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留守番を頼む

作者: さむらいみ

 駅前の狭いロータリーを囲んで、数軒の店があるにはあった。

 しかし、店のほとんどがシャッターを降ろしていて、開いているのは、看板の文字が判別不能なほど薄れた雑貨屋らしき店と、その場にまったくそぐわないちょっと小奇麗な喫茶店の二軒だけだった。

 駅周辺で何か食べられないか、と思っていたが、選択肢は一つしか無いようだった。

 俺は客待ちのタクシーすらいない無人のロータリーを横切り、駅から真っ直ぐ伸びる一車線の車道との角にあたる喫茶店のドアを開けた。

 ドアを開けると、ドアに取り付けられたベルが、カランと鳴った。


 少しばかり面倒な取材だった。

 途中にあるいくつか秘境駅と呼ばれる無人駅を取材しながら、山中を走るローカル線を終点まで乗って、また引き返す。その路線は、マニアの間ですらまだほとんど知られていない、秘境中の秘境らしい。

 一部でブームのようになっているようだったが、俺はそんなものにまったく興味は無かった。しかし、頼まれた仕事を選り好み出来るような立場では無い。本当は映画や本の批評やレビューだけで食べていければそれに越した事はないのだが、底辺ライターにそんな贅沢は許されない。女どもが喜びそうなカフェのクソ不味い野菜パフェの食レポや、脂っこいだけのラーメン食べ歩き、果てはスポーツ紙の風俗体験記まで、頼まれれば何でもやる。フリーライターなんて言うと、自由で気楽な職業に思われるが、サラリーマンのほうがよっぽど自由で気楽だろう。

 今日も始発で家を出て、電車を乗り継ぎ、目的のローカル線に乗った。そもそもこの電車に乗るために、面倒な乗り継ぎまでして電車に乗て行くってのが我慢ならない。そんなに電車が好きなら一日ずっと山手線でグルグル回ってりゃいいだろうに。などとあたまの中で毒づきながら、ようやく到着した目的のローカル線は、一時間に一本あるかないかの過疎路線で、二つばかり秘境駅で途中下車すると、次の電車までは一時間から一時間半は待ち時間になる。秘境って言うくらいだから、当然周りには店など無い。それどころか民家すら無く、実際何のためにそこにあるのか理解出来ないような場所に駅があった。適当に写真を撮って、周りを少しぶらつくと、あとはひたすらホームのベンチで電車を待つだけ。

 何度か電車を乗り降りし、ようやく終点までたどり着いた時には、午後もだいぶ遅い時間になっていた。間もなく紅葉が始まる時期で、標高もだいぶ高くなった山の中の冷気を孕ませた風が、早くも夕暮れの気配を感じさせた。

 たった一軒であっても、喫茶店があるのは、僥倖だった。朝から何も食べていなかったが、一日このローカル線に乗っているうち、終点にすら何も店が無いのでは、という最悪の予感さえ頭にチラついていたのだ。


 店に入ると、香ばしいコーヒーが鼻腔をくすぐった。

 思いのほか美味しいコーヒーを出すのかもしれない。コーヒー専門店だとしても、サンドウィッチくらいはあるだろうとタカをくくり、俺はもう一度ベルをカランと鳴らしながら、ドアを閉じて店の中に足を踏み入れた。

 店に他の客はいなかった。

 二人掛けのテーブルが三セットと、カウンターに四席の小さな店だった。

 カウンターの中から、エプロンをした中年男が「いらっしゃいませ」と客が来た事に驚いたような雰囲気を隠すこともせずに言った。


 恐らくマスターらしいカウンターの男と目が合って、なんとなくそのまま釣られるようにカウンター席に向かってしまった。他の席が空いているのにカウンターに座ることなど普段はしない。ましてや狭いカウンターに店の人がいるとなると、距離もかなり近い。そいつが話好きだったりしたら面倒だ。しかし、ついカウンターに向けかけた足の方向を急に変えるのも躊躇われた。話好きだったらそれはそれで取材の一環と割り切って、俺は固定式の丸椅子に座った。

「何か食べる物はありますか?」

 俺が座りながら言うと、マスターは洗い物の水道を止めて、エプロンで手を拭いた。

「今出来るのは、スパゲッティくらいですね」

「ああ、それでいいです。ナポリタン出来ますか」

「出来ます、出来ます。と言うか、それしか出来ないって言うか」

 マスターは照れたように、だけど悪びれる様子も無く言う。

 恐らく年齢は五十前後だろうか、細面の顔に銀縁眼鏡をかけ、白髪混じりの髪を少し伸ばし気味にして、真ん中で分けている。その外見全てが、まるで喫茶店のマスターを演じている役者のように見える。きっと好きな音楽はジャズに違いない。こんな場所でそこそこ綺麗な喫茶店をやっているとなると、充分金を貯めての脱サラだろうか。

「食事の前にコーヒーを淹れてください」

 おれが言うと、マスターは眼鏡の奥で目を細めて穏やかに微笑んだ。

「コーヒーはブレンドでよろしいでしょうか」

「はい。それで」

 マスターは手際よくコーヒーの準備をし、カウンター席から見える位置でドリップさせる。ちょっとした演出なのだろうが、実際漂ってくる香りはブレンドのセンスを感じさせた。

 コーヒーは予想通り美味しく、ナポリタンはごくごく無難な味だった。コーヒーのお代わりを淹れると、マスターはカウンターの端にあるドアから店の奥に消えた。しばらくの間コーヒーを飲みながらデジカメの写真をチェックしていると、いつの間にかカウンターに戻ったマスターが声をかけてきた。

「あの、初めてのお客様にこんなお願いをするのは大変申し訳ないのですが、少しの間留守番を頼んでもよろしいでしょうか」

「え? 留守番ですか」

 顔を上げると、エプロンを外したマスターがシャツの上にツイードのジャケットを羽織ろうとしている。

「はい。郵便局へ行かなければいけない用事がありまして、間もなく閉まってしまいそうで」

「ああ、私が来たので行けなかったんですね」

「すみません。普段この時間お客さんが来る事があまりないので」

 マスターはそう言いながらいかにも申し訳なさそうに目を伏せた。

「かまいませんよ。今のお話だと留守番の間にお客さんが来る事も無さそうだ」

「助かります。戻ったらコーヒーのお代わりをご馳走しますよ」

 そう言いながら、マスターは中折れ帽をかぶり、カウンターから出た。その手には、年代物の革のアタッシュケースを持っている。

「それじゃ、お願いします」

 郵便局に行くにはやけに物々しい格好に不審を感じたが、俺が何か言う間も与えないほど素早くマスターは店を出て行った。その忙しない動作が俺の不信感を膨らませる。俺は席を立って、入り口のドアを開けて半身を乗り出し、外を見る。マスターが小走りで駅へ駆け込んでいた。

 俺は慌てて後を追った。ロータリーを横切っている間に、駅の入り口を通して列車が走り始めるのが見えた。あれに乗ったのだろうか。タイミングといい、急ぎ方といい、マスターはあの列車の発車時間に合わせて店を出たと考えて間違い無い。もしかして、郵便局は別の駅にあるのだろうか。例えそうだとしても、それだとかなりの長い時間待たされる事になる。

 駅まで行くと、駅員が一つだけある改札に鎖をかけていた。

「あの、すみません」

 俺が声をかけると、駅員が作業を続けながら顔だけを上げた。何も答えず目を細めて俺を見上げている。

「用があるなら早く言いなよ」

 返事を待って一瞬黙った俺に、駅員は面倒くさそうに言った。俺よりも若そうな駅員の不躾な態度に少し腹が立ったが、そんなことで余計なトラブルを起こすのも嫌だった。

「あ、今、そこの喫茶店のマスターが電車に乗りませんでしたか」

「ああ、乗ったよ。それがどうした」

「郵便局って、近いんですか」

「郵便局? あんた何言ってんだ」

「何って、あの人、郵便局に行くって」

「郵便局は樽下駅まで行かなきゃねえよ」

 樽下というのは、このローカル線の始発駅だ。そこまでは1時間半はかかる。往復だと三時間にもなる。

「でも、確かに郵便局に行くと」

「ああ、あんた身代わりか」

「身代わり?」

「マスターに頼まれたんだろ? 店にいろって」

「ええ。留守番を頼まれまして」

「それじゃ、店にいなきゃダメだろ。こんなとこで何やってんだ」

「いや、でも」

「客が来たらどうすんだよ。お前頼まれたんだろ?」

「ま、まあ」

 お前呼ばわりまでされてさすがに文句を言いたかったが、少なくとも駅員の言う事は正論だった。どのくらい時間がかかりそうかを確かめなかったのは俺の落ち度だ。

「そうですね。もう少し店で待つ事にします」

 若干敗北感のような物を感じながら、俺は店に戻った。


 店に戻り、温くなったコーヒーを飲む。

 どれだけ待つ事になるのだろうか。外は次第に暗さを増している。列車の終電は何時だっただろうか。それまでにはさすがに戻って来るだろう。諦めて写真のチェックを再開し、しばらくしたところで、ドアが開くベルの音が鳴った。

 思いのほか早くマスターが戻ったのかと思い、顔を上げると、入り口に男が一人立っていた。

 男は喪服のような黒いスーツに黒いネクタイを締め、上から黒のコートを羽織っていた。オールバックにしたまっ黒い髪が整髪料で鈍い光を放っている。角ばった鷲鼻の下、整えられた髭を蓄えている。病人のように痩せこけた男の目はガラス玉のように表情が無い。

「あ、今お店の人がちょっと留守にしていまして」

 席から半身だけ入り口に回して言うが、男はそれを無視して店の中へと入って来た。そして、何も言わずに空いているテーブル席に座る。

「あ、あの」

「こっちへ来て貰おうか」

 錆びた金属を擦り合わせるような声で男が言った。

「え?」

「ここに来て座りなさい」

 言葉を発しても、男の口はほとんど動かない。

 マスターに何かあったのか。この男はそれを俺に伝えに来たのか。何かがあったとしたら、余程深刻な事態なのではないかと思わせる雰囲気が男にはあった。男は俺がマスターの身内か親しい友人だと思っているのだろう。ただの留守番ではあるが、俺には聞く義務があるように思えた。

 俺は男の前の席に移動した。

 俺が座るまで男はテーブルの上に肘を乗せて、両掌を組んだ姿勢でじっと俺を目で追っていた。男の前の椅子を引いて座ると、俺が口を開く前に、男が言った。

「目か、腕か」

「え?」

「目か、腕か」

 二度聞いても、意味が分からなかった。

「どういうことですか?」

「両目か、両腕か、どっちだ」

 男は一切表情を変えず、繰り返す。

「だから、意味がわかりません」

 男は表情の無い目で俺をじっと見つめる。

「両目か、両腕か」

 もう一度繰り返しながら、コートの内側に手を差し入れ、何かをコトリとテーブルの上に置いた。店の照明を反射して光る、五寸釘ほどの大きさの金属製の針だった。

「なんだこれ」

 俺がその針に目を奪われている間に、男は再びコートに手を差し入れ、針に並べて折り畳み式のノコギリを置いた。

「ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだこれ。まさか、目を針で差し潰すか、ノコギリで腕を切り落とすかってことか」

「どっちだ」

「ふざけんな」

 いい加減、切れた。溜まっていた鬱憤が爆発した。

「ただの留守番だって言ってんだろうが、何が目だ、腕だ、ふざけんなよ。俺には関係ねえ。だいたいてめえはなんなんだよ」

 俺は立ちあがって、男の胸倉を掴んで立ちあがらせた。

 男は、まったく重みが無かった。まるで空気で膨らませた人形のように軽々と持ちあがった。そして、掴んだ胸倉の先にあるはずの、肉体の手応えがまったく無かった。

「な、なんなんだ、お前」

 同じ言葉を繰り返したが、それは怒りではなく、完全に戸惑いだった。

「身代わり、ですか」

 俺に胸倉を掴まれたまま男が言った。

「わかりました。考える時間を差し上げましょう。また、来ます」

 男は右手で俺の手を払った。強く握りしめていたはずの手が自然に解けた。

 男は、呆然とする俺を放置したまま、テーブルの上の針とノコギリを手に取ると、コートの内側に仕舞った。そして、何事も無かったように踵を返すと、そのまま振り返りもせずに店を出て行った。

 慌てて後を追って、ドアを開けると、すでに暗くなった外のどこを見回しても男の姿は見えなかった。


 何がどうなっているのかまったく分からなかったが、とにかく逃げ出す事にした。マスターを待ってなどいられない。

 俺はバッグを手に取ると、店を飛び出し駅まで走った。しかし、駅は完全に照明を落とし、真っ暗だった。改札の前で誰かいないか呼び掛けるが、答えてくれる人は誰もいなかった。

 終電が行ってしまった。ここから電車で逃げ出す事は出来ない。

 俺はタクシーを呼ぼうとスマホを取り出すが、圏外の表示だ。いくら秘境と言っても、人が住んでいるのに圏外な場所がいまだにある事に驚く。公衆電話を探すが、どこにも見当たらない。どこかで電話を借りられないか。何かの店でも無いかと思うが、雑貨屋もすでにシャッターを降ろしている。しかし、店をやっていると言う事は、人も住んでいるのだろう。俺は雑貨屋の裏に回って、家の玄関を探した。

 思った通り、店の裏側に住居の玄関があった。「すみません」と声を上げながら、玄関のドアを叩く。家自体が相当古く、板張りの端がめくれ上がった玄関ドアを叩くと、木が腐っているようなボスボスという湿った音がした。何度呼びかけても、人が答えてくれる気配が無い。諦めて他を当ろうかと思っていると、玄関ドアの上部の嵌め殺しのすりガラスから灯りが漏れた。玄関の中で電気が点けられたようだ。ほっとして待つが、電気が点いてからもなかなかドアが開かない。ようやくガリガリと音をさせてドアノブが回り、ドアが開いた。ドアの隙間から、相当の年齢に見える老婆が顔をのぞかせた。

「すみません、夜分申し訳ありませんが、電話をお借り出来ないでしょうか」

 老婆は不気味なほど白濁した目で辺りを見回すだけで何も答えない。耳が遠いのかと思い、少し声を大きくして繰り返す。

「無いよ」

 老婆はそれだけ言うと、ドアを閉めてしまった。

「え、ちょっと。すみません、お願いです。困ってるんです」

 閉まったドアに向かって大声を出すが、やがてすりガラスから漏れていた灯りが消えた。

 仕方なく駅前から伸びる道を進んでみる。喫茶店に戻って電話を探す事も考えたが、男の言った、また、がいつなのかが分からない。あそこに戻るのは出来れば避けたかった。

 五十メートルほど歩くと、横道にぶつかった。道はそこでT字路となり、左右に伸びる道は左が登り、右が下り坂となっていた。

 右の下り坂を選んだ。深い意味は無いが、山の上に向かって進むより民家がある可能性が高そうに思えた。

 道は下り始めてすぐに大きく左にカーブしていた。カーブを曲がり切ると、すぐに急な上り坂となっていた。街灯と街灯の間隔が広く、光が届かない場所はなんとか足元のアスファルトが判別出来る程度の明るさしか無い。道の両側は深い森に囲まれ、その中に人工の灯りはまったく見えない。寒さが増して、吐く息が白い。

 坂を登り切ると、しばらく平坦な道が続き、やがて下り坂になった。下り坂の途中にあるカーブを曲がると、右側の森が途切れ視界が開けた。大きく切れ落ちた左側は崖になっているらしく、ポツリポツリと道路沿いに点在する街灯に道の崖側が鉄橋状になっているのがなんとか見えた。その先で、道はまた森に飲み込まれている。どう考えても、この先に民家や店があるとは思えなかった。

 俺は来た道を引き返し、駅前の分岐を通過し、登り坂を進んだ。しかし、五分も歩かないうちに、道の舗装が途切れ、踏み跡のような道が山の中に続くだけになった。当然街灯も無くなり、その先はまったく視界が効かないほどの闇に包まれている。

 選択肢は残っていなかった。俺は諦めて喫茶店に戻った。

 明るい店内に入ると、人工の灯りにほっとする。数十分前までは絶対戻りたくないと思っていた場所だが、明るいだけでこれほど安心するものか。俺は荷物を置いて、カップに少しだけ残っていたコーヒーを飲みほした。

 

 店内を見渡すが、電話は無かった。

 カウンターの中に入り、突き当りのドアを開ける。ドアの中は真っ暗だ。ドアの横にあったスウィッチを入れると、暗い灯りに狭い廊下が浮かび上がった。俺は靴を脱いで店舗の床から一段登った廊下へ足を踏み入れた。

 廊下の右側は板壁が続き、左側にはトイレと風呂場が並んでいた。廊下を突きあたりまで行くと、ドアがあった。ドアを開けると、三畳ほどの狭い部屋に、万年床が敷かれていた。部屋の中に入り、電気の紐を引く。部屋には、布団の他には、洋服ダンスがひとつだけ置かれていた。タンスの扉は開かれ、中は空っぽだった。

 マスターは、店を出る時に手にしていたアタッシュケース以外の家財道具を一切持っていなかったのだろうか。その部屋は、まるで少し程度のいい囚人部屋のようだった。

 部屋でも電話を見つける事が出来ず、俺は諦めて朝までここに留まる事にした。電車が動くまで、ここから出て行く事は出来ない。始発に乗って帰ろう。それ以外の選択肢は無かった。

 その時、急にあの男は、いったいどうやってここへ来たのか、という疑問が湧いた。

 あの男が来た時には、もう終電が出た後だったはずだ。来た方法も分からなければ、ここから出て行ってどこへ行ったのかもわからない。男が出て行って、すぐに外を見たが、車が走り去った音も聞かなかったはずだ。

 あの男は、まだこの辺りに居るのではないか。また来ると言ったが、また、とはいつのことなのか。

 今にも店のドアが開くベルの音がするのではないかと思うと、とても眠る気にならなかった。荷物を抱えて横にはなってみたが、ちょっとした物音で跳ね起きてしまう。しばらくそうしていると、突然激しい雨が屋根を叩く音が聞こえた。あのまま闇雲に歩いていたら、山の中で豪雨に見舞われていた。怖くはあるが、戻ってきたのは正解だった。雨は激しさを増しながら、降り続いた。ようやく訪れた浅い眠りをほんの数十分貪った後、やがてすりガラスの窓から薄らと光が差し込み、朝が来た事を知った。雨音は聞こえず、いつのまにか雨は上がったようだった。

 

 店から出て、駅まで行くが駅はまだ無人のようだった。

 スマホを見ると、時間はまだ6時だ。スマホの電池がもう残りわずかだった。日帰りのつもりだったので、充電器やコードなどは持って来ていない。通じないにしても、電源まで入らないとなると、不安がいっそう増す思いだ。

 木造の駅舎を見回すが、どこにも時刻表らしきものが無かった。

 そのうち駅員がやって来るだろうと思い、改札の横にロータリーを見渡せるように置かれたベンチに横になった。雨上がりで気持ちよく晴れていることもあり、店の中よりも安心出来たのか、ベンチに横になった瞬間眠気がやって来た。


「お前、こんなとこで何してんだ」

 男の声に目を覚まし、目を開けると、昨日の駅員が覗きこんでいた。俺は慌てて起き上がる。

「ああ、始発まで待たせて貰ってた」

「電車は走らねえよ」

「え?」

「土砂崩れだ。昨日の雨で途中で土砂崩れがあって、線路が落ちた」

「そんな。どれくらいで復旧する」

「さあな。三日か、一週間か」

「ちょっと待ってくれ。それじゃ、どうやって帰るんだ」

 駅員はせせら笑うように口元を歪めた。

「さあな」

「さあじゃねえ。どうにかしろよ」

「おっと。そんな脅したって、どうにもならねえよ。俺に言われても落ちた線路は直せねえよ」

 駅員はおどけるように両手の平を胸の前でひらひらと振った。

「タクシーは。どうやって呼べばいい」

「タクシーなんてこの村にはねえよ」

「どっかから呼べるだろ」

「さあねえ。ここに来てくれる車なんてあるのかねえ」

「村に誰か乗せてってくれる人はいないのか」

「それもどうかなあ。今頃はみんな畑に出てるからなあ」

「もういい。自分で探す」

 まったく協力的じゃ無い駅員の態度に腹が立って、これ以上何かを頼む気が失せる。

 T字路まで出て、右に曲がる。電車の線路で言えば、樽下に向かう方向は右だ。最悪何時間かかろうが、歩いてでも樽下に向かうつもりだった。電車で一時間半の道のりを、蛇行する道を歩いていったい何時間かかるかまったく分からなかったが、歩いているうちに、いつかは車が通り掛かるだろう。ヒッチハイクで乗せてもらう手もある。 

 しばらく歩いても、民家も店もまったく無い。昨日そのまま進んでも、無駄な努力に終わっていた。店に戻った判断はやはり間違っていなかった。

 昨日のポイントを過ぎ、一時間近く歩いても、風景はまったく変化が無い。深い森と、時折越える切り立った谷。やがてアップダウンを繰り返していた道が、ほとんどずっと登り坂となった。蛇行する道は細まり、勾配も急になって行く。さらに歩くと、突然道が途切れた。舗装道路が終わり、逆側と同じように踏み跡だけの道になる。

 そう言えば、路線の途中にある秘境駅は、線路以外どことも繋がっていないと、取材前にようやく見つけた数少ない資料に書いてあった事を思い出した。

 電車に乗る以外に辿り着けない陸の孤島。誰のために、何のためにある駅なのか。そんなキャプチャーが、雑草に埋もれかけたホームの写真に着いていた。

 樽下まで通じている道路が存在しないかもしれない。

 それでも、進むしか無かった。少し歩けば、また舗装道路になるかもしれない。そう信じて、踏み跡のような細い道を進んだ。

 舗装道路が無くなると、完全に森の中にいるようだった。唯一の救いは、取材である程度の歩きを予想して、軽度のハイキングには耐えられるトレッキングシューズを履いていた事だ。間違って革靴などを履いていたら、酷い事になっていただろう。昨夜の雨で、道は所々ぬかるんで、水溜りを越えないと先に進めないような場所もあった。

 ふと、道のすぐそばの森の中から、何かが動く気配があった。

 動物でもいるのだろうか。いてもどうせウサギやせいぜい狸程度だろう。気にせず歩き続けていると、背後に息遣いを感じた。振り向くと、ひどく汚れた犬が俺の後を着いて歩いて来ていた。野生化した飼い犬だろうか。そう言えば、飼いきれなくなった大型犬を山中に捨てる人が後を絶たないというニュースを見た事があった。こんな山奥に捨てられた犬に同情を覚えつつ再び歩きはじめる。

 やがて、息遣いが複数重なっているような気配に再び振り向くと、犬が五匹になっていた。野犬の群れがあるのだろうか。犬はどれも汚れていて、歯をむき出して荒い息を吐いている。目付きも気のせいか、飼い犬よりも鋭く見える。公園で見かける散歩途中の犬たちのような親しみをまったく感じさせない、野生の獣のようだった。

 五匹もいると、かなりのプレッシャーを感じる。中にはかなりの大型犬もいて、本気で襲われたら無事では済まなそうだ。俺は近くを見まわし、手ごろな枯れ枝を拾って、犬たちの背後に向かって思い切り投げた。追いかけてくれるかと思ったが、犬たちは飛んでいく木の枝には目もくれない。

 もう一度枯れ枝を拾い、今度は群れの真ん中を狙って投げる。枝が秋田犬のように見える一匹のすぐ横を掠める。群れが左右に分かれ、五匹全部が森の中に消えた。

 ほっとして歩きはじめると、前方の森から、群れが現れた。全部で八匹に増えている。増えた中に、真っ黒いドーベルマンがいた。今まででも危険を感じるほどだったのだが、これはもう確実に勝ち目が無かった。襲われたら、最悪死ぬ。枯れ枝を拾って、投げる仕草をすると、逃げるどころか群れが一斉に敵意に満ちた唸り声を上げた。

 俺は群れから目を離さず、枝を投げる姿勢を保ったまま後退さる。群れは動かない。道が少し曲がって、犬たちの視界から外れた瞬間、思い切り走った。本気で競争したら絶対に追い付かれることは分かっていたが、追って来ない事を祈って、走り続ける。普段の運動不足がたたって、次第に息が続かなくなるが、野犬の恐怖に足を止める事が出来ない。頭まで朦朧とする中、もつれる足を動かし続け、二度ほど転び、ようやく舗装道路まで戻って、一息着いた。

 この道は諦める他無かった。

 

 喫茶店まで戻ったのは、もう正午に近い時間だった。

 本当は店にいると、いつ男がやって来るかわからず怖かったのだが、とにかく疲れ果てていた。慣れない山道歩きどころか、限界までの猛ダッシュまでし、さらに転んだ時に負った裂傷からはけっこうな血が流れている。

 休憩無しで反対側の道を進むのは無理だった。

 店に入り、カウンターの水道で傷口を洗う。

 冷蔵庫を開けてみたが、中は空だった。スパゲッティも昨日俺が食べた物で最後だったらしい。しかし、コーヒー豆だけはふんだんあった。疲労と多少の開き直りで、俺はお湯を沸かして、コーヒーを淹れた。しかし、マスターが淹れてくれた物ほど美味しくは無かった。

 

 結局一時間近く休んで、店を出て、T字路を左に曲がり坂を登る。

 舗装路が途切れ山道に足を踏み入れると、野犬の恐怖が蘇る。

 しかし、こっちの道は先ほどよりも多少は人通りがあるようで、雑草の中に、車のタイヤによる物らしき轍が微かに残っている。車が通るなら、きっと先には人がいるに違いない。

 勇気を出して進むと、鳥居があった。ほとんど色は落ちてしまっているが、薄く残った塗装で、元々は赤かった事がかろうじて分かる。道は鳥居を潜って、続いている。鳥居の先は、二本だった轍が一本になっている。車が入れるのは、この鳥居までで、その先は徒歩になるのだろう。しかし、先に進めば確実に神社があるはずだ。

 鳥居を潜ると、すぐに道は自然石を乱雑に組んだ石段となった。勾配はかなり急だ。石段は森の中に吸い込まれるように続き、見る限り神社の建物は見えない。すでに筋肉痛が始まっている足を叱咤し、石段を登る。

 石段はやがて登山道のような険しく細い踏み跡となり、大きな岩をいくつかやり過すと、辺りの木がやがて途切れた。道は林立する岩山の間を縫うように続く。

 踏み外すと数百メートルは遮るものもないまま落ちて行くような崖に沿った箇所や、肩幅ほどしかない稜線などの難所を越えると、ようやく巨大な岩を繰り抜いたような狭いテラス状の平地に、本殿らしき建物があった。建物の左側はそのまま崖となっていて、右側は、岩壁がそのまま建物の壁になっているように岩肌に接している。

 二段目が抜けおちた木造り三段の階段を登り、本殿の扉を開けた。


 扉を開けると、薄暗い中に蝋燭が一本灯されていた。

 揺らめく灯りの横に、神主らしき服を着た人が座っているのが見えた。

「あの、すみません」

 神主に向かって声をかける。入り口に背を向けていた神主が、俺の声でゆっくりと振り返った。

「誰じゃ」

「あの、実は困ってまして。助けて欲しいんです」

「願い事なら神に頼め。わしに頼むな」

「いえ。そういうことじゃなくて」

「それじゃ、何の用じゃ」

「電話を貸してくれませんか」

「電話? お主はこんなところまで登って来て、何を言っておるのじゃ」

「私はフリーでライターをしてまして、ローカル線の取材で昨日ここに来たんですけど、土砂崩れで帰れないんです」

「元に戻るまで待てばよかろう」

「そういうわけにもいかないんです」

「なんでじゃ」

 信じてくれるかどうか心配だったが、昨日の男の事を、話した。喫茶店のマスターに留守番を頼まれた事から、順を追って話すと、男がやって来たあたりで、神主は明らかに表情を歪めた。

「お主はその茶店の主人の身代わりになったのじゃ。諦めろ」

「は? 意味が分かりません。なんですか、それ」

「あやつの代わりに、両目か両腕を差し出せ、と言っておるのじゃ」

「なんでそんな事をしなきゃならないんですか」

 神主は、さも面倒臭そうに溜息をついた。

「話さなきゃならんかの」

「教えてくださいよ。このままじゃ何がなんだかわかりませんよ」

「今の説明だけで納得してくれんか」

「無理です」

 さらに大きな溜息。

「仕方ないの。まずは上がれ」

 入り口の三和土で立ったままだった俺は、言われるままに靴を脱いで社殿の中へ上がった。蝋燭から立ち昇るお香のような臭いが鼻腔をくすぐる。

「そもそも、あの男はなんなんですか。黒ずくめの不気味な男が来たんですよ」

「男か。まあ、あれはその時々で姿を変えるから何と言えるものでは無いの」

「姿を変える?」

「まあ、使いの者、じゃな」

「使いって、誰の」

「長い話になるからな。足は崩してよいぞ」

 正座で前に座ろうとする俺に向かって神主が言った。


「事の発端は三百年ほど前じゃ。江戸時代の事じゃな」


 ローカル線の終点駅がある辺りは、かつては数十人が住むもう少し大きな集落だったそうじゃ。

 ごく普通の農村だったのだが、その中に隠れキリシタンの家族がいたんじゃ。幕府の追及から逃れて隠れ住んでおったらしい。ある日、こっそり地下に作った礼拝部屋を村人たちに見つかってしまった。

 排他的な田舎の事じゃ、役人に差しだす事もせず、村人たちは家族を集落の真ん中にある広場に引き出すと、惨い制裁を行ったんじゃ。父親は差し殺され、母親は村人たちに次々と強姦された。その家には、幼い娘が二人おった。娘だけはと頼む母親を尻眼に、村人たちは娘にも手を出そうとしたのじゃ。

 その時、幼い娘たちは、手を合わせてキリストへ祈りを捧げた。村人たちは、二度と祈る事が出来ないようにと、娘の一人の両腕を切り落とし、神様が現れても見る事が出来ないようにと、もう一人の娘の両目を潰してしもうた。母親はそれを見て気が狂ったように泣き叫んだんじゃ。お前らの腕も切り落としてやる、お前らの目も潰してやる、と。

 その後、村人たちが次々と不可解な事故に見舞われるようになったんじゃ。ある者は農作業中に転び、鍬の刃が両目に突き刺さる。ある者は、川で足を滑らし、濁流に飲まれて岩に挟まった腕が引きちぎれる。明らかに惨殺された一家の祟りに思えた。

 事故に合わなかった者たちも逃げ出すようにこの村から離れようとしたんじゃ。しかし、誰ひとりとして逃げ出す事は出来なかった。村から出ようとすると、必ず障害があって、引き返す羽目になる。やがて、腕か目を失う。腕の無い者と、目の無い者しか住まない村が長続きする道理が無い。こうして、村は消えたんじゃ。

 しかし、祟りは収まった訳では無かった。それ以来、この地に住んだ者は、必ず制裁が行われた日に、使いの者がやって来て、目か、腕かと迫る。拒否しても、数日後には必ず目か手を失うような事故に合うんじゃ。

 ただ、一人だけその事故から逃れた者がおった。目か、腕か、と迫られ、本能的に逃げられないと思ったある男が、遠くに住む娘が、間もなく里帰りで戻って来る。もう一度だけ娘の顔を見たいと懇願したんじゃ。祟りの起こる経緯から、娘を出汁に使えば許されるのでは、という男の読みは当った。祟りが起こるのは一年に一度。一年間の猶予が出来たんじゃな。

 その間に、たまたまこの地に修験者が迷い込んで来た。男は、修験者にこの家を少しの間頼むと言い残して、逃げ出したんじゃ。不思議と、それまでどうやっても出る事の出来なかったこの村から逃げ出す事が出来た。家に身代わりとなって留まる事を承知する者が現れると、村から出られるのがわかったのはその時じゃ。

 祟りの日が来て、使いの者が修験者がいる家へやって来た。目か、腕か、と問われた修験者は、自分はただの留守番で、この家の者ではない、きっとこの家の者を連れて来るから、待ってくれ、と言ったんじゃ。使いの者は、その説明を聞くと、また来ると言い残して去っていった。

 それが八十年ほど前のことじゃな。

 その後、修験者の行方を捜していた弟子がやって来た。修験者は、弟子に留守番を言い付け、逃げ出したんじゃ。それ以来、あの家に住む者は、一年以内に訪ねて来る者を身代わりにして、逃げるというのを繰り返して来たんじゃな。

 ある者は宿屋にして宿泊客を残し、ある者は塾を開いて塾生を残し。今回の男もあんな場所で人を呼び込むために随分必死に家を改築しておったが、ようやく代わりを見付けたんじゃな。最後の一日で逃げ出すとは、運の良いこった。


「それって、俺はとんでもなく運が悪い男ってことじゃないですか」

「そうなるかの」

 そう言って、神主は無責任に笑った。

「でも、おかしいじゃないですか。あそこの駅はどうやって造ったんですか。あの駅員は」

「みんな通いじゃよ。誰もここには住まん。この辺りでは有名な話じゃからの」

「あ、でも一人お婆さんが」

「婆さんの目を見たか」

 老婆のどこを見ているかわからない白濁目を思い出す。

「まさか」

「あの婆さんは逃げ切れなかったんじゃな。手より、目を選んだんじゃ」

 無茶苦茶な話にも思えたが、これが本当なら、全て辻褄は合う。

 揺らめく蝋燭の灯りと、独特の香りと、長い話で頭の中を掻き回されているように思考が乱れる。

「なんとかならないんですか」

「どうにもならん」

「でも、この神社でお祓いとか」

「無理じゃな。そもそも神様が違うじゃろ。キリストの事などわしは知らん」

「そんな、無責任な」

「そう言われてもな。この神社の御神体は、この先にある御光山と呼ばれる山じゃ。なんとかしてくれと山に祈るか?」

「わかりました。自分でなんとかするしか無いんですね」

「まあ、そうじゃな。いっそのこと、教会でも建ててみたらどうじゃ」

 そう言うと、神主はあろうことか、自分の面白くも無い冗談に笑ったのだった。


 神社を出ると、すでに日が暮れかけていた。振り向くと、社殿の先に、ひと際急峻な山稜が見えた。頂上付近が夕陽で赤く染まっている。あれが御光山なのだろう。

 俺は、役立たずの御神体に向かって中指を立て、参道を下った。

 戻る場所は喫茶店しか無かった。

 猶予は一年ある。身代わりとなる不運なやつを呼び込むための算段を練るには充分に思えた。

 まずは、美味いコーヒーを淹れるコツを覚えるところから始めるか。

 参道を下りながら、ジャズは大嫌いなんだけどな、と溜息をついた。

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