地開発を中心に事業を進め、現在和泉市内に存在する社員寮や住宅は全て同社が設立したものである。
創設者の和泉忠は章雄の叔父にあたる。その他、主要なグループ会社の取締役には和泉家の血縁が多く、日本一華麗なる一族がここ和泉市に集結している。
駅前の中心部にはそのほかにも和泉の看板がついたあらゆる業態の店舗が目立つ。和泉銀行、和泉病院、和泉損害保険――云々。
まさにイズミ城下町といったところだ。
至れり尽くせりの環境であるが、会社のロゴを象った店の多さに、プライベートまで覗かれている気がしてならない。
「嫌に安いのね。田舎だからこんなものなのかしら」
築二十五年、家賃六万円は一軒家にしては格安だった。庭付き南向き、駅からは若干遠いが、小学校やスーパーも徒歩圏。周辺環境を見る限り悪くはない。
「三月に入りますと多くの企業が辞令を出すため、物件が探しにくくなります。今ですと、絶対にここがお勧めですよ」
押しの強さに若干圧倒され気味の花恵と最内だが、嘘っ気のない話し方を信頼し、梅園にある一軒家を選択した。というより、他の地区は家賃が高く足が出るため、ここしか選びようがないといった方が正しい。
「――まずまずの家かな」
ここが本当に日本を代表する企業の社宅か。そう思うくらい、梅園の住宅は陰気臭かった。
玄関を開けると黴臭く、三月というのに嫌に湿っぽい。
所々変色した壁紙は煙草のヤニであろう。前にどんな住人が住んでいたのかも想像が付かない。
「さすがに都内よりは広いわね。長閑というか」
苦し紛れの微笑を浮かべると、花恵は早速リビングやキッチンを見回した。
長年人が住んでいなかったのか、室内には生活感がないが、さすがに都心から離れるだけあって、以前いたマンションに比べると居住面積はそれなりに広い。
「隣の松園とか竹園にももっといい家があったけど、家賃三十万円はちょっと高過ぎるわよね」
皮肉混じりに花恵はカーテンを広げ外を眺めた。
夢の庭付き一戸建て。
借家であることに代わりはないが、最内家にとっては夢に見た広い一件家である。
「でもどこか、肩身が狭い気がするのは何故なんでしょう」
嫌味ともとれる花恵の一言が最内の胸に突き刺さる。
やはり単身で移住した方がお互いのために幸せな選択だっただろうか。
東京から茨城への転勤というのは、たとえ本社とは言え都落ちともとれる地方異動だ。
主婦である花恵にとって、都内から地方に移るということは、一気に生活範囲が狭くなることを意味する。友人とカフェに行くにも、田舎は車社会である。とくに電車がほとんど通っていない和泉市において移動手段は車に限られ、しかも車はイズミ車のみとなると息苦しくなりそうだ。
「前は駅が近かったけど、今度の家は徒歩では無理そうね」
和泉市内に唯一存在するいずみ駅は、八年前にできた新線の終点駅である。快速であれば都心まで四十分で通えるため、かつて「陸の孤島」と呼ばれたイズミ城下町は駅前周辺地域を中心に大きく発展した。とはいえ、市の中心部を除けば大部分は未だに開発が遅れており、車社会が強く根付いている。
一通り内見を済ませた後、最内一家はマイカーであるフラットに乗り、市内の主要観光地を回った。
駅前は区画整理が進んでいるが、少し走ると一気に田舎くさくなる。とくに和泉市のランドマーク的存在である和泉山の麓地域は、確かに自然豊かであると言えば聞こえがいいが、悪く言えばドが付くほどの田舎である。
「何年くらいここにいなければならないのかしら」
助手席にいる花恵の心の声が漏れた。
「さあね。単なる勤務地変更じゃなくて、出向扱いだから、ややもすると定年まで」
「いやよ、そんなの」遮るように花恵は語気をあげた。
「あなたにとっては栄転かも知れないけど、私達家族からしたら本当は引越なんて嫌なのよ」
転勤は家族の絆を割くと言われる。
これが自宅を購入した後であったら大変だった。
最内は心の中の蟠りを解消できないまま、不穏な気持ちで自宅のある梅園まで車を走らせた。
6
入社二年目の山岡太一は、半年間の現場実習を終えて車両実験部に配属となった。実習先のボディ組立工程では売れ筋のメビウスを担当した。メビウスの製造ラインはイズミ自動車最速の量産ラインである。現場に最も近い場所で昼夜問わず働き回ったことにより、自動車会社の基礎を肌で感じた山岡。本職である実験棟に戻り、ようやく成果が試されるときがきた。
「事故車の検証結果を品質保証室にフィードバックしてほしい」
配属後、山岡が最初に言い渡された仕事は、交通事故を起こした車両の安全性能に関する検証報告である。
事故車両は一般的に、いったん警察に引き渡されたあと解体業者でスクラップにされる。特別な事件性がなく、運転者の過失で引き起こされた事故に関しては遺品整理を行った後すぐに撤去される。
しかし時折こうして自動車メーカーが事故車を引き取り、走行や安全性のテストを行うことがある。メーカーが事故の原因や破損箇所を調査し、より安全で丈夫な車体設計に繋げるのだ。
今回、実験部が引き取ったのはイズミの中で最も量産されている売れ筋のハイブリッドセダン「メビウス」である。
一九九九年の発売開始のあと、燃費三十キロを越える究極のエコカーとして世界中で人気を博し、発売十五年で二度の年間最高売上を記録している。イズミ自動車が誇る言わずと知れた人気車種だ。
現在は和泉市の他にタイや中国、アメリカでも製造されているが、今回検査の対象となったのは一昨年から日本で製造が開始された『メビウスZ』という最新モデルである。メビウスは発売から四度のモデルチェンジを繰り返し、安全性においてもイズミトップクラスだ。
「通常、こういった事故車の検証は一週間で済ませ、その後は部品毎にバラして開発部署に引き渡すが、お前は初めてなんで二週間くれてやろう」
そう言って新米の山岡に全権を託したのは実験部で小型車セグメントを扱う課にいる宝田課長である。四十を過ぎたが色黒で体格がよく親分肌な宝田は課内でも評判がよい。
「畏まりました、なんとか納期通りに頑張ります」
元気に返事はしたものの、山岡の表情は硬かった。
初の担当業務に山岡は緊張を隠せないでいた。
「なに、誰だって最初の仕事は緊張するもんだ。心配するな、分からないことがあったら俺がフォローする」
そう言って宝田は山岡の背中をポンと叩いた。他部署とのミーティングのため実験棟を後にすると、ひとりラボに残された山岡は繁々と事故車を眺めた。
簡単に仕事を引き受けたものの、何から手を付けていいか分からない。
山岡はひとり不安と孤独を背負いながら、手にした手順書を基に車を観察し始めた。メビウスに採用されている安全技術の数々。それらが正常に作動していたか。安全対策は十分だったか、山岡なりの見解をまとめ、品証室に報告する。それが山岡に与えられた責務だ。
車はボンネットが激しく損傷しエンジンマウントも外れている。エンジンルームは外部から衝撃を受けた反動で部品が外れる構造になっている。これによってボンネット内に空間ができクッションの代わりをする。安全上の設計だ。
「これだけ激しく壊れたら、安全性能云々の前に命はない」
警察の調査資料によると、車は時速百キロで走行して道路横のガードレールに激突したとある。生きていた方が奇跡だ。エアバッグをはじめとした安全装置の不具合も報告されていない。車両前部が大きく壊れたことで車内に十分な空間がとれず運転手は圧死した。助かる余地はなかった。
山岡は写真と図面を睨みながら、丁寧に検証結果をまとめた。世界で最も売れている量産車種。如何なる不具合があってもいけない。ひとつの小さなエラーが、致命的なリコールにも繋がり兼ねない。
山岡は見えないプレッシャーと責任を感じながら、ひたすらに検証を続けた。
7
「あら、おはようございます」
花恵が声をかけると、余所余所しく頭を下げるご婦人の姿があった。
白石は最内家の隣に住む物静かな女性だ。言うまでもなく旦那はイズミ自動車の勤務だが、この時間にゴミ出しとは専業主婦であることは間違いない。城下町では妻が働くことは未だに卑しいとされており、女性は二十代で結婚し家庭に入るべきという田舎の風習が残されていた。
引越の挨拶のときは高ぶった雰囲気もなく人当りの良さそうな人だと思ったが、今日はどこか仏頂面をしているように映った。なんとかして御近付きになろうと、勇気を出して花恵は声をかけた。
「引っ越したばかりで、何も分からないことばかりなんです」、思い切って花恵が話しかけると、白石は足を止めて花恵と向かい合った。
「まだご挨拶だけで、普段の生活のこととか、教えて頂かなければいけないことも沢山ありまして、不束者ですが―」
できる限りの愛想を振りまく花恵。
引越し先の近所付き合いも妻の重要な役目である。特に城下町であれば、どこでどのような役職の人間と遭遇するかも分からない。
「最内さんの旦那様って、本社勤務?それとも、中央研究所?」
梅園に住居を構えるということは市内中心部の事業所であることに間違いないという白石の推測からだろう。
花恵は「研究所です」と答えると、
「ウチの人も中央研なんです」という答えが返ってきた。
共通点があると知ってか、白石も徐々に打ち解けて笑顔を見せ始めた。
「そうですか。それでしたら、会社でもお会いすることがあるかも知れませんね」
表面上は取り繕ってみたが、隣人が同じ会社のしかも同じオフィスに勤めていると知れば、プライベートを享受している余裕もなくなってしまうのではないか。都内在住であった頃は考えもしなかったが、地方の城下町ならでは、狭い世間で生活しなければならないという息苦しさが垣間見れる。
「この辺は研究所勤務の方も多いですから。あとは本社か、中心部のメーカーさんとか。この辺は治安は非常にいいですし、お子様がいらっしゃるなら学校の教育もしっかりしているので御安心できるかと」
「治安、ですか?」
「ええ、子供ができる前の話なんですけど、二年間工場勤務になったことがあったんです。新車立上のプロジェクトで。正直申し上げて、そのときは最悪でしたね。社宅住まいだったんですけど、工場の労働者もいるので夜勤者が騒ぎ立てて煩いですし、なにより住んでいる人の質が悪かったですわ。作業着姿のままでコンビニやスーパーに寄る人もいらしたので」
なるほど、という気持ちで花恵は聞いた。
和泉市は茨城県内でも最大の面積を誇る巨大な市である。本社城下町の他に、市内の各工場にも小さな城下町を形成しているというのだ。
「最内さんは、以前はどちらにいらしたの」
「武蔵野市です」
「武蔵野?」
武蔵野と聞いて白石は不思議そうな表情を浮かべた。イズミ自動車の事業所は市内に限られており、都内には販社以外に存在しないからだ。
「ええ、西東京の。以前は府中トラックにおりまして」
「あら、もしかして出向か転籍になったのかしら」
「ええ、春からこちらに出向になりまして。旦那は車好きなのですが、私は車のことも会社のことも疎いんです。恥ずかしながら。出向期間は三年間と聞いているのですが、実際のところはどうなるか分かりません」
花恵が言うと、白石は口元に手を当てて上品に微笑んだ。
「ええ、私も。車のことなんて、全然分からないの」
白石婦人の話し方は、仕草から声の質まで、すべてが整い過ぎているように思えた。
しかし、この辺の奥様方はやたら美人が多いことか。
和泉マダムという造語があるくらいだから予想はしていたが、実際に来てみると想像以上だ。
かくゆう城下町の妻達も、かつては有名女子大や地元の優良企業出身者が多く、ここにいる白石もきっと良い家庭の出なのだろう。平日の昼間にも関わらず化粧を欠かさず、清楚なブラウスを着ている。間違っても綿麻エプロン姿で外出することなどできない。見栄えは良いが、いちいち面倒そうだ。
それから花恵が二つ三つ他愛もない世間話をしていると、ふと白石は最内家の駐車場にある車を一瞥した。
「あら、最内様のお宅って、トキオ車にお乗りなのですか」
トキオ車製のフラットは昨年度、メビウスを抜いて年間登録車一位を記録した。価格はメビウスと同等で二百万前後の大衆車クラスである。ライバル社製の車を保有するのはやはり場違いということか。
花恵はフラットを見ていた視線を白石に移すと、「ええ、でも来月には買い換えるつもりなんです」と申し訳なさそうに応えた。
「事業所にはイズミ車でないと通勤できないのですが、そしたら来月まではバスで通勤されるのですかね。買い換えるとしたら、やはりE51あたりかしら」
「E51?」、聞き慣れない単語に花恵は眉を八の字に曲げた。
「メビウスのことです。すみません、旦那の職業病が移っちゃって。けっこうこの辺の人って、型式で車を呼ぶ人も多いんです」
「まあ、私も覚えなければまずいですね」
笑って見せたが、機械音痴の花恵に横文字を覚えるのは苦痛である。なにより型式で車を呼ぶなどという文化が普通にまかり通っていることに背筋が冷たくなった。
「長い時間すみません、今後ともよろしくお願いします」
短い会話であったが、やはり城下町だと気付かされた瞬間だった。
所詮、この街では妻は夫の付属品なのである。
相手の話を聞き、「うちの子も全国模試で名前が乗ったの」とか「旦那が海外に栄転した」とか、会話の合間に自慢話を挟みながら自己主張することで自尊心を保つ。それが城下町の妻たちの唯一の楽しみなのだ。
自分たちが社会に出ているわけではない。だとすれば、生き甲斐といえば旦那や息子を如何に世に出す努力をするかに限られるのである。
城下町の女にとって、大企業の幹部候補を捕まえて玉の輿に乗るのが人生での至高とされている。
当たりくじを引けばその後の人生は安泰。和泉市中心部に住居を構え、毎月高水準の給与と半年に一度のボーナスで、毎年海外へバカンスに行くのも可能だ。グランXをはじめとしたイズミ製の高級車を乗り回し、子供を良い学校に進学させることができる。城下町の妻はその国の王と結婚することに全てを賭けている。
一方でハズレくじを引いた妻達は悲惨である。出世すると思いきや、万年次長止まり、挙句の果てにメーカー出向や海外転勤で城下町から追い出され、家族バラバラの生活を虐げられる。どちらに転ぶかは人事という運だけだ。
家族の運命を会社に握られ、指差しひとつで家族は崩壊する。それが城下町に住む上でどうやっても逃げられない掟なのだ。
8
「今年度から品質保証室に最内さんが加わります」
ゼロ災ヨシの安全唱和から始まった朝礼は異動者の挨拶で慎ましく進行した。
「まだ右も左も分からない不束者ですが、よろしくお願いします」
「最内さんは三月まで府中トラックの車体技術課で生産設備の設計に携わっておられました。今年度から施行された中期計画に基づき、我が品証室でも人材の強化を急いでいる。最内さんにはこれまでのエンジニアリングの知識を存分に発揮して頂き、新車業務に邁進してもらいたい」
今年度新たに品質保証室に加わったのは最内ひとり。時田繁室長の簡単な紹介の後、疎らな拍手が最内を包む。
朝礼を終えると時田は忙しなく朝一の会議へと向かった。同時に品証オフィスにいた社員もぞろぞろとデスクに戻る。イズミ自動車の総本山である和泉中央研究所九階、品質保証室は国内外の生産拠点、販社から送られる品質情報を統括する。各拠点の管理職やリーダークラスばかりを一局に集めた精鋭部である。
「――よろしく。俺、加山って言うんだ」
住所変更や通勤申請など事務処理に追われ、あっという間に午前の業務を終えた最内は社員食堂へと足を運んだ。大手企業の社食といえばバラエティに富んだ豪勢な内容を想像しがちだが、実際は刑務所の食事と何ら変わらない、取るに足らない質素なものである。
「実は俺も今年度から本体に移ってきたんだ」
「そうなんですか、ちなみに以前はどちらへ」
傘下に多くの部品サプライヤーを抱える完成車メーカーにおいて出向は付き物である。長いサラリーマン生活で一度も出向や転籍を経験せず会社員生活を終える者はいない。それほど人材の流入出が多い業界といえる。
加山直人は嫌みのない話し方で最内へと擦り寄った。品証フロアと加山のいる部品購買は隣接しており、互いに同じ穴の狢に入った同窓であると感じたのだ。
「俺は和泉商事から。今も籍は商事なんだけどね」
商事と言えば、イズミグループにおいては総合商社である和泉商事を表す。和泉市内に本社があり、もともとイズミグループ向けの部品調達や購買機能を担っていたが、近年になって脱自動車を経営目標に掲げ、自動車業界以外への事業投資を積極的に行ってきた。それにより総売上高のおよそ半分を他事業で占め、見事に総合商社の一角として存在感を示した。売上五兆円は他の財閥グループにも引けをとらない優秀な業績である。
五階のカフェテラスの窓からは新緑に生い茂った木々と和泉駅周辺のビル群が見てとれる。長閑であるが、悪く言えば田舎くさい。和泉市の風景は企業城下町らしく地方都市の雰囲気を脱し切れていない。
「へえ、わざわざ府中から家族と引っ越して来たんですね」
「そうです。ついに私も城下に潜伏することとなりまして」
そう言うと最内は溜息混じりに苦笑した。
イズミ自動車は工場周辺に部品メーカーを誘致し広大な自動車工業地帯を築き上げてきた。これは和泉市に限らず海外も同様で、新工場設立の際には必ず近辺に傘下の部品メーカーの進出も手掛ける。完成車工場と部品工場を隣接させることで同期生産を可能にする目的だ。こういった生産戦略が、結果的に巨大な城下町を形成するのだ。和泉市外からの出向者となれば、些か珍しい人事異動と見られる。
「俺はもともと和泉市民なんで、土地には慣れている。市外からの転勤となると、会社の雰囲気に慣れるには少し時間がかかるかもね」
「ここで暮らしていく上で、なにか注意すべきことってあるんでしょうか」
企業城下町といえば周辺に住む人々や生活圏すべてが会社関係者で構成され、公私混同した雰囲気に陥りやすい。和泉市はその代表例で、戦後自動車事業の発生とともに現在の市制となった。税収の八割がイズミ関連企業で構成される。周辺企業のすべてがイズミカレンダーに基づいて営業し、車が天下の回り物と化している。
引越して間もない最内は一抹の不安を抱えながら今朝方出社したわけだが、加山は一瞬逡巡すると箸を止めて話を続けた。加山の発した言葉は、最内の心配とは裏腹に拍子抜けしたものであった。
「まあ、特にないんじゃないか」
加山は遠い目で最内を見つめた。
「城下町だから多少は息苦しいと感じることもあるけど、本体にいる限りはそこまで悪い思いはしないはずだよ」
「そうなのか――」
どこか含みを持たせた表情にも映ったが、気にせず食後のインスタントコーヒーに口を付けると、加山は話題を切り替えた。
「ちなみに住居はどちら」
「梅園」と最内が答えると、「なら心配はない」と加山から返ってくる。
「和泉市の面積は非常に広い。合併に合併を繰り返して、茨城県下でも最大の市になった。県庁所在地より影響力がある。しかし和泉市が栄えているのは本社や研究所のある中心部だけで、少し外れるとかなりの田舎になる。と、同時に、少々治安も悪くなる」
「治安、ですか」
聞き慣れない単語に最内は食い付いた。
「そう、治安が悪い。市の北部は完全な工業地帯だ。最近は期間従業員や外国人の採用を増やしているから、非稼働日ともなると荒れ放題だ。もともと田舎だから専ら性の悪い連中が多い」
加山はそう言うと両手を突き出してハンドルを握るような仕草をとった。県央地域は自動車やバイクの危険運転者が全国的に比しても多い。自動車城下町の使命ともいえよう。最内は妙に納得した心境で次の話を煽った。
「そう言えば、加山さんにお子さんは?息子の転校もあって、来週から新しく市内の小学校へ通学することになったんです」
最内が問うと、加山は笑って答えた。
「俺に関してはさん付けじゃなくていいよ。水臭いだろう。子供はいるよ。俺も小学校になる娘がいるんだけど、当然中心部の学区を選んだ」
奇遇だとばかりに最内は続けた。会社にいながら家族の顔が頭を過る。所帯持ちの不安は尽きない。
「学区によって何か違いがあるのか」
「和泉市の学区は五つに分かれていて、中央部とそれ以外の東西南北の四つで構成されている。それぞれの学区の雰囲気はその地域にある事業所に大きく影響されている。たとえば、南部や中心部は本社や研究所があるから親の生活水準も高い。周辺の学校に比べると教育水準が高いし、勉強やスポーツ、美術コンクールまで、何から何まで中心部の学区が一番になる。電車も通っているから夜間に塾へやるのも心配ない。一方で田舎の方になると工場が犇めき合い、雰囲気はガラッと変わる。同じ市にいながら外国に来たみたいだと言われる。血の気の多い現場主義者の血筋が多いから、進学実績はあまりよくないと聞く。学級崩壊といった噂も多い。中央部にいるなら心配はないが、肝に命じて欲しいのは、和泉はとにかく階級意識が強い。親の出世が、直接子供の教育に影響すると言われている。多感な時期に本社から外れ転勤でもしたら、家族の生活にも影響する」
最後は周囲を伺うように声のトーンを落とし、最内へ注意を促した。
本体への逆出向といえば栄転。聞こえは良いが、肩身の狭い思いをするのは避けたい一心だ。
自分だけならまだしも、家族に迷惑をかけるのは御免である。
ここで頼りになるのは、この加山という男だけみたいだ。
最内と加山は食膳を下ろすと、九階のオフィスへと戻った。年齢は中堅だがこの場においては新米である。きつくなった腹回りに気合を入れて階段を登ると、加山は途中の踊り場で足を止めた。
「そういえば君、品証室に配属と言っていたけど、もう業務の説明はうけたのか」
「まだ何も聞いていない。とりあえず内装部品担当とだけ」
「そうか――まあ、問題ないだろう。お互い頑張ろう」
またも加山の表情には含みが感じられた。
最内は別れを告げると、先行きの見えない城下での仕事に不安を抱きつつも、気持ちを入れ替えてデスクへと戻った。
9
中央研究所にはデザイン、設計、開発、実験部といった上流工程を担う部署が在居している。自動車業界の上流工程といえば未だに製造業では高い人気があり、学生や転職者を大きな篩にかけて入社させた後、社内でも厳しい教育制度を敷いて人材育成を強化している。世界中に展開するイズミグループの中でも、本体の研究部隊といえば精鋭が集まる場所である。
「出向者をリコール窓口に配置するとは、いったいどういうお考えなのでしょうか」
品質保証室の油井幸人は口をへの字に曲げて、室長の時田に喰いかかった。油井は最内のいる品質課の担当課長である。
「会社の中でも、リコール窓口という最も神経を使う場所に、部外者を入れるとはどういうことですか」
「頭数が足りないとの判断だ、なに、責任のある仕事を与えるつもりはないよ」
時田は白髪を右手でかき上げると油井の目を反らした。時田自身、今回の大型人事には異を唱えたい姿勢だ。
油井が危惧していたのは、社外に重要な機密情報が流出するのではないかということである。製造業において最も気が置けないのは消費者に不具合品が渡ることだ。自動車は特にリコールに繋がる品質不具合に対して細心の注意を要する。
大きな会社の舵取りを行う和泉章雄代表取締役は、今後生産台数を段階的に増やすと発表した上で、工場の新設や雇用増設を具体的な経営計画に掲げた。その影響はここ品証室も例外なく及んでいる。傘下の優秀な社員を本体に吸い上げ、マンパワーの増強をはかる。
「グローバル品質統括とは名ばかりで、実際には従来のやり方と変わらない。上位のパフォーマンス人事にはうんざりだね」
昨年度まで品質保証課は、各生産工場の製造部にぶら下がっていたが、今年度から本部で一括して不具合情報を統括する窓口部署をつくった。その影には品証課が五年前に味わった大規模リコールがあり、和泉章雄自身リコール問題には必要以上に敏感になっていたのだ。
品証室の仕事は部品毎に担当が分かれていて、設計や部品メーカーと共に品質保証を担う。
最内に任されたのは車両内装部品で、具体的にはコックピットモジュール、シート、ドアモジュールなどが含まれる。
内装品の品質といえば直接消費者の目に映るという点で厳しい基準を設けているが、車の走行性には影響しないため機能的な難しさはない。
そのため、エンジンやパワートレインといった重要部品とは異なり一人の担当が見る範囲も大きい。言い換えれば仮に不具合が生じても大きな問題には発展しない、取るに足らない部品ともいえる。
「会社の方針で子会社から多くの逆出向者が吸い上げられたが、正直言って人を抱え過ぎている。省人化が進んだイズミにこれ以上無駄な人材は要らない。それより、秘匿管理の上で逆に足手まといにならないといいのだが――」
品証オフィスには多くの部品が床に転がっていた。実験で使う部品や検証品の山がフロアの一角にできている。これらの山がすべて不懸部品であることを思うと、油井には一抹の不安が過る。
「一番重要なことだが、品質保証室はリコール窓口の機能を担うということだ。それを出向者にやらすということは、それだけ情報漏洩のリスクを背負わなけらばならないということだ。今まで以上に情報管理の強化が必要となる」
それがこの部署の一番の存在意義とでも言わんばかりに油井は声を荒らげた。
車には多額のリコール引当金が引き当てられてはいるものの、一旦リコールを発令すれば利益を失なうだけでなく消費者からの信頼も損なう。車は人の命を預かるだけに信用は一番大事である。
包み隠さずにリコールを届出る、不具合をいち早く察知する、リコールのない車をつくる。それが自動車会社の目指すべき理想であるが、人の手で造る製品に絶対はない。少なからず不具合は発生する。如何に素早く対応するか、それが品証室の義責なのだ。
「自分が担当する部品で不具合が発覚した場合、リコールを出すか出さないかという水際の判断がこの仕事で最も難しいところだ。会社の評判を考えると安易にリコールを発令することはできない。一方でリコール隠しなど発覚すれば社会的に背任行為となる。最悪の場合、営業停止処分だ。その辺のリスクを踏まえた人事であると、上は考えているのか、否か。いや、否だな」
油井は釈然としない表情を浮かべながら室長会議室を後にした。
無能な部下を持った管理職の境遇は虚しい。ロクに仕事もできず、しかも責任は上が取らなければならない。部下を選ぶことはできない。出向者を部下に持った油井は、不条理な人事判断に対する怒りの矛先をどこに向けていいか分からないでいた。
⒑
総務から妻へ、『家庭での夫の付き合い方二十箇条』たるしおりが送られてきたのは引っ越してから間もないことだった。
「書留です」
平日の朝十時、夫を会社に送り出した花恵はリビングで寛いでいると、郵便局員が自宅に訪れた。玄関を出た花恵はA四サイズの郵便物を受け取ると、丁寧に局員に頭を下げた。
このところ誰かに見張られているのではないかという恐怖心から、玄関を一歩出たときは必要以上に礼儀に気を付けている。慣れない城下町での近所付き合いに、花恵は日頃から肩身の狭い思いをしていた。
花恵が再びリビングに戻り差出人欄を見ると、そこにはイズミ自動車総務部とある。住所変更届は既に提出したはずだ。いったい何事かと思い、花恵はゆっくりと封を切った。しかしそこにあったのは、またも花恵の目を疑うものだった。
城下町の妻たちは異様なほど体裁を気にする。
偏った常識や固定観念が根付くのは、ここがイズミという一社独占社会で成り立っているからであろう。この街で一番影響力があるのはイズミ自動車であり、そこで働く社員の妻は生活を保証された箱入り人形なのである。
大企業に勤める男たちは皆、有名大学を卒業した精鋭であることに違いはないが、一方で妻たちもまた、四年生大学を卒業した元事務社員であるケースが多い。総合職の他に転勤のない一般職枠を用意し、女子学生を大量に採用。大企業故に志望者も多く、まるで結婚相談所のように目ぼしい学生を採用して、入社三年もすれば晴れて寿退社となる。それがここでの恋愛の王道なのだ。
そのため妻たちの教育意識や衣食住のセンスは高く、和泉中央部にはありとあらゆる塾や習い事が整備されている。
県庁所在地でも何でもない和泉市に高級ファッションブランドや輸入家具店が進出して反響を呼んでいる秘密は、ずばり妻たちにある。
手芸、着付け、フラワー教室などの習い事が人気で、ここにいる妻たちは平日でも過密なスケジュールで忙しなく動き回っている。社内での調整は、妻たちの近所付き合い如何で決まることも多い。都会の社宅のように壁を隔てて子供をあやすような文化はここにはない。
そんな特殊な環境に突然放り込まれた花恵は、ここへきて内気な性格になりつつあった。以前であれば出掛けるにしても、友人と遊ぶにしても、電車で都心に行くことができたが、ここは茨城である。
親しい知人もいない花恵にとって、会社と自宅を往復する夫の動向だけが今の人生において唯一の変化点である。ここに花恵の個性は存在しない。
封筒の中身を見ると、そこにはリーフレットが見えた。
二十ページ程度の厚みのリーフレットである。生活の栞か何かと思い表面を見ると、そこに書かれていたタイトルを読み、花恵は体の血が引いていく感覚がした。
「家庭では極力、夫の精神的かつ肉体的な慰労に尽くすこと」、というはしり書きから始まり、短い文体で簡潔に家庭での妻の役割が定められている。
―家庭での化粧は怠らないこと
―家事分担は夫の融通を優先すること
―家庭で仕事の話はしないこと
―仕事と家庭を天秤にかけるような質問はしないこと
―土日は極力、夫の自由を効かせること
―習い事は平日に行い、休日は夫に尽くすこと
―会社の催し事には積極的に参加すること
―内助の功が会社の発展を支える
―その他、諸々、云々。
全身が震えるような寒々しさだ。
大きなお世話である。
虫酸が走る。あまりにも宗教的というか、こんなところまで会社の束縛が及ぶものか。
そこに書かれていた文面は、家庭と仕事の境目を不明瞭にする言い方に見えた。城下町において家庭とはプライベートを重んじる場ではなく、あくまでも企業活動を円滑に行う上での慰労の場であり、献身的な妻の支えが翌日の夫の活力に繋がるというのだ。
つまり、間接的ではあるが、妻がイズミ自動車の企業活動の繁栄に関与しているということになる。妻はひとりの男を愛するのでなく、イズミ自動車の社員である夫に尽くす。それがサラリーマンの妻である、と。
花恵は手に持ったリーフレットをテーブルに叩き付けると、荒々しく半分に破いてゴミ箱に投げ入れた。
「サラリーマンの妻を舐めるなよ」
リーフレットは無残に散らばり、複数の紙切れとなって床に舞った。
そんな花恵を皮肉にも嘲笑う文字が見えた。
会社を支えるということも、妻に与えられた重要な責務である。
目を覆いたくなるような惨状を目の前に、花恵は憔悴し切った顔でその場に立ち尽くした。