第8話 黒曜色の牢
「「リリアンナ様!」」
誰かに名前を呼ばれたと同時に、開けっ放しだった診療所の扉から2つの黒い影が飛び込んできた。
飛び交う怒号。
金属のぶつかる音。
床板を揺らす重い振動。
リリアンナは震えるエアハルトを抱きしめてその耳を塞いだが、喧騒はすぐにおさまった。地に沈んだ男たちの中に立つ2人、そのうちの女性のほうにリリアンナは視線を向けた。
「カミールさん」
リリアンナの知るカミールは港の食堂で働いている女性だったが、膝をついて頭を垂れたカミールの姿はまさに騎士だった。
(気づかなかった……)
イグナシオのことがあったから、そのあと出会ったカミールのことは疑った。それなりに探りも入れたし食堂に行って確かめもした。何も不審な点はなかった。それなのに実態はこうだ。
「ドゥヴァリスの騎士だったのですね」
カミールの、イグナシオによく似た剣筋ですぐ分かった。意外と覚えているものだとリリアンナは苦笑する。
「そちらの方もかしら?」
「ソールと申します」
「御二人とも……騎士をやめて偶然この街で働いていた、なんてことはありませんよね」
2人の気まずげな沈黙がリリアンナの沈黙を肯定していた。
「なんと言われていたの? 監視しろ? 見張れ? それとも……」
その先を聞けなかった。エアハルトが聞いているからだと自分を誤魔化してみたが、知りたくないだけだとリリアンナは分かっていた。
(……命令されていただけだと分かっているけど)
でもこの身に渦巻く感情どこにぶつけて良いのかがリリアンナには分からなかった。
「助けてくださってありがとう。エア、行きましょう」
「……お母さん?」
エアハルトの不安そうな声にリリアンナは気づき、大きく深呼吸していつも通りの笑顔を作る。安堵したエアハルトの表情によほど自分の顔は強張っていたのだとリリアンナは反省した。
「みんなで……カミールさんたちも行く?」
「いいえ。お母さんとエア、二人だけよ」
悪漢から守ってくれたからだろうが、エアハルトの安心をリリアンナは首を振って否定する。
「ここにいては危険なの。分かってくれる?」
「うん……」
『危険』という言葉にエアハルトは悪漢たちを見たが、イグナシオの『危険』は彼らとは比べものにならない。逃げるしかない。
リリアンナ一人ならば違う選択をしたかもしれない。負けても死ぬのはリリアンナ一人だから。でもエアハルトがいるから負けられない。だから逃げるしかない。
(ぐずぐずしていられない、急がなくては)
ここにイグナシオが来る可能性はゼロではなく、イグナシオがきたら確実に逃げられない。
「お待ちください。閣下にはそのような意図はありません。我々がここにいるのもお二人を保護するため、そう命令されて参りました」
立ちあがって進路を塞いだ2人をリリアンナは睨む。
「まずはシフォンに! リリアンナ様が望むならセレニア様がお二人を保護すると、セレニア様ご本人から伝言を預かってございます。ですからまずはシフォンに……「行かないわ、退いて頂戴」……申しわけありません」
退く気がない様子にリリアンナは冷たい目を向ける。
「天下のドゥヴァリスの騎士様たちが治癒師相手に2人がかり?」
どうしてそこまでして自分たちを捕らえるのか。どうして放っておいてくれないのか。
構えをとる2人の後ろにイグナシオの幻が見えた。
リリアンナは体中の血が湧き上がるのを感じた。怒りではない。イグナシオに一矢報いてやりたい。この二人なら恐らく勝てる。そんな高揚感だった。
「攻撃力の低い風魔法と攻撃力ゼロの治癒魔法。剣は本職のお2人には勝てない……でもね」
にこりと笑って見せればカミールは一歩下がり、ソールは眉をひそめた。
「治癒魔法を魔法として分類するなら付与魔法になるの。体の不調が起きている部分に正常なイメージを付与することで治すの」
なぜこの状況で治癒魔法の講義が始まったのかが分からない2人は怪訝な表情を浮かべた。
「逆に壊すこともできるの。手や足の骨に折れるイメージを付与したり、心臓が止まるイメージを付与すればいいのだもの。ね?」
急所を直接狙って殺すというリリアンナの言葉にカミールとソールの表情が強張り、ほんの一瞬構えが乱れた。
(それほどの魔力があれば、だけれど)
これはハッタリ。治癒魔法が付与であることは間違いないが、治癒魔法でできるのは体の機能をサポートくらい。リリアンナの魔力であっても骨を数ミリ動かせるかどうかだ。
(でもこの位ならできる)
「なっ!?」
リリアンナはカミールとの距離を一気に詰めると彼女の耳に触れる。
狙うのは耳の奥にある半円形をした3つの管。人間の体はこれで平衡感覚を司っている。人が立っていられるのはこの器官のおかげで、アンから借りた医学書でそれを知ったときには驚いたものだった。筋肉で固定されている硬い骨と違い、柔らかいそれを軽く揺らすのに大量の魔力は要らない。
「うぁ……」
カミールは驚いた表情でよろめき、体を支えきれずにその場にしゃがみ込む。カミール本人も何をされたか分からない、見ていただけのソールにとっては奇術のようだった。
「……ぁ」
ソールの体がふらつく。付与するのに別に触れる必要はない。カミールにわざと触れてそう見せかけただけ。どこに何があるか分かっていれば魔法は飛ばせる。
「くっ……」
しかしソールはカミールのようにしゃがみ込まず、両膝に手を当てて堪えてみせた。
「流石ね。でも足元が覚束ないから動かないほうがいいわ。安心して、後遺症はない……ちょっとっ!」
風魔法の起動をリリアンナが感じた直後、ソールがその場に倒れる。その手から笛のようなものが転がり落ちた。警ら隊が携帯している、風魔法を使って仲間に合図を送る笛型の魔道具。
(逃げないと……)
「ゲホッ!……グ……ぅあ……」
「……っ!」
魔力を当てられて三半規管が揺れていたところに、自ら魔力を使って思い切り息を吹いたのだ。無理が祟ったソールは体を折り曲げ、呼吸がうまくできないのか激しく咳き込みはじめた。
「馬鹿なことを……」
咄嗟に治癒魔法を使って治そうとした自分に気づいてリリアンナは手を止める。いまが逃げる唯一チャンス。自分も馬鹿だと自嘲する。
「仲間に回収してもらったら安静にしていなさい」
「リ……ア……」
「喋らないほうがいいわ。エア、行くわ……っ! 放しなさいっ!」
立ち上がろうとしたリリアンナをソールが手を掴んで引き留める。
「グッ…………ど、どうか、閣下に……ゲホッ」
「喋らないほうがいいと言ったでしょう。酷い吐き気もしてい…………え?」
最後まで言う前にリリアンナの視界が大きく揺れた。意識が遠のいていく。近づいてくる床に自分が倒れそうになっていることが分かる。
「お母さん!!」
(エア……)
悲鳴のようなエアハルトの声。リリアンナは目を開けて違和感のある足元を見る。足首についている輪はは魔物を眠らせて拘束する魔導具。カミールと目が合った。
(麻酔銃の……次は……これ……)
◇
意識が戻ったとき、リリアンナは天井を見上げる形で寝かされていた。
(ここは……)
あのときの馬車とは違うなと、ぼんやりと思いながら見上げた天井は見慣れないけど懐かしさを感じる豪奢な装飾。
(貴族の屋敷!)
リリアンナは起き上がり、窓の外を確認して初めて見る庭に眉を寄せる。ドゥヴァリスの屋敷ではない。探索魔法を展開しながら周囲を目で確認する。向こうに見える街並みから海のある町のようだが、ヴェルナではなさそうだ。
(連れてこられた……エアッ!!)
リリアンナはエアハルトの魔力を必死に探すものの見つからない。
リリアンナは探索範囲を一気に広げた。普段は治癒魔法を施す前に損傷箇所を探すために使っている魔法。人体の何十倍もの範囲の探索魔法に魔力を一気に持っていかれたリリアンナの視界が揺れる。気分が悪くなる。あのとき聞いた毒という言葉が頭に浮かんだが、リリアンナは無視した。
(もしかして、エアはもう……)
逸る気持ちを抑えながらリリアンナが探索に集中すると、リリアンナのいる場所から50メートルほど離れたところにエアハルトの魔力を見つけた。エアハルトの魔力は右へ左へと動いている。エアハルトは生きている。動きの様子から拘束されてもいるようにも感じない。
(よかっ……この魔力は……!!)
エアハルトの近くに現れたイグナシオの魔力にリリアンナは慌てた。あの日、治癒魔法をかけるために触れたイグナシオの魔力をリリアンナが忘れるわけがない。
ベッドから転がるように降りると軽く目眩がした。
物音に気付いたからか侍女たちが入ってくるのが見えたが、リリアンナはそれを無視して彼女たちが入ってくるため開けた扉から飛び出す。侍女たちが驚いた声をあげたがリリアンナは無視する。
風をまとい急いでエアハルトたちの魔力を感じるほうに走る。50メートルがとても遠く感じた。
「エアッ!!」
「……お母さん?」
飛び込んだ部屋の中の光景にリリアンナは息を飲んだ。エアハルトにイグナシオの手が伸びていたから。
「だめ! やめて! 殺さないで!」
リリアンナはイグナシオとエアハルトの間に割り込み、背中にエアハルトを庇いながらイグナシオに向けて風魔法を放った。
「ぐっ」
風はイグナシオの体を勢いよく吹っ飛ばし、その大きな体を壁にぶつけることはできた。
でもリリアンナには分かっていた、これは意表を突くことができたから。それでも呻かせられただけ。それだけの効果しかない。イグナシオは自分の足でしっかり立っているし、その体勢からこちらに向かってこようとしているのも分かる。
リリアンナは焦った。
不意打ちで失敗した以上、イグナシオに勝てるものはない。カミールたちにやったような攻撃がイグナシオに効くとも思えなかった。
(勝てない……)
リリアンナはエアハルトを放すと、膝の前に両手をつき額が床につくまで頭を下げた。
「お願いします」
悔しさや悲しみを堪えるために唇を噛みたくなるのをリリアンナは耐える。
「私たちは公爵様にもドゥヴァリス公爵家にも関わりません」
(探さないでよ。連れてこないでよ。6年間も関わらずにいたじゃない)
「この子に跡目争いなど起こさせません。ですから……お願いします。私にできることなら何でもいたします。ですから……どうか、どうか……」
(どうして……私は、こんなに無力なんだろう)
6年前と変わらない。エアハルトの命を守るためにできることは『お願い』だけ。湧き上がる悔しさにリリアンナの目に涙が浮かんだとき――。
「なにしてるの!?」
部屋の扉のほうから驚きに満ちた女性の声がして、反射的にリリアンナは顔を上げた。目に入ったのは懐かしい親友だった女性の顔。
「セレニア様……」
(それでは……ここはシフォン? トレッシア侯爵家?)
セレニアの登場にリリアンナは場所を把握すると同時に希望を見出した。セレニアとイグナシオは仲が良い。イグナシオを説得できるとしたらセレニアだけ。
兄妹の母親はセレニアの出産で亡くなり、兄妹の父親で前公爵のアグニスハルトは原因不明の病で20年以上眠っている。2人にとって『家族』と言えるのは互いだけ。たった10歳で公爵になったイグナシオは王都で教育を受けながら育ち、セレニアは領地で育ったため2人は離れ離れだったが、それでも仲のいい兄妹だった。
(6年前のことは……考えてはいけない)
堕胎を黙認、もしかしたら協力さえしたかもしれないが、いまのセレニアは二児の母親である。リリアンナと同じ『子をもつ母親』だ。
「セレニア様、お願いいたします。なんでもいたします。どうかこの子を、エアハルトを助けてくださいませ」
「な、にを言って……?」
驚いてリリアンナとイグナシオを交互に見るセレニアに構わず、詰め寄ったリリアンナはセレニアの足元に伏して縋る。
「子どもに罪などないではありませんか。お願いいたします、セレニア様。お力添えを……私にできることなら何でもします。何でも差し出します。どうか、どうか……」
「リア、落ち着いて……」
(落ち着いてなどいられない、エアハルトを……)
「なんでもするというのなら君にはドゥヴァリス公爵夫人として一緒に王都に戻ってもらう」
タイトルの「黒曜色」は、黒曜石(Obsidian)のような深く艶のある黒色を指す言葉で、単なる黒ではなく光を吸い込むような漆黒の美しさと硬質な冷たさを併せ持つ色。火山のマグマが急冷されて生まれる天然ガラス「黒曜石」の色味に由来し、神秘・静寂・鋭さ・深層意識などを象徴する色彩です。
ここまで読んでいただきありがとうございます。ブクマや下の☆を押しての評価をいただけると嬉しいです。次回は10月6日(月)20時に更新します。