第8話 「偽東京」
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四つ腕ゴリラの包囲網を、突破できるのか。
そしてその先に広がる、幻の都市とは――。
彼が叫ぶのと、僕の身体を再び軽々と横抱きにするのは、ほぼ同時だった。
次の瞬間、僕の視界は凄まじい勢いで後方へと流れはじめた。
猫耳少年は僕を抱えたまま、信じられないほどの瞬発力で地面を蹴り、じりじりと狭まる包囲網の一番手薄な一点を、文字通り弾丸のように突破した。
「逃がすかァ!」
という怒声が、あっという間に遠のいていく。
景色が、溶けた絵の具のように猛烈な速さで後方へと流れていった。
ごうごうと風が耳を打ち、猫耳少年の足が地面を蹴る衝撃だけが、断続的に身体に響く。
何が起きているのか、もはや僕の脳では処理できない。
壁を埋め尽くす呪文のような落書きが、一瞬で意味のない色の帯に変わる。
すれ違った老婆の背中に、亀の甲羅のようなものが見えた気がしたが、確かめる間もなく視界から消え去った。
狭い路地を抜け、水路の上を飛び、ありえない角度で壁を駆け上がっては飛び降りる。
まるで人間ではない、一匹の猛獣に抱えられているかのようだった。
どれくらいの時間が経ったのか。
不意に視界が開き、強烈な光と音の洪水に襲われた。
僕たちは、市場のような賑やかな通りに飛び出していた。
そこでようやく地面に降ろされ、僕はアスファルトに手をつきそうになるのを必死でこらえた。
膝が、意思とは無関係にがくがくと震えている。
緊張の糸が切れたというより、三半規管が限界だった。
息が切れ、胃の中身がせり上がってくるのを必死に堪える。
対照的に、僕を抱えてあれだけの距離を疾走したというのに、彼は息一つ乱さず、ケロリとした顔で立っていた。
「……へへ、ツイてなかったね。
ま、ここではよくあることだけど」
悪びれもせずに笑う彼に、僕は何かを言い返す気力もなかった。
肩でぜえぜえと息をしながら、ようやく顔を上げる。
まず鼻をついたのは、あらゆるものが混じり合った濃密な匂いだった。
スパイスの効いた屋台料理の香ばしい匂い、むせ返るような線香の香り、古い機械から漏れるオイルの匂い。
本土の無菌質な空気とは全く違う、生命力そのもののような匂いに、僕は眩暈を覚えた。
耳には、威勢のいい日本語の呼び込み、僕の知らない異国の言葉、正体不明の機械が唸る音、どこからか聞こえてくる電子音楽…あらゆる音が混然一体となって、街全体が巨大な生き物のように脈打っているのが聞こえる。
そして、ようやく視界が定まった時、僕は息を呑んだ。
「ここ……は……一体、なんなんだ……?」
かすれた僕の問いに、猫耳の少年は、まるで自分の庭を誇るように笑ってみせた。
「ここが、俺の住んでる街さ。
昔の東京や今の東京、果ては空想の東京から、色んなものを拝借して出来てるから、『偽東京』なんて呼ばれてる」
偽東京——。
その言葉を反芻する僕の五感を、理解の範疇を遥かに超えた、狂気的で、それでいてどうしようもなく美しい光景が殴りつけた。
僕たちが立つ石畳の通りから、都市はあらゆる方向へと無秩序に広がっていた。
すぐ隣には、けばけばしいネオン管が血管のように這うガラス張りの超高層ビルがそびえ立ち、その壁面には着物姿の女性の巨大なホログラム広告が雨に濡れたようにゆらめいている。
その足元には、まるでしがみつくように古い瓦屋根の商店が軒を連ね、軒先から吊るされた赤提灯が、頼りない光を放っていた。
僕たちのはるか頭上には、無数のケーブルが注連縄のように張り巡らされ、そこから吊るされた裸電球や赤提灯が、僕たちのいる通りを温かく照らしている。
僕たちのすぐ横を、古びた路面電車が火花を散らしながら走り抜けていく。
その後を、旧式の自動車や、幌付きの馬車も通り過ぎていった。
その上空を、提灯をぶら下げた優雅な飛行艇がゆっくりと横切っていく。
ビルとビルの隙間から見える遥か遠くには、壁一面がおびただしい数の室外機で埋め尽くされた、巨大な集合住宅群が霞んで見えた。
無数の窓から漏れる生活の光が、まるで呼吸するように明滅している。
数えきれない人々と、人ならざる者たちの息遣いが、幻聴のようにここまで聞こえてくるようだった。
その屋上では、緑色の巨大なガラポンが、この喧騒とは無関係に、音もなくゆっくりと回転していた。
(……なんだろう、懐かしい感じがする)
映画で見たサイバーパンクの世界と、昭和から平成にかけての日本の眺めが、幻想的な夢の中で無理やり一つに繋ぎ合わされたような街だった。
僕はその無秩序な美しさに、追われていた恐怖も忘れて、ただ心を奪われていた。
街は、生き物のように絶えずざわめいていた。
「——はい、そこのお嬢さん、記憶キノコの串焼きだよ!
昨日の晩飯、思い出せるかい?
ダメならこれを食いな!」
「用心棒はいるかい!
四つ腕の一人や二人、軽くひねり潰してやらあ!
一時間5000円から!」
「失くした記憶、探し物かい?
それとも、忘れたい記憶でもあるのかい?
うちはどっちも専門だよ」
奇妙な響きの売り文句が、四方八方から飛び交う。
街を往く人々の姿は、僕が知る「人間」の範疇には収まらなかった。
ごく普通の人間たちのすぐ隣を、顔の半分が精巧な機械に置き換わった男が通り過ぎていく。
店先では、爬虫類のような鱗を持つ女性が客引きをしていた。
人間も、人間でない者も、ここでは当たり前のように共存しているのだ。
人の波は絶えることがない。
その中で僕が気づいたのは、誰一人として僕に蔑むような視線を向けない、ということだった。
本土では常に感じていた、獲物を見る目、汚物を見る目。
それがここにはない。
誰もがただ、自分の生活に忙しく、僕など風景の一部でしかない。
その完全な無関心さは、僕という存在の輪郭を曖昧にさせていくようだった。
それは安らぎとは違う、もっと心許ない感覚。
だが、少なくともここでは、僕は「狩られる」存在ではない。
その事実だけが、かろうじて僕をこの場に繋ぎとめていた。
猫耳の少年は、そんな僕の混乱など意にも介さず、ひときわ香ばしい匂いを漂わせる、ある屋台へと向かった。
屋台の店主は、巨大な鰐の顔を持つ男だった。
「鰐造のおっちゃーん、こんばんは」
「おう、ネコ坊っ!
久しぶりじゃねえか。
また厄介事をしょい込んできたみてえだな!」
「ネコ坊言うなって!
もう18なんだから」
猫耳少年は少し顔を赤らめながらも、どこか嬉しそうに言い返す。
そのやり取りに、彼がこの異様な街で確かに生きているのだという実感が湧いた。
「がーっはっはっは。
俺から見りゃまだ坊やだよ」
彼は、その大きな顎を開けて豪快に笑った。
ワニの親父は僕たちに、墨を吐く代わりに涙を流すというタコの足の切れ端が入った「涙ダコのたこ焼き」を差し出した。
「食いな、坊主ども。
最近景気が良いんで、おごりだ。
……そっちのは、見たとこ、この街は初めてなんだろう?
ひでえツラだな。
本土でやられたクチか?
まあ、ここに来る奴は、だいたいそんなモンだ。
理由は聞かねえよ」
「まあ、まずは食え食え。
腹が減ってるとロクなことにならねえ。
困った時は、まず腹を満たしてから考えるんだ」
「サンキュ、親父!」
と猫耳少年がたこ焼きを頬張る。
僕は、ここが一体どういう街なのか疑問に思いながらも、差し出された温かい包みを黙って受け取った。
馴染みのない料理に一瞬躊躇したが、空腹には勝てなかった。
恐る恐る口に入れると、ソースの香ばしさと、魚介の濃厚な旨味が口の中に広がる。
全身に染み渡るような美味しさだった。
温かいものが胃に落ちていく感覚に、張り詰めていた心と身体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
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ついに、幻の都市『偽東京』へ!
ノスタルジックでサイバーパンクな、カオスな幻想都市。
彼の運命は、これからどうなるのでしょうか。
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