第6話 猫耳の少年
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追い詰められ、逃げ場はなく。
狩られる少年の、最後の瞬間。
そして――。
僕は立ち上がり、後ずさろうとしたが、背中はすぐに冷たいコンクリートの壁にぶつかった。
逃げ場はない。
間引き隊の人間たちが、僕を取り囲む輪をじりじりと縮めてくる。
ニタニタと下品な笑みを浮かべ、僕の恐怖を肴に楽しんでいるのが分かった。
一瞬の静寂。僕の心臓の音だけが、やけに大きく頭に響く。
やがて、一人が唾を吐き捨てるように言った。
「まーたこの顔だよ。潔く諦めりゃいいのに、どいつもこいつも怯え切った顔をしやがる」
「目ぇ見てみろよ、もうおしっこ漏らしそうだぜ? ……おっ、震えてやがる、ウケる」
「いやあ、こいつの目はまだ光が残ってる方だ。最高じゃねえか……あの光が濁って、消える瞬間がたまらねえんだよ」
彼らは僕を動物園の珍獣でも見るかのように、口々に囃し立てる。
一人が、僕の頬に残る傷跡を、指先でわざとゆっくりとなぞった。
僕はびくりと身をすくめる。
その反応が面白いのか、男は腹を抱えて愉快そうに笑った。その呼気に混じる酒の匂いに、吐き気がした。
僕の視界が、必死に出口を探して、左右に揺れる。
わずかに空いていた隙間に向かって駆け出そうとした。
だが、目の前に立ちふさがった巨漢に、いとも容易く胸を突き飛ばされる。
「っぐ……うっ」
僕は数歩よろめき、背中から壁に強く叩きつけられた。
肺から空気が押し出され、息が詰まる。
静寂が戻る。
そして、その静寂を破ったのは、無機質な電子音だった。
パシャリ。
パシャリ。
派手なアクセサリーをつけた若い女が、ポケットからスマートフォンを取り出して、僕を撮り始めたのだ。
暗闇の中で、液晶画面の青白い光が彼女の楽しげな顔を不気味に照らし出す。
それに促されるように、周りの者たちも次々とスマホを構え、レンズというレンズが一斉に僕に向けられる。
「はーい、撮るよー!」
女が甲高い声を上げる。
「こっち向いて笑って! ほら、記念なんだからさあ」
茶髪の若者が囃し立てる。
「来月にはもういない命ですものねえ。存在した証くらい、残してあげませんと」
けばけばしい化粧をした中年女性が、値踏みするような目で僕を見て、ねっとりとした声で言った。
シャッター音が、僕の尊厳が砕け散る音のように、四方から無慈悲に響き渡った。
フラッシュの白い光が、何度も僕の視界を焼いた。
殴られた頬の痛みよりも、蹴られた脇腹の痛みよりも、無数のレンズに射貫かれるこの屈辱が、僕の心を深く、深く抉っていく。
僕は、ただ消費されるだけの「的」だった。
下卑た笑い声とシャッター音の中で、僕はなすすべもなく立ち尽くす。
安物のスーツを着た若いサラリーマン風の男が、ずかずかと歩み寄ってきて、僕の胸ぐらを掴み上げた。
「おい、こら、劣等遺伝子がっ! 俺たちが毎日毎日、満員電車に揺られて、クソ上司に頭下げて、必死こいてこの国を支えてやってるってのによぉ! てめえみたいな穀潰しは、生きてるだけで税金の無駄なんだよ! 俺らが責任持って収容所に放り込んでやるからな!」
言葉の暴力と同時に、鈍い衝撃が、何度も僕の身体を襲う。
腹を思い切り殴られ、僕は「うっ」と呻きながら、壁を背に崩れ落ちた。
革靴、スニーカー、パンプス——誰かの靴の先が、太ももや脇腹にめり込む。痛みで視界が明滅した。
路地の入り口に、人だかりができ始めていた。スマホを構えた野次馬たちが、遠巻きにこちらを眺めている。
スマホの撮影音と、下卑た笑い声が四方から降り注ぐ。
「え、あれなに?」
「なんか遺伝子弱者がいたって」
「えーまじ?こわっ」
彼らの顔に浮かんでいるのは、恐怖でも、同情でもない。
ただの好奇心と、安全な場所から他人の不幸を眺める、歪んだ娯しみだけだった。
誰かが投げた空き缶が、アスファルトの上をカラカラと虚しく転がっていく。
排気ガスの匂いに、自分の流した血の鉄臭い匂いが混じって、吐き気がした。
* * *
その時だった。ピーッ、という笛の音と共に、「こら、何をしている!」という声が響き、群衆が割れた。
制服を着た警察官が二人、こちらへ歩いてくる。僕の心に、最後の、か細い希望の灯がともった。かすれた声で助けを求める。
「……た、助けてください」
若い警官は僕を一瞥すると、すぐに視線を逸らした。
「……ああ、なんだ、間引き隊の皆さんですか」
僕を袋叩きにしていた人たちに向かって、面倒そうに言う。
「ええ、ちょっと遺伝子弱者を見つけたので」
「なるほど……それはお疲れ様です。おい、ちょっと君、身分証!」
警官に言われ、震える手で、ぼろぼろになった鞄から学生証を取り出す。
もう一人の中年の警官は、僕からそれを受け取ると、手持ちの端末でスキャンし、フン、と興味を失ったように鼻を鳴らした。
そして、僕の学生証を無造作に地面に投げ捨てると、自警団の連中に向かって、まるで旧知の友人にでも語りかけるかのような声音で言った。
「ま、もうすぐ淘汰祭ですからな。あんまり派手にやって、通報が増えるのも面倒なんで、ほどほどにしといてくださいよ」
「はい、ご公務お疲れ様です。とりあえずこの後、収容所までは必ず連れていきますので」
警官たちは何事もなかったかのように、背を向けて去って行った。
(ああ、そうか…)
幼い頃、教科書で習った「正義の味方」の姿が、脳裏で粉々に砕け散っていく。
僕の心臓が、まるで氷水に浸されたかのように急速に冷えていくのを感じた。最後の希望は、絶望の闇に飲み込まれて消えた。
そうだった。遺伝子レベル0の人間が守られることなど、あり得ないのだ。
警察は、「善良な一般市民」の味方なのだから。
僕を「淘汰」することこそが、この社会における「正義」なのだから。
僕は倒れ伏しながら、唇を強く嚙んだ。
村野さんに手当てしてもらった絆創膏が、ぬるりとした血の感触と共に剥がれかけているのが分かったが、どうすることもできなかった。
収容所――。
その言葉が、脳裏に焼き付いた錆のようにこびりついて離れない。
一度そこに送られた者は、二度と人間として扱われることはないのだと、誰かが噂しているのを聞いたことがある。
淘汰祭までの間、彼らは物言わぬ家畜として扱われ、新薬や兵器の臨床実験のモルモットにされるのだと。
あるいは、優秀な遺伝子を持つ富裕層の娯楽のために、生きたまま嬲られ、見世物にされ、最後には殺されるのだと。
警官のお目こぼしを得た彼らは、さらに勢いづく。
野次馬も加わって、僕を取り囲む人数がさらに増えていた。
このままじゃ、ここで殺されるか、それよりもっと酷い目に遭う。
その恐怖が、僕の身体の奥底に眠っていた最後の力を引き出した。
地面に手をつき、軋む身体に鞭を打つ。
震える脚で、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がる。
僕のその姿に、間引き隊の連中が一瞬、油断したような、あるいは面白がるような表情を浮かべたのがわかった。
僕の目は彼らの背後にある、暗い口をぽっかりと開けた、雑居ビルの非常扉だけを捉えていた。
路地の入口は、人で塞がれている。
あそこしかない。
「――っ!」
息を吸うのも忘れ、僕は地面を蹴った。
低い姿勢で、人の壁の隙間に思い切り全身をぶつけて、進路をこじ開ける。
背中を殴られ、服の端を掴まれるが、力づくで振り切った。
アドレナリンが、全身の痛みを麻痺させていた。
僕の突然の疾走に、彼らの声から余裕の色が消えた。
「逃がすな!」
「屋上へ追い込め!」
背後から迫る怒声は、もはや人間のそれではなく、獲物を追い立てる獣の咆哮のように響いた。
錆びた鉄の扉に全体重を預けるようにして、僕は暗闇へと転がり込んだ。
全力で、暗い階段を駆け上がる。
背後で扉が開き、複数の足音が狭い空間で反響する。すぐそこまで来ている。
——肺が焼けつくように痛い。
鉄錆の匂いが血の味に混じる。
でも止まれない。
止まれば終わりだ。
上へ。とにかく上へ!
踊り場を曲がる。
窓の外のネオンが、追手の獣のような目を一瞬照らして消えた。
「待てよ、ゴミが!」
怒りに満ちた声がすぐ後ろから聞こえる。さっきのサラリーマンだ。
心臓が張り裂けそうだ。
足がもつれる。
壁に手をついて、無理やり身体を前に押し出す。
まだか。まだ上はあるのか。
ふと、頭上からかすかな光がさすのが見えた。
屋上だ。
鉄の扉。
鍵は。かかっていない。
最後の力を振り絞り、錆びついたノブに手をかける——回らない。くそっ! 全体重をかけて思い切り捻ると、ぎぎぎぎっ、という悲鳴のような音を立てて扉が開いた。
都会の光の中へ転がり込むようにして、僕は屋上へとたどり着く。
冷たい夜風が、燃えるように熱い頬を撫でた。
目前には、今の僕には絶望的に広すぎる光の海が広がっている。
僕は光の海に向かって、駆けた。
夜の街とこちら側を隔てる、金網のフェンス。
手足を引っかければ、登れる。
しかしフェンスを乗り越えて——どうする? わからない。
すぐ後ろまで、彼らが追ってきている。
逃げ場はない。
僕は思い切り勢いをつけてフェンスに飛びつき、そのまま無我夢中で登り越えた。
高層ビルの屋上の縁。僕の背後には、もう冷たい夜の空しかない。
ふと真下を見下ろしてしまい、くらりと世界が揺らいだ。
遥か下を走る車のヘッドライトが、まるで光る虫の群れのように見える。
吸い込まれそうな感覚に襲われ、思わず背後の金網フェンスを強く握りしめる。
振り返ると、追いついてきた間引き隊が、続々と屋上に姿を現していた。
「追い詰めたっ」
「もう逃げられないぞお」
下品な笑い声と、時折響くシャッター音が、コンクリートの床を跳ねて耳に届く。
彼らがカメラを手に、何をしているかはわかっていた。
SNSで、遺伝子弱者が間引かれる様子をライブ中継しているのだ。
彼らのスマートフォンの画面には、きっと無数のコメントが滝のように流れているのだろう。
『もっとやれ』
『楽に死なせるな、収容所にぶち込め』
『さっさと捕まえろ』
『遺伝子レベル0の末路』
……。
顔も知らない大勢の人間が、僕という存在を消費している。
遺伝子弱者が社会から「間引かれる」様子を映したライブ配信は、この国の一大娯楽コンテンツなのだ。
先ほどの若いサラリーマンが、僕からフェンスを隔てて数歩の距離で立ち止まる。
片手でスマートフォンを構え、そのレンズを僕に向けたまま、ヘラヘラと笑いながら言った。
「おい、ヒーローインタビューだぜ。今の心境は?」
男の嘲笑が、風に乗って耳に届く。
「…………」
僕は答える代わりに、殴られて切れた唇の端に滲む、生暖かい血の味をただ舌で確かめた。
熱を持った頬を撫でていく夜風は、追手たちのざわめきと、僕を拒んだ世界の喧騒を運び込んでくる。
間引き隊がじりじりと僕の方へと近づいてくる。
もう逃げ場はない。
僕は振り返って、東京の街を見た。
遥か向こうには、非の打ち所がないほど完璧な、宝石箱のような夜景が広がっていた。
僕がいなくても、いや、僕のような「不要物」が消えることで、その光はより一層清浄に、正しく輝き続けるのだろう。
一つ一つの光の中に、僕が決して手にすることのできない温かな家庭がある。
僕という存在は、この美しい世界の中では、たった一つの小さな染みでしかなかった。
「……もう、いいかなあ」
僕は呟く。
もう、なにもかも、どうでもよかった。
虐げられ続け、追われ続けて、ただ、ひどく疲れていた。
遺伝子レベル0の烙印を押される日よりもずっと前から、何かに怯え、何かから隠れ、息を潜めて生きてきた。
道端の石ころを見るような、あるいはもっと汚らわしい何かを見るような他人の視線に、心をすり減らす日々。
何もかもを諦めなければならない、色のない未来。
そして今、この瞬間も、僕は無数の見えない観客のために「みじめな遺伝子弱者」を演じさせられている。
この痛みも、恐怖も、絶望も、全てが彼らのための娯楽なのだ。
もう、うんざりだった。 彼らの手にかかって収容所へ送られるのも、ここで嬲り殺しにされるのも、大差ない。
どちらも彼らが用意した脚本の上で踊るだけだ。
ならばせめて、自分自身をこの世から消し去る作業だけは、自分の手で。
地面は遥か遠く下にあった。
コンクリートの縁に立つ僕の足は、がくがくと震えていた。
追手たちの、興奮と期待が入り混じった声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
「……さようなら」
誰にともなく呟いた言葉は、風にかき消された。
そして、僕は夜の虚空へと身を投げた。
内臓が浮き上がる不快な感覚。
強い風が全身に吹き付ける。
視界の端を猛烈な速さで遠ざかっていく街の光が、涙で滲んで一本の美しい川になる。
地面がだんだん近くなってくる。
さようなら、世界。
さようなら、母さん。
さようなら、父さん。
さようなら、村野さん。
ああ、これで終わる。
やっと、終わる。
固く目を閉じた、その時だった。
来るはずだった地面へ叩きつけられる衝撃は、永遠に訪れなかった。
代わりに、まるで鳥の羽毛にでも包まれたかのように、信じられないほど優しく、ふわりと身体が受け止められた。
ぐん、と体にかかる重力が蘇った。
何が——起こった?
恐る恐る目を開けると、僕は見知らぬ少年の腕の中にいた。
闇に溶けるような黒いマッシュヘア。
僕と同じくらいの歳だろうか。
首から下げた無骨なヘッドホンが、この非現実的な状況の中で妙な現実感を放っている。
彼は僕を横抱きにしたまま、まるで重力など存在しないかのように、僕が飛び降りたビルの壁をトン、と軽やかに蹴って、向かい側のビルの屋上へと飛び移った。
常人には到底不可能な、猫のようにしなやかな動きだった。
「大丈夫……じゃないみたいだね、派手にやられてる」
少年は、悪戯が成功した子供のようにニカッと笑った。
暗闇の中で、彼の鋭い八重歯が、街の光を反射してきらりと光る。
僕は声も出せず、目の前で起きていることを理解できないまま、ただ彼を見つめることしかできなかった。
こんな絶望的な状況だというのに、思わずどきりとしてしまうほど、その横顔は整っていた。
通った鼻筋に、薄い唇。
そして何より印象的だったのは、その涼やかな瞳だった。
夜の闇の中でも吸い込まれそうになるほどに美しく、その瞳の中では、まるで新宿の夜景そのものが溶け込んでいるかのように、無数の光が揺らめいている。
そして、僕は見てしまった。
彼の黒髪の間から、ぴんと立った、三角形の耳がふたつ生えているのを。
風に当たり、微かにぴくぴくと動くそれは、間違いなく、本物の猫の耳だった。
その人間離れした美しさと、奇妙な特徴の組み合わせに、僕は現実感を失っていく。
「俺が来たから、もう大丈夫。ずらかるよ!」
少年は僕を抱いたまま、再びいくつかのビルを飛び移り始めた。
地面が遠ざかり、風がごう、と唸りを上げる。思わず少年の服を強く掴んだ。
しかし、抱きかかえられた僕の体は驚くほど安定していて、恐怖の中にも不思議な安心感があった。
眼下の車のライトが光の川となって流れ、僕たちが飛び移るたびに、きらびやかな夜景が万華鏡のように表情を変えていく。
それは、死ぬほど恐ろしいのに、ひどく美しい光景だった。
* * * * *
一方、悠句が飛び降りたビルの屋上では、間引き隊のメンバーが、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしていた。
若いサラリーマンは、スマートフォンを握りしめたまま、フェンスの縁にへばりついていた。
ついさっきまでの嘲笑は顔から完全に消え失せ、半開きの口からは声にならない息が漏れる。
彼の視線は、向かいのビルに降り立った人影に釘付けになっていた。
何が起きたのか、誰一人として理解が追いつかない。
獲物は確かに身を投げたはずだ。
男がスマートフォンで撮りたかったのは、絶望した遺伝子弱者が地面に叩きつけられる、視聴者の喝采を浴びるための「画」だった。
しかし、どこからともなく現れた影が、まるで羽毛でも受け止めるかのように獲物を抱きとめ、重力を無視して跳んでいったのだ。
呆然とする彼らの目の前で、その人影は再び夜空を蹴った。
信じられないほどの跳躍力で軽々と、淘汰対象を腕に抱えたまま、ビルが作る夜の渓谷へと消えていく。
それはまるで、ネオンの光を道しるべに駆ける猫のようだった。
あっという間にその姿は無数の光の中に溶け、後にはただ、ざわめく風の音だけが残された。
「……今の、撮れてたか?」
誰かが、かすれた声で呟いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、タイトルの猫耳少年、「キャットボーイ」の登場です。
絶望の淵で、悠句の前に舞い降りた一筋の光。
謎の猫耳少年に救われた悠句が、連れて行かれる先とは。
物語が、大きく動き出します。
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