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第19話 「ソラリスさん」

 組合で働き始めて、数日が経った。

 僕の仕事は、まだ明日の手伝いが中心だ。

 偽東京の複雑な地理を覚えながら、荷物の仕分けや、簡単な配達についていく。

 毎日、身体はくたくたになるけれど、本土にいた頃の、心がすり減るような疲労とは全く違う、心地よい疲労感だった。


 その日も、午前の仕事を終え、僕と明日は事務所に戻るところだった。

「だからさ、あの荷物の届け先はAブロックじゃなくて、本当はDブロックだったんだって!」

「いーや、あのじいちゃんは確かにAって言った!

 俺の耳をなめんなよ!

 猫だぞ!?」

「そういうことじゃなくて!

 あの年代の人って、Dディーのことを『デー』って言うでしょ!?

 だから、Aエーに聞こえただけだよ!」


 そんな他愛ない言い合いをしながら事務所の扉を開けると、そこにはワンさん、カイさん、氏左衛門さんがいた。

 ちょうど昼休みの時間だった。


 カイさんはバイクのパーツらしきものを床に敷いたブルーシートの上に広げ、氏左衛門さんは銃身を丹念に手入れしている。

 僕たちの帰還に気づいたワンさんが、部屋の奥にある巨大な椅子から、重々しく声をかけた。


「……おう、戻ったか。

 お前らに、次の仕事だ」


 その言葉に、僕の心臓が小さく跳ねる。

 働き始めて数日、仕事には徐々に慣れ始めてきたが、まだワンさんの迫力には慣れていなかった。


 明日に促されるまま、僕たちはワンさんの机の前へと進み出る。

 ワンさんは、鋼鉄の指で器用に葉巻を挟むと、慣れた手つきで火をつける。紫煙が、部屋にゆっくりと満ちていく。

 彼は、僕の全身を射抜くような鋭い視線を一度向けると、静かに告げた。


「届けもんは…おめえ自身だ、隠悠句」


 あまりに突飛な「配達」命令に、僕が言葉を失っていると、明日が割って入った。


「ワンさん、そりゃどういう……。

 届け先はどこ?

 ……まさか、『ハイカデミック』?」


「ああ。

 依頼人は、軌道上にいる『ヤツ』だ」


 その言葉に、明日の表情が明るくなった。


「……ソラリスさんか!」


 明日から聞いたことのある名前だ。

 その名前に、パーツを磨いていたカイさんが、げ、とでも言うように顔をしかめた。


「ソラリス?

 あの『魔女』が、うちの新入りに何の用なんだよ」


 カイさんは、苦手意識を隠せない様子で言った。


「魔女……?」

 僕が呟くと、カイさんが続ける。

「なんでも、パンを完璧な焼き加減でトーストするためだけに永久機関を発明した……なんて逸話まであるヤベー奴だぜ?」


「カイ殿。

 ソラリス殿は、我らにとっては命の恩人でもある。

 あまり失礼なことを言うものではありませんぞ」


 銃の手入れをしていた氏左衛門さんが、カイを諭すように言った。

「…しかし、あの方は、我々の常識が通用する相手ではないことだけは、確かであります」


 ますます訳が分からなくなる。

 僕は、恐る恐る尋ねた。


「あ、あの……その、ソラリスさんという方は、僕に何か御用なのでしょうか?」


「さあな。

 ヤツの考えることなんざ、誰にも分かりゃしねえよ。

 ただ、お前に会ってみたい、とだけ言ってきた。


 そして、届けもんはもう一つある。

 ……ネコ坊。

 お前も一緒に来いとのことだ」


 ワンさんはそれだけ言うと、もう興味を失くしたように、葉巻を燻らせた。



 昼休みが終わった。

 明日に連れられ、僕たちは港湾地区のさらに奥へと足を踏み入れた。

 潮の匂いに混じって、錆びた鉄とオイルの匂いが濃くなる。


 やがて視界が開けた先に、それは、あった。


 曇天を突き破り、どこまでも真っすぐに伸びる一本の塔。

 現実感を失うほど巨大な建造物を前に、僕はただ立ち尽くす。


「……あれは、何……?」


 僕が呆然と呟くと、明日は、少しだけ興奮したように答えた。


「軌道エレベーターだよ。

 あれを使わないと、『ハイカデミック』には行けないんだ」


 エレベーターの内部は、意外なほど簡素な金属の箱だった。

 扉が閉まると、わずかな振動と共に、強烈なGが身体をシートに深く押し付けた。

 思わず、くっと息が詰まる。

 涼しい顔をしているかと思った明日の横顔も、心なしか緊張しているように見えた。


 窓の外、偽東京の雑然とした街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。あれだけ巨大な街々が、もう米粒のようだ。


「……街が、もう、あんなに小さい……」


「……ああ。

 何度乗っても、すげえな、これ」


 やがて軌道エレベーターは、僕たちを覆っていた分厚い雲を突き抜けた。


 その瞬間、息を呑んだ。

 どこまでも広がる、紺碧の空。

 そして、緩やかに弧を描く地平線。

 生まれて初めて見る、僕らの星の本当の姿。


 そのあまりの美しさに、僕は言葉を失った。



 エレベーターが到着したのは、巨大な円環状の宇宙ステーションだった。

 ドーム状の天井の向こうには、青く光る地球が見える。


 エレベーターの扉が開くと、ひやりと冷たく、消毒液のような匂いの空気が肌を撫でた。

 純白で統一された廊下は、音を吸収する特殊な素材でできているのか、僕たちの足音すら聞こえない。


「ここが……《ハイカデミック》……」

 僕が呆然と呟くと、明日が頷いた。

「何度来ても、すげーよなあ、ここ」


 ハイカデミックの中は、様々な種族や異形の者たちが行き交っていた。


 静寂の中、異形の研究員たちが、まるで僕たちの横を通り過ぎていく。

 透明な液体で満たされたヘルメットの中で、男がエラ呼吸をしている。

 隣を歩く、身体の半分が歯車と蒸気機関で構成されたサイボーグ。その歯車が、僕の心臓の音と同じリズムで時を刻んでいるのが聞こえた。

 そもそも人型ですらない、宙に浮かぶ光の集合体のような存在。

 彼らは僕たちに目もくれず、自分の研究や、他の研究員との議論に没頭している。


 明日に導かれるまま進むと、僕たちは、息を呑むような光景が広がる大部屋に出た。

 ドーム状の巨大な空間。

 その壁、床、天井、あらゆる場所に、幾千もの無数のモニターが宙に浮かび、明滅している。

 それぞれのモニターには、全く違う世界の光景が映し出されていた。

 恐竜が闊歩する原始林。

 空にいくつもの月が浮かぶファンタジー世界。

 文明が滅びた終末世界。

 真っ暗な空間を、白い球体だけが意思を持って動き回る世界。

 全てが巨大な植物に覆われた、緑一色の世界。


 無数の世界から発せられる、ざわめきとも音楽ともつかない音が、この部屋全体を包んでいた。


 あまりに非現実的な光景に、僕はただ立ち尽くす。

 映画……?

 いや、ひょっとして、画面に映っているのは……。


「別の……可能世界……?」


「厳密には『可能世界』ではない」

 僕の呟きに、モニターの影からぬっと現れた異形の研究員が応えた。

 頭部は磨き上げられた水晶のように透明で、内部で複雑な光が明滅している。


「同一の関数を共有し、相互に到達可能な可能世界の束を、我々は『宇宙ユニバース』と定義している。

 君が見ているのは、今君たちが存在しているこの宇宙と類似した関数群を持つ、別の宇宙アナザーユニバースの観測映像である」


 人間のような口は見当たらないのに、首元のスピーカーから、硬質で感情の乗らない合成音声が発せられた。

 僕は、時折モニターを走るノイズが気になって尋ねた。


「あの、時々画面が乱れているのは……?」

「『時空震』と呼ばれる。別の宇宙を観測した際に、我々の宇宙側に生じる歪みを指す」


 研究員がノイズの走るモニターの一つに触れると、映像が一層激しく歪み、ブツッという不快な音を立てて、映っていた恐竜が泡のように消えた。


「また別の宇宙へと切り替えると、このようになる。多くの宇宙は、我々からすれば観測すらも難しい宇宙である。

 観測対象の宇宙が持つ関数群と、我々の宇宙との関数群との差異がわずかである場合のみ、こちら側の宇宙からの観測が可能となる。その際、同時に『時空震』も観測される。

 『時空震』は、異なる関数を持つ宇宙同士を、無理に接続した際に生じる、時空の軋轢きしみとも言える。

 時空震が生じないのは、全く同一の関数群を持つ宇宙、すなわち、直接『到達可能』な宇宙を観測した場合に限られる」


「……へえ、そうなんだ。

 なんか、難しいな」


 明日は、よく分かっていない様子で、感心したように頷いている。

 僕からすると難解すぎて意味不明な説明だったが、明日にとってもそうなのだろう。


 水晶頭の研究員が僕たちに向き直った。


「——所長がお待ちである。

 こちらへ」


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