第3話 鉛色の裏切り
今回の話は過去回想(六年前)になります。
「他に愛する女ができた」
三ヶ月ぶりに会う夫イグナシオの第一声がそれだった。突然だった。でも、その兆候がなかったわけではない。
はじまりは、屋敷にいるときはずっと書斎にこもるようになったこと。理由は『仕事』だったけれど、朝早くから夜遅くまでずっと書斎。食事さえイグナシオは書斎ですませ、食堂にはリリアンナ一人分の料理だけ並ぶのが当たり前になった。
深夜を過ぎても書斎から出てこなくて、「先に寝ていてくれ」と言われる。夫婦の営みがなくても共寝していたベッドで一人で眠る夜が続いた。イグナシオは毎晩どこで寝ているのかと家令長のコンスタンに問えば、書斎のソファで寝ていたという。この二日後、書斎にベッドが運び込まれた。
情報を掴んで、城に出仕するためにイグナシオが書斎を出たところを捕まえた。なぜ自分を避けるのか。リリアンナも鈍くはない。仕事など嘘で、イグナシオがリリアンナを避けていることには気づいていた。
イグナシオとの付き合いは長い。カマをかけたが、イグナシオを気まずげな様子からそれは正しかったと分かった。
この一件のあと、イグナシオは徹底的にリリアンナを避けるようになったし、リリアンナも意地をはって「そっちがそのつもりなら」とイグナシオに構わないことにした。
それでも同じ家で暮らしているから、会ってしまうこともある。そのたびにイグナシオが見せる『会ってしまった』という表情に、その後の何ごともなかったかのような無表情に、リリアンナは何でもない振りをしつつも傷ついていた。
気づかぬ間にイグナシオに何かをしてしまったのか。リリアンナは本気で悩んだ。でも、特に心当たりがない。本当に突然避けられはじめたのだ。
かつては時間さえあれば「愛しい妻に会いたかった」という理由で屋敷に一時帰宅するような夫だった。例え会えるのが一分間でも、「六十秒あるじゃないか」と真面目な顔で言うような夫だった。
イグナシオはリリアンナに対して愛情の出し惜しみをしなかった。行動と言葉で愛情を示してくれていたから、リリアンナが溺愛されていることは自他ともに認めることだった。
その愛は、ときにはリリアンナが呆れてしまうくらい暑苦しいものだった。恥ずかしくて抗議すれば「俺の愛情はリリアンナしか行き先がない」と言われて、恥ずかしさよりも嬉しさが勝って「仕方がない」と言うしかなくて。イグナシオの愛情にリリアンナは毎日どっぷりと浸り、その愛情に溺れていた。
何があったのか聞くべきか。悩んでいるうちに、イグナシオは屋敷に帰ってこなくなった。探ってみれば視察だなんだといって領地に行ったりと、確かに「忙しい」らしい。
でも、王都に戻っても屋敷に帰らずホテルに滞在している。同じ街の中に自分の屋敷があるというのに。どうしてかなど探る必要はない。理由など二つしかない。一つ、それほどまでにリリアンナに会いたくない。もう一つは女性と一緒。どちらであっても答えを知りたくなくて、リリアンナは何も知らない振りをした。
気づけば、それから三ヶ月もたっていた。イグナシオが屋敷に帰ってきたのは突然だった。出ていくのも突然。帰ってくるのも突然。そして突然の「他に愛する女ができた」宣言。
◇
「そうですか」
思いのほか冷静な自分をリリアンナは自分で褒めつつ、これまでのイグナシオの行動で他の女性の存在を予想できないほど鈍感ではないという皮肉を声に込める。
「君とは離縁する」
他の女性の存在は覚悟していた。でも……。
「離縁?」
離縁だけはないと思っていたリリアンナは驚いた。他に女性がいるとしても、彼女を第二夫人として娶るか、リリアンナには屈辱だが彼女を第一夫人にして自分を第二夫人にするのだとばかり思っていた。
離縁は、考えていなかった。離縁されない気でいた。リリアンナのお腹にはイグナシオの子がいたからだ。
妊娠八カ月。一般的な妊娠期間は十月前後だが魔力の強い胎児の場合は妊娠期間が長い。リリアンナとイグナシオの魔力が強く、イグナシオが手配した医師の診察ではリリアンナの妊娠は二年以上になるだろうと予測されていた。
イグナシオがリリアンナの妊娠を知らない、ということはなかった。妊娠したと告げたときイグナシオは喜び、まだ平らな腹に触れながらお腹の中の子どもに愛を囁いていた。
子ども部屋を三つも準備させ、サイズ違いの服を何枚も用意して、「あれが妊婦にいい」「胎児の健康のためにはこれがいい」と科学的根拠のない迷信に思い切り踊らされていたほどだった。
(まさかこうなるとは、ね)
イグナシオが屋敷を出ていた三ヶ月間にリリアンナの腹はわずかに膨れ、服装も胸の下にスカートに切り替える部分があるような妊婦らしいものへと変わっていた。
(所詮は男と女。他人なのだから愛情が冷めるのもしかたがないのでしょうね。でも、子どもは違うでしょうが)
「子どもはどうするのです?」
リリアンナの問いに、イグナシオは眉一つ動かさなかった。
(ああ、これが――)
路傍の石の扱い。
いつだったかイグナシオは他人に無関心で路傍の石のようにしか思っていないと誰かがぼやくのを聞いた。そのときは意味が分からなかった。イグナシオがそんな表情をリリアンナに向けたことがなかったから。初めて向けられた表情に、リリアンナは自分もイグナシオにとってそんな存在になったことを痛感した。
「子どもを産めば私はようなしですか?」
二年という妊娠期間からお腹の子は魔力の強い子ども、ドゥヴァリス家の子どもとして期待されていた。
「違う」
初めて聞くピリッとした冷たさを感じる声にリリアンナの体が強張った。
(私を利用する、ということ?)
「子どもは堕ろす」
「……え?」
リリアンナは耳を疑った。まさか、という思いしかなかった。
「堕ろす、といった」
「堕ろす……この子を……」
「その子どもを産ませるわけにはいかない」
まるで悪魔でも生まれるような言い方。イグナシオは頭がおかしくなったのか。でもその目は正気だった。
「産ませるわけにいかないって……その女性との間に子が生まれるのですか? その子を長子とするために、そんなことを仰るのですか?」
リリアンナの言葉をイグナシオは認めなかったが、否定もしなかった。その態度にリリアンナの頭にカッと血が上った。
普段は『ドゥヴァリス公爵夫人』に相応しくあろうとしているが、本来のリリアンナは気が強いほうだ。カッとなれば、手が出る。気づけば手を振り上げていて、イグナシオの頬を思いきり張り飛ばしていた。
「……っ!」
リリアンナにとっては自分の手が痺れて痛いほど精一杯の力だったが、イグナシオは体の大きな騎士。しかも英雄とまで言われる男。よろめくこともなくその場に立ち続け、しゃがみ込んだのは力が抜けたリリアンナのほうだった。
「嫌です」
「だめだ」
「この子は産みます。離縁しますから、この子と二人どこかで……」
「認めない」
「あなたにそんなことを……」
「俺が駄目だと言っている。その子どもは堕ろす、そう決めた」
イグナシオの断固な声に気圧されてリリアンナは口を閉じた。
リリアンナは夫の権力をよく分かっていた。イグナシオの言葉は絶対。イグナシオが白と言えば、黒でも白にさせられる。
(戦う?)
頬を赤くしつつも平然としているイグナシオの姿にリリアンナな内心首を横に振った。
(勝てるわけがない……勝てない、それなら……)
「お願いします」
リリアンナにはもう『頼む』しか術がなさった。
「駄目だ」
「産ませてください、お願いいたします」
リリアンナは床に手をつき、額が床につくまで頭を下げ、イグナシオに懇願したのだったが……。
「コンスタン」
イグナシオはリリアンナにもう興味がなくなったのか、家令長のコンスタンを呼んだ。
「コンスタン!」
「も、申しわけありません……」
「リリアンナを馬車に乗せろ、あとは……手筈通りに」
「はっ……分かりました。お前たち、奥様を馬車に」
家令長に指示するイグナシオの声に温度はなく、リリアンナに優しかった家令長のコンスタンはイグナシオを諫めるどころかイグナシオに協力的だった。
「離して!」
侍女たちが立たせようするのにリリアンナが抗うと、コンスタンから指示を受けた家令二人が両側からリリアンナを無理やり立たせる。その扱いにリリアンナの中の何かがぽろぽろと崩れていく気がした。
「ナシオ様……」
視界が揺らぎ、イグナシオの顔が見えなくなった。
「俺のことをいくらでも恨んでくれていい」
無表情が見えなくなったからか、イグナシオの声がなにかに堪えているような気がした。でも……。
「子どもは絶対に産ませない」
(私の気のせいだ……私だけ。未練に縛られているのは私だけ)
リリアンナの何かから感情が溢れる。イグナシオに避けられはじめたころからギリギリと引かれていたものがプツリと切れた。体の内側で何かが崩壊した。
分かるのは、『そこ』に何もなくなったことだけ。ただ闇色の虚ろがあるだけ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
『そこ』にあったものが体内で一斉に暴れ出す。全身が捻れるような歪む感覚に、リリアンナの喉から濁った呻き声が出た。
「リリ!」
(随分とまあ、懐かしイ呼ビ名ダ)
それは、イグナシオだけが呼ぶリリアンナの愛称。イグナシオだけに呼ぶことを許した愛称。
(嗚呼、思イ出ガ鬱陶シクテ堪ラナイ)
リリアンナの胸を埋め尽くしたのは――憎悪。
体内の魔力を制御できていない自覚はあった。残っていた自我が『魔力暴走』だと訴える。
「ハハハハッ」
魔力を風魔法に変換し、腕を掴んでいた男二人を弾き飛ばす。それなりにガタイのいい成人男性が両側の壁まで吹っ飛んでいき、ぶつかった壁が大きな音を立てた。全身が痛むのに、それすらも面白く感じる。
「アハハッ アハハハッ」
気分のよさにリリアンナが高らかに笑うと、玄関ホールで暴風が渦巻いた。何かが壊れる音。誰かの悲鳴。風の唸る音に混じって、「どうしたい?」と誰かに聞かれた。
覚えのある声。どうしたいか考えて、イグナシオを恨みたいと思った。今度は「どうして?」と聞かれる。どうしてかと考えたけれど答えが出ず、戸惑った。
どうして恨めない?
恨めないのに、どうして恨みたいの?
どうして?
唐突に答えが出た。イグナシオより憎らしくて堪らない存在がいるから。憎らしくて堪らないのは……。
(弱イ私)
「ア゛ア゛ッ!」
魔力を暴走させて暴れるしかできない。暴れ尽くせば、結局はイグナシオの意に従うしかなくなる。
(嗚呼……ソウカ……ソウだ……私も……)
幼い頃、父親に教わったときの言葉に従う。魔力の流れに呼吸を合わせて。呼吸はゆっくり、そして……。
(簡単なことだ)
リリアンナは風魔法を使って高速でイグナシオに接近すると、驚いて反射的に身をのけ反らせたイグナシオの腰から剣を抜いた。油断したのか。英雄のくせに。そんなこと思いながら、リリアンナは抜いた剣の柄を握り直す。
その拍子に、柄の剣飾りがリリアンナの手を撫でた。婚約したとき、リリアンナが贈ったものだった。イグナシオからリリアンナには指輪が贈られ、リリアンナからは王国の習わしに則って騎士のイグナシオに剣飾りを贈った。
(こんなものをまだつけて……ああ、そんなことも忘れてしまったのかもね)
愛情がなくなれば、剣飾りに込められた心も不要なもの。ただの飾り。それだけ。
リリアンナは剣飾りに魔法で火をつけて、風魔法を同時に展開して炎を白色まで練り上げていく。真っ白な火球の中でリリアンナの瞳と同じ黄褐色の宝石がドロリと溶けると同時に、ごとりと剣の半分から先も溶けて床に落ちる。
軽くなり、扱いが楽になった剣を構えてみせた。
「俺を、殺したいほど憎いか?」
「ええ」
「それなら……」「それより……」
声が重なった二人の、その次の行動は異なった。イグナシオは口を噤んだ。リリアンナは話し続けた。
「子どもを守れない私自身が憎い。だから、私はこの子と一緒に死ぬ」
リリアンナは剣をくるりと回し、刃を首筋に当てる。
「だめだ!」
「なぜ? この世界にだって、あなたの思い通りにならないことはあるのよ?」
「リリッ!」
イグナシオの母親は彼が幼い頃に夜盗に襲われて亡くなった。
同じ理由でイグナシオを悲しませまいと、攻撃魔法と剣を身につけ、それでも万が一のときは自害するつもりでどこを切れば一瞬で死ねるかも学んだ。
イグナシオのために身につけた全てを披露する相手がイグナシオとは、その皮肉に気狂いじみた喜びを感じながら首を切ろうとしたとき――。
パアンッ
(銃声?)
思いがけない音に手が止まる。次の瞬間、肩に痛みが走った。
(あ……)
リリアンナの視界はぐるんっと回り、立っているイグナシオが横になる。何か言っているのか、唇が動いていた。
そして左手には小ぶりの銃。最近の騎士は対魔物用に麻酔銃を携帯していることをリリアンナは思い出す。
(私は、魔物か……)
それが最後に思ったことだった。
タイトルの「鉛色」は、重く沈んだ灰色の一種で、金属の鉛(Lead)の色に由来します。単なるグレーではなく、冷たさ・鈍さ・静けさ・重さといった感覚を含んだ色です。
次回、9月1日(月)20時に更新します。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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