第13話「記憶のソネット」 〜時を越えて、祈りは歌となる〜
ベルリンで再会したクラウディアが、玲那と交わした過去の約束を語り始めます。
母の声が、確かに未来へ向けて残されていたこと──その祈りが、今、玲央へと手渡されます。
時を越える“歌”が、静かに響き始める回です。
ホテルのラウンジには、静かな音楽とグラスの音が溶け合っていた。
金色のシャンデリアの下、重厚な木の壁が夜の沈黙を包み込む。
その片隅、ひとつのソファに寄り添うように腰掛けた三人の姿がある。
テーブルの赤ワインが、ランプの光に照らされ、深く揺れていた。
クラウディアは、グラスの縁に指を添えて微笑んだ。
「……私がパリに留学していた頃のことよ」
琥珀の灯に照らされたその横顔は、少し懐かしさを帯びている。
「母方の祖父母がフランス人だったから、自然とフランス語が馴染んでいて。コンセルヴァトワールで声楽を学んでいたわ」
玲央は頷き、ただ黙ってその声に耳を傾けていた。
「ある日、古びた詩と楽譜を手に、教室にふらりと現れた人がいたの」
クラウディアの瞳が、遠い記憶を追うように揺れた。
「玲那よ。写譜の紙を大切そうに抱えていて……
滲んだインクに、時の重さが滲んでいた。
『あなたの声で歌にしてほしい』と、そう言ったの」
玲央の喉が小さく鳴った。
「その楽譜の意味を知りたい、誰のものか調べてほしい、とも頼まれたの。
私もなぜか、断る気になれなかった。
玲那の眼差しには……言葉では表せない引力があったわ」
クラウディアは、専門家のネットワークを辿り、資料を探し、楽譜に秘められた真実に近づいていった。
やがて分かったこと──それは、戦時下のプラハでヴィクトール・ウルマンが、テレジエンシュタットに送られる直前に書き上げた《六つのソネット》の前半部分だということ。
ルイーズ・ラベの詩による、祈りのような旋律。
…戦禍のなか、誰かの手で密かに受け継がれてきたらしい写譜だった。
「……そして、そのことを玲那に伝えようと思ったのが、9年後だったの」
クラウディアはそっとグラスを置き、声を落とした。
「玲央くんが、8歳になっていた頃。
ようやく由来が分かって……電話をかけたわ。
でも玲那は、
“ごめんなさい、今手が離せないの。
その件は……息子に伝えて”
とだけ言って、すぐに切ってしまったの」
玲央の胸に、かすかな痛みが走った。
喉の奥が詰まりそうになる。
「……それが、玲那と交わした最後の会話になったの」
クラウディアの声は、蝋燭の炎のように静かに揺れていた。
「その数日後、この封書が私のもとに届いたの。開く勇気が出ず……でも、いまなら渡せる気がする」
彼女は鞄から、丁寧に封がされた封筒を取り出した。
赤茶のリボンで結ばれた厚紙。月のように柔らかく光るその質感に、玲央の鼓動が静かに速くなる。
「これが……玲那があなたに遺したもの。
中には、あの写譜と、私宛の手紙が入っているの。
……“何かあったら、これを玲央に”と」
玲央はその封筒を、そっと両手で受け取った。
まるで言葉にならない祈りを抱きしめるように。
隣にいたシトロンが黙って、玲央の背を支えて寄り添っている。
「……ありがとう、クラウディア」
玲央の声は小さく掠れていたが、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。
「母の祈りが……ずっと、続いていたなんて」
クラウディアは、赤ワインの残り香の中で微笑んだ。
「玲那はよく言っていたわ。“歌は祈りと同じ。
声は空気に溶けても、誰かの心に届いて、そこに残る”って」
玲央はそっと掌を胸に当てた。
その言葉は、今まさに自分の中で息をしていた。
「……そんなふうに、言っていたんですね」
「ええ。まるで未来を見ているかのような時があったわ」
クラウディアの視線は、玲央を静かに見つめる。
「その未来に、きっとあなたがいたの。
──“私の大切な人が、あなたを訪ねてくるから。
その時は、力になってあげて”と、玲那は言っていたのよ」
玲央は言葉を失い、視線を落とした。
シトロンがそっと肩に触れる。
その温もりが背中に伝わってくる。
クラウディアが、そっと続ける。
「その声がどこに届くかはわからない。
けれど、きっと誰かの魂を震わせる。
玲那は……それを信じていたのよ」
窓の外には、ベルリンの夜が静かに広がっていた。
金色の灯りが石畳を染め、遠くの教会から鐘の音がかすかに響いてくる。
玲央は、封筒を胸に抱き、ゆっくりと頷いた。
「……母は、僕がこの手で受け取るって、知っていたんですね」
隣のシトロンがその横顔に視線を落とし、静かに言う。
「これが“つながり”ってやつだ。血と祈りと、歌と……猫の記憶もな」
クラウディアがやわらかく微笑んだ。
「まさに、“記憶のソネット”ね」
ラウンジの時間が、静かに満ちていく。
風に揺れるカーテンの向こう、月が淡く光を放っていた。
それは、どこか遠い場所で、また誰かが祈っているような光だった。
──時を越えて、祈りは歌となる。
そしてその歌は、まだ見ぬ未来へと、確かに続いていくのだった。
À suivre.
※本作に登場する写譜は、実際に存在する楽譜をモデルにしています。
ただし、物語の中で描かれる来歴や人物との関わりはすべて創作です。
史実の作曲家ヴィクトール・ウルマン、そして彼の残した音楽への敬意を込めて描きました。
今回は、クラウディアと玲那の“声”の記憶を描きました。
ウルマンの楽譜、祈り、手紙──
玲央が受け取るものは、すべて愛と時間を超えて届いたもの。
次回、彼はどんな一歩を踏み出すのでしょう。続きをどうぞ。




