第5話 間引き隊
お読みいただきありがとうございます。
ネオンの密林へと放り出された少年に、帰る場所はない。
そして、社会の悪意が、牙を剥く――。
誰とも会わないように、裏門からひっそりと学校を出た。
錆びついた鉄の扉が、軋みながら僕の背後で閉まる。
その音はまるで、僕が今までいた世界との決別の響きにも聞こえた。
(……帰れない)
その一言が、頭の中で鉛のように重く響く。
帰る場所。
僕の家。
しかし、そこはもう僕の帰るべき場所ではないのかもしれない。
国家にとって「淘汰対象」となった僕が帰れば、僕の家族もまた、無言の監視の目に晒されるだろう。
僕がいるだけで、日々ささやかな暮らしをしている両親ごと、「国家に逆らう温床」と見なされてしまう。
何より、僕が「レベル0」になったことを、あの二人にどう伝えればいいというのだろう。
いつも「普通でいいから。
普通が一番だから」と、祈るように繰り返していた母が、崩れ落ちて泣き沈む姿。
そして、無口な父の、射抜くような軽蔑の視線。
実際に、二人がどう反応するのかは分からない。
だが、それを想像するだけで、足がアスファルトに縫い付けられたように動かなくなった。
申し訳なさと、どうしようもない恐怖が、僕の足を家とは逆の、繁華街の方向へと向かわせた。
気付けば、僕は品川駅のホームにいた。
行き先など、どこでも良かった。
ただ、この息苦しい場所から少しでも遠くへ逃れたかった。
滑り込んできた山手線の車両に、他の乗客に紛れるようにして乗り込む。
夕方のラッシュが始まるにはまだ少し早い時間帯で、車内には空いている席もあったが、僕は座る気になれず、ドアのそばに立ったまま、流れていく景色をただぼんやりと眺めていた。
車内には、僕と同じくらいの歳の学生はほとんどいない。
いるのは、社会という巨大な機械に組み込まれ、日々摩耗し、時間に追われている大人たちだった。
中年のサラリーマンが膝に置いたノートパソコンを必死の形相で叩いている。
その隣でぐったりと眠り込んでいる男の手は、スマートフォンの画面をつけたまま力なく垂れている。
彼らは皆、疲れている。
それでも、彼らには「役目」があった。
小さな小学生の男の子が、母親と一緒に乗り込んできた。
その背中には、まるで亀の甲羅のように分厚く四角い鞄が背負われている。
有名進学塾のものだろう。
席に座るなり、彼は鞄からタブレットを取り出し、小さな指で数式を解き始めた。
母親がその画面を覗き込み、「ここはもっと効率の良い解法があるでしょう」とささやくのが聞こえた。
子供は、遊びたい盛りのはずなのに、その顔には年齢不相応な真剣さが張り付いていた。
あの子供は、今から「上」へ行くための戦いを始めている。
サラリーマンたちは、その戦いをどうにかこうにか生き抜いてきた者たちだ。
始まりの世代も、中間の世代も、皆が同じレールの上を走っている。
それに比べて、僕はどうだ?
今日、僕はそのレールから突き落とされ、砕け散った。
摩耗することすら許されない、ただのガラクタ。
彼らと僕を隔てる壁は、あまりにも厚く、冷たかった。
電車が新宿駅に到着すると、僕は沈んだ足取りで、中央東口改札に向かった。
その先にある、眠らない街。
強烈な光と音で、僕のちっぽけな絶望など、いっそ飲み込んで消し去ってくれるのではないか。
そんな、根拠のない期待があったのかもしれない。
夜の新宿歌舞伎町は、眠らない巨大な生き物のように、光と音を無尽蔵に撒き散らしていた。
東口の改札を抜けると、むわりとした熱気と、多国籍の言語が入り混じった雑踏が僕を迎えた。
僕は、まるで巨大なピンボール台に打ち出された玉のように、人の流れに身を任せて歌舞伎町一番街のアーチをくぐる。
巨大なビルボードのネオンサイン。
青や赤の毒々しい色彩。
街を悠々と歩く、現実離れした美貌の男たち。
飲食店の呼び込みの声と、どこからか流れてくる喧騒じみた音楽。
空中に浮かぶ魚の群れのようなホログラム広告が、音もなく頭上を通り過ぎていく。
その広告は、一つの合言葉を、狂ったように、楽しげに連呼していた。
『来月は淘汰祭!』
『溜まった鬱憤、晴らしましょう!』
(淘汰祭…)
学校の授業で、それが如何に優れた社会制度であるかを習ったことがある。
日本皇国が、「国民の健全な精神と社会の安定を維持する」という名目のもとに制定した、年に一度の「ガス抜き」。
それが淘汰祭の本質だ。
遺伝子レベルの低い「負債」を国民自身の手で社会から取り除くことで、納税者の負担を軽減し、日本皇国の遺伝的健全性を保つ。
存在そのものがシステムエラーと見なされるレベル0の人間は、この祭りにおいて「間引き」の標的となる。
そして何より、日々の生活で溜まった国民の不満や攻撃性を、管理された形で解放させる。
結果として、本土における犯罪率は劇的に低下し、国民は体制への忠誠を新たにする。
遺伝子レベルの低い人間に恐怖を植え付け、遺伝子レベルの高い人間は自らの優位性を再確認する。
淘汰祭での「間引き」は、社会の澱を浄化し、市民の平穏を守るための、国家が認める善行なのだ。
毎年のように日本皇国全土が熱狂する、淘汰祭の盛り上がりは、この国を支配する優生思想が、効率良く、そして残酷に機能していることの証明だった。
行く当てもない僕は、目的地を定めずに街をふらふらと歩き続けた。
心の休まる場所などどこにもなかった。
街頭のスクリーンでは、ニュース番組が淘汰祭の特集を組んでいた。
品の良いスーツを着たコメンテーターが、神妙な顔で語っている。
「ええ、今年の淘汰祭は例年以上の盛り上がりが期待されますが、一つ注意すべきは、淘汰委員会の委員長、田嶋ミッシェルクライ様が直々に視察されるという情報です。
もし事実であれば…現場は相当な緊張感に包まれるでしょう」
淘汰委員会——国の優生思想を体現する、国家公認のエリート組織だ。
「間引き隊」のような民間の自警団とは格が違う、本当の化け物たちの集まり……。
画面が切り替わり、雪深い森の中に立つ山荘が映し出される。
そこへ、吹雪の中を静かに、和服姿の女性――田嶋ミッシェルクライが歩いていく。
山荘から放たれる無数の銃弾も、グレネードランチャーの爆炎すらも、彼女が眩い稲妻の姿に変わることで、全て空しくその体をすり抜けていく。
そして、山荘の玄関にたどり着いた彼女は、やれやれとでも言うように一つため息をつくと、その場にいる者たちの脳内に直接響くかのような、凛とした声で言った。
「まあ、お客様をお迎えするのに、銃を向けるとは……。
躾が、なっておりませんわね」
次の瞬間、彼女が扇子をパチンと閉じた。
その乾いた音が号令だった。
凄まじい轟音と共に、雷の奔流が山荘の全てを飲み込んだ。
後には、山荘の跡形ひとつなく、山腹に開いた巨大なクレーターだけが残されていた。
僕は、そのあまりに現実離れした映像を前に、呆然と呟いた。
「……映画みたいだ。
本当に、こんな化け物がいるのか……?」
映像が切り替わる。
人気コメディアンが
「淘汰祭にゃ数兆円の経済効果があるってハナシだ。
ありがてえよなあ、レベル0の皆さん!」
と冗談めかして言い、観衆の爆笑を誘っている。
正視に耐えず、僕はスクリーンの前から逃げるようにして立ち去った。
カフェのオープンテラスで、上質な服に身を包んだ女性たちが、優雅にお茶を飲んでいる。
おそらく、遺伝子強者ばかりが通う学校に子供を通わせている母親たちなのだろう。
「うちの息子も、来年はレベル30以上が確定しているから、一安心だわ。
やっぱり、あそこの遺伝子強化塾に高いお金を払って通わせたのが良かったのかしら」
「あら、すごいじゃない。
うちはまだ分からないけど、でもきっと大丈夫よ。
あの子は、ああ見えてもちゃんとやる子ですもの。
……それにしても、最近は質の悪い遺伝子の子が増えたと思わない?
ああいう子たちと同じ空気を吸うだけでも、うちの子に悪い影響がありそうだわ」
「そういう努力をしない、遺伝子の劣った方々がきちんと淘汰されるのは、社会のためにも良いことよねえ」
「そうねえ」
その会話は、まるでセール品の品定めでもするかのように、何の悪意も、罪悪感もなく交わされている。
彼女たちの世界では、僕のような存在は、社会の安全のために駆除されるべき害虫でしかないのだ。
広告のけたたましいジングル、楽しげに笑いながら歩く人々の声、車のクラクション。
その全てが、合法的な弱者狩りを前にした、異様な熱気と狂騒のBGMとなって僕の鼓膜を叩く。
この街の誰もが、来月、僕のような人間が「狩られる」ことを楽しみにしている。
僕だけが、この巨大な祝祭から疎外された、異物だった。
光と音の洪水から逃れるように、僕は雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い路地裏へと迷い込んだ。
表通りの狂騒が嘘のように遠ざかり、生ゴミの腐臭と湿ったコンクリートの匂いが鼻をつく。
ここで少しだけ休もう。
壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ、その時だった。
「お、反応したぞ。
こんな近くにいるじゃねえか」
「道理で臭いはずだ。
弱者遺伝子の腐った臭いか?」
粘つくような下卑た声が、暗がりの奥から聞こえてきた。
はっと顔を上げると、路地の出口を塞ぐように、数人の男女が立っていた。
仕事帰りのサラリーマン、派手な身なりの若者、買い物袋を提げた主婦。
見た目はどこにでもいる普通の人々。
そのうちの一人が持つスマートフォンの画面が、赤い警告色を放ちながら、僕の位置情報を正確に示していた。
僕の「レベル0」という判定は、学校から国家のデータベースへと瞬時に共有される。
そして、希望する市民は、専用のアプリで、僕のような「淘汰対象」の居場所を知ることができるのだ。
彼らの目は、獲物を見つけた狩人のように、ぎらぎらと鈍い光を放っていた。
その腕には、『間引き隊』と書かれた腕章が巻かれている。
(間引き隊…!)
淘汰委員会や日本皇軍、警察とは違う。
国の優生思想を信奉する市民たちによって組織された自警団だ。
日頃の鬱憤を晴らすために、国家からお墨付きを得て害虫駆除に勤しむ、「善良」な市民たち。
彼らは、遺伝子レベルの低い人間を社会から「間引く」ことを自らの責務と信じ、あるいは単なる娯楽として楽しんでいる。
国にとっては、手を汚さずに「負債」を処理してくれる、都合の良い存在。
僕のようなレベル0にとって、それは死神そのものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
街の喧騒、テレビから流れる狂騒、そして路地裏の悪意。
悠句を追う『狩り』を描いた回でした。
間引き隊に追い詰められ、逃げ場は、ない。
絶対的な絶望の果てに、悠句が下す最後の選択。
次回、月夜から舞い降りる『奇跡』とは――。
物語の、本当の始まりです。
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