第2話 灰色の選択
薄く開けた扉から見えた顔は、近所で診療所を開いている女性治癒師の顔だった。
「なにかありましたか?」
疲れた顔をしているが白衣は着ていない。協力を求めるほどの重傷者が出たわけではないようで少しだけ緊張は解けたが、なおさら彼女がここを訪ねてきた理由が分からない。
「明後日、休診日ですよね? 私と代わってもらえませんか?」
(休診日……?)
意外な理由だった。明後日はエアハルトとピクニックにいく予定だったので、別日になるのは構わない。ただ即時受け入れては今後『便利な人』になりやすいため、交代理由を問うことにした。
「ずっと好きだった人に告白したんです。それで明後日、彼の休みの日にお試しデートすることになって……こういうのって勢い大事ですし、彼は船乗りだから明後日を逃すと二月くらい先になるんです」
実に可愛らしくて微笑ましい理由だった。
「治癒師って出会いがあるって思われがちじゃありませんか。でも、分かりますよね。診療時間に来たとき、私たちにも患者にも愛を語る余裕なんてないのですよ」
「それは、そうよね」
「高齢の諸先輩方は、休日がなかった昔に比べれば輪番で休みを取れる今はいいって言ってますけれど、比較対象がおかしいんですよ」
ヴェルナにある診療所は輪番で休診日を設けている。大事に備えて常に一定数の治癒師を待機させておきたいという町の方針であるのだが、町が休みを決めるので彼女のように「この日は休みたい」というのがでてくる。変更ができないわけではないが、彼女のように希望する日が休みの治癒師のもとをにいって自分で交渉しなければならない。
これが嫌だという治癒師はかなり多い。彼女だって船乗りの彼氏(予定)とのデートでなければ、避けたかっただろう。
「明後日休みの人で顔見知りの人ってアンナさんだけなんですよ。初対面の人に頼みにくいじゃないですか……本当に役人って現場を知らないですよね」
彼女の気持ちがよく分かった。
「あなたが割り当てられた休日は?」
「……明日です。さっき彼が診療所に来てくれて、これはチャンスだと思ってあと先考えずに告白したら……」
明後日の休日はエアハルトと西の森にピクニックに行く予定しかなかった。市場はまだ空いているから、弁当の材料を仕入れることもできるだろう。
(情けは人のためならずというしね)
ここで恩を売っておくのも悪くないと考えて、リリアンナは彼女のお願いを承諾した。彼女からのお礼は熱烈なハグと「デートの成功を祈っていて」という満面の笑みだった。
とてもいいことをした気がして、さきほど母子を見捨てた罪悪感が少しだけ減った。
◇
「お母さん、お弁当のなかはなに?」
「エアの好きなリンゴのサンドイッチとチキンのサンドイッチよ」
大好きなメニューにエアハルトは歓声をあげ、その嬉しそうな姿にリリアンナは嬉しくなる。
ピクニックに行くのをエアハルトはずっと楽しみにしていて、今朝はかなり早起きだった。リリアンナは急かされながらピクニックの準備をし、八の鐘が鳴って街の門を開くと同時に街を出てきた。
開門したばかりというのもあるが、西の森へと続く西の門を利用するは少ない。リリアンナは静かな森の中をエアハルトと手をつなぎながらのんびりと歩いていた。
(休みの日にこの森に来るなんて、物好きと言われそうね)
ヴェルナの東と南には美しい浜辺があるため、休日に気分転換したい人たちは東門や南門を使ってそちらに行く。
他の街に向かうにしても、この森の道は使わない。
この道はトレッシア領の都シフォンに繋がっているが、軽く整備されただけの未舗装の細い道で、街から離れれば魔物が出没する。ここが獣道なのは、北の領主の妹がトレッシア領に嫁ぐときに整備された新しい街道がヴェルナのすぐ北にあるからだ。その街道は馬車が余裕ですれ違える広く、舗装されていて快適な旅ができる。一定間隔で魔物除けの杭が打たれているため、完全ではないが森の道よりも魔物が出没はかなり少ない。
でもリリアンナたちは好き好んでここに来ている。リリアンナは仕事に必要な薬草を採取するため。エアハルトは大好きな昆虫採取のため。
エアハルトは虫が好きだ。リリアンナにはいまひとつ分からない趣味だが、こうして森に連れてくると夢中で虫を捕まえる。
いまこの瞬間も何かいい虫を発見したらしく、エアハルトが歓声をあげた。それを追いかけるエアハルトを追いかけるためリリアンナは足の動きを早めた。
(あら?)
虫が木か何かに止まったのだろうか。不意にエアハルトが足を止めた。
普段ならそこからまたそーっと動き出すのだが、なぜかエアハルトは戻ってくる。その顔にあるのは、恐怖。リリアンナは急いで駆け寄る。
「エア、どうしたの?」
「大きな人がいる」
エアハルトの指差す先にリリアンナは目を凝らす。木立の向こう。真っ黒なシミの中央に何かいた。
獣には見えない。エアハルトのいう通り「人」ならば成人男性。
(あの黒いシミが血ならば、瀕死もしくは……いいえ……)
「生きてる」
呼吸か引きつけかは分からないが、その体が動いた。
「たすける?」
エアハルトの問いにリリアンナは悩んだ。できる・できないで言えば、「できる」。でも、ルール上は「してはいけない」。
出血の量から大動脈を損傷した大けが。「治療師のアンナ」が届けている魔力量では治せない傷。
(無理だと言うべきだわ)
無理だと言ってしまえば、この件は終わりだ。エアハルトもリリアンナの仕事をみている。治療できないケガや病気があることは、理由は分からずもある程度は知っている。
エアハルトを連れて街に戻り、門番にこのことを報告すればいい。救助者としての義務は十分に果たせる。門番から報告を受けた誰かがここに必要な人を送るだろう。
(でもあの出血量……それまで命が持つ可能性は低い……せめで血を止めるだけでも……いや、でも……)
慎重にならなければいけない。何がキッカケになるかは分からない。リスクを犯してはいけない。
リリアンナはずっとそうしてきた。これからもずっとそうしなければいけない。
(でも……)
リリアンナの頭に、昨日見た発熱した子どもを抱えて走る女性の姿が浮かぶ。ああいう人たちをリリアンナは何人も見捨ててきた。これからも見捨てるだろう。でも仕方がない。リリアンナにとって一番はエアハルトだ。
そのためにルールを守る。届け出た魔力量を超えることはできない。診てはいけない。あの赤子も、このけが人も。
それがルール。
ルールを破ればペナルティがある。罰金程度ですめばいいが、いろいろ調べられたらまずい自覚がリリアンナにはあった。
(でもここには私しかいない)
リリアンナも分かっている。街でリリアンナが患者を見捨てても、その患者は他の治癒師の治療を受けることができる。
ヴェルナには大勢の治癒師がいる。当番を代わった彼女の診療所は近い。多少離れても夕刻から診療が始まる診療所もある。リリアンナが見捨てた赤子も、他に診てくれる治癒師がいた。だから見捨てられた。
でも目の前のけが人は違う。
この人に“他”はない。
(よしっ!)
「エア、あの木のところにいなさい。絶対にこっちに来てはだめよ」
母親が何をするのか理解したエアハルトは、駄々をこねることなく素直に木のもとに向かった。
(どんな状態か分からないから仕方がないわ)
森で子どもから目を離すのは抵抗があったが、あのけが人が子どもに見せられない状態になっている可能性のほうが高い。魔物除けのニオイ袋をエアハルトは持っていし、街に近いから魔物が出る可能性は低い。多少離れても大丈夫だとリリアンナは考えた。
リリアンナは持ってきたショールで顔を隠すと男に近づいた。外套を被っていて顔は見えないが大きな体は鍛えられているようだった。
治癒する場所を決めるために男の体に探索魔法を展開する。アンに教わったこの魔法は、治療の優先順位を決めるのに欠かせないものになっている。
偽りの魔力量でも助ける人を増やすため。誰のためではない。リリアンナの良心を慰め、罪の意識を減らすため。後悔が少なくすむようにリリアンナは探索魔法を学んだ。
アンはリリアンナに医学も教えてくれた。医学の心得のある者の治癒魔法のほうが魔力の消費量が少なく、患者の回復も早いから。
(本当に……どこまで気づいていたのかしら)
実際にねずみを解剖しながら覚えるのは大変だったけれど、思い出すだけで身震いする経験だったけれど、しっかりとリリアンナの糧になっている。
(最初はネズミってだけで悲鳴をあげていたのよね、我ながら可愛かったわ。さて、一番の問題は肩とわき腹の怪我ね)
肩には深い刺し傷。わき腹には抉るような裂傷。そして体のあちこちにある火傷も軽視できるものではない。
(まずは止血だわ)
リリアンナは肩と脇腹に治癒魔法を集中させる。アンのようにピンポイントで当てることは無理だが、魔法に指向性を持たせたことで魔力の無駄はだいぶ減った。
怪我が塞がったところで、背中の太い骨に血を作るイメージを付与する。こうすることで失った血液が早く増産できる。
(とりあえず瀕死から重傷になったわ。これで多少動かしても……)
血色をみようと顔を覆っていたフードを外したリリアンナの手が止まった。そこにあったのは、リリアンナはよく知っている男の顔。
「ナシオ様……」
イグナシオ・ドゥヴァリス。ヌラリス王国の軍事拠点・ドゥヴァリス領を治める領主。王国でも指折りの騎士であり、膨大な魔力を持つ王国一の火の魔法使い。灼熱の炎を自在に操り、艶やかな黒髪を靡かせていくつもの戦場を渡り歩く彼を、敵は「紅蓮の悪魔」と呼び畏怖している。
「どうして、こんなところに?」
彼は国王から任命された正規軍を率いて北の辺境領にいると新聞で報じられていた。ここは北の辺境領から遠い。
「……ナシオ様」
イグナシオのことを家族や友人は「イグナ」とか「イグ」と呼んでいたが、リリアンナだけが「ナシオ」と特別な愛称で呼んでいた。そう呼ぶことを許されて以来ずっと。リリアンナだけの特権だった呼び名。
「どうして……」
自分でも驚くほど冷たい声が出たなと思ったときには、リリアンナは外套を切るために持っていたナイフを振りかぶっていた。
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