第11話 偽東京の朝
お読みいただきありがとうございます。
新しい場所で迎える、新しい朝。
明日の部屋で迎えた朝。
差し込む光は、僕が知っている東京のそれとはどこか色が違って見えた。
僕が目を覚ますと、明日はもう起きていて、ベランダにいた。
彼は床にしゃがみこんで、集まってきた十数匹の猫たちに、慣れた手つきで煮干しのようなものを配っていた。
「テツタ、お前、またアイツと喧嘩したのか?
ほどほどにしとけよ」
と、額に傷のある一匹に声をかける。
三毛猫、黒猫、錆び猫。
中には尻尾が二本に分かれているものや、額に小さな角が生えているものまでいる。
彼らは喉を鳴らしながら、親しげに明日の身体にすり寄っていた。
やがて猫たちが満足げに散っていくと、明日はスッと立ち上がって部屋に戻ってきた。
僕がベッドの上で身体を起こしたのに気づくと、彼は八重歯を見せて笑った。
「おはよ、悠句。
よく眠れた?」
「…うん。
おはよう、明日」
まだ少しぼんやりしている頭で、僕は散らかった部屋を見回し、自分がどこにいるのかを再確認する。
夢ではない。
「顔、洗ってくるといいよ。
タオルは適当なの使っていいから」
「うん、ありがとう」
僕は言われるがままに洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は、まだ少し腫れが残っていたが、瞳の奥に宿る怯えの色は、薄らいでいるような気がした。
冷たい水で顔を洗うと、頭がすっきりとして、自分が本当に新しい朝を迎えたのだと実感できた。
僕が部屋に戻ると、明日は弾けるような笑顔で、待ってましたとばかりに言った。
「よし!
じゃあ、腹も減っただろうし、とびきり美味いメシを食いに行こうぜ。
その後は、この街を案内してやるよ」
明日に導かれ、僕はオクムラマンションの外に出た。
ロビーを抜けて、外気に触れた瞬間、僕は思わず深く息を吸い込んだ。
意外なほどに空気は澄んでいて、ひんやりと心地よい。
マンションを覆う植物の匂い、湿った石畳の匂いや、名前も知らない花の甘い香りが、朝の風に乗って運ばれてきた。
だが、大通りに出た瞬間、その穏やかな感覚は吹き飛んだ。
昨日とは比べ物にならないほどの情報量が、僕の五感を殴りつけた。
まず目に飛び込んできたのは、通りの遥か向こうにそびえ立つ、異様なほど巨大な鳥居だった。
古い木造住宅や近代的な高層ビルに挟まれた大通りは、多くの人々でごった返し、その喧騒の全てが、まるで巨大な鳥居に吸い込まれていくように見えた。
様々な言語の話し声、けたたましいクラクション、どこかの店から流れる陽気な音楽、それらが混じり合って一つの巨大な音の塊となり、鼓膜を揺らした。
僕たちが立つ石畳の通りには、様々な商店や露店が、生き物のようにせり出して軒を連ねている。
その前を、人間も、人間でない者も、当たり前のように行き交っていた。
獣人と人間のカップルが仲睦まじげに腕を組み、頭部が漆黒のブラックホールのようになっているスーツ姿の紳士が、僕のすぐ隣を無言で通り過ぎていく。
見上げれば、建物と建物の間を、無数の渡り廊下や錆びついた外付けの階段が、まるで血管のように有機的に繋いでいる。
高層ビルの壁面を、古びた路面電車が、重力に逆らって垂直にゴトゴトと登っていく。
道路は地上だけでなく、ビルの中腹を縫うように何層にも重なって走っており、そこを旧式の自動車がヘッドライトをつけて行き交っている。
さらにその上空を、配達員が乗った空飛ぶバイクが軽快に駆け抜け、数多くの提灯をぶら下げた飛行艇がゆっくりと横切っていく。
頭上には巨大なアドバルーンがぷかぷかと浮かび、その表面には『思い出、売ります。
忘れたい過去、買います。
走馬灯社』という奇妙な文句が書かれていた。
遥か遠くのビル群の中に、ひときわ高くそびえるガラス張りの超高層ビルの屋上からは、巨大な滝が流れ落ちているのが見えた。
夜の闇にネオンが妖しくきらめいていた昨日とは違い、朝の偽東京は、雑多で、猥雑で、それでいて力強い生活のエネルギーに満ち溢れていた。
昨日見た光景ではあったが、改めてその異常さに圧倒される。
「偽東京って……。
やっぱりここ、普通の場所じゃないよね。
一体、どうなってるんだろう?」
僕の質問を待っていたかのように、明日は歩きながら、悪戯っぽく笑った。
「んー、なんて言やいいかな。
……ほら、あそこにいる人、見てみなよ」
彼が視線で示した先には、頭部が古いブラウン管テレビになっているスーツ姿の男性が、横断歩道で信号待ちをしていた。
その画面の中では、眼鏡をかけた男性ニュースキャスターが天気図を指し示しており、『本日の偽東京は晴天なり。
最高気温25℃』というテロップが流れている。
「ああいう人は多分、技術の進み方が俺たちのいる世界とは全然違う『可能世界』から来たんだろ」
「可能世界……?」
「そう。
ソラリスさんが言ってたんだけど、俺たちがいるここだけが世界じゃないんだってさ。
この偽東京は色んな世界と繋がってる特異点みたいな場所らしい」
可能世界。
その言葉が、僕の頭の中で雷のように反響していた。
僕がいた世界は、たった一つの絶対的な物差ししか持たない、息の詰まる箱庭だった。
でも、もし。
僕がいたあの世界が、無数にある「可能世界」の一つに過ぎないのだとしたら?
目の前の混沌とした都市が、不思議と、キラキラと輝いて見えた。
それは、僕が十八年間、ずっと探し求めていた希望の光そのものだった。
「……ま、けっこー難しい話だよな」
僕が呆然と立ち尽くしていると、明日が僕の顔を覗き込むようにして、照れくさそうに笑った。
「ま、今は色々考えすぎんなって。
それより、さっき約束したろ?
とびきり美味いメシ、食わせてやるって」
明日はそう言うと、僕を一軒の大衆食堂へと導いた。
『はぐれ食堂』と書かれた、年季の入った暖簾の奥では、腕が四本ある人の良さそうなお婆さんが威勢よく鍋を振っている。
出された朝定食は、つやつやの白米に、見たこともない具材の入った出汁の効いた味噌汁、そして皮がパリパリに焼かれた分厚い魚。
その素朴で力強い味わいが、疲れた身体にじんわりと染み渡った。
「すごく美味しい……」
「だろ?
ここの朝定は、偽東京で一番なんだ」
明日は自分の分をあっという間に平らげている。
僕も最後の一粒まで白米をかき込んだ。
温かい食事が、空っぽだった身体だけでなく、心まで満してくれたような気がした。
昨日の夜、明日の部屋で安堵のため息を漏らした時から、僕の中で何かが変わり始めていた。
ぼんやりとして、まだ形にならなかったその感情が、目の前の光景と、明日の言葉と、そしてこの温かい食事によって、一つの確かな輪郭を結ぶ。
そうだ。
ここでは、誰も僕の遺伝子レベルを尋ねない。
獣人も、頭がテレビの男も、そしてこの食堂のお婆さんも、誰もがただそこに「いる」ことを許されている。
(僕は、ここにいたいんだ)
この混沌とした、猥雑で、けれど懐の深い街でなら、僕は僕のままでいられるのかもしれない。
食堂を出て、再び朝の喧騒の中に戻った時だった。
「明日…」
僕は、隣を歩く彼のパーカーの袖を、無意識に掴んでいた。
明日は、驚いて僕のほうを見た。
「うん?」
「僕、ここにいたい。
ここにいて、明日みたいに…自分の足で立ちたいんだ。
何か、僕にできることはないかな?
もう、誰かの荷物になるのは嫌なんだ」
僕の言葉に、明日は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐにその表情が、何かとても優しいものに変わるのが分かった。
「そっか…。
言うと思った。
なら、行こうぜ、悠句」
「え…どこへ?」
「俺が世話になってる組合があってさ。
仕事、紹介してもらおう。
大丈夫、親父さんも話のわかる人だからさ。
それに、悠句に会わせたい奴らもいるんだ。
行き先は、『港湾地区』だ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
偽東京という世界の秘密と、悠句の、小さくて、でも力強い、最初の意志表示。
生きることを決めた悠句は、明日の『家族』に会うため、港湾地区へ。
自分たちのルールで生きるはぐれ者たちの集団、『港湾運送組合』の仲間たちとは。
新たな出会いが待っています!
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