さよならの置き手紙
この物語は、春を前に母を亡くした少女の、小さな一歩を描いています。
大切な人を失うことの意味を、まだ知らない年齢。
それでも、残された言葉や物が、確かに心に何かを残していきます。
静かに降る雪の中で、少女はただ前を向いて歩き出します。
それは、彼女なりの「さよなら」であり、「はじまり」でもありました。
ささやかだけれど、まっすぐな想いの物語です。
雪が降っていた。
街の灯りが、白く沈んだ世界に滲んでいた。
古い団地の一室。
カレンダーの3月のページに、小さな丸がついている。
その日だけ、赤いペンで。
部屋の隅にはランドセル。新品。
机の引き出しには、名前の練習帳。
「こはる」
その字が、何度も何度も書かれていた。
誰もいないキッチン。
冷蔵庫の上には、折りたたまれた紙が一枚。
──おめでとう。
──小学生になる日、見てあげられなくてごめんね。
──あなたが笑っている未来だけを、ずっと願っています。
筆跡は、大人の女性のもの。
丸みを帯びた優しい字。
けれど、にじんだインクが、一文字ごとに静かに涙を落としたことを物語っていた。
部屋の写真立てには、若い母親と小さな女の子。
どちらも、目を細めて笑っている。
その笑顔が、もう一度交わることはない。
春が来る前に、母は病気でこの世を去った。
少女はまだ、「死ぬ」という意味をよく知らなかった。
ただ、朝起きても、ママはいなかった。
でも、机の上にはランドセルと、ひらがなの練習帳と、小さな手紙。
それが「愛」だと知るのは、もっと先のことだった。
ランドセルを背負った少女は、静かに玄関を開けた。
雪は止み、空にうっすらと光が差し始めていた。
誰に言われたでもなく、彼女は空を見上げた。
そのまま、ポケットの中の手紙をぎゅっと握りしめた。
泣いているわけではなかった。
ただ、心が、ずっと遠くにいる誰かを探していた。
──それでも、歩き出す。
それが、彼女なりの「さよなら」だった。
今後の活動の励みになるので、ブクマや感想をぜひお願いします。