第1話 審判の日
はじめまして、作者の究空です。
新作『キャットボーイ・フロム・偽東京』の連載を開始します。
「遺伝子レベル」が全てを決める、残酷な世界を生きる少年たちの話です。
どうぞお楽しみください。
傾きかけた西日が、教室に粘つくようなオレンジ色の光を投げかけていた。
床には机と生徒たちの長い影が伸び、まるで牢獄の鉄格子のように交差している。
窓際の席で、僕は浅い呼吸を繰り返していた。
制服の襟元が妙に息苦しく、何度も指で緩めようとしたが、それは締め付けられているのではなく、ただ自分の喉が恐怖で狭まっているだけだった。
今日は、「遺伝子レベル」の判定結果が返される日。
日本皇国が全国民に義務付けた、高校三年生の春に下される最終宣告。
レベルが高ければ英雄として称えられ、低ければ社会の「負債」として扱われる。
レベル10未満は公営住宅への入居が義務付けられ、レベル5を下回れば職業選択の自由すら奪われる。
そして、レベル0は——。
僕の指先が、無意識に机の端を撫でた。
木目の感触が、妙にざらついて感じられる。
教室のほとんどは、水を打ったように静まり返っている。
聞こえるのは、壁の時計が無慈悲に時を刻む音と、誰かの押し殺したような息遣いだけ。
チョークの粉と、春なのに暖房が切れない教室特有の生温い空気が漂っていた。
前方の席では、運動部の男子生徒が両手を組んで俯いている。
「頼む……レベル15、いや13でいい……」
ぶつぶつと呟く声が、かすかに震えていた。
普段は威勢のいい彼が、今は小さな子供のように身を縮めている。
斜め前の女子生徒——いつもは完璧にメイクを決めている彼女が、今は血の気の失せた顔で爪を噛んでいる。
その息苦しいほどの静寂を、後方の席から聞こえる勝ち誇ったような笑い声が、無遠慮に破った。
「なあ、姫宮。
どうせレベル100は余裕だろ?」
「たりめーだろ」
軽い調子の会話。
まるで天気の話でもしているかのような気安さ。
声の主は、姫宮カズマと、その取り巻きの海老原や望月だ。
彼らの周りだけ、空気の密度が違うように見えた。
彼らだけが、この息詰まるような空気を意に介さず、これから発表される遺伝子レベルを賭けの対象にして騒いでいる。
一軍女子たちの甲高い嬌声がそれに混じった。
「姫宮くんなら1000超えもあるんじゃない?」
「やだ、それヤバすぎ」
遺伝子強者にとって、これは「審判」などではない。
ただの退屈な日常を彩る、ちょっとした娯楽に過ぎないのだ。
教室の後方のドアが少し開いていて、そこから遠慮がちな含み笑いが漏れ聞こえる。
廊下に控える姫宮の追っかけの女子生徒たち。
彼女たちにとって、今日は「推し」の晴れ舞台を見物する日でしかない。
僕は震える指で、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。
何かを握りしめて、この緊張感の中で、少しだけでも安心していたかった。
右隣の席で、小さく息をつく音がした。
図書委員の村野さんだ。
彼女と目が合った。
分厚い黒縁メガネの奥、生気のない虚ろな瞳に、僕と同じ色が浮かんでいた——諦めと不安と、それでもどこかに残る、奇跡への淡い期待。
村野は力なく微笑んだ。
その笑みは、お互いの運命を察しているような、諦観に満ちたものだった。
ふと視線を上げると、壁に貼られた淘汰祭のポスターが目に入った。
『遺伝子強者は、国の誉れ!』
力強い毛筆の文字が、西日を受けて金色に輝いている。
その下には、整った顔の筋肉質な若い男性アイドルと、透き通った肌が美しい女優が寄り添う写真。
「理想の日本人」の姿。
僕には、そのポスターが巨大な目となって、自分を見下ろしているように感じられた。
喉の奥に、酸っぱいものがこみ上げてくる。
その時、教室の前方ドアが、ゆっくりと重々しい音を立てて開いた。
僕の背筋が、反射的に伸びた。
担任の大國育雄先生。
188センチ、115キロの巨体が、戸口を完全に塞いでいる。
筋肉と脂肪が同居した、威圧的な体躯が動くたび、着古されたグレーのスーツが窮屈そうに悲鳴を上げた。
大國先生——彼は生徒に自分を「先生」と呼ばせる奇妙な教師だ——は、その巨体に似合わないほど静かな足取りで教壇へ向かった。
ミシリ、ミシリと床板が軋む。
その一歩一歩が、処刑台への歩みのように、僕の鼓動を速めた。
教室中の視線が、恐怖とわずかな期待をない交ぜにして、彼の一挙手一投足に突き刺さる。
僕もまた、目を逸らすことができなかった。
教壇の中央に立った大國先生の、綺麗に剃り上げられたスキンヘッドが、西日を鈍く反射する。
汗が光って見えた。
彼は満足そうに生徒たちを見渡し、口元に人好きのする笑みを浮かべた。
だが、僕は知っている。
細められたあの目の奥は、全く笑っていないことを。
パン、と乾いた柏手の音が響き、生徒たちの意識は否応なく彼の言葉に引き寄せられた。
「諸君、今日も一日、ご苦労だったね」
腹の底から響くような、けれど不思議と耳に心地よいバリトンの声が、教室の隅々まで染み渡っていく。
まるで催眠術師のような、人を惹きつける響き。
「いよいよ、結果を言い渡す時が来た。
だがその前に、先生から皆に伝えておきたいことがある」
大國先生は一歩前に踏み出し、分厚い両手を教壇の縁にかけた。
その手の甲に、血管が浮き出ている。
「諸君は皆、私の、そしてこの国の宝だ。
一人一人が、未来の日本皇国を背負って立つ、かけがえのない『家族』なんだぞお」
その言葉に、「一軍」の女子生徒たちが、うっとりとした表情を浮かべた。
まるで恋人から愛を囁かれているかのような恍惚とした顔。
これは、甘い毒薬だ。
その言葉を信じた先に待つのは、本当の幸福などではない。
ただの、国家に管理された家畜としての生だ。
大國先生は、話しながら、値踏みするように生徒一人一人の顔をゆっくりと見ていく。
粘りつくような視線が、僕の顔の上を通り過ぎていく。
「相沢」
陸上部のエースの名前が呼ばれた。
「君がグラウンドを駆ける姿は、我が国の希望そのものだ。
その卓越した身体能力は、次代を担う優れた国民の礎となるだろう」
褒め言葉。
一軍女子の相沢が、照れたように笑う。
「望月。
君のその誰からも愛される天性の明るさは、健全な社会を築く上で不可欠な才能だ。
素晴らしいぞ。
先生は、誇らしいぞ」
望月がにやりと笑うのが見えた。
「海老原。
君は……」
クラスの上位陣に投げかけられる、蜂蜜のように甘い言葉。
それを聞きながら、僕の手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
僕には分かる。
これは品評会だ。
種馬の価値を査定する、おぞましい儀式。
「……無論、宝であるからこそ、磨かれなければならない。
優れた遺伝子の持ち主は、優れた遺伝子の持ち主と交わり、優秀な子を産んで国家に貢献する。
それが諸君の義務であり、喜びだ。
そうだろう?」
その視線が、教室の窓際で息を殺す僕の上で、一瞬、ピタリと止まった。
心臓が喉から飛び出しそうになる。
僕は咄嗟に目を伏せた。
全身の血が逆流するような、凍てつく恐怖。
伏せた視界の端で、大國先生の細められた目の奥に、狂気的な光が宿ったのを確かに感じた。
それは生徒を見る教師の目ではない。
所有物を、家畜を見る目だった。
「さあ、始めようか。
祝福と、審判の時を」
大國先生が再び人好きのする笑顔に戻った瞬間、教室の空気は限界まで張り詰め、僕の心臓は破裂しそうなほど速く脈打ち始めた。
まず、大國先生が最優秀者の名を告げた。
「今回の最優秀者は――姫宮カズマ」
その名が呼ばれた瞬間、張り詰めていた教室の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。
続くざわめきは、静かな水面に小石を投げ込んだ時のように、同心円状にゆっくりと広がっていく。
「遺伝子レベルは……1760」
大國先生が告げた数字は、まるで現実感のない、物語の中の単位のようだった。
一瞬の沈黙。
生徒たちは、その数字の意味を頭の中で反芻しているようだった。
そして、次の瞬間、教室は爆発したかのような喝采に包まれた。
嵐のような拍手と、悲鳴に近い歓声。
それは祝福というよりも、人知を超えた何かを前にした時の、原始的な畏怖と興奮が入り混じった叫びだった。
廊下で息を殺していた追っかけの女子生徒たちが、堰を切ったように狂喜の声を上げている。
隣の教室からも何事かと顔を覗かせた生徒たちが、その数字の意味を知るやいなや、興奮した囁きを伝播させていった。
「1760だって! やばすぎ!」
「すげえっ。すげえぞっ!」
「え待って! 姫宮様すごすぎ!」
「やばいよね! 尊すぎる!」
遺伝子レベル。
それは「その数だけ、優秀な子孫を国家のために作りなさい」という、神からの託宣にも似た指令だ。
一桁の者から、姫宮のような数千に達する者まで、その残酷なまでの振れ幅こそが、この国における絶対的な身分制度を象徴していた。
熱狂の中心で、姫宮カズマは億劫そうに片手を軽く上げながら席に戻った。
まるでうるさい羽虫でも払うかのような、気のない仕草だった。
それだけで周囲の狂騒はさらに熱を帯びたが、当の本人は既に関心を失くしたように窓の外に視線をやっていた。
成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能、そして皇国屈指の名家の生まれ。
まるで神が気まぐれに創り出した完璧な彫像のように、彼はただそこに在るだけで、周囲を圧倒的な格差の闇に沈めていた。
やて姫宮への熱狂が鎮まると、大國先生は再び名簿に目を落とし、教室には死刑執行を待つ罪人のような沈黙が戻ってきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「審判の日」に、主人公・隠悠句がどのような運命を辿るのか、楽しんでいただけたでしょうか。
次回は、悠句に下される『審判』の結果が描かれます。
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