第20話「忘れられた夜」 〜記憶の隙間に咲く甘やかな朝〜
パリの朝。
セーヌ川沿いを歩けば、秋の気配が少しずつ色を濃くしていきます。
冷たい空気と柔らかな光の中、玲央とシトロンは束の間の安らぎを見つけます。
けれど、その穏やかさの奥に──微かなざわめきが潜んでいるのかもしれません。
夜が明けると、パリ、サンルイ島の空は淡く曇っていた。
昨夜の記憶は霞のように途切れ、残されたのはテーブルに並ぶ三つのワイングラスだけ。
アレクシは眉を寄せ、しばし立ち尽くす。
「……お客様がいらしたような気も……いえ、しかし……」
玲央とシトロンも同じだった。
胸の奥に小さな違和感がある。
けれど、何を思い出そうとしても、指の間から零れ落ちるように掴めない。
「飲みすぎたのかな」玲央が苦笑し、シトロンも肩を竦めて同意する。
*
気づけば、秋のパリの朝。
ポーランドでの重さが嘘のように、窓辺から射す光は柔らかい。
二人は「朝食はカフェで済ませよう」と気軽に身支度を始めた。
──その時。
玲央の鞄から、ごそごそと不思議な音が響いた。
「……ん?」
と開けると、祖母・紗英のシルクの帛紗に包まれた小さな塊が、もぞもぞと動いている。
帛紗をほどけば、そこには……すっかりしわくちゃに縮こまったシューが飛び出してきた。
「ひどいでしゅーっ! ずっと閉じ込めっぱなしなんて!」
小さな声は涙目で震えていた。
「……忘れてたな」
玲央が額に手を当て、
「……ああ、完全に」
シトロンも低く呟く。
「鎌倉でも!ベルリンでも!ポーランドでも!一度も出してくれなかったにゃ!
もう、心が折れるでしゅー……」
ぷいと顔を背けるシュー。
だが次の瞬間、ふっと鼻をひくつかせ、瞳を丸くした。
「……昨晩、大変だったんですにゃ。禍々しい気に包まれて……」
そして玲央とシトロンを交互に見て、ぽつり。
「でも……お二人、つやつやですにゃ。別の意味で……」
玲央はむせ、シトロンは額を押さえる。
「……何を言ってるんだ?」
「……昨日はただ、飲んで寝ただけだ」
「えっ!? そんなはずないでしゅ!」
シューは必死に訴えた。
「わたしは紗英さまの帛紗のおかげで守られましたけど……
外にいたら完全にやられてましたにゃ!」
だが二人は取り合わず、顔を見合わせて笑い合う。
「とりあえず、カフェに行こうか」
「賛成。……シュー、拗ねるなよ」
不満げに鼻を鳴らすシューを残し、二人は手を繋いで本邸を出る。
*
そして、二人は肩を並べて歩き出した。
空は薄い雲がゆるやかに流れ、秋晴れの光がセーヌ川の水面に反射してきらめく。
川沿いの並木道では、木々の葉が黄や赤へと色づき始めていて、
軽井沢の山の紅葉とはまた違う、都会の秋の装いが景色を彩っていた。
水鳥が川面を渡り、風はまだ少し夏の名残を抱いて柔らかく頬を撫でる。
街角の石畳には、落ち葉がさらさらと舞い、玲央は思わず足を止めて見とれた。
「……やっぱり、パリの秋って特別だね」
彼の横顔を見ながら、シトロンがふっと笑う。
「君と歩いてるからだろ」
視線が絡み、二人は軽く手を重ね合う。
ただ歩いているだけなのに、胸の奥にじんわりと温もりが広がっていく。
やがて辿り着いたのは、マレの小さなカフェ。
テラス席に腰を下ろすと、赤や黄色の葉が風に吹かれて舞い落ちてくる。
玲央は熱いカフェオレを頼み、シトロンは迷わずエスプレッソとクロワッサン、
そしてなぜか冷たいバニラアイスまで追加していた。
「……朝からアイス?」
玲央は呆れながら笑った。
シトロンはエスプレッソをひとくち含み、アイスをスプーンですくって口に運ぶ。
「温かいのと冷たいのを交互に食べるのがいいんだ」
「そんな子どもみたいな……」
玲央が言いかけると、シトロンはにやりと笑い、アイスを玲央の唇にそっと押し当てた。
ひんやりとした甘さに玲央は思わず目を瞬かせ、その無防備な反応を見て、シトロンは低く囁く。
「ほら、やっぱり君の方が甘い」
玲央は顔を赤らめながらも、負けじとスプーンを奪い取った。
バニラアイスをひとすくいし、自分の口に含む。
その冷たさと甘さが舌に広がるや否や、彼は迷うことなく身を寄せた。
「……っ」
シトロンの唇に重ねられる。
口移しのように、ひんやりとした甘さがそのまま伝えられ、ふっと吐息が絡み合った。
一瞬、時が止まる。
カフェのざわめきも、通りを渡る風の音も、ふたりの間から消え去っていた。
残ったのは、互いの温度と、甘さを分け合う幸福だけ。
シトロンの瞳が驚きに揺れ、すぐに熱を帯びて細められる。
「……大胆だな」
低く囁かれる声に、玲央の耳まで赤く染まっていた。
二人の世界は、秋の光に包まれて静かに閉じていた。
──ただ、その耳の奥深くで、まだ届かぬ旋律が微かに震えていたことに、二人は気づいていなかった。
À suivre.
お読みいただき、ありがとうございます。
今回はポーランドから戻った二人の「パリの朝」を描きました。
日常の幸福と、その背後に潜むわずかな違和感……。
穏やかさの中でこそ際立つ揺らぎを、感じ取っていただけたら嬉しいです。
次回から、玲央とシトロンの“忘れられた何か”が少しずつ形を帯びていきます。
どうぞお楽しみに。