第22話「絵本に眠る祈り」 〜父の記憶と、目覚めの言葉〜
秋の光が差し込む、静かなアトリエ。
そこは、幼い日の祈りと記憶が、まだ息づいている場所でした。
玲央とシトロンは、ひととき足をとめ、過去と向き合う時間を過ごしていきます。
どうぞ、この小さな祈りの物語を見守っていただければ幸いです。
マレの一角。
眠りの記憶を呼び覚ますように、レミーのアトリエへには黄金色の秋の光がゆるやかに射し込んでいた。
油絵の香りと古い木の匂いが混じる空間に、玲央とシトロンは静かに足を踏み入れる。
「……久しぶりだな」
玲央は懐かしそうに深呼吸をした。
机に広げた紙片に、昨夜の地下鉄で耳にした歌を書き写す。
── Berce mon cœur… O doux lys… Nuit obscure… Et sous vos cieux…
その頭文字が浮かび上がる。
「B……O……N……E」
玲央は指先で文字をなぞり、目を伏せた。
「ボーン……父はやっぱり、何かを伝えようとしてたんだ」
沈黙の中で、シトロンが何気なく問いかける。
「玲央、君は子どもの頃、このアトリエによく来ていたのか?」
玲央は少し笑みを浮かべて答える。
「午前中は家庭教師の先生とサンルイの本邸で勉強して、午後はここに来て好きなことをしてた。
……そうだ、ここで“僕だけの隠れ家”を作ったんだ」
記憶を辿るように螺旋階段を駆け上がり、中二階の寝室へ向かう。
クローゼットの脇に小さな扉。
扉を開けると、母玲那が縫った色とりどりのパッチワークのクッションが、今も柔らかな光を抱いていた。
その上に並ぶのは──幼い玲央がひとつずつ大切に隠した“宝物”。
拙い手のぬくもりが残る木の玩具、角の擦り切れた絵本、抱きしめすぎて毛並みを失ったぬいぐるみ。
どれもが、小さな心が祈るように選んだ欠片であり、世界でいちばん尊い秘密だった。
「……懐かしい……」
玲央が感慨深げに見つめると、シトロンが口元を緩める。
「大人が入るには狭いな」
次の瞬間、彼の姿はふわりと猫へと変わり、ちょこんとクッションに座った。
玲央は吹き出した。
「……いいなあ。僕はもう入れない場所なのに、君はそこにすっぽり収まって……まるで昔からここにいたみたいだ」
胸の奥で囁く。
これで僕の隠れ家は、本当の宝物の場所になった。
大人になった玲央の身体は、もうあの小さな隠れ家には入れない。
けれど入口に膝をつき、腕だけをそっと差し入れると──柔らかな毛並みが迎えてくれる。
小さな金の瞳のぬくもりを撫でながら、指先はさらに奥へと伸びていく。
そこに触れたのは、時の層に眠っていたような一冊の厚い冊子。
まるで幼い日の記憶が、自ら姿を差し出してきたかのように。
画用紙を紐で綴った、手作りの絵本。
「これ……僕が子供の頃に作った……」
猫のシトロンを膝に抱き、絵本を開いた。
最初のページに広がっていたのは、拙い線で描かれた「骨の森」。
木の代わりに白く尖った骨が林立し、幼い夢の中で見た景色が、紙の上で静かに息づいていた。
それは怖ろしくもあり、どこか美しくもあった。
「……木じゃなくて、骨を描くとか……子供の僕、どういう発想してたんだろ」
苦笑しながらも、玲央は言葉を続ける。
「夢で見たんだよ。本当にこういう景色。怖くて、でも忘れられなくて」
次には大きな館。窓には泣く月と、小さな猫の姿。扉には黒い影が群がっている。
「これ……“館を奪われる夢”。月が泣いて……猫が消える」
ページをめくると、首輪をつけられた猫から黒い煙があふれ、人の形を成していく絵。
羽のある影、歌う影、誰かを縛る影……。
玲央は息を呑む。
「……ただの落書きの怪物に見えるけど……今思うと、似てるな」
さらに進むと、空から降るぎこちない結晶の絵。
子供の手で描かれた、花とも星ともつかない雪の模様。
玲央の胸が強く震えた。
「……これは……光の雪……? 僕は子供の頃から、もう見てたんだ……」
最後のページには、子猫が小さな本を抱いて眠る絵。その横に幼い文字で書かれていた。
『ほんとの かぞくを さがすこと ほねの かげを こえること ゆめは まだ つづく』
玲央は目を細め、懐かしむようにページを撫でた。
「泣きながら怖い夢を話したら……父が“絵にしよう”って言ってくれて。
……あの時、こうして残したんだ」
膝の上の猫が喉を鳴らす。その金の瞳が、玲央を静かに見つめていた。
そして最後のページを閉じたその裏に──
一枚の精緻な似顔絵が現れた。
玲央の幼い頃の顔、そして人間の姿をしたシトロン。
筆致は明らかに、父レミーの手。
その下には、細いラテン語の文字が並んでいた。
Bene huc usque pervenisti.
Fortis es.Parisius te protegit.
Omnes tibi favent.Memoriam reciperas.
Cave sonos.
Dic hoc:
"Lux lunae omnia illustrat.
Felinor, nunc hora evigilationis est."
玲央は胸の奥で震えるものを感じながら、唇に祈りをのせるように、その文字を静かに読み上げた。
「……よくここまで来れたな。えらいな。
パリはお前を守っている。
皆お前の味方だ。
記憶を取り戻せ。
音に気をつけろ……」
そして最後の一文。
「これを唱えろ──
“月の光は全てを照らす。フェリノアールよ、今目覚めの時”」
言葉を口にした瞬間──
隠れ家の闇に差し込む光が一斉に揺らぎ、シトロンの小さな身体から金色の燐光があふれ出した。
光は玲央の掌に、胸に、そしてこの部屋の古い壁にも染み込むように広がっていく。
膝の上の小さな猫の姿はふわりと揺らぎ、やがて人の姿へと戻る。
黄金の瞳が強く光を帯び、玲央をまっすぐに見つめた。
「……玲央」
低く、しかし確かに届く声。
それは父の祈りを受け継ぎ、未来を開く誓いのように、アトリエの空気を震わせていた。
À suivre.
お読みいただきありがとうございます。
第22話は「記憶」と「目覚め」をテーマに、玲央の過去の断片を辿るお話となりました。
物語はいよいよ佳境へ。
一冊の絵本から広がる祈りが、これから玲央とシトロンにどんな未来をもたらすのか──
どうか、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




