第5話 灰桜色の葛藤
イグナシオを殺そうとしたのは無意識だった。気づいたらナイフを振り上げていた。でも、我に返って振り下ろす手は止めたものの、ナイフをしまうことはできなかった。
(ここにいるのは、偶然?)
イグナシオはリリアンナの工作に気づいていたのではないか。半年間も捜索していたのだ。その間にリリアンナが逃げた痕跡を見つけていても不思議ではなく、その不安はリリアンナの中にずっとあった。でも気にしないようにしていた。気にしても仕方がなかったから。『治癒師のアンナ』は平民、それを探る方法がなかった。
(何かキッカケを与えてしまった……?)
―― 子どもは堕ろす。
子どもを殺そうとしていたイグナシオ。リリアンナは気をつけて暮らしていたが、別に隠れていたわけではない。人里離れた山の中など『人目のつかな場所』にいる人ほど何かあるということを父リアンから教えてもらっていたから。
ヴェルナの町中で特に目立ったことはしていない。住民と過不足なく付き合っている。誰かに不信を抱かせた覚えもリリアンナにはない。
(それでも、この人はここにいる)
エアハルトを始末するためにここにいる可能性はゼロではない。待ち伏せされたとも考えらえる。『治癒師のアンナ』が休みの日は子どもと一緒にこの西の森にくることを常連の患者などは知っている。西の門番の騎士たちとも顔馴染み。診療所の休みは役所で確認できるし……。
(彼女の急なお願いは、もしかしたら……)
イグナシオがここにいる日に休みを交代してほしいなど偶然が過ぎる。イグナシオが関係していたのかもしれないと考えたほうが自然だ。そうなると、彼女はイグナシオの協力者となる。疑問と不安がリリアンナの頭の中でぐるぐる回る。
(やはり、いまなら……)
イグナシオは意識がない。この出血量なら、仮に意識が戻っても勝てるかもしれない。
(……『かもしれない』じゃだめだわ)
もし負けたら、リリアンナは死に、エアハルトも殺される。
(だめ、冷静にならないと)
イグナシオを殺せても、リリアンナが欲しい『エアハルトとの安寧な生活』は得られない。公爵であり英雄でもあるイグナシオが殺害されれば、国は威信をかけて犯人を探す。リリアンナが捕まれば、連座でエアハルトも断頭台に行くことになる。
リリアンナが捕まらなかったら、国は違う罪で捕まっている囚人と交渉し、英雄殺害の犯人として断頭台に送る。その罪深さに耐えれるだろうかとリリアンナが自問していたら……。
「う……」
イグナシオが呻いたことでリリアンナはハッとし、視線をイグナシオに向けると紫色が目に入った。イグナシオの目が開いていた。朦朧としているようだが宝石のような紫色はかつてと変わらない。そこにリリアンナの姿だけが映っていることも……。
「リリ……」
(え……)
触れたらぽろぽろと崩れてしまいそうな儚げな、泣いているような笑顔。イグナシオの表情に気を取られ、その腕が自分を捕まえるかのように動いたことにリリアンナは気づいていなかった。
「お母さん!」
エアハルトの声と同時に火の玉が飛んでくる。その火の玉がイグナシオの手を弾くのが視界の端に見えて、リリアンナはナイフを急いでポケットにしまい、エアハルトに駆け寄る。
(いけないっ!)
「お母さん?」
エアハルトを抱き上げ、体に風をまとうと急いで来た道を駆け戻った。リリアンナの心臓がバクバク鳴る。
(火魔法で攻撃してしまった)
まだ三歳の子どもが放った魔法だから殺傷力はない。騎士のイグナシオにとっては熱いものに触れたという感覚くらいしかないだろう。
(でも、イグナシオなら気づく……エアハルトも、見られたかもしれない)
火魔法を使える平民は多いが、火魔法は魔力の消費量が多いため「火の玉を飛ばす」をできる者など魔力量の少ない平民にはできない。それが子どもなら尚更。『火の玉を飛ばせる子ども』なら貴族の子ども、誰もがまずドゥヴァリスの子どもだと考える。イグナシオは五歳になるころには火魔法が使えたとリリアンナは聞いている。
イグナシオがどこまで認識できたかはリリアンナに分からない。でも『リリアンナ』を認識したなら、『リリアンナと共にいた子ども』はなにか自ずと分かってしまう。
―― 子どもは堕ろす。
イグナシオの冷たい声がまた頭に響き、リリアンナはゾッとした。
(いますぐに逃げるべき……でも冬が始まったばかり。冬に船旅は危険。まだ三歳のエアを連れての旅は、そちらのほうが危険……いいえ……一から生活を始めるのは難しいわ)
◇
エアハルトの機嫌が悪い。森にお気に入りの虫取り網と、食べるのを楽しみにしていたサンドイッチの入ったバスケットを置いてきてしまったからだ。
余っていた材料で改めて作ったサンドイッチを食べ、新しい虫取り網を買う約束を取り付けて機嫌を直したエアハルト。今朝早起きだったため、いつもより早くウトウトし始めた。
部屋に連れていき、気持ちよさそうに昼寝をするエアハルトを見ながら街の様子を風魔法で探る。西の森まで風を飛ばせればいいが、距離もあると間にある音がノイズになって意味のある音が聞き取れない。とりあえずになるが、町中に特に気になる音はない。「大丈夫じゃないか」と楽観的な気持ちが浮かんでくるほど、いつも通りだ。
(私とは気づかなかった……ということなのかしら)
少し落ち着いたいまならイグナシオが『リリアンナ』と思う可能性のほうが低い。
イグナシオの知るリリアンナならまずヴェルナにいない。リリアンナがそうしようとしたように、イグナシオならリリアンナは異国に逃げたと考える。イグナシオはリリアンナの語学力に一目おいていた。リリアンナが生きていると仮定するなら北の国を中心に周辺の国を探す。
―― リリ……。
(あれも聞き間違いだったかもしれない……動揺していたのだから。聞き間違えたと考えるほうが自然だもの……あんな……)
あんな顔を、あんな目をイグナシオが『リリアンナ』に向けるとはリリアンナには到底思えない。別の誰かと考えるほうが自然だ。
(それに……)
イグナシオが『森にいた女』を探しても見つかるのは『治癒師のアンナ』。治癒魔法の使い手としてアンナは公的に記録されている。イグナシオの知るリリアンナは火魔法と風魔法を使う。使える魔法は二つまで、使える魔法は変わらない。これが常識だからイグナシオの中でリリアンナとアンナは重ならない。
(バスケットにはサンドイッチと水のボトルしか入っていないし、虫取り網もよくあるもの)
逃げたのではなく通報だと思わせるため、リリアンナは西の門番に自分では治療できない重傷者がいたことを報告してある。西の森で虫捕り網と弁当が見つかっても『慌てていて忘れた』で片付くに違いない。事実そうなのだから。
「風魔法と、火魔法か……」
リリアンナは火魔法を使おうとしたが、炎が発生しなかった。リリアンナは『やはり』という気持ちで何も起きなかった空間を見つめる。リリアンナは火魔法が使えた。風魔法と合わせて炎を練り上げ、イグナシオの剣飾りに使われていた大粒の宝石を溶かし剣を焼き切ることもできるほどだった。
しかし、あの日馬車で目を覚ますと火魔法が使えなくなっていた。
魔法を使うには集中力がいるため、精神的な問題で魔法が使えなくなることはある。しかし、その場合は魔法全般が使えなくなるのに、リリアンナは風魔法は今まで通り使えている。
火魔法だけ使えない。これだけでも異常なのに、今まで使えなかった治癒魔法がなぜか使える。治癒魔法は王族が得意とする魔法で、王族の血を持つ公爵家出身のリアン自身は使えなかったが、その娘だからリリアンナが使えても不思議ではない。
「お父様が提唱していた『魔法の種』を私が証明することになるとは」
父リアンは人が好きで、色々な人と話をしては必要なら知恵を貸していた。『情けは人のためならず』は彼の口ぐせでもある。代わりに美味しい料理の店を知ったり、ちょっとした家事のテクニックを仕入れては「やったぞ」とリリアンナに自慢していた。
そんなリアンが探していたのが『魔法の種』。種といっても土にまくあのような種ではない。種のようなものだから種と表現したそれは「魔法は才能」や「発現する魔法は遺伝する」という常識を覆す説。「魔法は想いが形になったものなのではないか」と父リアンは提唱していた。
この世界で文字が生まれるより前から人は魔法を使ってきたため、『最初の魔法使い』については記録がない。従来の才能や遺伝の説では、『最初の魔法使い』は神や精霊など人知を超えた存在から授けられたとされている。父リアンは「『最初の魔法使い』は魔法が使いたいと思ったのではないか」と言った。
随分と御伽噺のような話だとリリアンナがリアンを揶揄ったとき、親と違う魔法を発現した子どもは差別されてしまっているから『魔法の種』を証明して解決してあげたいのだとリアンは教えてくれた。だからリリアンナにも協力してほしいと。
人徳があったリアン。リアンのもとには多くの支持者が集まった。支持者の多くは親が使えない魔法を使えるようになったことで「実子」と認められず、その差別に苦しんできた人たちだった。
そしてリリアンナが体験したのは『使える魔法は一生変わらない』という常識を否定すること。『使える魔法は一生変わらない』という説は『魔法の種』の支持者たちの中でも常識だった。魔法の種が発芽するきっかけとなる「こんな魔法を使いたい」は純粋な想いであり、思惑のない純粋な想いは変わることはないと彼らは言っていた。
魔法が変わることがあることが認められれば父リアンの『魔法の種』の説が一気に優勢になる。
リリアンナは王都にある都市伝説とか魔境とかのネタを扱う新聞社に匿名で手紙を送った、少し笑い話になるように「夫の浮気が原因で使える魔法が変わったんだけど!」という内容で。表立つことができないリリアンナができるのはここまでだが、これで十分なことは分かっていた。
何か秘密を抱えている人は常に捌け口を探しているから、一人でも『私も』と声をあげれば、それが引き金となって一気に共感を引き起こす。『私も』の数が増えれば研究者たちは無視できない。「そんな馬鹿な話があるわけがない」と研究者が動けばこちらのもの。彼らは様々な力を使って『馬鹿な話』を証明することになる。魔法が変わることを体験したリリアンナだから、その自信はあった。
そして二年ほど前に魔法の常識は「発現する魔法は必ずしも遺伝とは言えない」という形に変わった。
「私はいまも彼を殺したいほど憎んでいた……」
火魔法を使えなくなったことはリリアンナにとって自分の中のイグナシオへの想いが変わったことの証だった。まだ魔法を使えるようになる前、イグナシオの魔法を見て憧れた。それがリリアンナの火魔法の始まり。
ヴェルナで過ごすうちにイグナシオとの時間を思い出すことが減り、新聞でイグナシオの名前を見ても特に何も感じることはなくなり、グナシオの名前を見ても何も感じなくなった。『愛しているの反対は無関心』という歌劇の言葉の意味を理解できたと思っていた。
(ショックだわ……まだ憎んでいたなんて……)
エアハルトを守るためなんて嘘。本当にエアハルトを守るためならあのから逃げるのが正しい。最終的にその判断をしたとはいえ、ナイフを翳して殺そうとした事実は消えない。リリアンナはイグナシオを殺したかった……それほどまでに、まだ憎んでいる。
大きく息をついたリリアンナは視線をエアハルトに視線を戻す。
小さな寝息にリリアンナの口元は自然と緩み、手を伸ばして柔らかな黒髪をすく。眠る前に魔法を解いたので、エアハルトの髪は本来の黒髪に戻っている。黒い髪に、夜が始まる空のような濃い紫色の瞳。
―― リアの中にマリアがいるから、お父様は寂しくないんだ。
父リアンは最後まで母マリアを愛していた。父リアンはリリアンナがイグナシオと結婚して直ぐに事故で亡くなっている。
エアハルトの中にもイグナシオがいる。父リアンのようにそれに恋慕を向けるわけではないが、愛する息子であるためマイナスの感情を向けられるわけなく、リリアンナの心は妥協案のように『イグナシオとの思い出』を再生していくのだ。男として唯一愛し、女として愛された記憶を引きづりながら。
「エアハルトは火魔法を使いたいと思った」
エアハルトの魔力の強さは生まれる前から予想されていたが、三歳という幼さで既に火魔法を発現させている。リリアンナはエアハルトにイグナシオのこともドゥヴァリスのことも教えていない。それなのにエアハルトは火魔法を使いたいと思った。
そのキッカケは何だったのだろうかとリリアンナは常に思う。エアハルトに聞いても「便利」とか「格好いい」という答えばかりで分からない。確かに子どもの憧れなんてそんなものかもしれない。でも――。
―― お母さん、見て。
―― どうだ、リリ。
自慢げに魔法で火を操るエアハルトは、リリアンナが哀しくなるくらいイグナシオによく似ている。
タイトルの「灰桜色」は、淡くくすんだ桜色に灰色をひとさじ混ぜたような、儚く静かな色です。
ここまで読んでいただきありがとうございます。ブクマや下の☆を押しての評価をいただけると嬉しいです。次回は9月15日(月)20時に更新します。