第22話 歓迎会
その日の夜、事務所に戻った僕たちを、ワンさんが呼び止めた。
彼はサングラス越しに、僕の顔をまっすぐに見て、その厳つい顔つきをわずかに緩めた。
「坊主、組合員らしい面構えになってきたな」
ぶっきらぼうな、しかしどこか温かみのある声だった。
ワンさんに認められた。
その事実が、僕の胸にじんわりと温かいものを広げる。
思わず、ありがとうございます、と小さな声が漏れた。
ワンさんはそれに頷くと、今度は明日に向かって言った。
「おい、ネコ坊。
新入りを歓迎してやれ。
ツケは組合に回しとけ」
「お、マジで!? 太っ腹じゃん、ワンさん!」
「俺は外せない会合があるんでな。
羽目を外しすぎるんじゃねえぞ」
ワンさんはそれだけ言うと、事務所を出ていった。
ワンさんが出ていくやいなや、明日は待ってましたとばかりに電話をかけ始めた。
「もしもし、はぐれ亭のおばあちゃん?
明日でーす。
組合のツケで、いつものやつを事務所までお願い!
そう、特盛四人前で!」
三十分もしないうちに、はぐれ亭から大量のデリバリーが届いた。
巨大な皿には、てらてらと輝く飴色のタレが絡んだ「空間豚」の角煮が山と盛られ、湯気と共に八角の甘い香りが立ち上っている。
別の皿には、「幻光鮎」を丸ごと蒸し焼きにしたものが並び、色とりどりの香草と温野菜が添えられていた。
テーブルには悠句の好きなソフトドリンクが何本も並び、やがて仕事終わりのカイさんと氏左衛門さんも事務所にやってきた。
「おー、なんか美味そうな匂いがすんじゃねえか!」
「これはこれは。隠殿の歓迎会でありますか」
カイさんは七色の液体が層になったカクテルの瓶をテーブルに置き、氏左衛門さんは自分の棚から取り出した年代物の日本酒の瓶をそっと置いた。
僕のささやかな歓迎会が始まった。
「よっしゃあ!
新入りと、今日の俺様の神がかった操縦テクに乾杯!」
カイさんが、ビールのジョッキを高々と掲げて叫ぶ。
「はいはい、カイの勝利ね。
……って、悠句の歓迎会だっての。
かんぱーい!」
明日は笑いながら、自分のグラスをカイさんのジョッキに景気良くぶつけた。
氏左衛門さんは、僕の方へ静かに自分の盃を差し出す。
「隠殿。改めて、ようこそ組合へ」
僕も、戸惑いながら、目の前のグラスをそっと掲げた。
ガラスのぶつかる、硬くて涼やかな音が、事務所に響いた。
僕の目の前には、紫色の液体で満たされたグラスが置かれている。
明日が
「これ、『夢見草』の果実酒。
幻覚作用のある植物から、その成分を薄めて、心地よい浮遊感だけを残した偽東京の名酒なんだ。
甘くて飲みやすいよ」
と教えてくれる。
人生初のお酒だった。
本土では、酒は遺伝子に悪影響を及ぼす可能性があるとして、遺伝子レベルの高い上流階級の人間しか口にできない嗜好品だった。
恐る恐る口にすると、とろりとした濃厚な甘さが広がった。
——これが、酒か。
すぐに、喉の奥からお腹の底にかけて、じんわりと熱が広がっていくのを感じた。
——これが、酔うということか。
聞こえてくる声が少しだけ遠くなり、世界の輪郭が、ふわりと柔らかくなる。
三人の会話が、だんだんと熱を帯びていく。
「いやー、しかし今日の悠句はマジで冴えてたな!
訓練の成果、早速出たんじゃねえの?」
カイさんが、僕の肩をバンと叩く。
この歓迎会は、先日、僕が初めて組合の仕事に同行したことを祝うためのものでもあった。
組合と取引のある団体に、ライバル組織の産業スパイが潜入しているという情報を掴み、僕が能力で姿を隠して、スパイが何を盗もうとしているのかを突き止めるという任務だった。
「いえ、そんな……僕は、ただ見ていただけです」
「それがすげえんだって!
なあ、旦那?」
「そうでやんすな。
気配を消すというのは、最も難しい技術の一つ。
隠殿には、天賦の才がありやす」
氏左衛門さんにまで褒められて、僕はどうしていいか分からず俯いてしまう。
「だよな!
そのうち、俺のバイクの後ろに乗せてやるよ。
俺の神テクと、悠句のステルス能力が合わされば、無敵だぜ!」
「やめとけやめとけ、悠句。
すぐ酔うよ~。
カイ、運転荒いんだから」
明日がぼそりと呟く。
「ああん!?
やるかコラ!
俺の運転はな、偽東京で一番安全なんだよ!」
カイさんは、子供のように頬を膨らませてみせた。
「はて、先週、港で荷揚げされた魚のコンテナにバイクごと盛大に突っ込んで、ご自慢のバイクを生臭くしたのは、どこのどなたでありやしたかな」
「うっ……あれは、不可抗力だ! 空間が歪んでたんだよ!」
三人のやり取りを聞いているだけで、自然と笑いがこみ上げてきた。
僕の口から「ふふっ」と、自分でも驚くような、明るい声が漏れた。
カイさんの軽口で和んだ空気の中、話題は自然と僕のことに移っていった。
「しかし悠句も、大変だったな。本土はもう、普通の人間が住める場所じゃねえよ」
「……はい。僕、もうダメかと思いました」
ぽつりと本音が漏れる。アルコールのせいか、普段なら絶対に言えないような言葉が、唇から滑り落ちた。
「学校でも、街でも……どこにも居場所がなくて。僕みたいなのは、ただ消えるしかないんだって……」
場の空気が、少しだけ変わった。
「ま、でも、もう大丈夫だ。
ここには、悠句をいじめる奴なんていないからさ」
明日が、僕のグラスにそっと果実酒を注ぎ足しながら、優しく言った。
「そうだぜ!
もしそんな奴がいたら、俺がバイクで轢いてやる!」
カイさんが、物騒なことを言いながら僕の背中を強く叩く。
「某も、本土にいた頃は似たようなものでありやしたよ」
氏左衛門さんの言葉に、僕と明日、カイさんまでが顔を上げた。
「え、旦那が? 嘘だろ、こんなに強えのに」
カイさんの驚いた声に、氏左衛門さんは静かに首を振った。
「強さなど、あちらの世界では何の役にも立ちやせん。
某がいた日本皇軍では、『上の命令』こそが全てでありやした」
彼は盃に残った酒をくい、と飲み干した。
「ある時、戦友が、上の命令に背いて敵国の子供を見逃した。
それが『利敵行為』と見なされ、処刑されそうになりやした」
「ええ、マジかよ……子供だろ?」
「ええ。某は、その命令に異を唱え、戦友を庇って部隊と事を構えやした。
戦友とはそこで生き別れとなり、某は反逆兵として処分されるところを、ワンさんに救われ、拾われたというわけで」
「……ここには、そういう理不尽な上下関係はないですからね」
明日が、氏左衛門さんの盃に酒を注ぎながら言った。
「某も、組合の皆が新しい家族だと思っておりやす」
「俺もだよ。ワンさんには、マジで感謝してる」
カイさんが、しみじみと頷いた。
明日が、僕の方を向いてにっと笑う。
「悠句ももう一人じゃねえからな。
俺たちがいる」
彼はそう言うと、僕の頭をガシガシと撫でた。
「そうだそうだ!
俺たち組合をなめんなよ!」
カイさんも、明日に便乗して僕の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
その言葉と手のひらの温かさに、胸の奥がじん、と熱くなった。
「そうでやんすな。
一人で抱え込む必要はありやせんよ、隠殿」
氏左衛門さんも、優しい目で頷いてくれる。
宴も終盤に差し掛かり、やがて、あれだけ騒いでいたカイさんが、ぷつりと糸が切れたようにテーブルに突っ伏し、静かになった。
「やれやれ。騒がしいお人でやしたな」
氏左衛門さんが、カイさんをひょいと肩に担ぎ上げる。
「カイ殿を自宅まで運びますので、某はこの辺で。
隠殿、明日殿、また明日」
「おやすみなさい、氏左衛門さん」
氏左衛門さんが帰っていくと、事務所にはすっかり出来上がった明日と、僕だけが残された。
「さーて、俺たちも帰るかあ、悠句」
「うん。
明日、ちゃんと歩ける?」
「へーきへーき、これくらい……おっと」
立ち上がった途端、明日の身体がぐらりと傾ぐ。
僕は慌てて、その身体を支えた。
外に出ると、夜の空気が火照った顔に心地よかった。
夜の偽東京は、昼間とは違う種類の騒がしさで満ちている。
どこかの店から漏れ聞こえる陽気な音楽、頭上の渡り廊下を駆け抜けていく人々の笑い声、酒を飲んで騒いでいる者たちの楽しげな声。
湿ったアスファルトが、けばけばしいネオンをぼんやりと反射している。
この温かい喧騒が、今は心地よかった。
事務所で聞いた、みんなの話。
僕を受け入れてくれる言葉。
手のひらの温かさ。
胸の中に、温かい光が灯っていくような感覚。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
「う〜……悠句〜……あったけえ……」
明日は、呂律の回らない声で僕の名前を呼ぶと、肩に頭をぐりぐりとこすりつけてきた。アルコールと、彼自身の甘い匂いが混じり合って、僕の心臓が少しだけ速く脈打つ。
まだ眠ってはいないようだが、意識はほとんどないに等しいだろう。
「もうすぐ着くから、頑張って」
「ん〜……」
僕の肩に、明日の重みがずしりとかかる。
彼の体温が、パーカー越しにじんわりと伝わってきた。
「悠句〜……だいすき〜……」
とろん、と舌の回らない、子供のような声だった。
その言葉が、街の喧騒を突き抜けて、僕の耳の奥で現実の音とは思えないほど大きく響いた。
心臓が、喉から飛び出しそうなくらい激しく跳ねる。
酔いで火照っていたはずの顔に、さらにぶわりと血が集まってくるのが分かった。
支えている腕が震える。
足がもつれて、二人で倒れそうになるのを必死で踏ん張った。
その身体を、離すことなんて、できるはずもなかった。
なんとか明日の部屋に辿り着き、彼をベッドに転がすようにして寝かせる。
鍵を開け、電気をつけ、彼の靴を脱がせる。
一つ一つの動作が、やけにぎこちないのを感じる。
自分の心臓の音が、うるさいくらいに部屋に響いていた。
僕が「そっち」であることは、もう彼に伝えてある。
けれど、明日が「どっち」なのかについては、考えたこともなかった。
さっきの言葉は、酔っ払いの戯言だ。
分かってる。
でも、もし。万が一、僕が思っているような意味だったら?
そんな考えが、頭の中をぐるぐると回る。
彼の無防備な寝顔。
少しだけ開いた唇から漏れる、穏やかな寝息。
猫の耳が、ぴくりと小さく動く。
この気持ちを、どうすればいいんだろう。
本土にいた頃には、考えたこともなかった感情。
暖かくて、苦しくて、でも、どうしようもなく満たされている。
自分の胸で鳴り続ける、経験したことのないほど激しい鼓動を聞きながら、僕はただ、その場に立ち尽くしていた。




