第4話 赤錆色の決意
過去回想が続きます。
リリアンナが目を覚ましたとき、揺れる馬車の中にいた。立ち上がろうとしたが、動けないことに気づいた。両手を後ろで縛られていたのだ。
(この猿轡は……?)
騒がないようにか。それとも自害を防ぐようにか。罪人のような扱いに、死のうという気など失せた。死んでやるものかと思った。
(泣くのはあとでいい)
新しい馬車なのか、ふわふわのクッションがきいた椅子。縛られて寝転がされていなければさぞ快適な馬車旅だろうとリリアンナは皮肉気に口を歪めた。
(魔法は……封じられていない)
本物の罪人で魔法を使う者の場合は魔封じの枷がつけられるが、いまのリリアンナは妊婦だ。母体は魔素を魔力に変換して腹の子に供給し続けなければいけないため、魔封じの枷をつけられたら生命力が魔力に変換されてしまいリリアンナの命は数時間ももたない。
イグナシオはリリアンナを自害させまいとした。リリアンナを思って、ではない。イグナシオにはリリアンナを生かしておかなければいけない理由があるからだ。
リリアンナは手首を動かしてみた。誰が結んだか分からないが緩い。人質になったとき逃げだせるように、リリアンナは縄抜けも学んでいた。
(何でも学んでおくものね)
リリアンナは学んだとおりに、指を使って縄から抜け出して両手を自由にしたが、誰かが馬車を覗くかもしれないから寝たままでいた。猿轡も、さっさと外したかったけれど我慢した。
(この馬車はおそらくノクティラに向かっている)
腹が膨れてから堕胎するのは危険だが、それができる医師がこの国にはいる。トレッシア領北部にあるノクティラ修道院の診療所。望まぬ子どもを始末する場所として貴族の間では有名な診療所で、そこににいる『魔女』と呼ばれる女医は安全に堕胎させる。
正確には『堕胎』ではない。治癒魔法を使って母体を正常の状態に戻すことで、胎児を母体に吸収させて『なかったこと』にするのだとリリアンナは聞いていた。
リリアンナは旅慣れていた。リリアンナの傍にいるため、外務大臣をしていた父リアンはリリアンナを国内外どこにでも必ず連れていったからだ。
幼い頃に母を亡くして父一人子一人だったが、リリアンナは寂しいと思ったことは一度もなかった。外国から王都に戻って、三日後また外国にいくハードな旅でも「お父様と一緒なら」とリリアンナは喜んでついていった。
(その経験がこんなところで役に立つなんて……天国にいらっしゃるお父様はどう思うかしら)
内装が優れているとはいえ、馬車の揺れの少ない。だから走っているのは舗装された道だとリリアンナには分かる。
国の中心である王都ウナリアを起点とした舗装路はいくつもあるが、王都からトレッシアの都シフォンに向かう舗装路は一本だけ。シフォン経由してドゥヴァリス領の都フレイルへと続く街道。一年前にイグナシオがトレッシア侯爵家の嫡男ドミトリオス・トレッシアに嫁ぐ妹セレニアのために整えた通称『ドゥヴァリス街道』。
(まだドゥヴァリス街道を走っているなら、王都を出て二日はたっていないわね)
王都からシフォンまでは馬車で三日。王都からノクティラ修道院には単騎で駆けても一週間はかかる。
ノクティラに行く場合、シフォンの少し手前で街道をそれて北部に向かう道に入必要がある。この道の揺れからして、まだその道には入っていない。
リリアンナの記憶では、街道をそれて半日ほどいくと宿場町があった。ここから先は山道になるため、ほとんどの旅人がこの宿場町で馬を代えて物資を補給する。
(その必要がなくても、なにもせずにそこを通過すれば悪目立ちする)
この旅の目的は大っぴらにできるものではない。確認はできないが、この馬車にドゥヴァリスの紋はないとリリアンナは考えた。
それなら、目立つ行動は避ける。少しでも不審に思われ、馬車の中を確認されたら、中に縛られた公爵夫人が転がっていて大騒ぎになるだろう。
(まだ、間に合う)
馬車は必ず止まる。逃げるチャンスは必ずくる。
ただ問題は自分が妊婦だということだった。安定期に入ってはいるが、山間部を抜けて、ときに出没する魔物と戦いながらの逃走はどう考えても妊婦に相応しい行動ではない。
匿ってもらうことも難しいだろう。世間の認識では、リリアンナは『英雄イグナシオが溺愛する妻』だ。誰だって夫婦喧嘩だと思う。何か上手いことを言ってリリアンナとイグナシオの間を取り持ち、イグナシオに良い印象を与えようと思うだろう。
対イグナシオになると、リリアンナの味方はほとんどいない。
(セレナ様……)
その数少ない味方がリリアンナの頭に浮かんだ。セレナ、セレニア・ドゥヴァリス・トレッシアはイグナシオの妹。
セレニアとリリアンナは同い年で仲が良かった。デビュタントのためにセレニアが領地から王都にきたときに初めて会ったが、二人は生き別れの双子だったのかと思うくらいすぐに仲良くなった。デビュタントの白いドレスも一緒に作りにいき、大人の世界に入ることを二人で楽しみにしていた。
デビュタントを迎えると貴族の子女は本格的に婚約者探しを始める。しかし、この四年ほど前からリリアンナとイグナシオとは恋人の関係にあった。
それまでの二人には甘い雰囲気などない、顔を合わせれば口喧嘩に発展する間柄。でもその実態は、互いに相手に素直になれない両片思いの天邪鬼たち。
大人の社交界入りしたイグナシオが数多の貴族令嬢に求愛されていることを知って「こうしてはいられない」とリリアンナは焦り、同時にイグナシオも自分の状況に四年後のリリアンナを重ね合わせて「こうしてはいられない」と焦り、イグナシオからの告白で二人は両片思い期間に終止符を打って恋人同士になった。
恋人になった途端、イグナシオはリリアンナが戸惑って正気を疑うくらいリリアンナに対する態度をがらりと変えた。クールで淡々と正論で攻撃してくる嫌味な男だと思っていたイグナシオが、実は激情型で「手に入れた」リリアンナを溺愛するタイプとはリリアンナも思わなかった。
リリアンナだけを溺愛するから、誰もがリリアンナをイグナシオの恋人だと知っていた。
でもデビュタント。
まだ婚約していない。
ワンチャンと思ってリリアンナを求愛をかねたダンスに誘う貴族子息は多かったが、それをイグナシオが許すはずもなかった。踊らせないどころか、イグナシオは婚約者か夫にしか許されない三回目のダンスをリリアンナと踊り、リリアンナを婚約者(仮)とその場にいる全員にアピールした。
(仮)だったのは、イグナシオがリリアンナの父リアンに結婚の許しをとっていなかったから。完全にフライング。だが、これについてはリアンも悪い。
娘のリリアンナを溺愛していたリアンはイグナシオの天邪鬼な態度の真意にすぐに気づき、保護者という立場でイグナシオの邪魔をずっとし続けていたことは後に聞かされた。恋人同士になったとイグナシオが言っても「お前の気のせいだ」と聞く耳持たなかった。
リリアンナがデビューしたら即婚約するつもりでイグナシオは婚約の許しをとろうとしていたが、居留守を使うし逃げしでイグナシオはまともに話もできなかった。
だから「三回踊ってやった」とイグナシオは胸を張っていた。娘のデビューを見るため珍しく夜会に出席していたものの、ちょっと目を離したすきに娘の婚約者(仮)ができていたリアンは驚……きはしなかったという。
ただリアンは「このクソガキ」と歯をギリギリ鳴らしていた。同じように驚かなかったセレニアは「お兄様の力技ね」と笑っていた。
そのセレニアはデビューから一年後にドミトリオス・トレッシアと婚約し、その一年後に結婚して以来ずっとシフォンにあるトレッシア領主館に住んでいる。目と鼻の先とはいえないが、一番現実的な避難先ではあったが……。
(これをトレッシアが知らないなどあり得ない)
いくつもの交易地を治めるトレッシア侯爵家にとって情報は武器。数人の騎士が護衛しているどこかの貴族の馬車をトレッシアが探らないわけがない。
それが分からないイグナシオではない。つまり、話は通してあるということ。それが誰にかは分からないが、イグナシオの親友ドミトリオスか妹セレニアの確率が高い。
(トレッシアも敵と思って逃げるべき……そうなると、やっぱり外国かしら)
リアンのおかげでリリアンナは語学が堪能だ。周辺各国の言葉なら問題なく話せる。
どこか小さな町で仕事を得て、子どもを育てようと思った。
外国に逃げる理由は、ドゥヴァリスとトレッシアという二つの大貴族から逃れられる場所はこの国にはないからだが、リリアンナの容姿も関係していた。北の民族の血を継ぐ母親の影響で、リリアンナはこの国では珍しい白に近い銀髪をしている。
(馬車の速度が落ちている。馬の交換ね……日ももうすぐ沈む。チャンスだわ……風魔法も、使える)
空気を緩やかに流して周りの音を探る。作戦行動中に無駄口を叩く騎士はいないが、そのおかげで重要な言葉を難なく拾えた。
『先に四名、新たな馬、水、食料を確保』
『閣下に報告に向かいますか?』
『必要ない。往路の報告は不要と指示を受けている』
(往路……自分の子どもを殺させるためのこれの報告を受けることさえも拒否するのね……)
『奥様の薬の効果は?』
『全て終わるまで眠ったままだと聞いている』
(全て終わるまで、ね…………ちょっと待って。おかしいわ。それなら何でこんなに早く目覚めたの?)
薬の投与量を間違えたという可能性はあった。でもこのような状態でそんなミスをするとも思えなかった。
(お父様の血かしら。王族は毒を含めて薬が効きにくいというし……)
リリアンナは静かに椅子から降りて座面を上げる。リリアンナの予想通り、そこには非常事態に備えた食料と水をはじめとする旅の道具が入っていた。
非常時の着替えなので、大柄な男性に合わせたシンプルな服だが文句は言えない。手早く着替えて、少し悩んで宝石、ボタン、レースなどドレスの装飾品をちぎり取って非常バッグに詰めた。いい行商人に会えたら売って路銀に変えるためだった。
入っていたナイフで髪を短く切る。女性の一人旅は危険だ。リリアンナの体格では少年にしかなれないが、女性よりもはるかに安全だった。
毛布を丸め、ドレスをかけて、切った銀色の髪でそこにいるかのように偽装を施す。そして町に着くと息をひそめ、風魔法で隙を探り時機を待った。
こっそり馬車から抜け出したリリアンナは、馬車が出発するのを確認して行動を開始した。
◇
計画性のない稚拙な工作など直ぐにバレると覚悟していたが、運がリリアンナを味方した。
出発した馬車は、それから三時間後に土砂崩れに巻き込まれた。往路の報告はいらないと言ったイグナシオだったが、事故となれば無視はできなかったのだろう。
事故発生から一日近くたっていたが脅威の速度で現場に到着したイグナシオは捜索の陣頭指揮を執った。トレッシアからも人が派遣され、どんどん被害者は発見されていったが十数人が見つからなかった。
事前に逃げ出していたから当然だが、行方不明者のリストにはリリアンナの名前も載った。
やがて捜索範囲は現場の下を流れる川の下流にも広げられ、そこで大破した馬車が発見された。しかし中に誰もいなかったことで捜索はさらに続いた。
事故から一ヶ月たち、リリアンナを含む三名は遺体すらも見つからなかったが本格的な冬が始まったこともあり捜索は終了となった。それでもただ一人イグナシオだけはリリアンナの捜索を続け、その姿は新聞に報じられて読む人の涙を誘った。
それを白けた気分で読んでいた数少ない読者の一人がリリアンナだ。
◇
馬車から逃げたリリアンナはそのまま街を出て野営しながら東に進んだ。野営の知識はあったし、風魔法を使ってできるだけ早く移動した。
見つけた小さな町に数日滞在した。北国出身の少年の振りをして滞在しながら準備を進め、ヴェルナの町が見えたところで服を着替えて髪色を変えた。
ヴェルナで北に向かう船に乗る予定だった。しかし、森を抜けているときにアンに出会えたことでリリアンナは『治癒師アンナ』になり、そのままヴェルナに残った。
タイトルの「赤錆色」は深く渋い赤褐色で、、時間と風化が織りなす美しさを宿しています。単なる赤ではなく鉄が酸化して生まれる錆の色に由来し、自然の摂理や記憶の堆積を感じさせる色彩です。
次回は9月8日(月)20時に更新します。
過去回想はここで終了します。
次の話から時間軸は元に戻ります(リリアンナがナイフを振り上げた第2話の続き)。
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