第14話 幽燻色の蜘蛛
逃げた先のバルコニーには人気がなく、リリアンナは欄干に手をついて深く息を吐いた。
少し休んだらまた会場に戻るべきだが、いまはどこも虹の子の話題で盛り上がっていそうだと思うとリリアンナは戻る気になれなかった。
(懐かしさを感じたから……だから散歩よ)
逃げ出すわけではないと、誰に咎められたわけでもないのに、自分に言い訳をしながらリリアンナはバルコニーについた外階段を下りて庭園に出た。
ライトアップされている庭園ためこちらにも人が流れてきていたが、リリアンナの視界に入るのは一緒に抜け出してきた相手に夢中の人たちばかり。誰もリリアンナのことを気にかけていない。
一部の茂みがガサガサ揺れていることには気づかない振りをして、一人になれたことにリリアンナの肩から力が抜けた。
注目させることはリリアンナも覚悟していた。
公爵としての地位、英雄としての名声、そして男としての魅力。多くの者がイグナシオを欲しているのは以前から変わらない。
イグナシオの妻もしくは妾の座を手に入れるための戦略の中で、突然現れた『再愛』のリリアンナの存在は邪魔でしかない。
だから皆がリリアンナの瑕疵を探す。
だから会場中が『虹の子』を話題にする。
リリアンナがやったことはドゥヴァリスに禁忌の存在を生み出す可能性があったとリリアンナを糾弾している。
イグナシオがリリアンナを求めたのは政略的なものではない。イグナシオは愛情で結婚相手を決めたから、イグナシオの愛情がなくなれば二人は離婚する。
彼らが思っていることに間違いがないことをいまのリリアンナは知っている。
他に愛する人がイグナシオにできれば二人の結婚は終わりだと、あの日イグナシオ自身がリリアンナに証明してみせた。子どもすらも終わりを止める手立てにはならないことを知らず、愛されているのだと自信満々に振る舞っていた過去の自分は滑稽ですらある。
(でも――)
何も知らなかったからこそ笑い、周囲の悪意を払い落とすことができていた。知ってしまったリリアンナには笑えない。周囲の悪意がダイレクトに響いてしまう。だから疲れてしまう。
イグナシオに直接アプローチしろと、自分はもう関係ないとリリアンナは叫びたくなる。でもそれが正解かわからない。
リリアンナの正しい振る舞いは、イグナシオがなぜまたリリアンナを妻にしたのか理由が分からないと分からない。
リリアンナは答えを求めている。
◇
肌寒さを覚えたが、リリアンナはまだ戻る気にならない。社交界のことはある程度理解している。
恐らく今頃はイグナシオが虹の子の話題に巻き込まれているだろう。
当然だ。周囲の最終的な目的は虹の子の話題でリリアンナを貶めてイグナシオを離縁させること、可能ならばその隙に自分の娘など縁のある女性をねじ込むことだ。
(申しわけないとは思うけど……)
リリアンナにだって、イグナシオを自分の選択の結果に巻き込んでしまったことへの申しわけなさはある。
堕胎という選択を勝手にしたイグナシオを責めたくせに、出産という選択をリリアンナは勝手にした。イグナシオもリリアンナを責めたいことだろう。
いまさらではあるが、リリアンナはエアハルトのことにイグナシオを巻き込むつもりはなかった。一人でエアハルトを育て、大きくなったら父親がいない理由を話して、エアハルト自身とその子どもたちがドゥヴァリスに関わることのないように言い聞かせるつもりだった。
でも東部で生まれた虹の子の話に、その境遇に、エアハルトになにも言えずに自分が死ぬ可能性があったのだと、自分はできると過信していたことをリリアンナは反省している。
(でも、それならどうすれば良かったの?)
生まれた子に罪はないという道徳的な模範解答と、多くの民を殺してしまう可能性がある子を産んではいけなかったという貴族的な模範解答のせめぎ合う。
(何もかも答えがでな……)
「リリアンナではないか」
考えに没頭して適当に歩いていたリリアンナは、その声を聞くまで国王レオニダスに気づかなかった。
王の住まう黄金宮と王妃の住まう白銀宮が近くに見える。リリアンナはいつの間にか庭園を外れていたことに気づいた。
「し、失礼いたしました」
「いやいや、構わんよ」
リリアンナが急いで礼をして立ち去ろうとすると国王は気安くそれを押し留めた。
そうなるとリリアンナとしては立ち去れないのだが、だらしなく感じるほどはだけた夜着や男性がつけるには強い花の香りなど愛妾の誰かと過ごしていたのだと分かる国王の姿に困ってしまう。
「わが庭園に白バラが咲いたと聞いて見にきたのだが、それがまさかリリアンナだったとは嬉しい話だ」
「滅相もありません」
まるでリリアンナが国王の寵愛を得るために黄金宮に忍び込もうとしていたとでも言うような言葉選びに、リリアンナは急いでそれを否定する。
「儂のもとに逃げてきたのではないと?」
「……逃げて、でございますか?」
国王の言葉の意味が分からずリリアンナは戸惑う。
「はは、キョトンとした顔も愛らしいのう。美しく成長したと思ったが素直なところは幼い頃となんら変わらん」
「身にあまるお言葉、ありがとうございます。ご挨拶が遅れましたが、ご無沙汰しております」
リリアンナが礼をすると国王は嬉しそうに微笑む。その微笑みにリリアンナは違和感を覚えたが、近づいてきた彼の距離の近さに驚いてしまい掴みかけた違和感の正体を逃がしてしまった。
「そなたのいない日々は寂しかったぞ。我が庭がまるで色を失ったようだったからな」
そんな国王の言葉は、文字列だけ見ればまるで求愛の言葉。でも声音は幼子を誂うようなもの。
「陛下の日々が華やかになるよう皆さまがご尽力なさっていたではありませんか」
反応に困りつつも警戒はしておこうと愛妾たちの存在を臭わせ、気に障らない程度に下がって国王から距離をとった。
(そういえば……以前から陛下はこうだったわ)
リリアンナは国王が自分と近い距離であろうとしたことを思い出した。ただこうして近く感じるのは、これまでは父リアンが巧みに近づかせないようにしていたからだということも思い出した。
父親が亡くなったあとはどうだったかと考え、王妃がさり気なく間に入っていたことを思い出す。
(どうして二人は国王が近づくのを邪魔していたのかしら)
考え得るのは、国王が近づくことはリリアンナにとって危険であるということ。それなら二人きりのこの状況はよくないのではないかとリリアンナは焦る。
正確には国王付きの侍従たちがいるので二人きりではないのだが、彼らが国王がする何かを止められる保証はない。
「それにしても、リリアンナ」
呼ぶ声にも、向けられる目にも女としての身の危険を感じるものではない。貞操の危機を感じているのではない。
欲は感じられないのに情は感じられる、いやそれよりも仄暗い執着が垣間見える。
「スフィアによう似てきたのう」
『スフィア』と、母親の名に籠もった音に国王が母親に懸想していたという噂話をリリアンナは思い出した。同時に警鐘が鳴る。母親に似ていることを認めては危険だとリリアンナの本能が訴えてくる。
「どうでしょうか。私自身は父に似ていると……っ!?」
国王の手が伸びてきたことにリリアンナは言葉を失う。それは恐怖。伸ばされた国王の手に髪を触られ、国王が触れているのは編み毛であって自分の髪ではないとリリアンナは言い聞かせるも恐怖は薄れない。それどころか嫌悪感がブレンドされて恐怖心はより刺激される。
(蜘蛛の網に引っかかった虫は、こんな気持ちなのかしら)
いつだったか、ヴェルナの西の森で蜘蛛が巣を作る様子を観察するエアハルトの隣でそれを一緒に見たことがある。
規則的な巣のパターンに蜘蛛は意外と几帳面なのだなと感心していたとき、一匹の蝶が巣に貼りついた。計算された綺麗な網目に貼りついた蝶は、まるで蜘蛛が飾ったかのようだった。
「スフィアと同じ、銀色の美しい髪だな」
恍惚とした表情で髪に触れる国王と目が合ってリリアンナは気づいた。彼の目に『リリアンナ』は映っていない。『スフィアが生んだ娘』、それが国王の中のリリアンナの価値。
(ああ、だからか……)
―― 儂のもとに逃げてきたのではないと?
あれは鬼ごっこや隠れん坊の最中の幼子にかけるような言葉だった。理解できないことは当然だった。リリアンナはもう幼子ではない。とうに成人し、いまや一児の母でもある。
国王がリリアンナを幼子のように扱いたがる原因は、先ほど名を呼んだ母スフィアであることはリリアンナにも分かるのだが、銀髪同様にリリアンナを印象づける黄褐色の瞳は公爵家の血を継ぐ父リアンの影響が色濃いと言われてきた。
目の形や色は「似ている」を語る上で最も欠かせない要素であり、国王が母に好意を持っていたとして、違う男との子どもの自分を好意的に見られるかどうかについてはリリアンナとしては疑問が残る。
国王と父が仲が良かったならまだ分かるが、しかしリリアンナの記憶の中で2人は特に仲が良くなかった。
(いや、むしろ仲が悪かった……?)
父親は国王のリリアンナに対する態度について「他の者に示しがつかない」と諌めていた気がする。
(そう……陛下は『娘』と言っていたような……それでお父様は……っ!?)
強烈な頭の痛みにリリアンナの体は大きく揺らぎ、遠のきかけた意識の中でリリアンナは国王の腕が近づくのが見えた。倒れそうだから、支えようとしてくれているのかもしれない。でもこの手につかまっては駄目だ。
リリアンナの頭に浮かぶのは、蜘蛛の巣に囚われた蝶の姿。
(ナシオ様っ!)
「リリッ!」
ぶわりとリリアンナの周りで風が巻き、ふわりと感じた浮遊感。覚えのある風魔法にリリアンナが安堵しかけたとき、国王の目に灯った憎悪にぎくりとした。殺意が滲み出るほどの憎悪。
それが向けられているのは、リリアンナを「リリ」と呼ぶただ一人。イグナシオ・ドゥヴァリス。
国王がイグナシオに対して抱く劣等感をリリアンナは理解しているつもりだった。しかし、それはリリアンナの想像をはるかに超えていた。
(閣下の暗殺を試みたのはやはり陛下だったのね)
そうだという情報があっても、確信にならなかったのはイグナシオを排することは国家の損失だからだ。
(陛下は勝利して称賛を浴びる英雄の姿しか想像できていらっしゃらないのね)
国王の英雄願望を満たすためイグナシオは国の命令を受けて同盟国の戦争に介入している。
侵略されかけた同盟国からは英雄視され感謝さている。しかし、その一方で退けられた敵国には恨まれている。その恨みをイグナシオは1人でその身に受け、イグナシオはその存在だけで国を他国の害意から守っている。そのイグナシオを排することは他国に戦争を仕掛けるキッカケを与え、国に戦争を招き入れてしまうのだ。
(まさかそれを陛下自ら……)
「こんなところにいたのか」
(……閣下?)
リリアンナでも国王の感情に気づくのにイグナシオは平然としている。いや、意識はリリアンナにしか向いていない。
(慣れて、いるということ?)
「また君がノクトゥルに拐かされたのではないかと心配したよ」
イグナシオはリリアンナの腰を抱いて引き寄せる。イグナシオの腕の力強さと寄せた体の温もりと逞しさにリリアンナが反射的に体を強張らせたとき……。
「リリアンナ、もしかしてそなたは公爵から逃げてきたのではないか?」
「……え?」
「おお、そうか。そうだったのか」
リリアンナの反応を肯定と誤解した国王が嬉しそうに手を叩いた。イグナシオを挑発しているようにも思える。
「リリアンナよ。それなら私のもとにくるか?」
誤解のしようもない直接的な言葉。リリアンナは驚いたが、次の瞬間、肩をつかむイグナシオの手の力の強さに顔を歪める。
「公爵、リリアンナが痛がっておる。その手を離せ……命令だ」
その言葉にイグナシオの手の力が緩み国王は更に満足気になる。
(陛下のもとに、いく?)
言葉だけなら、愛妾にならないかという誘いである。でも違和感がある。陛下がリリアンに向ける視線にはそういう欲はない。確かに所有欲はあるのだが、もっとこう……。
「太陽の強い光を望む花もあれば、望まぬ花もあります。望まぬ花に無理やり光を当てれば、その花は枯れます」
(やはり陛下は私を愛妾に……? 父親のように振舞いたがっているのは、私の勘違い?)
「土が合えばすぐに根づくだろうさ」
「陛下の庭を知らずに育ち、美しく咲いた花です――どうかご理解ください」
声を抑えつつも刃を隠せない声はびりっとした音でリリアンナの耳に届いたが、王はその言葉に気圧されるどころか面白がるような表情を浮かべた。まるでこの瞬間を待っていたかのようだった。
「花が望んだらどうなる?」
「……まさか」
「自分だけの温室だと信じていた花が、自分以外の花を見つけたらどう思う? 自分だけに触れていると思っていた庭師が、他の花にも触れていたと知ったら? 花にとって温室は楽園のままでいられるだろうか? 偽りのガラス越しに浴びる陽の光に耐えらえるか? 与えられる水を拒みたくなるのではないか?」
リリアンナの心臓がドクリと大きな音を立てた。
心当たりがある。他に愛する女ができたとイグナシオに言われた瞬間、確かにリリアンアの温室は壊れた。破れたガラスは悪意を阻めず、ダイレクトに浴びせられる言葉はリリアンナを疲弊させる。与えられたドゥヴァリス公爵夫人という形だけの仮面はとても息苦しい。
「あ……」
不意に、イグナシオの腕の中にいてはいけない気になった。ここはもう自分のものではないから。イグナシオが愛する『彼女』のための場所だ。
「リリアンナ?」
何を勘違いしたのか。イグナシオがリリアンナを抱え込もうとするから――。
「いやっ!」
リリアンナは思わず悲鳴をあげながらその手を振り払った。顔を背けたリリアンナの耳に国王の笑い声だけが聞こえた。




