第21話「記憶を導く旋律」 〜秋の街に潜む、忘れられた記憶〜
秋のパリ。
シトロンと玲央の前に、不思議な音楽が次々と現れる。
それは、失われたはずの記憶と、父が残した暗号へと導いていく。
果たして、その旋律の先に開かれる扉とは……
秋晴れのパリ。
セーヌの水面は陽光をきらめかせ、風はさらりと乾いて頬を撫でる。
「そんなにアイスが好きなら、子供の頃によく行った店に連れていくよ」
玲央が歩きながら笑うと、シトロンは迷いなくその手を取り、指を絡めた。
「……恋人繋ぎだな」
玲央が驚いて振り返ると、シトロンは涼しい顔で囁いた。
「俺を感じてる?──欲しくなったのか?」
「なっ……朝から何を言ってるんだよ」
玲央は真っ赤になり、振りほどこうとせず、逆にぎゅっと握り返した。
シトロンは低く笑う。
「……素直だな」
二人の影は寄り添い、石畳に溶けていった。
やがて玲央は足を止め、指さす。
「……ここ、よく通ったんだ。
この角度から見るトリニテ教会、いいだろ?
母さんは真正面よりも、街の隙間から覗く教会やサクレクールを好んでた」
路地の奥に教会の塔がのぞく。
玲央の声に、シトロンは寄り添って視線を向ける。
その時──風に混じって、懐かしい音がした。
路地裏に、手回しオルガンの旋律。
二人が近づくと、乳母車を傍らに置いた老人がいた。
中ではふっくらしたブリティッシュショートヘアーがぐっすり眠っている。
「……懐かしいな。子供の頃も、この猫をよく眺めてた。可愛くて」
玲央が微笑んだ直後、ふと眉を寄せる。
「……でも、猫の寿命って……?」
老人は答えず、ただ意味深に微笑んだ。
その瞬間、オルガンの旋律が変わる。
──父・レミーがギターでよく奏でていた子守唄。
玲央の胸が強く震える。
「どうして……この曲を……」
老人の瞳が、玲央の指輪をじっと見つめた。
「……その指輪。レミーの息子か?」
そして低く告げる。
「この旋律を追え」
指輪がかすかに光った。
けれど玲央は気づかず、ただ胸の奥のざわめきに立ち尽くした。
サクレクールの丘を目指す途中、小さな公園のベンチに、アコーディオンを奏でる老人の姿があった。
彼の足元には、帽子の中で丸くなった子猫が眠っている。
玲央が近づくと、老人もまた指輪を見て囁く。
「……レミーの息子か」
そして短く子守唄を奏でた後、別の旋律に移り、同じ言葉を繰り返す。
「この旋律を追え」
その時──玲央の指輪が再び、はっきりと光った。
今度は玲央も目にして、息を呑む。
「……光ってる……?」
震える声に、シトロンが肩に手を置いた。
「……妙だ。俺も思い出せないはずなのに、胸の奥がざわつく。
まるで大事なものをどこかに置き去りにしたような……」
玲央は喉の奥で息を詰め、指輪を見下ろした。
「……僕もだ。なにか忘れてる気がする」
シトロンは低く続ける。
「それでも感じる。
お前の記憶は、誰かに触れられている──そんな気配がする」
秋の光はなお穏やかだった。
けれど二人の心には、甘やかな朝の下に潜む影が、確かに形を帯び始めていた。
アコーディオンの旋律が途切れたとき、玲央とシトロンはしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥にかすかなざわめき──
異変に気づいている。
だが、何が起きているのかはまだ掴めない。
「……一旦、メトロに乗ろうか」
玲央の提案に、シトロンはうなずいた。
二人は2番線に乗り、凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール=エトワール駅へ向かった。
玲央の心は、どこか遠い記憶に引き寄せられていた。
「……そういえば、メトロといえば思い出があるんだ」
玲央はぼんやり中を見つめながら口を開いた。
「子供の頃、両親と一緒に1番線に乗ったとき……
必ずいたんだよ。一人芝居をするおばあちゃんが」
シトロンが首を傾げる。
「芝居?」
「うん。乗客を勝手に舞台の相手役にしてね。
僕の目の前にも来て、どうしたらいいか分からなくて……
そのとき偶然、手に持ってた鈴蘭の花束を渡したんだ」
玲央の声に、柔らかな笑みがにじむ。
「そしたらそのおばあちゃん、急に歌を歌ってくれた。
父が言ってたよ──
フランスでは、鈴蘭を贈るのは“相手に幸せを送る”って意味なんだって。
だから、そのお返しに歌をくれたんだって・・・」
玲央は小さく息をつく。
「……あのおばあちゃん、まだいるかな」
「流石にもう……」
とシトロンが肩を竦めかけた時、玲央は目を細めて微笑んだ。
「一番線に、行ってみよう──まだ、君の中に開いていない扉がある」
──そして。
二人は一番線に降り、やって来た列車に乗り込む。
鉄の車体がきしむ音と、湿った地下の空気。
乗客たちのざわめきに紛れて、ひときわ甲高い声が響いた。
「太陽よ! 月よ! わたしを照らせ!」
ボロの衣を纏った老婆が、車内の中央で大仰に身振りを交え、一人芝居を演じていた。
観客のような乗客たちは笑い、ため息をつき、帽子に次々と硬貨を投げ入れていく。
玲央の唇が震えた。
「……やっぱり、まだ生きていたんだ」
老婆は、ふとこちらを振り向いた。
その瞬間、玲央の指輪が淡く光を返す。
老婆の目が鋭く細まり、芝居が止まった。
「……レミーの息子」
低い声が車内に落ちる。空気が凍りついたように静まり、ただ列車の走行音だけが響く。
老婆は深く息を吸い込むと、突然歌い出した。
── Berce mon cœur, brûlé d’ardeur…
(燃えるような情熱に焼かれたこの心を、どうか揺りかごのように優しく抱いて。)
── O doux lys, offrez vos fleurs…
(ああ、やさしき百合よ、その白き花を差し出して。)
── Nuit obscure, noie ma douleur…
(暗き夜よ、私の痛みを深く沈めて。)
── Et sous vos cieux, éclairez l’âme sœur…
(そして天よ、その光で、わが魂の伴侶を照らしてほしい。)
滑稽だった声は一転して、澄み渡るソプラノとなり、地下の石壁に反響した。
ひとつひとつの言葉が、玲央の胸の奥に刻まれていく。
玲央は思わず呟いた。
「B……erce mon cœur…… O…… doux lys…… N……uit obscure…… E……t sous vos cieux……」
シトロンの瞳がきらりと光を捉え、囁いた。
「……B.O.N.E. 骨、そして名──鍵だ」
その瞬間、玲央の指輪がふたたび光り、幼い日の記憶が閃光のようによみがえる。
母の微笑み、父の声。
そして、絶え間なく続く子守唄の調べ。
老婆は最後に静かにリフレインを歌い、帽子を胸に抱いて深く一礼した。
車内にいた人々は拍手を送り、笑いながらまた硬貨を投げ入れる。
だが、玲央の耳には、もう別の音しか響いていなかった。
──B O N E。
父が残した暗号が、心臓の鼓動と重なって刻まれていた。
シトロンは玲央の肩に手を置き、低く囁いた。
「……ようやく、扉がひとつ開いたな」
玲央はうなずき、目を閉じた。
暗闇の地下にあっても、その胸には確かな光が芽生えていた。
……けれど、心の奥にはまだ、埋まらない空白が残っていた。
思い出せない夜の断片が、霧のように彼らを包み込んでいた。
À suivre.
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第21話では「音楽による導き」と「B.O.N.E.の暗号」が明らかになりました。
手回しオルガンやアコーディオン、そして地下鉄の老婆の一人芝居と歌──
音の断片が重なり、過去と現在がつながっていく瞬間を書きたかった回です。
まだ埋まらない空白。
まだ思い出せない夜の断片。
その先に待つものを、シトロンと玲央がどう受け止めるのか。
続きもどうぞ見守っていただけたら嬉しいです。




