第4話 夕暮れの図書室
お読みいただきありがとうございます。
絶望の底で、灯る小さな光。
放課後の図書室で紡がれる、静かな物語。
夕暮れの廊下をよろよろと進む。
せめて誰にも会わないうちに帰ろうと、壁に手をついて歩いていた。
「――隠くん」
不意に、背後からか細い声がした。
振り返ると、図書室の入り口の薄闇に、村野さんが立っていた。
いつもは分厚い黒縁メガネの奥で虚ろに沈んでいる彼女の瞳が、今は何かを決意したように、まっすぐに僕を射抜いていた。
彼女は僕に駆け寄ると、僕の腕をそっと掴んだ。
「こっちに来て。手当てしないと」
有無を言わせぬ、しかし優しい力で、彼女は僕を放課後の図書室に引き入れた。
そこは、僕たちの教室とはまるで違う、穏やかな空気が支配する聖域だった。
高い書架の隙間から差し込む西日が、空気中を舞う埃を金色に照らし出し、時間が止まったかのような光景を作り出している。
古い紙とインクの匂いが、僕のささくれた神経をわずかに凪がせてくれた。
彼女は僕を、書架の陰にある図書委員用の席に座らせると、机の引き出しから小さな救急ポーチを取り出す。図書室にいる時間が長いので、私物を色々と持ち込んでいるようだった。
村野さんは何も言わずに、濡らしたハンカチで僕の口元の血を拭い、消毒液を脱脂綿に含ませて、頬の擦り傷にそっと当てた。
ピリッとした痛みに僕が顔をしかめると、彼女は「ごめんね」と小さく呟いた。その手つきは、どこかためらいがちで、不器用だった。
「どうして……」
僕が尋ねると、彼女は手当てを続ける手を止めずに、静かに言った。
「……さっき、自分には何もできなかったのが、情けなくて」
「でも、見て見ぬふりをするのは、もう嫌だから」
その言葉は、誰を責めるでもなく、ただ彼女自身の後悔のように響いた。
手当てがひと段落した時、彼女の視線が、僕が床に置いた鞄から覗く文庫本の背表紙に留まったようだった。
「……あ」
と小さく声を漏らすと、彼女は少しだけためらってから、僕に尋ねた。
「その本、読んでるの?」
それは、僕が何度も繰り返し読んでいる海外のSF小説だった。
「……うん」
「そっか。私も、それ好き」
彼女はそう言うと、絆創膏を貼り終えた手で、そっと僕の鞄を立て直してくれた。
「自分の暗い記憶の海に、無理やり潜らされるみたいな話なのにね」
その言葉を聞いた瞬間、僕は悟った。
彼女は今、僕のことを「レベル0の隠悠句」として見ていない。
ましてや、哀れみの対象として同情しているのでもない。
ただ、同じ本が好きな、ひとりの人間の仲間として見てくれているのだ。
教室での残酷な序列も、遺伝子レベルという烙印も、この夕暮れの図書室では何の意味も持たなかった。
校内に、完全下校時刻を告げるチャイムが鳴り響いた。
魔法が解ける合図のように、僕たちは静かに現実へと引き戻される。
「……もう、行かないとだね」
村野さんが、時計を見上げながらぽつりと呟く。その声には、僕を一人にしてしまうことへの申し訳なさのような響きが滲んでいた。
僕は立ち上がり、うまく言葉にできない感謝の気持ちを伝えようとして、結局、絞り出すようにこう言うのが精一杯だった。
「……ありがとう、村野さん」
村野さんは、力なく笑った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
図書室で訪れた、束の間の平穏。
この残酷な世界にもまだ、人の優しさが残っていることを示す回でした。
しかし、下校時刻を告げるチャイムは、聖域の終わりを告げます。
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