第8話 「巴里、月の扉がひらく時」〜リムジンでの甘い攻防〜
パリ。玲央にとっては幼き日の記憶と、母の面影が残る特別な場所。
降り立った空港には、de la Lune家の新たな案内人・・・そして、思わぬ“心のざわめき”が待ち受けていた。
恋と契約の旅は、いま静かに“扉の向こう”へ動きはじめる。
けれど、リムジンの中で始まったのは・・・想像以上に、甘く危険な時間だった。
空港に降り立った瞬間、
「La Premièreのお客様はこちらへどうぞ」
シトロンと玲央は、笑みを絶やさぬ係員の先導で、プライベートラウンジ直結の専用ゲートを通る。
ガラス扉が開いた先には──
漆黒のリムジンが静かに待っていた。
ひときわ目を引く、漆黒のスーツを纏った若い男。
ピシッとオールバックに撫でつけた銀色の髪、端整な顔立ちを引き締める銀縁の眼鏡。
そして、驚くほど冷ややかなグレーの瞳が、ふたりを静かに見据えていた。
「……ようこそ、お帰りなさいませ。一條玲央様、そして、シトロン様」
その声は、冷たく研ぎ澄まされた刃のように完璧だった。
だが・・・そんな彼の心の中は・・・
・・・陽光に金糸がきらめく。まるで──まるで、
天から降りてきた、罪深き美の化身。
(この尊いお方は.....誰?)
足音も、時の流れも、すべてが止まった気がした。
鋭く光を弾く瞳。風を纏う髪。しなやかな足取り。
(な、なにこれ……舞台じゃない……!)
この世に、こんな存在があっていいのか?
いいや、いけない。許されるわけがない。反則だ。
(理性が、保てない。ていうか、飛んだ。遥か上空に)
それなのに、声はいつも通りだった。
「de la Lune家 執事長代理、アレクシ・ヴェルシエでございます。
本邸の管理と、ご滞在中の全責任を拝命しております。
どうぞご用命くださいませ」
完璧に頭を下げ、完璧な言葉で、完璧に振る舞う。
でも。
(あの瞳が……こっち、見た……)
その瞬間、アレクシの中で千の鐘が鳴った。
(やばい、やばい、やばい……!! こんなの、無理……!!)
(わたし今、この人のためなら、
一生独身でもいい……それどころか、猫でもいい……ッ!!)
(お願い、目を合わせないで……息が、止まる……)
(えっ、笑った……!??)
(っ……し、死ぬ……)
こんな自分、知らない。
氷の執事なんて、どこにもいない。
今この瞬間、アレクシ・ヴェルシエは――
“恋に落ちる”という経験をしていた。
* * *
「車をご用意しております。お荷物はこちらで」
アレクシは完璧な所作で一礼しながらも、
その視線の奥では、己の感情の波にただ、静かに耐えていた。
アレクシは動きに一分の無駄もない洗練された所作で、ふたりを黒塗りの車へと誘導する。
玲央はその背中をちらりと見てから、シトロンの腕をそっと取った。
「……モテるな、君って」
「ん? なに急に?」
「いや。さっきの執事──君のこと、完全に見惚れてた」
「そう? 気づかなかったなぁ。……でも、気になる?」
玲央は少しだけ顔を背けて、「別に」と小さく呟いた。
するとシトロンが笑いながら耳元で囁いた。
「じゃあ、俺だけ見てよ。……ずっと」
その言葉に、玲央の頬がじんわり赤く染まった。
黒塗りのリムジンは、空港のプライベートゲートから滑るように発進した。
密閉された静謐な空間には、革張りのシートの香りと、グラスに注がれた冷えたシャンパンの微かな香気が漂っている。
玲央は、窓の外──
朝の光に濡れたパリの街並みをじっと眺めていた。
「……いつきても変わらないな.....」
「でも、今のレオが見てるパリは──ずっと綺麗だと思うけど?」
そう囁いたのは、隣に腰を落ち着けたシトロン。
脚を組み、無造作にボタンを外した白いシャツから、うっすらと光る胸元の肌が覗く。
その肌に、淡く──契約の印が浮かんでいた。
「朝から……そういう目で見るな」
「見るよ。だって、パリは恋人たちの都だろ? 誰にも邪魔されない、密室のリムジン。……逃げ道なんて、ない」
そう言って、シトロンは玲央のグラスをとりあげ、シャンパンを一口飲む。
それから、そっと彼の口元に唇を寄せ──
「……レオにも、分けてあげる」
口移し。
気品すら感じさせるしなやかな動作で、玲央の唇に淡く触れた瞬間、玲央は一瞬目を見開いた。
そして、その滴が自分の唇に触れた瞬間、
微かな体温と香りがふわりと舌先をくすぐった。
……あまい。
軽やかな泡の向こうで、なにかがふっと緩んでいく。
ひんやりとしたシャンパンなのに、なぜか胸の奥がやけにあたたかくなる。
(なんだ……これ……)
思考の輪郭が、うすく、ぼやける。
酔いでも熱でもない、もっとやわらかくて、ほどけていくような感覚。
「……っ」
視線をそらすしかなかった。
シトロンを見ると、きっとなにかが崩れてしまう気がして。
シトロンはその反応を楽しむように、グラスをもう一度傾けた。
「レオ……もうちょっと飲む?」
——その声音は、たった一滴で人を酔わせる魔法みたいだった。
真っ赤になって目を逸らす玲央の横で、マルセルは書類に目を落としたまま、小さく咳払いをした。
「……失礼いたしました。本日のスケジュールを確認いたします」
その向かい側、アレクシはといえば──
(落ち着け、アレクシ。今の君はde la Lune家の顔だ。プロ中のプロ……)
横目でチラリ、と見る。
その“存在”は、まるで黄金の獣のように気高く、美しい。
(シトロン様……! う、美しい、尊い……)
けれど、目の前で今、
そのシトロンが――
「ほら、飲んで?」
そう言って、隣の玲央にシャンパンを口移しで与えていた。
(!?!?!?!?!?!?!?)
(ちょ……っ……、なんで、口移し……!?!?!?!?!?)
(なにその瞳、なにその距離感、なにその色気、なにその唇、なにその黄金の角度!!)
頭の中で、またしても鐘が百八つ鳴り響いた。
(見てはいけない……!今、見たら本当に壊れる……)
「……ッ」
アレクシは静かに、しかし全力で目を閉じた。
完璧に整えた呼吸。落ち着け、自分。これは幻だ。これは幻──
「……そんなに見られると、照れるよ?」
(……!?!?!?!?)
右隣から、声。
とろけるように甘く、耳をくすぐるような低音。
──シトロンが、アレクシのすぐ横に移動していた。
(い、いつの間に……!?!?!?)
そして、さらに──
「ねぇ、執事くん。かわいいね?」
(!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?)
耳元で、囁かれた。
その声は、香水のように甘く、
体温のように生々しく、
鼓動のように脈打って、
心臓に、ズドン。
(……うそでしょ……ッ)
(うそでしょ……ッ……!!)
(なにその声、なにその距離、なにその悪戯な微笑み……)
(もう無理です。執事やめます。今すぐ……嫁ぎたい……ッ)
表情は一切崩さない。けれど。
その内心は、いまや完全に乙女の断末魔。
(尊い。圧倒的、尊さ……。この地上に舞い降りた、黄金の悪魔……)
(……シトロン様……)
(あなたは、わたしの、破滅……♡)
* * *
席に戻ったシトロンが玲央の隣に腰を下ろすと、玲央は小さく眉をひそめる。
「……さっきの、なに?」
「ん? あれ? ちょっと挨拶しただけだよ、可愛い執事くんに」
「……はあ……」
玲央は呆れたようにため息をついたが、その声音はどこか拗ねたようでもあった。
けれど、次の瞬間にはシトロンの指が静かに玲央の手を取る。
「でも――触れたいのは、レオだけ」
その低い声が、玲央の胸の奥に小さく波紋を広げる。
車窓の向こうには、パリの街が朝の光に溶けていく。
長い旅路の果て、ようやくたどり着いたこの場所で、ふたりの物語は再び、新たな章へと歩み始めていた。
──ようこそ、月の本邸へ。
.....to be continued.
いよいよ舞台はフランス・パリへ。
シトロンの奔放さが光るリムジンのシーン、いかがでしたか?
新キャラクター・アレクシにも、実は深い想いと物語が秘められています。
次回はいよいよ玲那の残した部屋へ・・・クロエ、そしてルイの記憶が呼び覚まされていきます。
それでは、また第9話でお会いしましょう。