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城下町の妻たち  作者: 市川比佐氏
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プロローグ

「死因は衝撃による胸部圧迫、内臓破裂、失血性ショック――」

鑑識の森は四肢が分裂した被害男性を見て淡々とメモをとった。

血肉くさい空気が森を包む。紺色の作業着が、一瞬にして獣臭を放つ。拭っても拭っても鼻にまとわりつく生臭い匂いが鑑識官として勲章である。

「こりゃあ、随分と飛ばしたもんだな」

警部の若狭仁毅は惨状を前に眉を潜めた。

散々たる光景。それを複数の警察関係者が囲って、さも日常の所作であるかのように淡々と作業を続ける。非現実的な世界がそこに広がっている。

前部が激しく損傷した車両が道路横に往生している。潰れた運転席から変わり果てた姿の男性の体が現れると、周囲にいた者たちは顔をしかめた。

「車種は黒色のセダン。大衆モデルか」

若狭が問うと、森は額の汗を拭って振り向いた。

ラジエーターにはアルファベットの『I』のマークが光る。

「イズミのメビウスです」

世界中の自動車市場を席巻する大手完成車メーカー、イズミ。

豊富なラインナップと低価格、そして絶大な品質で支持を得る。国内でのシェアは五割を越え、街中を走る車のほとんどがイズミ製と言っても過言でない。

その中でも最も売れ筋のメビウスが、時速百キロで鉄の塊となってガードレールに衝突し大破した。五月雨の降る肌寒い気候の中、運転していた二十代の男性は不運にも命を絶った。

「エアバッグは正常に作動したようですが、それでも強い衝撃から身を守るには不十分だったようです」

ハンドルからはエアバッグの噴出ガスが漏れた痕跡があった。エアバッグが正常に作動した証拠だ。車の安全性能に問題はなく、単なるスピードの出し過ぎとみられる。事故の要因は運転者の完全な過失であると裏付けた。

「若い男性のすることだろう。どうせ調子に乗って、自分の運転を過信していたに違いない。速度超過でそのまま激突。つまらない死に方だよ」

深夜に駆り出された若狭は面倒なものを見るように言った。

ここ数日、痴漢やひったくりといった軽犯罪が多発している。本署からは常に人が出払っていた。そこに加えて、深夜の交通事故ときた。宿直の若狭の疲労は限界に近かった。

「事件性はないな。忙しいから、俺は先に戻るぞ」

捜査が一段落すると、若狭は警察車両に乗り込み署へと急いだ。忙しい警部の仕事に暇はない。運転席で煙草に火を点けると、そのまま猛スピードで事故現場をあとにした。

無残に破損したメビウスがレッカー車に吊られ安全な場所に移動させられる。現場にいた関係者はそれを確認すると、それぞれの帰り支度を済ませ順々に引き上げていった。事故検証は終わりである。森も鑑識道具を仕舞うと、その場を立ち去ろうとした。

時計を見ると時刻は深夜一時を過ぎている。

事故発生時刻は十二時頃。家族が起きていれば、今頃連絡が届いているだろう。運転者はまだ若い。両親が健在であれば何と思うか。想像に難しい。

ゆっくりとした足取りで事故車を横切る。変形したボンネットが照明に照らされ、怪しく反射している。森はそれを、居た堪れない心境で眺めた。

ふと、森が車内に目をやると、助手席のある部分の異変に気が付いた。

それは長年鑑識を続けた森の目からしても、説明の付かない不可思議なものであった。

「焦げ跡?」

単独事故である。死亡した男性の他に、車内に乗員はいなかった。大きく変形した運転席に比べ、助手席は比較的原型を留めていた。

森の目に映ったのは、助手席のコックピットモジュールに付着した僅か一センチ径の黒点。煙草の先を押し当てたような、小さな焦げ跡だ。

激しい事故だったが幸いにも火災は発生していない。部分的に焼けた合皮を見て、森はそれを不自然に思った。

「煙草の押し跡か、何かか――」

車検証によると、車両の購入登録日はちょうど一年前となっている。かなり丁寧に乗っていたのか、ほぼ新車同様で走行距離も一万キロに満たない。それだけに、目立つ場所に残った焦げ跡を森は不思議に感じた。

「森、何をモタモタしている。帰るぞ」

森を呼ぶ声がどこからともなく聞こえる。

ハッとして振り返ると、森に手を振る先輩鑑識官たちの姿が目に映った。早く帰れという指示だ。

「すみません、すぐ行きます」

森は足早にその場を立ち去ると、すぐに車に飛び乗った。

現場では車両の除去作業が黙々と続けられている。

いったい、あれは何だったのか――。

そんな疑問も、一度現場を離れてしまえばすぐに頭の中から消え去ってしまう。窓を打ち付ける雨が徐々に和らいでいく。森は瞑目して深呼吸をすると、何事も忘れて警察署へと戻った。


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