第1話:婚約破棄は、燃え盛る薔薇の庭で
王都の太陽は、私には熱すぎました。
でも、カイルム様の体温は、私の氷を優しく溶かしてくれる。
「逃がさない。君が私を救ったのだから、一生かけてその対価を払ってもらう」
……重すぎるほどの愛に包まれて、私は今日、本物の「辺境伯夫人」になります。
燃えるような赤だった。
王宮の庭園に咲き誇る「紅蓮の薔薇」は、この国の象徴だ。太陽の加護を受けるルミエール王家の力そのもの。けれど、その芳醇な香りと圧倒的な熱気は、私にとってはただの毒でしかなかった。
「……以上だ。エルシア、何か言い残すことはあるか?」
頭上から降り注ぐ声は、薔薇の棘よりも鋭く私の胸を刺した。
ゆっくりと顔を上げると、そこには黄金の髪を陽光に輝かせた王太子、リュシアン様が立っていた。その隣には、私の妹であるベアトリスが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて寄り添っている。
「申し訳、ございません……」
私の唇から漏れたのは、謝罪の言葉だけだった。
震える指先を隠すように、ボロボロの扇を握りしめる。
公爵令嬢であるはずの私のドレスは、妹が「もう飽きたから」と捨てた三年前の流行遅れ。いたるところが擦り切れ、この華やかな庭園では、泥の中に落ちた石ころのように浮いていた。
「謝って済む問題ではないのだよ、エルシア」
リュシアン様は、忌々しげに私を睨みつけた。
「私の加護は『太陽』。次代の王として、この国を熱く照らさねばならぬ。だというのに、婚約者であるお前はどうだ? 触れるもの全てを凍えさせ、私の情熱に水を差す『氷の不浄姫』。お前と一緒にいるだけで、私の魔力は鈍り、不快な寒気が走るのだ」
不浄。
その言葉が、心の中に鋭い氷柱となって突き刺さる。
私は、炎を尊ぶフレイム公爵家に生まれながら、熱を奪う「氷」の力を持って生まれてしまった。
父様からは「一族の恥」と罵られ、母様からは「不吉な子」と目を逸らされ、使用人たちからも「お嬢様、近寄らないでくださいませ。体が冷えますから」と避けられてきた。
私の居場所は、家の中でも、この国の中でも、どこにもなかった。
「お姉様、そんなに悲しい顔をなさらないで?」
ベアトリスが、鈴を転がすような声で笑った。彼女の手から、柔らかな炎の粉が舞う。
「リュシアン様は、私が支えますわ。私の『陽炎』の力なら、殿下の太陽をより一層輝かせることができますもの。お姉様は、その冷たい体でどこか遠くへ消えてくださるのが、一番の親孝行ですのよ」
「……あぁ。お前との婚約は、今この瞬間をもって破棄する。そしてフレイム公爵とも話はついている。お前は今日限りで国外追放だ」
国外、追放。
耳を疑う言葉に、私はようやく掠れた声を出した。
「……どこへ、行くのですか……?」
「北だ」
リュシアン様は、吐き捨てるように言った。
「『凍てつく辺境』、ノースウォール領。あそこの辺境伯、カイルムならお前の冷たさも気にならないだろう。あやつは人食いの化け物だの、氷の死神だのと噂される男だからな。ゴミにはゴミ溜めがお似合いだ」
カイルム・ド・ノースウォール辺境伯。
噂は聞いている。戦場では一振りで千の敵を凍らせ、心を持たない冷酷非情な怪物。一度その領地に入れば、二度と生きては戻れないと言われる絶望の地。
家族に捨てられ、婚約者に嘲笑われ、私は怪物への生贄として差し出されるのだ。
「……承知いたしました」
私は、深々と頭を下げた。
視界が涙で歪みそうになるのを、必死で堪える。
ここで泣けば、また「湿っぽい」「不快だ」と罵られるだけだから。
私の心は、もうずっと前から凍りついていた。
痛みも、悲しみも、絶望も、全てを氷の中に閉じ込めて、何も感じないように生きてきた。
「……あぁ、そうだ。持っていくものはそのボロ布一枚で十分だろう? お前のものは、何一つこの国に置いていきたくない。お前の歩いた跡は、全て太陽の火で焼き払っておくからな」
背後で、リュシアン様の高笑いが響く。
ベアトリスの甘ったるい声が追いかけてくる。
私は振り返らずに、燃える薔薇の庭を後にした。
冷え切った指先で、たった一つの、母様が昔くれた——今はもうボロボロになった——刺繍入りのハンカチを握りしめて。
馬車に揺られ、北へ、北へと向かう。
車窓から見える景色が、鮮やかな緑から、寂しい灰色、そして純白の雪景色へと変わっていく。
馬車の隙間から入り込む風は、刃物のように鋭く、肌を削る。
けれど、不思議だった。
王都のあの息の詰まるような熱気よりも、この刺すような寒さの方が、ずっと呼吸がしやすい気がしたのだ。
(……死ぬのなら、せめて静かな場所がいい……)
瞳を閉じると、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡る。
冷遇された日々。暗い部屋で一人、冷たい指をさすりながら夜を明かした時間。
愛されたいと願うことさえ、私にとっては許されない贅沢だった。
やがて馬車が止まる。
扉が開かれた瞬間、暴力的なまでの吹雪が吹き込んできた。
「……着きましたよ。降りてください」
御者の冷淡な声。
私は震える足で、白銀の世界へと一歩を踏み出した。
目の前にそびえ立つのは、黒鉄で作られたような、重厚で無機質な城。
周囲には人影もなく、ただ風の唸り声だけが響いている。
「……あなたが、エルシアか」
地響きのような、低い声がした。
顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。全てを見透かすような、鋭い灰色の瞳。
身に纏う黒いマントが、風に激しくなびいている。
彼が、氷の死神。カイルム辺境伯。
私は恐怖に身を竦ませ、ぎゅっと目を閉じた。
きっと、すぐに罵倒される。あるいは、このまま雪の中に放り出されるのだ。
……けれど。
「…………っ」
予想していた衝撃は、来なかった。
代わりに感じたのは、信じられないほどの、大きな「熱」だった。
冷え切った私の両手を、カイルム様の大きな手が、包み込むように握ったのだ。
「ひどい冷え方だ。……馬車の中で、さぞ心細かっただろう」
耳元で響く声は、驚くほど穏やかで、深く、温かい。
「……え?」
恐る恐る目を開けると、そこには、噂とは正反対の眼差しがあった。
死神の瞳ではない。それは、迷い込んだ小鳥を案じるような、深い慈愛を湛えた瞳だった。
「ようこそ、私の城へ。……もう、大丈夫だ。ここでは誰も、君を『冷たい』と責めはしない」
カイルム様はそう言うと、震える私を、その大きな腕で軽々と抱き上げた。
厚い胸板から伝わってくる、確かな鼓動。
私が今まで一度も触れたことのない、本物の「体温」。
「……ぁ……あ……」
言葉にならない声が、喉の奥から漏れる。
氷の中に閉じ込めていた感情が、彼の熱に触れた瞬間、パキリと音を立ててひび割れた。
止まっていた涙が、溢れ出す。
それは冷たい雪ではなく、温かな雫となって、彼の黒い外套を濡らした。
「……泣いてもいい。今まで溜め込んできた分、全てここで溶かしていきなさい」
頭を撫でる、大きな手の感触。
その優しさが、今の私には何よりも、何よりも痛くて、そして――心地よかった。
灰色の絶望に染まった私の世界に、初めて、柔らかな灯火がともった瞬間だった。
「本当の愛は、一番凍えた場所にこそ宿るもの」
そう信じて、心を込めて綴らせていただきました。
もしエルシアが「死神」と呼ばれた閣下の腕の中で、
少しずつ、少しずつ心を開いていく姿を見守りたいと思ってくださったなら……。
ぜひ【ブックマーク】と【下の評価(☆☆☆☆☆)】で、彼女に温かな光を届けていただけませんか?
皆様のその一押しが、彼女の氷を溶かす大きな力になります。
次のお話では、初めて「お姫様」として扱われるエルシアの、
戸惑いとときめきの夜をお届けしますわ。
またこの北の地で、皆様とお会いできるのを楽しみにしております。




