第9話 オクムラマンション4003号室
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混沌の街で、束の間の平穏。
猫耳少年の『ねぐら』は、不思議で、優しい場所だった。
市場の喧騒を抜け、僕たちは巨大な建造物の前にたどり着いた。
オクムラマンションと書いてある、錆びたプレートが見えた。
それは、僕が本土で見たことがあるような、昭和に建てられた巨大な団地によく似ていた。
だが、その姿は異様だった。
ベージュ色の外壁は、びっしりと生い茂る蔦に覆われ、建物の周囲には雑木林のように木々が鬱蒼と茂っている。
コンクリートと植物が奇妙な共生関係を結び、独自の生態系を築き上げている、巨大な生命体のように見えた。
猫耳少年に手を引かれるままマンションに足を踏み入れると、外観の自然の侵食とは打って変わって、人間の熱気が渦巻く、混沌とした空間が広がっていた。
エントランスロビーは、古い市民会館のような雰囲気で、長年使い込まれたリノリウムの床が鈍く光っている。
壁という壁は、いつから貼られているのか分からない無数の貼り紙や、イベントのチラシなどで埋め尽くされていた。
ロビーの隅の方では、こたつを囲んで数人の若者たちが議論を戦わせている。
腕が四本ある者、普通の見た目の人間の若者、顔にサイバネティクス模様がある者。
猫耳少年が彼らに向かって「おーっす」と軽く手を上げると、彼らも気さくに片手を上げて応えた。
値踏みするような視線も、好奇の目もない。
ただ、そこにいることが当たり前の風景として受け入れられているようだった。
僕たちは雑多なロビーを抜け、少し古びたエレベーターに乗り込む。
僕たちの他に、おびただしい数の岡持ちを片手で軽々と抱えた出前の少女と、肩に機械仕掛けのフクロウを乗せた老人が乗り込んできた。
少女は鼻歌を歌い、老人のフクロウは赤いカメラアイを無機質に点滅させている。
奇妙な同乗者たちだったが、猫耳少年は気にするそぶりも見せない。
エレベーターの壁は、手書きのライブポスターで埋め尽くされていた。
『零式ノイズ LIVE at 沈んだ水族館』
『電脳遊郭 GIG at 第三発電所跡地』
『終末少女 ゲリラライブ会場提供者募集中!』
いくつものバンド名と会場名が、殴り書きのような文字で僕の目に飛び込んでくる。
その中でもひときわ大きなポスターのキャッチコピーは、『お前の価値は、お前が決める』。
その拙くも力強い文字に、僕はどきりとした。
4階に着き、薄暗い廊下を進む。
廊下には住人たちの私物や共有物が溢れかえっていたが、不思議と歩くのに支障はなかった。
壁際には、哲学書や難解な物理学の専門書が詰まった本棚が並んでいるかと思えば、その隣には使い古されたボールやバットやラケットが並べられた棚——『使用後は元の場所に返却!』と棚に張り紙がしてある——もあった。
通り過ぎる部屋のドアは、開けっ放しになっているところも多かった。
麻雀牌をかき混ぜる音が響く部屋、薄暗がりの中でアーケードゲームの電子音と歓声が漏れる部屋。
ピアノの部屋からは、ショパンの切ないメロディが流れてきていた。
「すごいな、ここ……。家賃とか、どうなってるの?」
あまりの光景に、思わずそんなことを尋ねていた。
彼は、こともなげに答える。
「家賃? 一応、月1000円ってことになってるけど、まあ、払わなくても追い出されたりはしないよ。ここはオクムラさんっていう伝説の偉人が、50年くらい前に、自分の《能力》を使って建てたんだ。金がない奴が住む場所に困らないようにね。だから、できることで貢献すればいいんだよ。壊れたとこ直したり、掃除したり。朝のラジオ体操に顔出すだけでも、立派な貢献さ」
「ラジオ体操……」
「そう。そんなもんでいい。今じゃ600人くらい住んでるかな。面白いのがさ、住人が増えると、このマンション自体が勝手に拡張していくんだ。逆に、住民が減るとコンパクトになっていく。不思議だろ?」
やがて、ひときわ多くのステッカーが貼られた部屋の前で、彼は足を止めた。
金属のドアプレートには、手書き風の文字で『4003 NEKOMURA』と彫ってある。
彼はポケットから鍵を取り出すと、慣れた手つきで鍵穴に差し込んだ。
「どうぞどうぞ。散らかってるけど」
ガチャリ、と鍵が開く音に続いてドアが開かれる。
その瞬間、外の混沌とした廊下とは違う、彼の生活の匂いがふわりと僕を包んだ。
「お、お邪魔します」
一歩足を踏み入れると、そこは不思議と落ち着く空間だった。
一人暮らしには広めの部屋だが、お世辞にも綺麗とは言えない。
壁一面には年代物のヘッドホンや様々な柄のパーカーが無数に飾られ、本棚には漫画が乱雑に積まれている。
カーペットの敷かれた床には、読みかけの漫画雑誌やゲームソフトが散乱していた。
全体的に散らかった部屋ではあったが、それでも、不快感はない。
使い込まれた家具や、彼の趣味のもので溢れた空間は、乱雑さの中にも、確かな「生活」の匂いを放っていた。
キッチンから漂ってくる、インスタントラーメンのような、食欲をそそる香り。
窓の外には、僕がさっきまでいた「東京」とは似て非なる、幻想的なネオンの海が広がっている。
本土のどの部屋とも違う、けれどなぜか、僕の強張っていた心が少しだけ解けていくような空気。
ここは、僕の知らない世界だった。
彼は、僕に構うことなく、部屋の隅にあるコンポの電源を入れ、お気に入りの曲を流し始める。
少しノイジーで、でも心地よいリズムを刻むシティポップ。
その音に包まれていると、今まで頭の中で鳴り響いていた嘲笑や罵声が、少しずつ遠のいていくのが分かった。
「ちょっと待ってて」
彼は、ご機嫌に鼻歌を歌いながら、奥の部屋に入っていった。
僕は、部屋の真ん中に立ったまま、動けなかった。
姫宮たちの暴力も、間引き隊の悪意も、警官の冷たい目も、ここには届かないだろうと思えた。
誰にも脅かされない。
誰にも見つけられない場所。
張り詰めていた全身の筋肉が、ゆっくりと弛緩していく。
僕は、知らず知らずのうちに止めていた息を、長く、深く、吐き出した。
それは、僕がこの世に生を受けてから、初めて漏らした、本当の意味での安堵のため息だったかもしれない。
僕が立ち尽くしていると、彼がこちらにやってきた。
床に散らばった雑誌を足で適当にどけながら、僕に向かって言う。
「シャワー浴びて、綺麗な服に着替えてきなよ。服は俺のやつ貸してあげるから。サイズ合うかわかんないけど。全身ボロボロだし、そのままだと落ち着かないでしょ」
そう言って彼が放り投げてよこしたのは、分厚い生地の黒いパーカーと、チャコールグレーのハーフパンツだった。
「……あ、ありがとう」
僕は、言われるがままにシャワーを浴びた。
熱いシャワーが、殴られてこびりついた血や路地の汚れを洗い流していく。
殴られた箇所がいくつか青あざになっている。
傷口にお湯が沁みて、思わず顔をしかめた。
だが、その痛み以上に、身体から余計なものが剥がれ落ちていくような感覚があった。
本土での屈辱も、間引き隊への恐怖も、全てが泡と共に排水溝へ流れていくようだった。
彼の服に着替えると、少し大きいけれど、清潔なコットンの感触と、彼と同じ柔軟剤の匂いが、ささくれた心を優しく包んでくれるようだった。
バスルームから部屋に戻ると、彼は床に座り込み、テーブルの上で二つのカップ麺の蓋を開けているところだった。
部屋には、ジャンクで食欲をそそる匂いが満ちている。
僕に気づくと、
「ほら、冷めないうちに食べちゃおう」
と屈託なく笑った。
湯気の立つカップ麺、少し埃っぽい部屋、ノイジーな音楽、そして僕に当たり前のように笑いかける少年。
そのあまりに「日常的」な光景が、僕には奇跡のように思えた。
僕は彼の向かい側に黙って座ると、差し出されたカップ麺を、夢中で啜った。
熱いスープが、冷え切った身体の芯まで沁み渡っていく。
一口、また一口と麺を啜るうちに、視界が滲んでいく。
彼が、何も言わずにティッシュの箱を僕の方にそっと押しやった。
「……ごめん」
「いーよ。泣きたい時は泣けばいいんだよ。ここじゃ、誰もそんなこと気にしないから」
彼はそう言うと、少し照れくさそうに自分の分を食べ進めた。
その、押し付けがましくない優しさが、僕の凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。
食べ終わる頃には、僕の涙もすっかり乾いていた。
「そういや、まだ名乗ってなかったね。俺、猫村明日。明日って呼んで」
彼は八重歯を見せて笑った。
明日——。
レベル0を宣告された僕には、「明日」など存在しないはずだった。
淘汰祭で間引かれる運命。
生きる価値を否定され、未来を剥奪された僕に、明日という概念そのものが禁じられていた。
だけど、この少年は「明日」という名前を持っている。
そして今、その明日が、僕を救ってくれた。
明日。
その名前が、不思議とすんなり心に入ってきた。
「僕の名前は……隠悠句」
僕は一瞬言いよどんだ。
クラスのみんなは僕を「隠」としか呼ばなかった。
苗字だけ。
まるで個人として認識する価値もないかのように。
でも、なぜだろう。
この少年には、ちゃんと名前を知ってほしいと思った。
「悠句か。いい名前だね」
「みんな『隠』としか呼ばないけど……」
「じゃあ俺は悠句って呼ぶよ。その方がいいだろ、悠句?」
「……う、うん。そうだね」
僕はようやく、僕を助けてくれた彼の名前を知った。
そして初めて、誰かに「悠句」と呼んでもらえることが、こんなにも嬉しいことだと知った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
悠句にとって、たくさんの『初めて』が詰まった回でした。
小さくて、でも、とても大切な、新しい始まりの物語です。
ようやく、心休まる場所を見つけた悠句。
偽東京での第一歩を踏み出します。
二人の出会いや、偽東京の不思議な日常を気に入っていただけましたら、ぜひページ下の【★★★★★】から評価や、ブックマークをしていただけると、今後の執筆の大きな励みになります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。