第1話 薄紫色の始まり
日が昇り始めたばかりの紫色に染まる家の中、リリアンナは窓を開けて夜の間に淀んだ風を追い出していく。
微かにカーテンを揺らして入ってくる風は潮の香りがした。
ヴェルナはトレッシア領の左端にある港町で、船の汽笛や到着した旅人たちの異国語で朝からとても賑わっている。
この町でリリアンナは治癒師として診療所を営んでいる。
ギッ
蝶番の軋む音にリリアンナは油はどこに片付けたか考える。最後に油を差したのは自分ではなくアンだったかもと考え、見つからなさそうなら買わなければいけないなとボンヤリ思う。
アンはこの家、2階に自宅で1階が診療所のこの家の持ち主。
リリアンナが出会ったときアンは夫を亡くしたばかり。一人でこの家で暮らすのは寂しいと言うアン、しばらく定住できる場所を探していたリリアンナ。二人の利害が一致して始まった同居だったが、子どものいないアンは死に水を取ったリリアンナへの恩なのか、2年ほど前に亡くなるときにこの家をリリアンナ名義にして残してくれた。
治癒魔法が使えるリリアンナに治癒師の道を指し示したのもアン。理由はこのヴェルナで食いっぱぐれのない職だから。気の荒い海の男たちにとって怪我は日常茶飯事、異国から感染症も不定期にやってくる。このヴェルナはそんな町。
リリアンナ自身は治癒師が天職とは思えていないが、父親に連れられていくつもの国に行った経験があるリリアンナは数カ国語が話せるため、異国から来た船乗りや商人たちに重宝されている。
―― いつでも出ていってくれていいから。
アンの最期の言葉を思い出すたびリリアンナは苦い笑いがこみあげる。
(アンはどこまで気づいていたのかしら)
アンの言う通りいつかは出ていくだろう。それはリリアンナの意思かもしれないし、やむにやまれぬ事情によるものかもしれない。
でもまだその時じゃない。
だからリリアンナはこのヴェルナで、この場所で治癒師をやっている。
◇
表情が乏しい上に周囲に馴染もうとしない愛想の悪い。
それがこの町の住民が抱くリリアンナのイメージだが、治癒師という人を助ける仕事のおかげで上手くやれている。
(私だけの力ではないけれど)
2階から聞こえてきた軽い足音、扉の開く音、弾むように階段を下りる音。リリアンナの口元が緩んだとき――。
「お母さん、おはよう!」
元気な挨拶と共に飛び込んできたのはリリアンナの息子のエアハルト。
その勢いのまま飛びついてきたエアハルトをリリアンナは受け止めたが、3歳になるとなかなか重い。それでもなんとか抱き上げて視線を合わせる。
「おはよう、エア」
抱きしめるとエアハルトは嬉しそうに声を上げて笑った。
幼いからか、それとも性格なのか、素直に喜怒哀楽を表すエアハルト。そんなエアハルトにリリアンナはときおり複雑な感情を抱く。
思い出の中の自分もエアハルトのようだったから。
―― 感情が思い切り顔に出てる。
(大人になっただけよ)
―― 俺のことを好きだと言ってるその顔が好きだよ。
(別に嫌いでいいわ、もう関係ないもの)
頭に響く声の主は忘れられない男。
幼馴染で、初恋の相手で、婚約者で、夫だった、エアハルトの生物学上の父親の男。
―― 他に愛する女ができた。
結婚から三年、彼はリリアンナにそう告げた。リリアンナが妊娠しているにも拘らず、それどころか彼はリリアンナに堕胎を迫り、リリアンナはそんな男の元から逃げ出した。
異国色が鮮やかなこの港町には色々な過去をもつ者がいて、リリアンナのように話したくない過去をもつ者も多い。だからこそアンは深くは探ってこなかったのだろうが、一人で旅する妊婦だったリリアンナの事情は推して知るべしだったのだろう。
子どもは一人で育てると決意していたが、その考えは実に甘かったとリリアンナは思っている。家も仕事もない十九歳の娘だったリリアンナ。アンに出会わなければ身を売って母子で何とか生きていたかもしれなかった。
◇
建物の一階には診療所があり、入口の扉に結んでいた青色の布を外せばオープンの合図となる。外で待っていた患者たちが中に入ってきて、待合室は直ぐにいっぱいになった。
「今日はどうしましたか?」
アンから引き継いだこの診療所はアンから引き継いだ患者と、港の口コミでやってきた患者でいつも盛況。
この国では有事に備えて医師や治癒師を町単位で管理している。戦禍に巻き込まれれば治癒師不足になり、どの町からどれだけ治癒師を送るかの指針ができる。
医師や治癒師は国の財産。その考えにリリアンナは反対しないが、治癒師の管理体制には息苦しさを感じている。
例えば、治癒師の診療報酬が魔力量に対して一律であること。誰でも安心して治療を受けられるようにするためだ。
特にヴェルナは船乗りや旅人が病を持ち込む可能性があるため、彼らが治療費に不安を感じさせないようにすることは確かに大切である。彼らに支払い能力がなくても、港の管理事務所に言えば治療費は町が肩代わりする。
よそ者の治療に自分たちの税金が使われることに不満のある住民もいるが、仕方がないで我慢している。我慢しなければいけないのだ。感染症を拡げられては困るから。感染症は、場合によっては街ひとつを亡ぼすから。
「アンナ先生、首飾りがチカチカ光っているよ」
治療を終えた女児の言葉にリリアンナは首から下げた魔力測定器を兼ねた治癒師の資格証を見る。視界の端で女児の母親がほっとした表情をしたのが見えた。
治癒師は事前登録した魔力量の八割を超えると、資格証が警告としてチカチカ光りはじめる。これがついたら、この患者を最後にして今日の治療は終わりにしなければならない。だから、ギリギリで娘を診てもらえた母親はホッとしたのだ。
朝から並び続けて、結局治療をしてもらえないこともある。だから魔力量が多い治癒師や、使用魔力量を減らすことに長けた治癒師の診療所は人気がある。
医術を学んだアンの治療は魔力使用量が極力抑えられていたため、アンの診療所は診療時間が長くて人気があった。リリアンナも薬草の知識で魔力量を減らす工夫はしているが、同じような治癒師は幾人もいて大した差別化はできていない。いまは『若い女性の治癒師』という付加価値でこの診療所は繁盛しているが、将来この付加価値はなったときを思うとリリアンナは気が重かった。
「申しわけありません、本日はこれ以上の治療ができません」
待合室でリリアンナが頭を下げると、チカチカ光る資格証の効果もあって大半が諦める。でも――。
「先生、うちの子の治療を……診るだけでも……お願いします」
病気やケガは命に係わる。だからこそ診療所に来た者は「診てほしい」と訴える。この母親のように。
リリアンナも同じ子を持つ母親だ。できるなら診てあげたい。
(でも……)
「申しわけありません」
ひとり例外を作ってしまったら、このルールによる抑えは決壊する。だから例外を認めることはしない。このルールは治癒師を守るためのものなのだから。
治癒師に多いトラブルは魔力が枯渇するまで治癒魔法を使ってしまうことだ。魔法を使い過ぎて魔力が枯渇した場合、魔力の回復に一年近くかかる。その間に魔法を使おうとすると生命力が削られてしまう。
治癒師の寿命を縮めることはもちろん、一時的でも魔法が使えなくなれば街の治癒師が減ってしまう。リスクマネジメントの観点からの八割ルールだ。
重傷患者の治療に備えて魔力回復用のポーションも支給されているが、ポーションを飲み過ぎるのは危険なので一日に飲める本数も決められている。
携帯している魔力測定器の測定値はリアルタイムで役所に送られているし、治癒師が限界であることは分かりやすくチカチカ光って可視化される。「治療できない」と分かれば納得する者もいる。
「お願いします、お願いします。どうかこの子を……」
ルールだから、治癒師は仕方がないと言い訳できる。でも、患者サイドはどうなる。患者からしてみれば診察を拒否されたのと同じなのではないのか。リリアンナは患者の訴えに気づかない振りをして、鈍感を装わなければならない。仕方がない。これが決まりだ。魔力が枯渇したら仕事ができなくなり、収入がなくなる。
(エアハルトをきちんと育てなければ……)
「お母さん、おしごと、おわり?」
熱で赤い顔をした赤ん坊抱えて別の治療所に向かう母親らしき女性を見ていたリリアンナは、エアハルトの声にふり返る。寂しかった、我慢していたと描かれているエアハルトの顔を撫でる。
二人で生きていくためにはお金が必要で、そのために仕事はなくせない。繁盛しているからリリアンナの診療所は他に比べて早く閉めることができるが、それでも一日に何時間もエアハルトを一人で過ごさせてしまっていることに申しわけない気持ちは募る。
自宅の一角が診療所で、エアハルトは家と診療所を自由に行き来できる。患者もそれを受け入れているし、常連の患者はエアハルトを可愛がってもくれている。それでもエアハルトは母親を呼ぶし、その声に治療中のリリアンナが応えられないことのほうが圧倒的に多い。
馴染みの患者さんには通いの使用人を薦められる。でも自宅のほうに他人を入れることにリリアンナは躊躇いがあった。
ドンドンドンッ
治療所の扉を叩く音。急な音に吃驚するエアハルトを部屋の奥に行かせると、リリアンナが警戒しながら扉を開けた。
こちらの作品は「七日間の花嫁」の初期の構想段階のものです。
異世界者が流行していたので「魔法」を組み込んでみたものの上手くいかず、お蔵にしまっておいたのを大掃除を兼ねて引っ張り出しました。
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