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英雄の心がわり  作者: 酔夫人(旧:綴)


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第15話 黄褐色の歯車

あの夜会のあとも、リリアンナは変わらずディヴァリス邸で生活している。


城にいくなど考えたこともなかったし、そもそもエアハルトがいてその選択肢はあり得ない。エアハルトはドゥヴァリスでの生活を楽しんでいる。それを変えようという気は現時点ではリリアンナにない。



国王の言うように、かつてのリリアンナはイグナシオが作った温室の中で生きていた。でも、それに後悔はない。あの頃の自分は確かに幸せだったのだ。


国王の誤算は、彼の言葉が今さらだったこと。リリアンナの温室はとっくの昔にイグナシオの手で壊されていたし、リリアンナは外の世界をとっくに知っていた。


国王は温室を出るリリアンナを助けるつもりだったかもしれないが、リリアンナには助けは不要。結果論であったとしても、リリアンナには温室を出ても枯れずにやってこれたという経験がある。


経験は自信をくれる。だからまた突然ここを出ていけと言われても、やっていけるとリリアンナは思っている。



(だから油断したのね)


他に愛する女ができたと言って離婚を迫ったイグナシオが『彼女』と再婚しなかった理由。リリアンナと結婚を続けている理由。知ったところで現状は変わらないから、どちらも分からないまま放っておいてしまった。


いつでも出ていってやると思っていたにしても情報不足はいいことではない。油断していたことをリリアンナは深く反省している、なぜなら――。



(こんな近くにいたのに知らなかったなんて)



国王ですら知っているならイグナシオの『愛する女性』は近くにいる。そう仮定して風で王都を探ったら、「英雄の恋人になりたい」と夢みる女性の独り言から、「私は英雄の恋人だ」と自慢する女性の虚言まで拾ってしまった。


だから、イグナシオの周辺を探った。


イグナシオなら『彼女』に会いにいく。巷でどれだけ『再愛』が持て囃されていようと、イグナシオは愛する女性にも自分にも我慢させるタイプではない。


そして、『彼女』はすぐに見つかった。


イグナシオは『彼女』とタウンハウスのすぐ近くにある高級ホテルで会っていた。その距離、なんでこれまで気づかなかったのかと笑ってしまう近さだった。


彼女の部屋にイグナシオが入ったところで盗聴はやめた。密室は風が滞って音が聞き取りにくいし、他人の艶事を盗み聞く趣味もない。



盗聴対象をイグナシオから『彼女』に変えると、いろいろなことが聞こえた。


彼女は普段はドゥヴァリスの都フレイルにいて、王都にきたのは3ヶ月前。


その頃から彼女は「私は英雄の恋人だ」と言っていたが、数多ある妄言の一つとして埋もれていた。



(だから閣下は表向きの妻が必要だったのね)


イグナシオが『彼女』と再婚しなかったのはおそらく彼女が平民だから。


恋愛小説では身分差のある男女の恋愛、貴族男性と平民女性の恋愛が人気だ。平民女性の中にはそれを夢みている女性もいる。しかしリリアンナからしてみれば王族の傍系である公爵家の、それも当主の妻が平民などあり得ない。


差別ではない。貴族制があるこの国にあってしかるべき区別。


「私たちは生きる世界が違うのよ」というヒロインの台詞は多くの恋愛小説で見受けられるが、その認識こそ正しい。貴族と平民は見る世界が違う。


貴族に『個』などない。全て巨大なシステムを動かすための歯車。歯車一つ一つが貴族で、上手くかみ合って全てが正常にまわることで国家は正常に機能する。


貴族の子どもたちは学習し、大人の動き方を覚える。そして自分の番がきたら歯車としてしかるべき場所にはまり、大人と同じように動いて国家のひとつになっていく。



恋愛小説も、ある意味は正しい。


平民がこの歯車になれないとは言っていない。実際に城の官職にある者は、平民であっても歯車の一つだ。


問題は、歯車の影響力だ。


城の官吏一人が何かミスをしても国に影響などない。巨大なシステムの中でその歯車の不具合など大きな問題ではなく、どこかでカバーされ、全体的には問題なしになるからだ。


影響力の大きな歯車こそ注意しなければいけない。その歯車の動きで、国が大きく揺らぐ。場合によっては瓦解する。


イグナシオ・ドゥヴァリスは、国家を瓦解できるほど大きな歯車だ。ドゥヴァリス公爵夫人の歯車も自動的に大きくなる。



(閣下が平民を夫人に据えたら、国家を守るためのシステムが動き始める)


簡単にいえば邪魔者の排除。ドゥヴァリス公爵夫人の命は四方八方から狙われることになる。


貴族をやめれば再婚もあり得ただろうが、その選択はイグナシオ・ドゥヴァリスにはあり得ない。


護国の英雄は公爵だからその権限を持って国を守れているところもある。イグナシオがどれだけ武芸と魔法に秀でていても一兵卒では国の壁にはなれない。だからイグナシオが彼女と結婚するために公爵を辞めると仄めかした瞬間、国は総力を挙げて彼女を葬り去っただろうことがリリアンナでも簡単に想像できる。



(『彼女』を守るために、私をこの座に据えたってことなのかしらね……それにしても不用心な方だわ)


いくら距離が短いとはいえ、短時間の風魔法であっさり情報が入るほど『彼女』は自ら英雄イグナシオ・ドゥヴァリスの恋人だと触れ回っている。あまりにあっさりし過ぎて、どうして彼女の存在に気づかなかったのかと自分の脇の甘さにリリアンナが自己嫌悪に陥いるほど。


彼女についての情報を活用するかどうかはさておき、自分と、なによりもエアハルトのためには情報だけでも仕入れておくべきだったのだ。



彼女の名前は、ハフニア・マイセン。


ドゥヴァリス領の都の本店を置く大商会の会頭の次女であるらしい彼女は、それなりの護衛はつけているようだが、リリアンナからしてみたら『それなり』でしかない。


イグナシオに恨みを寄せる者は個人ではない。国単位で恨まれている。


イグナシオには勝てない。

それならどうする。


妻や子を人質に取る?

その妻と子は使用人すら武芸の心得があるドゥヴァリス邸内からろくに出ることはない。出たとしてもドゥヴァリス騎士団の中でも高い実力を誇る者が数名護衛についている。


このような状態で、それなりの守りしかない『英雄の恋人』は格好の標的となる。



彼女がそのホテルに滞在し始めたのは2ヶ月ほど前から。その間も無事なのだから、イグナシオが秘密裏に護衛をつけているのだろう。


確認はしていない。


ドゥヴァリス騎士団の中でも隠密行動に優れた者の気配を追うのはリリアンナでも骨が折れるし、そこまでして確認したいことでもない。


なぜならリリアンナ個人としては彼女の生死に自分は関係ない。エアハルトのことを考えて、虹の子が生まれることを避けるためイグナシオと彼女の間に子どもができたら教えてほしいなと思うくらいだ。



(でも……形式的なものでしかないとはいえ、『夫』が愛人と楽しくやっているのはちょっと嫌ね)


リリアンナはエアハルトを守るために仕方がなくいまの状態にある。イグナシオも、理由は何かリリアンナには分からないが、結婚継続を申し出るだけの理由があった上で仕方がなくいまの状態にある。


どちらも『仕方がない』と納得して歯車になった。それなのに、リリアンナだけ何も知らず、ただその日を生きているだけ。



(ヴェリタスの誓約でエアハルトの命は守られているわけだし)


ヴェリタスの誓約があれば、例え事故でもイグナシオが関与していればエアハルトの命に問題はない。イグナシオにエアハルトは殺すことができない。



(王妃様に頼んで、何か仕事をさせてもらおうかしら……もともと結婚しなければ父のもとで外交官になる予定だったのだし……)


父リアンはいつかリリアンナを部下にするといって、言語や魔法など外交に役立つことをたくさん教えてくれた。


他人にはそよ風くらいにしか感じない空気の流れを生んで音を拾うこの魔法もそうだ。


リアンによれば、これを考えたのは彼の祖父だという。リアンの生まれたオクタル侯爵家は外交を得意としており、外務大臣を歴任していた。


リアンの祖父が外務大臣のとき侯爵家で疫病が流行し、学院に通っていたリアンを遺して全員が亡くなり、学院卒業間近だったこともあって祖父の席をリアンが継いだ。


弱冠18歳の外務大臣は国内外で騒がれ、その若さを不安視する声は多かったが、リアンは堪能な語学と巧みな風魔法で「まだ子ども」と侮る他国の使節団を完膚なきまでに叩きのめしてきた。


その姿に多くの女性が憧れ、気さくな性格をしていたリアンは女性とそれなりに遊んでいたそうだが、ある夜会で出会ったリリアンナの母スフィアに一目惚れしてからはスフィア一筋だった。



リアンはスフィアを心の底から愛していた。


互いに一人っ子で、トレーデキム伯爵家の遠縁で養子であったスフィアは自分は婿を取って伯爵家を継がなければいけないとリアンからの求愛を拒んだ。


それに対してリアンは実にあっさりしていた。「家族はもういないし」と言って爵位を神殿預かりにし、スフィアを説得するよりもトレーデキム伯爵のほうが話が早そうと判断して外堀を埋めにかかった。


スフィアの動向を盗聴して探ったというリアンに「アウト!」と言いたくなったが、その結果で自分が生まれたのだからリリアンナは反応に困った。


リアンにとっては恋愛結婚。スフィアにとっては政略結婚から始まった恋愛。どちらにせよ「恋愛」となった二人だったが、二人の恋物語はリリアンナが生まれたことで終わりを迎えた。


スフィアはもともと体が弱かった。生きられても30歳くらいまでで、子どもを産んだら命を落とすことも分かっていたとリアンからは聞いている。



―― それでも僕のために君を生んでくれたんだ。


スフィアがリリアンナを産んだのは、寂しがり屋のリアンを思ってとのことらしい。どうやってもあと数年で自分は死ぬから。そのあとリアンが一人で寂しくないよう、リアンにリリアンナを遺したかったのだという。



スフィアが死んだあと、リアンは相当落ち込んだようだがリリアンナはそれを知らない。リリアンナが知っているリアンはいつも明るかった。どこに行くにも一緒で、過保護だったけれど、ときには息苦しいほど過保護だったけれど、リリアンナを大切に育ててくれた最高の父親だった。


それが虚勢だったかは分からない。


リアンはスフィア亡きあとずっと彼女を恋しがっていた。リリアンナはそれをリアンの死の間際に知った。



酷い大雨の日だった。


リアンが暴漢に襲われたとの報せを受けてリリアンナが病院に駆けつけたときにはリアンはもう虫の息で、泣き叫ぶリリアンナを見つめつつもリアンの唇が紡いだのは「スフィア」だった。虚空に向かって「スフィア」と呼んだリアンの表情はとても幸せそうだった。


あれは母スフィアが父リアンを迎えに来たからだと、リリアンナはいまも思っている。



(娘は嫁にいったから心配ないと思っていたのでしょうけれど……いまごろ草葉の陰で歯をギリギリ言わせているわね。それともお母様に夢中で気づかないかしら)


リアンという歯車も小さくなかったが、彼は自分が死んだあとのことをきちんとまとめていた。



トレーデキム伯爵の位はリアンの死後、リリアンナ所有となった。


爵位をもつ者が亡くなった場合、死後十年は誰も継げないことになっているため、ドゥヴァリス預かりになっていた爵位はリリアンナが生還すると同時にリリアンナ所有に戻った。


トレーデキム伯爵家の領地はリアンの生前から外交で忙しい彼に代わって信頼おける者が領主代理として管理し続けている。リリアンナにとっては名前を貸しているだけだが、それだけでかなりの収入が入ってきている。


オクタル侯爵の位は神殿が管理し続けている。こちらはもと公爵家なので王族の血を継ぐリアンの直系がいなくなれば爵位と領地は国に返上される予定だったが、こちらも他の爵位と同じく爵位をもつ者が亡くなって十年間は何もできない。


オクタル侯爵家の領地は肥沃な土地でかなりの収入だったのだろう、リリアンナが生還したことで国への返上がなくなってホッとしたのか、王都に戻って直ぐに神殿から「これからもオクタル侯爵位は私たちに任せてください」といった内容の手紙が届いた。



いつでも返還要求できるが、オクタル侯爵位は当分そのまま、最低でもイグナシオと離縁するまで神殿預かりにしておくべきだとリリアンナは思っている。


これ以上イグナシオに権力を集中させないためだ。


ドゥヴァリスの巨大さは仕方がないにしても、イグナシオの妹セレニアは貿易都市シフォンを都に持つトレッシア次期領主夫人で、リリアンナが所有しているトレーデキム伯爵領は狭いが鉱物資源が豊富な土地だ。


さらにここにオクタル侯爵家の農業が加われば、イグナシオの権力は一気に増大する。



(エアハルトが女児ならば、他家にお嫁にいくことで分散することができたのだけれど……)


エアハルトが娘ならこの事態になっていないかもしれないし、そもそもあり得ない話を考えても意味はない。



(エアハルト……)


あの夜会に行く前のおねだり以来、エアハルトとイグナシオの距離は近づいている。


エアハルトは約束通りイグナシオに剣の型を見せてもらい、そのあと稽古をつけてもらったらしく、この日を境にエアハルトのイグナシオへの態度が変わった。



「好きな食べ物はなんですか?」


「何色が好きですか?」


「犬と猫、どっちが好きですか?」


「歴史の授業は好きでしたか?」


「算術は得意ですか?」



顔を合わせば、イグナシオに質問を浴びせるエアハルト。イグナシオは最初戸惑っていたが、なんだかんだと返事をするのでそれはしばらく続いた。


次第に、イグナシオがエアハルトに質問するようにもなった。何が好きか、どっちが好きかと、エアハルトが質問したような他愛のない質問とその答えのやりとりが続いた。


リリアンナはそんな二人を静かに傍観していた。


エアハルトがイグナシオを知ろうとしていることを、リリアンナは止めなかった。


イグナシオがどういう人間なのかはエアハルト自身が判断しなければならない。イグナシオにもエアハルトにしか見せない顔があるだろう。


イグナシオのことを知った結果、エアハルトがあの日のことを知って傷つくかもしれない。でも、「知らない」よりはいいとリリアンナは思っている。



知らない。

気づかない。


それはとても怖いことだ。

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