第9話 銀灰色の誓約
突然割り込んできたイグナシオの声にリリアンナは動きを止めた。「お兄様!?」とセレニアの驚く声も聞こえる。
「なにを……」
何を言っているのか。離縁を要求したのはイグナシオではないか。
いまさら――。
(でも……)
言いたいことはあるが、エアハルトを助けるチャンスはこの一度限りの可能性が高い。
(それなら、大事なのは私の矜持ではない……私が守るべきものは……)
「エアハルトと一緒に……いえ、エアハルトの身の安全は保証していただけますか?」
リリアンナの問いかけにイグナシオは口を開いたが、言葉を発することはなかった。
何か言いたげだが、それは我慢しなければいけないことのようで、イグナシオにも我慢しなければいけないことがあるという事実にリリアンナの胸が少しだけすいた。
イグナシオの目がエアハルトに向く。
間に入りたかったがリリアンナはグッと我慢した。
「同じ色だな」
(……目のこと?)
イグナシオの紫紺の瞳が、同じ色のエアハルトの瞳を見ている。エアハルトが髪色を黒に戻せば3歳のイグナシオになる。エアハルトがイグナシオの子どもであることは誰にも疑えないだろう。
(エアハルトは自分と同じ色を持つこの人をどう思ったかしら)
エアハルトとイグナシオをじっと見つめ合っていたが、意外なことに先に目を逸らしたのはイグナシオのほうだった。
「この子どもは私の唯一の子どもだ。だから嫡子として届け出て、私の後継者として公表する」
(おかしい……)
よく考えれば最初の話からおかしい。
リリアンナを公爵夫人に、エアハルトをドゥヴァリスの嫡子にというのは、あの日のことがなければあったであろう未来の形。しかし、あの日は確かにあった。あのとき言っていた『愛する女性』はどうしたのだ。
(まるで全てをなかったことにするみたいに……)
そんなことは許せないと思うが、冷静に話を聞けている自分もいるのは、イグナシオの目に諦めがあったから。仕方がない。イグナシオの目はそう言っている。
「その話、お受けいたします」
用事はすんだとばかりにイグナシオが部屋を出ていった。
イグナシオの気配が遠ざかるとリリアンナはその場に蹲る。気分が悪い。緊張が抜けたのか。それともまた魔力が切れたのか。
セレニアの指示で侍女たちが客間に連れていこうとしたためリリアンナは抗った。
エアハルトには続きの部屋を用意したから安心するようにとセレニアに宥められたが、客間でエアハルトと二人になっても気が抜けなかった。
吐き気と戦いながら風魔法を展開し、イグナシオがドゥヴァリスの騎士たちを連れて出立する準備を整えていることが分かった。
(知らされていないということは、挨拶もいらないということね)
着替える必要はないと判断したリリアンナは、行儀が悪いと思いつつもそのままベッドに倒れ込む。
(疲れた……目が覚めたら、ヴェルナのあの家ということはないかしら……)
エアハルトは内扉で繋がっている2つの部屋のあちこちを探検していたが、リリアンナが横になっているのに気づいて自分もベッドに上がり、リリアンナにくっついて目を閉じた。
エアハルトはあっという間に眠りにつく。まだ幼いが、幼くてもリリアンナとイグナシオのやり取りから何かを感じて緊張したのだろう。リリアンナは腕の中にエアハルトを抱きしめて、自分も眠ることにした。
邸内の騒がしさにリリアンナは目を覚ました。窓から差し込む日の向きから、2時間ほど寝ていたことが分かる。
起き上がると、リリアンナの肩から何かがずり落ちた。
「なに、これ……」
持つ手が透けて見えるほど薄い生地、花嫁のヴェールを彷彿させる繊細な刺繍が施されたショールだった。客人のためにこれほどのものを揃えるとは、さすが貴族であり豪商でもあるトレッシア侯爵家だとリリアンナは思った。
(侍女が入ってきたことにも気づかないなんて)
失態だと思いながら、リリアンナは眠るエアハルトにショールをかけて自分は起きる。そして窓辺に寄ると、賑やかな外を見下ろした。
屋敷の正面では、旅装を整えた馬と騎士たちが慌ただしく行き交っている。ドゥヴァリスの騎士たち。イグナシオの出立。懐かしさもあるその光景をリリアンナが眺めていると、イグナシオが屋敷から出てきた。その威風堂々たる姿は、さすが国一番の騎士と名高いだけはある。
イグナシオは後ろをふり返ることなく騎士たちに合流すると、あっという間に一団は馬蹄を響かせて去っていった。
◇
イグナシオが出立したあと暫くして、客間にきたセレニアによりリリアンナはイグナシオの行き先を知った。
「お兄様は王都に向かったわ。リアの死亡届を白紙にして、中央裁判所に離縁の白紙を申し立て、リアを公爵夫人として王都入りさせるそうよ」
(……え?)
海や山での遭難・火事や土砂崩れといった災害など遺体がなく死亡が確認されない場合、事故発生から3年後にその者は死者となる。
リリアンナもこのルールに則って3年前に死者となり、その時点でイグナシオは独身となったはずだ。この3年間ルールは貴族に再婚を促し、貴き血を残すためのルールとも言われている。
(てっきり……だって、そもそも……捜索はただのパフォーマンスだとばっかり……)
他に愛する女ができ、リリアンナに離縁を迫ったのだ。
リリアンナが行方不明の状態で他の女性と再婚しては外聞悪いかもしれないが、死別が認められればとやかく言う者はいないだろうに。それなのに、離縁の取り消しで夫婦になるなら、イグナシオはその女性と再婚していなかったということになる。
(その女性とうまくいかなかったのかしら……)
「お兄様はずっと独身だったのよ。知らなかったの?」
「はい。王妃様の目を気にして大々的にしなかったのだとばかり……」
リリアンナは王妃のお気に入りだ。だから6年前、イグナシオは腹の子は殺してもリリアンナは殺さないよう気にかけていた。
「そう……」
セレニアの苦笑でこの話題は終わりになり、リリアンナはここでセレニアが黒いドレスを着ていることに気がついた。セレニアは自分の髪が黒いこともあり、まるでカラスのようで嫌だと黒や紺色のドレスを着なかった。だから彼女がそれを着ているなら喪服ということになり……。
「もしかして、ドゥヴァリス前公爵が……」
「え?」
セレニアは意外なことを言われたというように驚いた。間違ったのかとリリアンナはセレニアのドレスが喪服だと思ったと弁明した。
「あ……お父様は、大丈夫……まだ公にできるような状態ではないのだけれど、3年ほど前に目を覚ましていまはリハビリ中なの」
「まあ、よかったですね」
セレニアたちの父親である前公爵アグニスハルトは原因不明の病で眠り続けていた。
ドゥヴァリスは重要な領地のため、空座にはできないからイグナシオは10歳という幼さで公爵になった。資格はあってもイグナシオはいろいろ足りない。親友アグニスハルトの治める領地と彼の息子であるイグナシオが周りの大人の食い物にならないよう、リリアンナの父リアンがイグナシオの後見人になった。
これがリリアンナとイグナシオが出会うきっかけとなったため、リアンはリリアンナの結婚式のとき、これから式が始まるというのに「あのとき後見人を引き受けるんじゃなかった」とぼやいていた。
「申しわけありません。黒色を着ているからてっきり……」
「これは……半年前にキアラ男爵夫人が亡くなったから……お兄様には、嫌な顔をされるのだけど……ごめんなさい」
「? なぜ謝るのです?」
キアラ男爵夫人はイグナシオたちの実母の従姉で、幼い頃に亡くした母親に代わって自分を養育してくれた男爵夫人をセレニアが信頼していたことはリリアンナも知っている。家族でなくても、親しい人なら1年くらい喪に服すものだ。おかしいところはない。
(それにアグニスハルト様はキアラ男爵夫人と再婚なさったのかもしれないし。それならセレニア様にとっては継母……でも、どうして彼は嫌がるのかしら。特に仲が悪かったと記憶していないけれど……)
キアラ男爵夫人は夫を早くに亡くし、夫が持っていた男爵位を譲り受けて男爵夫人になった。寡婦の彼女は生家のノーセント侯爵家に戻ったもののそこで肩身が狭かったらしく、それなら仲の良かった従姉妹の忘れ形見であるセレニアの世話をしたいと言って公爵家に滞在することになったとリリアンナは聞いている。
セレニアのためだけでないことは、数回会っただけのリリアンナにも分かった。キアラ男爵夫人はアグニスハルトを愛していた。だからこその献身。キアラ男爵夫人はいつもアグニスハルトのそばにいた。
「忘れないうちにこれを渡しておくわ」
そう言ってセレニアが差し出したのは、平たいけれど大きな箱。リリアンナが首を傾げながらフタをあけると、そこには銀色の艶やかな髪があった。
「編み毛……よくこの色の編み毛を見つけましたね」
貴族女性は長く美しい髪を結い上げてヴェールやヘッドレストで飾るのが習わしだが、いまのリリアンナの髪は肩につくかつかないかの長さ。編み毛はそれを隠すための付け毛だ。リリアンナの鼻をハーブの香りが擽った。
「この髪、大事にされてきたのですね。ローズマリーにラベンダーの香りに、パサツキを感じない艶やかさ……大切に保管されていたものだと分かります。このようなものをどうして……」
「それは……もう要らなくなった、としか……」
(要らなくなった、か……)
人の気持ちは何かキッカケがあれば簡単に変わる。気持ちが変われば、大切なものも変わる。
「髪を戻さないといけないから、リアに言われた毛染め粉落としの材料は明日揃うわ。買い物は明後日からにしましょう」
頷いたリリアンナにセレニアは首を傾げる。
「私に聞きたいことはない?」
(たくさんあるけど……信じられるかどうかの問題)
「いいえ、特には」
「そう……リアも疲れているみたいだし、ゆっくり休んで頂戴」
セレニアの残念そうな表情に心がツキンと痛んだが、同時に信用できないのだから仕方がないと思った。信用することが怖いのだ。また裏切られたら、と思ってしまうから。
◇
2日後、リリアンナとエアハルトはドゥヴァリス公爵夫人および侯爵令息に相応しい服などの準備を始めた。
リリアンナの死亡記録が白紙になると、父親がリリアンナのために遺した資産が彼女名義で戻ってきた。セレニアによると、リリアンナの遺産として当時夫だったイグナシオが継いだが、イグナシオはそれに手をつけず資産は管理人に任せて運用していただけだったらしい。上手に管理されていたようで、資産は倍とは言わないがかなり増やされていた。
エアハルトのものはドゥヴァリス家の支払いにしたが、リリアンナは自分のものはその個人資産で購入した。公爵夫人になるのだからドゥヴァリス家の支払いで構わないとは思うのだが、イグナシオの妻として便宜上の役割は果たせるにしても偽物の感があるためドゥヴァリスの資金を使う気にはなれなかった。
(公爵夫人になれていないのだし)
リリアンナとしてはいろいろ予想外のことが続いている。生きていたのだからあっさりと承認されると思っていた離婚の白紙について手間取っているようなのだ。なぜなのかは分からない。「亡くなった妻(夫)が実は生きていた」というケースは貴族はもちろん平民でもときおりあることで、その後に離婚がなかったことになる判例はたくさんあった。イグナシオもリリアンナもその間に誰かと再婚したわけではない。だから渋られる理由はない。
イグナシオが離縁の白紙を申請してから約20日後、ようやく裁判所は離縁の白紙を認めた。認められたが……なんとなく、腑に落ちなかった。
このように離縁の白紙で手こずったため、予定していた3週間を3日ほどオーバーしてイグナシオはシフォンにやってきた。中央神殿の高位神官を3名も連れて。
「公爵、公爵夫人、契約内容の確認をお願いします」
神官から渡されたものをリリアンナは確認する。
紙に刻まれているのはヴェリタスの名。真実の神ヴェリタスの名の刻まれたこの紙に書かれたことは真実でなければならない。つまり、ここに書かれたことはヴェリタスの名のもとに『真実』となる。
【イグナシオ・ドゥヴァリスが息子エアハルトを殺すことはない】
これが、リリアンナがイグナシオに唯一求めた唯一のお願い。ヴェリタスの契約で、イグナシオがエアハルトを殺さないと誓うこと。
(大事なものだけ守れればいい……と思ってはいたけれど、これは……)
書かれている文は簡潔で、あまりの簡潔さにリリアンナは驚いた。
「問題はない」
「私も、問題ありません」
イグナシオとリリアンナの言葉に神官たちは頷く。
「公爵閣下、エアハルト様。ご自分のお名前の上に血判をお願いいたします」
名前を呼ばれたエアハルトがビクッと体を震わせ、隠れるようにリリアンナに縋りつく。
「エア……」
この誓いの内容は、裏を返せばイグナシオがエアハルトを害する可能性があったということ。それを考えれば、エアハルトがリリアンナ以外の者に不信の目を向けるのもこんな状況では当然なのかもしれない。
「エア、これはあなたを守るための“お約束”なの」
「約束……この人と?」
「そうよ」
視界の端で、エアハルトに「この人」と言われたイグナシオが体を揺らすのがリリアンナにも見えた。イグナシオを「この人」などと、無礼な呼び方をしたのはエアハルトが初めてだと思うとおかしくて、リリアンナの気持ちが少しだけ軽くなる。母親の力が抜けたのを感じたのか、エアハルトの体からも少し力が抜けた。
「わかった」
「偉いわ。ちょっとチクッとするけど、我慢してね」
リリアンナは使用人が差し出した針を受け取ると先に自分の指先を突き、しばらく様子をみて異常がないことを確認してからエアハルトの指先を突いた。
エアハルトが血判を押したあと、イグナシオは懐から出した剣で指先を切った。リリアンナはその懐剣に違和感を覚えたが、その正体を掴む前に神官が契約の成立を宣言したためリリアンナはそれ以上考えるのをやめた。
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