第3話 「ゴミ同士の争い」
お読みいただきありがとうございます。
宣告の後。
教室は、出口のない闘技場と化す――。
生徒たちが帰り支度を始める。その喧騒は、僕にとって身を隠すための好機だった。
教科書を素早く鞄に詰め込んだ。
このまま、誰にも気づかれずに。
亡霊のように、この場から消えてしまいたかった。
荷物をまとめ、息を殺し、誰の視界にも入らぬよう、逃げるように教室を出ようとした、その瞬間だった。
「どこ行くんだよ」
背後から伸びてきた腕が、鷲掴みするように僕の肩を捉えた。
汗と制汗剤の匂いが混じった巨体。
振り返るまでもない、柔道部の海老原だ。
僕の身体は、まるで子供のように軽く引き戻される。
「おらあっ!」
獣じみた声と共に、鞄は暴力的にひったくられた。
抵抗など、無意味だった。
ほぼ同時に、アイドルのように爽やかな顔立ちの望月が、いつも猫背気味で口を半開きにしている西村たかしの鞄を、慣れた手つきで奪い取っていた。
その全てが、ただ静かに顎をしゃくっただけの姫宮カズマの、無言の指示によって行われていることを、この場にいる誰もが理解していた。
海老原は僕の鞄を逆さまにすると、教科書やノート、そして僕が絶望の底で隠したはずの一枚のカードを、無慈悲に床へとぶちまけた。
彼はこともなげにそれを拾い上げ、教室中の誰もが見えるように高く掲げる。
「見ろよお前ら! 隠悠句クン、遺伝子レベル0だっ!」
その声に、教室のあちこちから「うわ」「マジかよ」という囁きと、隠すこともしない嘲笑が起こる。
もう一方では、望月が同じように西村のカードを掲げていた。
「こっちもだ! 西村も0だってよ!」
「二匹目」の発見に、教室の空気はさらに残酷な熱を帯びていく。
「ゼロって、そんなにいるもんなんだな」
「類は友を呼ぶってか」
西村は「あっ…あ…」と声にならない喘ぎを漏らし、顔面を蒼白にさせている。
望月は、勝ち誇ったようにヘラヘラと笑いながら西村の肩を叩いた。
「なあお前、確かPCの知識だけはあったよなあ? 反国家的な思想とか持ってそうだって、カズマ様も心配してたぜ?」
海老原が、相沢さんたちのグループに向かって大げさに叫ぶ。
「良かったな、みんな! こいつら二匹とも、来月の淘汰祭でオサラバだ!」
相沢たちは、虫でも見るような目で僕たちを一瞥すると、口元に手を当てて甲高い笑い声を上げた。
「やだ、こわーい」
「遺伝子弱者の子どもなんて絶対産みたくないもんね!」
先生がいなくなった教室は、もう法も秩序もない無法地帯だった。
玉座に座す王のように、姫宮カズマがその光景をつまらなそうに眺めている。
彼の言葉はない。
だが、その僅かな視線の動き、指先の微かな動き一つで、側近たちは完璧に彼の意図を汲み取り、残酷なショーを演出していくのだ。
嘲笑の渦の中、姫宮がゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、今まで騒がしかった教室が、水を打ったように静まり返る。全ての視線が彼の一挙手一投足に注がれ、空気は刃物のように張り詰めていた。
彼は僕と、同じく床に蹲る西村の前に立ちはだかる。
その目は、まるで虫けらの生態でも観察するかのように冷たく、純粋な娯楽の色をたたえていた。
「なあ」
静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声だった。
「お前らのうち、どっちがより『不要』か、はっきりさせようぜ」
その提案は、絶対的な権力者が気まぐれに思いついた、ただの「遊び」だった。
しかし、クラスメイトたちは
「面白い!」
「やべえ!」
と感嘆の声を漏らし、期待に満ちた目で姫宮を見つめた。
姫宮の言葉が号砲だったかのように、側近たちが動き、教室は出口のない闘技場へと姿を変える。
机が素早く並べ替えられて、戦いの場が用意された。僕と西村が、強引に円の中心へと放り出される。
「さあ、やれよ!」
「どっちがマシか見せてみろ!」
「戦え、出来損ない!」
野次馬たちの無責任な声が、背中を突き刺す。
何をすればいいのか分からず、ただ絶望の中で立ち尽くす僕の前で、西村はガタガタと震えていた。
その暗い視線が、僕を捉える。僕の奥で、同じように震えている彼の恐怖を、そして憎悪を、僕は見ていた。
群衆の後ろの席で、村野さんが、苦痛に満ちた表情で固く目を閉じているのがちらりと見えた。
「おい、どうした西村!」
「まさかビビってんのか?」
「それでも男かよ!」
周囲の囃し立ては、どんどんエスカレートしていく。
長い、長い沈黙。
やがて、その沈黙を破ったのは西村だった。
追い詰められた恐怖が、彼の最後の理性を焼き切ったのだ。
「お、俺のほうがマシだ! こ、こいつより、俺のほうが……! 俺の方がマシなんだあああああっ!」
叫び声と共に、西村が殴りかかってきた。
ガリガリに痩せた身体からは想像もつかない力で突き飛ばされ、僕は受け身も取れずに床に叩きつけられる。
僕の非力な身体は、彼の全体重にあらがえなかった。
僕にのしかかった西村は、獣のように咆哮しながら、無我夢中で骨張った拳を何度も、何度も僕の顔に振るい始めた。
僕は腕で防ごうとしたが、降り下ろされる拳の勢いは止められない。
衝撃で視界が明滅し、口の中に鉄の味が広がる。痛みよりも先に、心が砕けていく音がした。
やがて、僕が抵抗する気力も失ったのを確認すると、待ってましたとばかりに海老原と望月が近づいてくる。
「ほらよ、敗者へのご褒美だ」
「ちゃんと味わえよ、劣等感ってやつをさ」
ドスッ、という鈍い衝撃が腹部に走る。
息が詰まる。
硬い革靴の先が、背中や脇腹に何度も叩き込まれた。
骨が軋む音と、肉が潰れるような不快な感触。
周囲からは、興奮した歓声と笑い声が聞こえてくる。
僕が虫の息になった頃、ようやく姫宮が心底つまらなそうにため息を一つ漏らした。
それだけで、海老原たちの暴力はピタリと止んだ。
西村は、ぜえぜえと肩で息をしながら、自分より弱い者を叩きのめした歪んだ興奮で顔を紅潮させていた。
姫宮は、そんな西村をごく自然に見下ろして、冷ややかに言った。
「見苦しいな。結局、ゴミはゴミ同士でしか争えないってことか。遺伝子通りに、期待外れだな」
姫宮の言葉が、西村にはすぐには理解できなかったようだった。
数秒の間を置いて、彼の顔から血の気が引き、じわじわとどす黒い憎悪の色が広がっていくのを、僕は朦朧とする意識の中で見ていた。
姫宮は、もう僕たちに興味を失くしたように背を向け、取り巻きたちに囲まれながら教室から出て行った。
彼らの足音が聞こえなくなるまで、誰も声を発することはなかった。
やがて、教室の隅に残っていた男子生徒たちが、ひそひそと話し始めるのが聞こえた。
「そういやさ、前に姫宮にちょっと口答えしたやつ、いたじゃん」
「ああ、いたな。次の日から学校来なくなったよな。なんでも急に転校したとかで」
「転校ってことに、なってるけどな……」
その声は、この教室の絶対的なルールを、僕の身体に改めて刻みつけるようだった。
隣で、西村がガタガタと震えながら、憎悪に歪んだ顔で床の一点を見つめて立っている。
やがて彼は、何も言わずに自分の荷物をかき集めると、一度もこちらを見ることなく、足早に教室から出て行った。
僕は、夕暮れの教室に一人残された。
自分のみじめさに、涙が溢れてくる。
僕は引きずるように身体を起こし、歪んだ視界のまま、せめて誰にも会わないうちに帰ろうと廊下を歩き出す。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
教師という権力が去った後、剥き出しになるスクールカーストの暴力。
読んでいて辛い回だったかもしれません。
心も身体も砕かれ、全てを奪われた悠句。
次回、物語が、大きく動き始めます。
少しでも「面白い」「姫宮が許せない」「西村や悠句が可哀想だ」と感じていただけましたら、ぜひページ下の【★★★★★】から評価や、ブックマークをしていただけると、本当に、本当に執筆の励みになります。
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