第17話 残された者たち――村野澄子
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今回も、悠句が消えた『本土』での話。
彼がいなくなった世界で、村野さんが送る生活とは?
教室の空気は、奇妙な静けさの中で張り詰めていた。
隠くんが消え、西村くんが来なくなってから、数日が経つ。
姫宮カズマという絶対的な捕食者の前で、二人の「獲物」が不在になった檻の中。
残された者たちは、互いの顔色を窺い、息を潜めていた。
次に牙を剥かれるのは誰か。
休み時間、姫宮の周りにはクラスの一軍女子たちが集まっていた。
その内の一人が、わざとらしく大きな声で言う。
「そういえばさ、佐藤さん、この間のテストの点、ヤバかったらしいよ。
ああいうのって、やっぱり遺伝子レベルに出るのかもね」
媚びるような笑い声と、遠巻きにその会話を聞いている佐藤さんの、血の気の引いた顔。
姫宮の退屈しのぎの標的を、自分以外の誰かに差し出そうとする、醜い探り合い。
私は、その全てが作り物めいた光景に、吐き気を覚えた。
ここは、教室などではない。
壊れてしまった、小さな社会の縮図だ。
私は、その息苦しさから逃げるように席を立ち、再び、あの図書室へと向かった。
夕方の図書室に、私は一人きりだった。
以前は、隠くんがたびたび訪れていた場所。
静寂が、かえって彼の不在を際立たせる。
ふと、あの日のことを思い出した。
レベル0の烙印を押され、教室が残酷な祝祭のような空気に包まれた日。
最初に教室を飛び出していったのは、西村くんだった。
私は、ちょうど図書委員の仕事で、図書室の入口にいた。
廊下を早足で進んでくる彼に、何か声をかけなければ、と思った。
けれど、何事かをぶつぶつと呟き、憎悪と絶望を全身から発散させながらずんずんと進んでくる彼に、完全に気圧されてしまった。
声を発するという、単純な行為が、とてつもなく難しいことに思えた。
結局、私の唇は音の形を作れず、彼はすぐ横を通り過ぎていった。
西村くんの姿が見えなくなり、自分の無力さに唇を噛んだ、その時。
夕暮れの廊下を、壁に手をつきながら、よろよろと進んでくる影が見えた。
隠くんだった。
制服には土埃がつき、顔にはいくつもの傷と痣ができていた。
また、見て見ぬふりをするのか。
さっきと同じように。
このまま、何もしないのか。
心のどこかで、関わるなと警鐘が鳴る。
でも、彼の瞳に宿る、底なしの痛みが、私の臆病さを弾き飛ばした。
「――隠くん」
か細い声が出た。
彼が振り返る。
図書室の入り口の薄闇から一歩踏み出し、彼に駆け寄る。
「こっちに来て。手当てしないと」
彼の腕をそっと掴むと、有無を言わせぬ力で、放課後の静かな図書室に引き入れた。
それが、私ができた、たった一つの抵抗だった。
思い出から我に返る。
図書室は、古紙とインクの匂いで満ちされていた。
私は図書委員用の業務用端末を起動した。
ネットに接続し、検索窓に名前を打ち込む。
「隠悠句」。
彼の名前は、学園の在籍者名簿からも、一般公開されている「淘汰対象者リスト」からも、綺麗に消去されていた。
まるで、最初から存在などしなかったかのように。
奇妙なのは、同じくレベル0の宣告を受けた「西村たかし」の名が、淘汰対象者リストに「収容済」とはっきり記載されていることだった。
「収容済」。
その無機質な三文字が意味するのは、彼が人間としての尊厳を完全に剥奪された、ということだ。
身柄を確保され、本土の湾岸地区にある「隔離地区」――隔離とは名ばかりで、「絶滅収容所」と誰もが呼ぶ場所――へと送られたことを示す、ただの記号。
いつも何かに怒っているみたいだった、西村くん。
あの日の廊下で見た、全てを呪うような瞳が脳裏に焼き付いている。
彼は今おそらく、どこかの収容所で、ただ、「その日」を待っている。
そこに集められた者たちの多くは、次の淘汰祭の日に、狩りの「獲物」として街に解き放たれる。
彼の命は、社会的には既に、「娯楽のために消費されるだけのモノ」になってしまった。
西村くんの、あまりにも確定的で残酷な未来を想像して、胸が苦しくなる。
そして、隠くんは?
データそのものが消えているなんて、どういうことだろう。
間引き隊に「処理」された……?
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胃の腑から冷たいものがせり上がってくるような感覚がした。
誰にも知られず、記録にも残らず、ただの「エラー」として、この世から既に消去されてしまった。
それが、一番あり得るのかもしれない。
この国で「レベル0」が逃げ切ることなど、土台、無理なのだ。
街中に張り巡らされた監視カメラのネットワークは、獲物を追う蜘蛛の巣だ。
位置情報は常に晒され、骨格や歩き方で個人を特定される。
どこに隠れても、どんなに変装しても、決して逃れることはできない。
間引き隊の執拗さを考えれば、彼がまだ生きている可能性は、限りなくゼロに近かった。
……ううん、でも。
ふと、ネットの隅で囁かれる、都市伝説みたいな話を思い出した。
日本皇国の法が及ばない場所が、日本のどこかにある、という話。
でも、そんな場所が、本当にあるはずがない。
あるはずがないんだけど……。
もし、万が一、何かの奇跡が起きて、彼がそこに辿り着けていたとしたら。
そうであってほしいと、願わずにはいられなかった。
私は、隠くんが好きだと言っていた文庫本を書架から抜き取り、ぱらぱらとページをめくる。
二人のことを思うと、罪悪感が鉛のように胸の奥へと沈んでいった。
その時だった。
ふわり、と首筋に誰かの息がかかるような、嫌な感覚。
図書館の空気が、急に重くなった気がした。
「村野くん、少し『面談』をしようか」
心臓が跳ねた。
振り返ると、大國先生が、私の背後に立っていた。
何の気配もなかった。
いつからそこにいたのか、全く分からなかった。
「……さあ、先生の進路指導室に行こうか。
ここは立ち話をする場所じゃない」
先生は、有無を言わせぬ笑みでそう言った。
私と先生が廊下に出ると、ちょうどそこに居合わせた下級生たちが、凍りついたように直立不動の姿勢をとった。
先生が通り過ぎるまで、彼らは息を殺して壁の染みになっていた。
進路指導室は、消毒液の匂いがするほど清潔な部屋だった。
壁には『優れた遺伝子こそ、この国の未来。』という日本皇軍の募兵ポスターが貼られ、書棚には『遺伝子資本論』『淘汰の歴史、繁栄の歴史』『淘汰されるべき形質:精神編』『皇国正史』といった、分厚い本が几帳面に並んでいる。
二人きりになると、広いはずの空間がひどく息苦しく感じられた。
大國先生は、部屋の主である自分が座るべき、重厚な革張りの椅子に、まるで玉座に就く王のようにゆっくりと腰を下ろした。
ぎしり、と革の軋む音が、不気味に部屋に響く。
彼は、まだ立ったままの私を見上げると、父親のような笑みを浮かべた。
「まあ、立ちっぱなしもなんだろう。そこに座りなさい」
促されるまま、私はテーブルを挟んだ向かいの椅子に、浅く腰掛けた。
深く腰掛ける気には、到底なれなかった。
「ハハハ、驚かせてしまったかな。
先生の、抜き打ちチェックだよ」
彼はにこやかな表情を崩さないまま、手元の端末に表示されたログを指し示す。
そこには、図書室で私が調べていた検索履歴が、全て記録されていた。
彼は、慈愛に満ちた父親の仮面を被って、続けた。
「隠くんのことを、調べていたようだね。
君は優しい子だから、いなくなった級友のことが心配なんだろう。
その気持ちは、先生としてもよく分かる。
彼の『転校』は、残念だった。
先生も、断腸の思いだったんだ。
だがね、学校の秩序を乱す子は、心を鬼にしてでも、家から出て行ってもらうしかない。
君のような『良い子』には、分かるだろう?」
顔の下半分は笑っていた。
しかし先生の目は、少しも笑っていなかった。
「来る淘汰祭は、我々が暮らすこの国家の秩序を再確認する、素晴らしい機会になる。
村野くんのような優秀な子は、きょうだいたちの手本になるよう、積極的に協力してほしいんだ」
それは、無言の脅迫だった。
私が返事もできずにいると、先生はうっとりとした表情で、一人語りを始めた。
「――先生はね、この学校というイエを、そして、この国家というイエを愛しているんだ。
我が子である君たち生徒のことも、心から愛している。
だがね、愛しているからこそ、厳しくしなければならない時がある。
イエの名誉を汚す子が出た時、父親として、どうすべきか分かるかい。
心を鬼にして『しつけ』をするんだよ。
それが、この学校を預かる先生の義務なんだ」
喉が渇いて、何も言葉が出ない。
そんな私を見て、先生は満足そうに頷くと、最後にこう付け加えた。
「――君は、賢い子だ。
家族にとって、何が一番大切か、分かるだろう?」
面談が終わり、解放された私は、誰もいない夕暮れの廊下を、夢遊病者のように歩いていた。
大國先生の言葉が、まだ、耳の奥で反響している。
あの男の中では、全てが完結しているのだ。
淘汰は、愛。
差別は、しつけ。
狂った歯車が、完璧に噛み合っている。
私は、自分の教室の前で立ち止まった。
夕日が差し込む教室は、がらんとしていた。
もう誰もいないはずなのに、昼間の騒がしさや、乾いた笑い声の残響が聞こえるような気がする。
机と椅子だけが、主を失った墓標のように、整然と並んでいた。
隠くんが座っていた、窓際の席。
西村くんがいつも俯いていた、あの席。
そこにはもう、誰もいない。
次に「イエの恥」として勘当されるのは、誰なのだろう。
あるいは、自分かもしれない。
罪悪感が、いつの間にか別の感情に変わっていた。
恐怖。
そして、恐怖の底から湧き上がってくる、小さな、しかし燃えるような怒り。
(ここは、あなたの所有物じゃない。私のいる、私たちの場所だ)
私は、固く拳を握りしめた。
自分に何ができるか分からない。
けれど、ただの従順な「子ども」でいることだけは、もう許されない。
誰にも知られずに、この国が隠している秘密の、その核心に触れる方法を、必ず見つけ出す。
鋼のような決意を宿した私の瞳を、夕日が赤く染めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
悠句に、ささやかな優しさをくれた少女、村野さんの視点でお送りしました。
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